04 決着
第三ラウンドが開始された。
サキとジョンの指示に従って、ユーリは最初からアクセル全開である。
観客たちの歓声も、いっそうの熱を帯びている。たとえ劣勢であろうとも、ユーリの死力を尽くした姿は、復帰の日を待ち望んでいたファンたちの心をこれ以上ないぐらい揺さぶっているはずであった。
マリア選手もまた、変わらぬ躍動感でステップを踏んでいる。
有利に試合を進めており、ダメージが皆無であったとしても、やはり恐るべきスタミナであろう。その明るくきらめく瞳にも、まったく変わりはないようだった。
(そういえば、いまだにユーリさんの攻撃はミドルがかすっただけなんだよな。二ラウンド通して全部の攻撃を回避するなんて、そんなのありかよ)
瓜子はそのように考えたが、しかしそれはサキが言っていた通り、マリア選手がユーリの破壊力を警戒し尽くした結果であるのだろう。
そうして警戒するあまり、マリア選手は距離を取りすぎている。それでコーナーまで追い詰められて、不十分な形で組みつくことになり、ユーリに投げ飛ばされることになったのだ。
同じ展開に至れば、再びユーリにチャンスが巡ってくるかもしれない。
やはりMMAの試合というのは、すべての要因が複雑に絡み合って、勝者と敗者を分けるのだ。たとえ一発の打撃も当てられない体たらくであっても、決して勝利への道は閉ざされていないはずだった。
その道を突き進むべく、ユーリは怒涛の勢いで攻めたてていく。
それを迎え撃つマリア選手は――また少し様相が変わっていた。ステップを小刻みなものに戻して、ジャブやローなどを放ち始めたのだ。
(やっぱり向こうも、対策してきたな)
最後の最後で不利な展開に持ち込まれたのだから、何も対策しないわけがない。マリア選手自身とレオポン選手が頭をひねって、打開策を講じたに違いなかった。それが、このアクションに示されているのだ。
マリア選手は再びアウトサイドにステップを踏みながら、ユーリに攻撃を返していた。
致命傷はくわないように、それでも前ラウンドほど距離を取りすぎないように調整しつつ、小さく攻撃を返していく。堅実でありながら、逃げには徹しない勇気ある選択であった。
顔面に右ジャブを被弾し、前足にアウトローをくらいながら、それでもユーリは懸命に攻めたてていく。
化け物のような耐久力であり、スタミナだ。
しかし、さすがのユーリも五分間連続でこのような動きを続けられるわけがない。普通であれば、一分で息があがるほどの猛攻であるのだ。
また、相手の攻撃をくらうことでも、スタミナは削られていく。スタミナだけでなく、頭と足にはダメージも溜まっていくだろう。左足が削られれば、ただでさえ不足気味の敏捷性も失われていき、いっそうの苦境を迎えるはずだった。
そうしてユーリが呼吸を整えるために、初めて自分から下がったとき――マリア選手が、大きく踏み込んだ。
ユーリの動きが止まるその瞬間を、あちらは手ぐすねを引いて待ちかまえていたのだ。
ユーリはとっさに左フックを放ったが、それをかいくぐって胴体に組みつく。
今度は腰を落として踏ん張ることもできない。再びの反り投げが炸裂して、ユーリは左肩からマットに叩きつけられることになった。
第一ラウンドと同じく、そのままサイドポジションを取られてしまう。
瓜子は不安をねじ伏せながら、ストップウォッチの数字を確認した。
「二分半経過! 残り半分です!」
すでに、これだけの時間が過ぎてしまっていたのだ。
残り二分半で一本かKOを狙わない限り、ユーリの勝利はない。そこでサイドポジションを取られてしまうというのは、普通であれば絶望的な状況であるはずだった。
(でも、ユーリさんはそんな普通をぶち壊してきたんだ)
祈るような気持ちで、瓜子はユーリの死闘を見守った。
マリア選手はがっちりポジションを固めつつ、ときどきパウンドを振るってくる。ユーリのスタミナがどれだけ切れかかっていようとも、油断や慢心とは無縁なようだった。
ユーリは一ラウンド目と同じように、腰を切りながら相手の身体を突き放そうと試みる。
しかし、その動きは読まれていた。腰を押そうとするユーリの右手を弾いて、脇に左腕を差し込んでくる。サイドポジションでありながら、両脇を差された格好となり、これでは相手を突き放すこともできなかった。
「ユーリ、ステップツー」
ジョンのとぼけた声に従い、ユーリはおもいきり身体をのけぞらせた。ブリッジで強引に体勢をひっくり返そうとしたのだ。
