02 褐色の荒鷲

 ユーリの序盤の基本戦略は、ムエタイ流のアップライトスタイルで、相手を迎え撃つことであった。

 まずはこのスタイルで、どこまでマリア選手の攻撃をしのげるか――愛音とのスパーの成果が試される場面である。


 マリア選手もまた背筋をのばしたアップライトで、軽やかにステップを踏みながら、ユーリの周囲を回り始めた。

 軽やかだが、躍動感にあふれている。その動きだけで、下半身にどれだけのバネが潜んでいるかがうかがい知れた。


 さすがに笑顔ではなくなっているが、今にも微笑を浮かべそうな表情で、黒い瞳を明るく輝かせている。

 それと相対するユーリも、似たようなものだ。沙羅選手との対戦ではきゅっと表情を引き締めていたユーリであるが、この一年でこのモンスターはリラックスしたまま万事に備えられるメンタルを体得していた。


 ユーリはカウンター狙いであるために、自分からは手を出さない。

 跳ねるようなステップを踏みながら、マリア選手はいつでも跳びかかってきそうな雰囲気だ。


 観客たちは、焦れたように声援をあげている。

 そんな中、ふいにマリア選手が沈黙を破った。

 ユーリのアウトサイドにステップを踏みながら、流れるようにスイッチをして、前足の右ローを繰り出してきたのだ。


 革鞭のようにしなるマリア選手の右足が、ユーリの前に出した左足に、外側から襲いかかる。

 ユーリは軽く膝を上げてチェックしたが、濡れ雑巾を叩きつけるような音色が高らかに響きわたった。


 マリア選手はユーリのアウトサイド、つまりは背中側にステップを踏んでいるので、カウンターを出す余地もない。

 さらにマリア選手は、ひたすらアウト回りでユーリの背中側に回り込もうとする。無理に内側に踏み込めば、得意技である左のローやミドルが飛んでくることは必定であった。無差別級トーナメントのリザーブマッチでは、ストライカーたる高橋選手もこの戦法に苦しめられて、スタミナと左足を削られまくっていたのだ。


「相手の好きにさせんなよ! 手を出してけ!」


 そう、いくらカウンター狙いでも、まったく手を出さないわけにはいかなかった。俊敏さでは負けているのだから、アクションを起こしてかき回さない限り、勝機は見いだせないはずであるのだ。


 ユーリは、ぽんとバックステップを踏む。

 マリア選手が同じ分だけ距離を詰めようとすると、その鼻先に左ジャブを繰り出した。

 ユーリは当て勘が壊滅的なので、もちろん簡単に当たりはしない。しかし、マリア選手の前進を止める効果はあった。


 そして、マリア選手は間合いの外であるのに、ユーリはそのまま右のローから再びの左ジャブというコンビネーションを披露する。その流れるような連携攻撃に、観客たちはどよめきと歓声をあげていた。


 これはもう、機械的に繰り出されたコンビネーションである。ユーリはスタンド状態における反射速度も壊滅的であるため、相手の動きを見てから動こうとしても間に合わないのだ。いま見せたコンビネーションは、初弾の左ジャブを回避したマリア選手がそのまま踏み込んできていたら当たっていたはず――という期待を込めての動きであるはずだった。


(ほんと、理論もへったくれもないよな。……でも、ユーリさんはこのやり方で、来栖選手をあそこまで苦しめることができたんだ)


 むろん、自分より俊敏な相手では、このような攻撃もなかなか当たりはしないだろう。

 しかし、相手のペースを乱す役には立つはずだ。

 そこまでの見込みで、サキとジョンはその戦法を戦略の中に組み入れていたのだった。


「おら、動け動け! 相手に楽させんな!」


 サキの叱咤に従って、ユーリは自分から前進した。

 マリア選手は斜め後方にステップを踏み、なんとかアウト側のポジションを取ろうとする。

 だが、下がりながらでは半歩、遅れるのだ。

 そこを追いかけるようにして、ユーリは再び左ジャブを繰り出した。

 当たりはしないが、マリア選手も攻撃できていない。足を入れ替えて右ローを出すゆとりはないし、用意不十分で左の蹴りを放つならば、ユーリのカウンターをくらう危険が高まるのだ。ユーリの右手足の攻撃がどれだけ危険なものであるかは、もうこれまでの試合で嫌というほど周知されているはずであった。


