03 一進一退
第二ラウンドの開始である。
ユーリはアップライトのスタイルのまま、ひたひたとマリア選手のもとに前進した。
マリア選手は第一ラウンドと同じ躍動感で、距離を取ろうとする。大きなステップで、インサイドを取ろうとする動きだ。
さきほどのユーリは相手のアウトサイドに踏み込みつつ、ジャブを繰り出していた。
しかしこのラウンドからは、ずかずかと相手の懐に踏み込んで、フォームの美しいジャブを連打した。
その勢いに圧されるようにして、マリア選手はまた距離を取ろうとする。
両者はほとんど正対しているので、ローでもミドルでも打ち放題であろう。
が、ユーリの前進があまりに大胆であったもので、それを躊躇っている様子であった。
「よーしよし。とにかくああいう手合いは、調子に乗せねーのが一番だからな」
サキは、不敵につぶやいていた。
ユーリは腰の高いアップライトであり、相手は組み合いを得意とするレスリング巧者だ。このようにずかずかと近づいては、また組みつかれてスープレックスの餌食になる危険が否めない。
しかし、《アトミック・ガールズ》において、頭からマットに叩きつける投げ技は禁止されている。投げ技だけで、KOにつながる危険性はほぼ存在しなかった。
そして寝技の攻防となれば、ユーリも五分以上の闘いが可能となる。下になっても跳ね返せることが証明された現在、グラウンド状態への移行を忌避する理由はなかった。
ただしもちろん、スープレックスをくらえば多少なりともダメージを負ってしまうし、スタミナだって削られる。また、レスリング巧者のマリア選手に上を取られるのは、決して望ましい話ではない。
それでも多少のリスクを払わない限りは、勝機を見出すことも難しい――というのが、サキやジョンの見解であった。
「出し惜しみすんな! なんなら、KOを狙ってやれ!」
サキの言葉に応じるように、ユーリはいきなり奥足からのハイキックを繰り出した。
その優美きわまりないフォームに、いっそうの歓声が巻き起こる。
もちろんこの距離ではかすりもしなかったが、威嚇には十分な勢いがマリア選手にも伝わったはずであった。
と――マリア選手のステップが、再び小刻みに変化する。
それと同時に、小気味のいい右ジャブが、スパンとユーリの左頬を打った。
ユーリもすかさずジャブを返すが、その頃には射程圏外に逃げている。ステップが小さくなったことで、マリア選手の俊敏さがさらにギアアップしたように感じられた。
ユーリはめげずに、前進する。
その鼻先に、またジャブを当てられた。
踏み込むと同時にジャブを当て込み、ユーリが反撃する前にステップアウトする。野兎のように軽やかで、そして躍動感に満ちた動きであった。
「あのメキシコ女――」と、サキが低くつぶやく。
その口が続きの言葉を発する前に、マリア選手の猛攻が展開された。
前後にステップを踏みながら、的確にジャブをヒットさせていく。その敏捷さに翻弄されて、ユーリはなかなか手が出せない。もともとユーリは、立ち技の反射速度も距離感のつかみかたも並以下であるのだ。
逆に距離感をつかんだマリア選手は、右ジャブに左ストレートを重ねてきた。
頭部をガードした両腕をすりぬけて、鋭い左ストレートがユーリの顔を打つ。ユーリが慌てて左ジャブを繰り出すと、そこには右のショートフックを合わされてしまった。
「くそっ。パンチのお粗末さを突かれたか」
ユーリは何より、パンチの技術が不足している。もともと相手の顔を殴るという行為を忌避していたため、打撃技の中でもひときわトレーニングが足りていなかったのだ。
もちろん昨年の初頭にサキに調教されてからは、パンチの技術にも磨きをかけてきた。さまざまなコンビネーションを体得してきたし、ボディブローなどは一撃で男子選手を悶絶させるほどの破壊力である。
しかしそれでも、蹴り技より未熟であるという話に変わりはない。
もともとの当て勘の悪さというものが、蹴り技よりも顕著に表れてしまうのだった。
(……で、そんな話はレオポン選手も先刻承知なわけだからな)
瓜子は思わず、対角線上の赤コーナーに控えているレオポン選手の姿をにらみつけてしまった。歓声のせいでこちらまでは聞こえないが、しきりにマリア選手に声を送っている様子である。
しかし、レオポン選手を恨むことはできない。
来栖選手を打ち倒す戦略を練るために、ユーリは自分の技能をレオポン選手にさらけ出して、助言を仰ぐことになったのだ。その末に、ユーリは来栖選手に打ち勝つことができたのだから、ここでレオポン選手を恨むのは筋違いも甚だしかった。
それにこちらも、出稽古に出向いたサキを通じて、マリア選手の情報を取得している。そういう意味でも、条件は五分であるはずだった。