だが、レスリング巧者のマリア選手は上手い具合に力を逃がして、また同じ体勢に戻してしまう。
「ステップスリー」
ユーリは相手の右腕を外側から抱え込み、自分の右前腕を相手の咽喉もとにねじ込んだ。
そうして勢いよく腰を切っていくと、相手の身体がじょじょに浮き上がっていく。サイドポジションで両脇を差すというのは、決して安定感のある体勢ではないのだ。
それでもマリア選手は膝を使って前進し、遠ざかろうとするユーリの身体を制圧し続けようと試みた。
そこでいきなり、ユーリが右膝を振り上げた。
いくぶん浮いていたマリア選手の左脇腹に、ユーリの右膝がどすんと衝突する。
マリア選手は、ぎょっとした様子でさらに腰を大きく浮かせた。
そこに生まれた空間に、ユーリがすかさず左足をねじ込む。
相手の左足を両足ではさみこみ、これでようやくハーフガードだ。
さらにユーリは右足を折りたたみ、相手の左腿の付け根に足の甲を差し入れた。
ユーリであれば、この状態からでもフックスイープを仕掛けて、体勢をひっくり返せるはずだ。
それを察知してか、マリア選手は再びユーリの身体を突き放して、またあっさりと立ち上がってしまった。
しかし今度は引き下がらず、寝転んだユーリの足に蹴りを振るってくる。
倒れた状態で足を浮かせている相手に蹴りを放っても、さしたるダメージは与えられない。明らかに、これは時間稼ぎであった。
「つきあうな! 時間ねーぞ!」
「ユーリさん! 残り一分半です!」
見え見えの時間稼ぎであっても、選手が攻撃を仕掛けている限り、レフェリーがブレイクを命じることは少ない。それを見越した上で、マリア選手は意気揚々と蹴りを放っていた。
ユーリのファンはブーイングをあげているが、マリア選手はそれすらも楽しんでいる様子だ。少しでもリスクを抑えて勝利をつかみ取ろうというその信念には、瓜子も舌を巻くほどであった。
「立て! とにかく、立ってぶちのめせ!」
時間は、刻々と流れていく。
そんな中、ユーリはおもむろに両足を振り上げた。
まん丸いおしりが天をむき、優美な曲線を描く背中までさらされる。ユーリはその場で、後方回転してみせたのだ。
それは危険な逃げ方だと、瓜子はユーリ自身に教わったことがある。
相手に無防備な後ろ姿をさらして立ち上がろうというのだから、危険であるのが当然である。
だが、マリア選手はそれを追いかけようとしなかった。
後ろに一回転して立ち上がったユーリは、ぶうんと左フックを振り回す。
ユーリは危険に備えており、マリア選手もそれを予期していたのだ。
かくして、ユーリは無傷のマリア選手と、再び向かい合うことになった。
「残り一分!」
ユーリは、頭から突進した。
マリア選手は、大きなステップで逃げ惑う。あと一分間を逃げきれば、マリア選手の勝利は確定であるのだ。
ユーリはコンビネーションすら打ち捨てて、左右のフックを振り回した。
当たれば、KOを狙えるかもしれない。しかし、俊敏なるマリア選手に当たることはなかった。
ただし、マリア選手の動きも鈍り始めている。フルラウンドを闘って、さきほどまでは怪力のユーリを抑え込んでいたのだ。それで疲れないわけはなかった。
いっぽうユーリはモンスターとしての本領を発揮して、凄まじいまでの猛攻であった。
フォームも何も無茶苦茶で、まるでデビュー戦のような有り様であったが――その拳には、あの頃にはなかった殺人級の破壊力が込められていた。
声援は、天井が崩れ落ちてきそうなほどに高まっている。
ユーリとマリア選手の間合いは、じわじわと詰まり始めていた。
そして――ユーリがふいに、身を沈めた。
マリア選手に、両足タックルを仕掛けたのだ。
瓜子の背筋に、電流のようなものが走り抜けた。
(これは、決まる)
スピードも、タイミングも、相手との距離感も、これ以上なく絶妙であった。自身はまだまだ未熟者でありながら、一年以上もユーリの練習風景を見守り続けてきた瓜子には、それがユーリの理想的な両足タックルであることが確信できた。
(でも、こんな残り時間でタックルを仕掛けても……)
そのように考えかけた瓜子の目に、思いも寄らない存在が写りこんだ。
ユーリたちはこちらに左半身を見せる位置取りであったため、瓜子にも死角になっていたのだ。
それは、ユーリの右拳であった。
タックルの姿勢で身を屈めたユーリの右拳が、肩を支点にして頭上に振り上げられている。