「第一段階は、クリアだな。勝負は、こっからだぞ」


 サキが、低いつぶやきをもらす。

 それと同時に、マリア選手がステップの方向を変じた。

 ユーリとの間には同じだけの距離を保ちつつ、アウトではなくイン側に回り始める。

 攻撃性の高いマリア選手にとっては、こちらのほうこそが本領であるのだ。


 マリア選手は試合開始当初よりも、さらにきらきらと瞳を輝かせているようだった。

 ユーリも、それは同様である。

 なんだかそれは、二頭の大型犬が仲良くたわむれているさまにも見えてしまった。


「ユーリさん、一分経過です!」


 まだ、一分しか経過していないのだ。

 なんだか、ものすごく濃密な時間が流れているように感じられた。


 躍動感を増したマリア選手は、ステップと同時に左ミドルを放つ。

 ユーリは右腕で、それをブロックした。

 俊敏性に秀でた愛音とのスパーの恩恵で、なんとか目が追いついている。

 だが、ユーリの右腕は二つの大怪我を乗り越えたばかりだ。左のミドルをブロックし続ければ、負傷の再発はしないまでも、他の部位よりも激しく削られるはずだった。


 今度はユーリが、マリア選手の背中側に回ろうとする。

 それを追いかけて、マリア選手は左ローを繰り出した。

 ローもミドルも革鞭のようで、そして戻しが速い。『褐色の荒鷲』という異名に相応しい、獲物を狙って急降下する大鷲さながらの攻撃である。これではユーリも、カウンターは狙えなかった。


 代わりにユーリは、左ジャブで牽制する。

 それに、頭部をガードする右拳をしきりにゆらゆらと動かしていた。いつでも右ストレートを繰り出すぞ、と相手を牽制しているのだ。それも、サキとジョンから厳命された作戦であった。


「いいよー。もっとチらしてー」


 サキばかりでなく、ジョンも随所で声を飛ばしている。浜松の会場では歓声にかき消されてしまったジョンの声だが、ここミュゼ有明ではきちんとユーリに伝わっているようだ。


 何発かの攻撃を交換した後、ユーリがふいに身を沈めて、マリア選手の左足に手をのばした。

 マリア選手は、蛇を見つけた猫のような勢いで大きくバックステップする。

 が、ユーリはすぐさま身を起こして、アップライトの体勢に戻っていた。ついにユーリも、真っ当なタイミングでタックルのフェイントを入れられるぐらいにスタンド状態のバリエーションが増えてきたのだ。


「二分半! 残り半分です!」


 今度はやたらと、時間の流れを早く感じた。

 ユーリは牽制のジャブと、ときおり無秩序なコンビネーションを放ち、マリア選手はその攻撃を回避しつつ、ここぞというタイミングで狙いすましたミドルとローを放つ。大きな変化もないままに、あっという間に時間が過ぎ去っていた。