「相手のリズムに乗っかるな! おめーの好き勝手で攻撃を出せ!」
サキがそのように声を振り絞った瞬間――ユーリではなく、マリア選手が動いた。
ユーリの顔面に右フックをヒットさせて、素早くバックステップすると同時に、しなやかな左足を振り上げたのだ。
ユーリに負けないほど肉感的な左足が、美しい軌跡を描いて右の脇腹にめりこんだ。
レバーを狙った、左のミドルキックである。
頭部のガードに気を取られていたユーリは、マリア選手がもっとも得意とするその攻撃をまともにくらい、声もなく崩れ落ちることになった。
「ダウン!」
レフェリーがカウントを数え始め、客席には悲喜こもごもの喚声が響き渡る。
マットに突っ伏したユーリは、蹴られた箇所を押さえながら小さく背中を震わせていた。
「立て! おめーはまだ、何にも出しきってねーだろ!」
サキがバンバンと、平手でエプロンサイドを叩いていた。
瓜子は唇を噛みながら、力なく丸められたユーリの背中を見据える。
ユーリは、かなり打たれ強い。柔軟な肉体が威力を吸収してしまうのか、頭部を除く攻撃にはめっぽう辛抱のきく体質であった。
しかし、レバーだけは別である。レバーに衝撃を受けると肉体の自由がきかなくなるというのは、もはや人体の摂理であるのだ。モンスターたるユーリでも、その摂理を超越することはかなわなかったのだった。
カウントがファイブまで進められても、ユーリは同じ体勢である。
ニュートラルコーナーに下がったマリア選手は、悠然たる面持ちでユーリの去就を見守っていた。
「……ユーリさん、立ってください! せっかくの復帰戦を、こんな簡単に終わらせちゃっていいんですか!?」
瓜子も思わず、感情のままに声を張り上げてしまった。
ユーリは右の拳をマットについて、ぐっと身体を持ち上げる。
ユーリは固く口もとを引き結び、左手で右の脇腹を抱えたまま――それでも、なんとか立ち上がってみせた。
カウントは、エイトまで進められる。
レフェリーが「ナ」まで言いかけたとき、ユーリはレバーから手を離してファンティングポーズを完成させた。
怒涛の歓声が、ユーリの生還を祝福する。
レフェリーはユーリのグローブに包まれた両手の拳を押さえつけ、まだ闘う力が残されていることを確認してから、「ファイト!」の声をあげた。
マリア選手は今にも笑顔に変じそうな表情で、マットの中央に進み出てくる。
ユーリは肩を上下させながら、アップライトの姿勢を取ろうとした。
「ユーリ、クラウチングにモドそー」
と、緊迫感のないジョンの声が、歓声の隙間に響きわたる。
ユーリはロボットのような従順さで、その言葉に従った。
高く上げかけていた拳を下顎の高さまで下ろし、膝と腰を下げて重心を落とす。MMAではもっともポピュラーな、クラウチングのスタイルだ。
「よし! なんでもいいから、先に手を出せ! 一発じゃねーぞ!」
ユーリは大きく踏み込んで、左のショートフックを繰り出した。
マリア選手が半歩下がっただけで、それはあっさりかわされてしまう。
しかしユーリはかまわずに、そのまま右のアッパーを繰り出した。
マリア選手は間合いの外であるのだから、もちろん当たるわけがない。
そしてユーリは、さらに左のミドルキックを繰り出した。
左の蹴りを繰り出すために右足を一歩出しているので、そのぶんマリア選手に近づいている。そしてユーリは日本人離れした足の長さをしているため、左足の先端が、かろうじてマリア選手のもとまで届いた。
パックステップしていたマリア選手の、胸もとまで上げられていた右前腕に、浅く当たっただけの話であるが――しかしこれが、初めてマリア選手に届いたユーリの攻撃であった。
「ユーリさん! 二分半経過! あと半分です!」
瓜子の声に背中を押されたかのように、ユーリはさらに足を踏み出した。
左ジャブ。右フック。左ジャブ。右のロー。
これもまた、ユーリがその身に叩き込んだコンビネーションであった。
マリア選手は大きなステップに戻して、それらをすべて回避していく。
それに追いすがりながら、ユーリはさらなるコンビネーションを繰り出した。今度はワンツーからの左ミドル、さらに片足タックルへの連携だ。
「いいぞ! かき乱していけ!」
相手の動きや距離感を無視した攻撃であるので、それがヒットすることはなかなかありえない。しかし、ユーリがそのように暴れ回っている間は、マリア選手もなかなか近づけなかった。
ユーリの無秩序な猛攻に、観客たちは声援をあげている。
マリア選手は、ゆとりをもってそれを回避しているかに見えたが――ユーリの破壊力を警戒するあまり、動きが大きくなってしまっていた。
ここが広大なるサバンナか何かであったなら、マリア選手は永久に逃げ続けることができただろう。