マリア選手は腰を引きつつ、両腕を下げていた。
視線も、下に下げられている。
あまりに絶妙なタイミングであったために、反射的にタックルを防ごうとしたのだろう。
そんなマリア選手の顔面に、ユーリの右拳がのびていく。
それは、タックルをフェイントにした右のオーバーフックであったのだった。
虚空で旋回したユーリの右拳が、マリア選手の左側頭部に突き刺さる。
マリア選手は車にでも撥ねられたかのような勢いで、もんどりうってマットに叩きつけられた。
「ダウン!」
レフェリーが、ユーリとマリア選手の間に割って入る。
同時に、サキがエプロンサイドを殴りつけた。
「ダウンかよ! 瓜、残り何秒だ!?」
「え、ええと……この時計では、十五秒です」
「くそっ! これで決まらなかったら、万事休すだな」
ユーリはニュートラルコーナーに下がる余力もなく、マットの中央で身を屈め、両膝に手をついて大きくあえいでいる。
レフェリーがカウントを数える中、マリア選手は力なく身を起こした。
対角線上では、レオポン選手が何かを叫んでいる。
大江山すみれですら、口もとに手をやって声を投げかけていた。
マリア選手は手近なロープをひっつかみ、全身を震わせながら立ち上がった。
カウントは、すでにセブンまで進んでいる。
試合の残り時間は、もはや十秒足らずだ。
会場には、「ユーリ!」と「マリア!」の声援が渦を巻いている。
カウントエイトで、マリア選手はロープから手を離した。
カウントナインで、マリア選手はファイティングポーズを取る。
万事休すである。
しかしユーリは身を起こし、自らもファイティングポーズを取っていた。
ユーリはまだ、勝利をあきらめていないのだ。
レフェリーは、マリア選手の拳に手をあてがう。
そうしてレフェリーがマリア選手の余力を確かめるために、ぐいっと軽く力を込めると――マリア選手は、ぺたりと座り込んでしまった。
そしてそのまま、棒のように倒れ込んでしまう。
一瞬遅れて、ゴングが乱打された。
反射的に、瓜子がストップウォッチに目をやると、すでに試合の終了時間である。
観客たちは、わけもわからずに怒号めいた喚声をあげていた。瓜子もまた、どちらが勝利したのか判断がつかなかった。
『時間切れのため、これより判定に――え?』
リングアナウンサーが声をあげかけると、リング上からレフェリーが手を振って制止させた。しかし、歓声が凄まじいために、何を言っているのか聞き取れない。
会場中が、騒然としていた。
セコンドがリングが上がっていいかもわからない。ただ、リングドクターだけはロープをくぐって、倒れ込んだマリア選手の容態を見ていた。
レフェリーはリングから下りないまま、ジャッジテーブルに面した場所で身を屈める。三名のジャッジとサブレフェリーがレフェリーの足もとに集結し、おっとり刀でリングアナウンサーも駆けつけた。
ファイティングポーズを解いたユーリは、きょとんした面持ちでそれらの姿を見守っている。
瓜子はもう、ユーリの勝利を神に祈るばかりであった。
『えー、大変お待たせいたしました! レフェリーとジャッジによる協議で決定された試合結果を発表いたします!』
喚声が、わずかばかりに静められる。
そんな中、リングアナウンサーは満面の笑みでその言葉を口にした。
『マリア選手は試合終了のゴングが鳴る寸前に、レフェリーによって試合続行不可能の裁定をくだされました。……よって、三ラウンド、四分五十九秒、ユーリ選手のKO勝利です!』
静まりかけた喚声が、歓声となって蘇る。
それと同時に、サキがいきなり瓜子の肩に腕を回してきた。
「まったく、心臓に悪い試合をしやがって。……あとでたっぷり調教だな」
「はい。だけど、勝ってくれました」
瓜子は首をねじ曲げて、サキに笑いかけてみせた。
サキは仏頂面のまま、「ふん」とわずかに目を細める。それだけで、笑っているように見える表情であった。
「ちょっとー! ユーリをさしおいて、何をイチャイチャしてるのさー!」
と、トップロープから身を乗り出したユーリが、汗だくの姿でわめき散らしてくる。
その頭上では、「ユーリ!」のコールが沸騰せんばかりであった。
なんとも切れ味の悪い幕切れであったものの――そうしてユーリは四ヶ月ぶりの再起戦を、見事にKO勝利で飾ることがかなったのだった。
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