 そこで、マリア選手の動きが変じた。

 前後のステップが、小刻みになっている。前足の右ローや左右のパンチも繰り出して、いきなりリズムが転じたかのようだった。


「乗せられんな! どっしり構えとけ!」


 ユーリはカウンターのタイミングを測ろうと、ぐっと拳をかまえなおす。

 そこに、意想外の攻撃が飛んできた。

 身体を半身に入れ替えての、右のサイドキックである。

 足を回さず真っ直ぐ撃ち込む蹴りであるため、通常のミドルよりもスピードフルで、射程も長い。よってユーリは、かなり深々とボディの真ん中をえぐられることになった。


 さしものユーリもぐらついて、覚束ない足取りで後ずさる。

 さらにマリア選手は、蹴り足を引かずにそのまま下ろし、その右足を軸として、ぐるんと右回りに横回転した。左の、バックブローである。

 ユーリは頭部のガードをゆるめていなかったので、その攻撃は左腕でブロックされる。

 そして次の瞬間には、ユーリの両脇がマリア選手の両腕に抱え込まれていた。

 ここまでがワンセットの、マリア選手のコンビネーションであったのだ。


 ユーリはすかさず相手の頭を抱え込み、首相撲で対応しようと試みたが、もう遅い。ユーリの背中で両手をクラッチしたマリア選手は、全身の筋肉を革鞭のようにしならせて、豪快かつ流麗なスープレックスを炸裂させた。


 レスリングで言う、反り投げである。ユーリの身体は、背中の左半面からマットに叩きつけられることになった。

 これは、呼吸が止まるほどの衝撃であろう。

 マリア選手は、そのままサイドポジションを取っている。

 そしてユーリが息を吹き返す前に、右腕を絡め取っていた。


「アームロック、ネラわれてるよー」


 ユーリはようよう腰を切って、下のポジションから逃れようとした。

 しかし、レスリング力には定評のあるマリア選手である。彼女はあっさりアームロックをあきらめると、そのままユーリの上半身を制して、右のパウンドを振るい始めた。


 やはりマリア選手は、全力を出している。

 スタンドでは蹴り技を主体に組み立てて、ここぞというときに組み合いに持ち込み、そしてグラウンドの攻防だ。すべてが、マリア選手の得意パターンであった。


「上を取られんのは覚悟の上だろ! 地力でしのいで、跳ね返しやがれ!」


「ユーリ、アシをモドそー。ショウブドコロだよー」


「四分経過! 残り一分です!」


 ユーリは何とか腰を切り、相手のパウンドをガードしつつ、相手の足に自分の足を絡めようとした。

 だが、マリア選手は的確に対応して、ユーリを逃さない。ずらされた重心はすぐさま元に戻し、身体が安定するなりパウンドを振るう。死角から追いかけてくる足に関しても、同じだけ動いてまったく近寄らせなかった。


 やはりユーリは、めまぐるしく動く寝技の攻防のほうが得意であるのだ。

 がっしり固められると、なかなか逃げ出すことができない。

 もっともそれは、ユーリに限った話ではないのだろう。相手は相手でフィニッシュを狙うことなくポジションキープに徹しているのだから、それでは隙も生まれないのだ。リスクを犯すことなくポイントを取ることを優先する、これが近代MMAのひとつの王道であるのだった。