しかしここは、せいぜい一辺が六メートルていどの、四角いリングの上である。
マリア選手はなるべく円を描くようにサークリングしていたが、ついにはユーリの運動量がマリア選手の俊敏さを凌駕し始めた。
そのなめらかな背中にロープが触れる割合が増えていき――ユーリの盛大なハイキックをかわしたところで、ついにコーナーまで追い詰められた。
ユーリはさらに前進して、左のフックを放とうとする。
たまらずマリア選手は、自らも前進してユーリに組みついた。
その際に、すかさずインサイドにステップを踏んで、ユーリの左フックを回避したのは、さすがの反応速度と俊敏性であった。
左腕を振ったユーリの胴体に組みつく、胴タックルである。
再び豪快なスープレックスが炸裂するかに思えたが――ユーリはすかさず腰を落として、その場に踏みとどまってみせた。
「ユーリさん、残り一分!」
マリア選手はユーリの両脇に腕を差して、がっちりとクラッチしている。
ユーリは左腕で相手の右腕を巻き取りつつ、右肘を相手の左腕と自分の胴体の間にねじ込もうとしていた。相手の左脇を差して、四ツの状態に立て直そうとしているのだ。
マリア選手は懸命に身体を揺さぶっているが、ユーリの足は根が生えたように動かない。どっしりと腰を落としたユーリは、牛のように重いのだ。同じウェイトの相手が簡単に崩せるものではなかった。
「残り三十秒!」
ユーリの右肘が、ついにマリア選手の左腕を突破した。
ユーリの背中で、マリア選手のクラッチが解除される。
ユーリはマリア選手の左脇を差し、マリア選手は四ツの体勢であらためてクラッチを組む。
「うぬぬぬぬ……」と、ユーリのうなり声が聞こえたような気がした。
そしてユーリは、「おりゃー!」と腰を跳ね上げた。
マリア選手のクラッチが引き剥がされて、その両足が宙に浮く。
ユーリは腕をクラッチしていなかったため、マリア選手の身体はそのままマットに放り出されることになった。
マットでバウンドしたマリア選手のもとに、ユーリが上からのしかかる。
その瞬間、第二ラウンド終了を告げるゴングが鳴らされた。
「なんとか、生きのびたな。赤点だけは勘弁してやる」
サキは再び、タオルでユーリの頭をかき回した。
ユーリは軽口を返す気力もなく、瓜子の準備した椅子に身を投げ出す。最初のインターバルとは打って変わって、ユーリはふいごのように息を荒くしていた。
瓜子がドリングボトルを差し出すと、むさぼるようにそれを飲む。
瓜子はふたつの氷嚢を準備して、首裏と右脇腹に当ててやった。
「牛。なんべんもなんべんも言ってる通り、あいつはリズムに乗せねーことが肝要なんだ。そいつはおめーも、身にしみてわかったろ」
「うみゅ……マリア選手は、お強いねぇ」
ピンク色のショートヘアまでぐっしょりと汗で濡らしながら、ユーリはふにゃんと微笑んだ。
「でもね、すっごく楽しいの……復帰戦の相手がマリア選手で、ユーリは幸せだぁ」
「ほうかい。次に左ミドルをくらったら、楽しい時間もジ・エンドだろうがな」
ユーリの両腕を左右からもみほぐしつつ、サキはぐぐっと顔を近づけた。
「どっちのラウンドも、ポイントは完全に取られちまった。おめーが勝つには、一本かKOを狙うしかねーってこった。右腕は、まだ動くか?」
「うん……最後にちょっと頑張っちゃったから、握力はゼロかも?」
「パンチが打てりゃあ上等だ。最初っから全開で、攻めたてろ。組み合いで勝って上を取れりゃあ、なんとかなる。寝技の技術は、おめーのほうが上なんだからな」
「合点承知……あー、あと五分ぽっちで終わっちゃうのかぁ。なんだか、さびしいにゃあ」
「時間いっぱいまでやりあったら、判定負けだって言ってんだろうがよ。時間ぎりぎりでかまわねーから、とにかくぶっ潰せ」
鋭い声音で言い放ち、サキはジョンの長身を見上げた。
「鰐、ちっとは仕事しやがれ」
「ウン。サイゴのテンカイはヨかったよー。ダゲキでアイテからのクみつきをサソって、それをツブしてウエをトるのがベストだねー」
「スピードで負けてんだから、それしかねーよな。よし。死んでもいいから、攻め続けろ。相手のリズムで試合をさせるな。ハイでもミドルでも膝蹴りでも、ばんばか大砲をぶっぱなしていけ。あと、タックルのフェイントも忘れんなよ」
そのとき、『セコンドアウト』のアナウンスが流された。
ユーリは最後に「ふいー」と大きく息をついてから、身を起こす。
そしてその目が、再び瓜子を見つめてきた。
「ユーリさんなら、絶対勝てますよ。悔いの残らないように、暴れ回ってきてください」
「了解でありんす」と、ユーリは幸福そうに目を細めた。
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