(だけど……)と、瓜子は考える。

 だけどユーリは、秋代選手や魅々香選手、来栖選手やベリーニャ選手の同じ攻撃も、なんとかしのぎきってみせたのだ。

 また、道場においてはそれよりも重い立松コーチや男子選手と寝技のトレーニングを積んでいる。自分と同じウェイトであるマリア選手に、そうまで後れを取るはずはなかった。


「牛、立って終われ! 相手にペースをつかませんな!」


 非情とも思えるような、サキの声が飛ぶ。

 残り時間は一分足らずであり、しのぎきることは容易であろうが、そこで満足するなというのだ。


 その声に応じるようにして、ユーリは水揚げされたエビのようにのたうった。

 パウンドを打とうとしていたマリア選手は、すかさず身を伏せてポジションキープに切り替える。

 そんなマリア選手の顔面と腰に、ユーリの手の平が押し当てられた。

 そうしてマリア選手の身体を突き放しつつ、凄まじい勢いで腰を切っていく。マリア選手もなんとかそれを追いかけようとするが、このたびはユーリの運動力がまさっていた。


 ユーリの身体が横手にずれていき、相手との間にわずかな隙間が生じる。

 その隙間に、ユーリは白い右膝をこじ入れた。

 さらに激しく腰を切って、一気に右足を通過させる。

 両者の身体が正対し、ユーリの両足が相手の胴体をはさみこむガードポジションの格好となった。


 ユーリの動きはそこで止まらず、両方の足の甲を相手の腿の付け根に潜り込ませて、フックガードのポジションを取る。

 次の瞬間、マリア選手の腰がふわりと浮きかけたが、危地を察したマリア選手は弾かれたような勢いでユーリから身を離した。ユーリの柔術の腕前は先刻承知であろうし、ユーリの両足からは恐るべき怪力の波動が感じられたはずだ。


 マリア選手がバックステップで退いたために、ユーリも敢然と立ち上がる。

 それと同時に、第一ラウンドの終了を告げるゴングが響きわたった。


「よーし、上出来だ。第一ラウンドは、こんなもんだろ」


 ユーリがコーナーに帰還するなり、サキはタオルでユーリの頭をわしゃわしゃとかき回した。

 瓜子の準備した椅子に腰を下ろしつつ、ユーリは「えへへ」と無邪気に笑う。


「なんか、懐かしの幸福感! よくよく考えたら、サキたんにセコンドについてもらうのって、オリビア選手との対戦以来だもんねぇ」


「数少ない脳細胞を余計な情報処理に回すんじゃねーよ、タコスケ」


 サキはユーリの前側に回り込み、その肉感的な太腿をむにむにとマッサージングし始めた。瓜子は氷嚢で、首裏のアイシングだ。


「牛。おめーの打撃がまだ一発も届いてねーことは理解してんな?」


「うん。やっぱマリア選手はすばしっこいねぇ。ムラサキちゃんとも、ずいぶん感じが違うみたいだし」


「あのジャリとメキシコ女じゃ、タッパもステッピングの系統も違うしな。その誤差を修正するための第一ラウンドだろうがよ?」


「うん。だいぶん目は慣れてきたように思うのです」


「だったら予定通り、次からは攻めこんでけ。一発当てりゃあ、流れも変わるはずだ」


 サキの切れ長の目は、自分が試合をしているかのように鋭く研ぎ澄まされている。

 確かにサキは去年の五月まで、こうしてユーリをしっかりと支えてくれていたのだった。


「こっちの攻撃がすかされてる分、あっちの攻撃もロクに届いてねー。クリーンヒットなんざ、最初のローと横蹴りぐれーだろ。あっちもおめーの怪力を警戒して、いつも以上に慎重なんだよ。一発いれて、あのメキシコ女をもっとビビらせてやれ」


「はぁい。ユーリちゃん、頑張りまぁす」


 ユーリはしとどに汗をかいていたが、まだまだスタミナは有り余っている様子であった。

 両腕のマッサージングに移行しながら、サキはエプロンサイドのジョンを振り返る。


「おい、正規コーチ。おめーも言うことはねーのかよ?」


「キョウのチーフは、サキだからねー。ボクのイいたいコトはゼンブイってくれたし、ノープロブレムだよー」


 インターバルでリングに出ることを許されるのは、チーフセコンドのみであるのだ。ユーリは試合中でも男性にマッサージングされると集中力を欠いてしまうため、今日はサキにその役をお願いしていたのだった。


 一分間のインターバルはあっという間に過ぎ去って、『セコンドアウト』のアナウンスが流される。

 サキは「よし」とユーリのもとから身を起こした。


「行ってこい。あっちも何を隠し持ってるかわかんねーから、油断こくんじゃねーぞ、牛」


「牛じゃないけど、了解であります!」


 元気いっぱいに立ち上がったユーリは、おやつをねだる子犬のように瓜子を振り返ってきた。

 瓜子は精一杯の思いを込めて、「ファイトです」と呼びかけてみせる。

 ユーリは幸福そうに、「うん!」とうなずいた。

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