04 黒き悪夢

 犬飼京菜の驚異的なデビュー戦が終了した後も、速やかに試合は進行されて――いよいよ第六試合、メイ=ナイトメア選手と山垣選手の試合である。


 仮にも元・世界王者の試合が六番目というのは挑発的なニュアンスを感じてしまうが、これがパラス=アテナの意思表明であるのだろう。ベリーニャ選手に挑戦したかったら、《アトミック・ガールズ》のリング上で名をあげてみせよ、というメッセージであるのだ。


 そんなメイ=ナイトメア選手と対戦する山垣選手というのは、まぎれもなくライト級のトップファイターであった。瓜子が初めてユーリと出会った日に、サキとタイトルマッチを行っていた選手であるのだ。


『青コーナー。百六十センチ。五十二キログラム。フィスト・ジム川口支部所属……山垣、詩織!』


 たおやかな名前とは裏腹に、山垣選手は左右の髪を刈りあげて、残された髪を金色に染めあげた、四角い強面の風貌をしている。おまけに名うてのラフファイターで、サキも反則の頭突きをくらい、七針の裂傷を負ってしまったのだった。


『赤コーナー。百五十二センチ。五十二キログラム。フリー。《スラッシュ》元・軽量級王者……メイ=ナイトメア!』


 未知なる海外の強豪選手に、観客たちは期待の歓声をあげている。

 また、見る者の期待を煽る風貌と迫力を、このメイ=ナイトメア選手はしっかりと携えていた。


 闇のように黒い肌に、いくぶん赤みがかった金色のドレッドヘアが、印象的である。

 試合衣装は赤と黒のツートンで、胸もとに黄色で「NIGHTMARE」の文字がプリントされている。ハーフトップにショートのスパッツといういでたちであったので、野生動物のように無駄肉の削ぎ落とされた肉体が、惜しみもなく面前にさらされていた。


 そして何より目をひかれるのは、やはりその眼光であっただろう。

 試合開始の直前になっても、彼女は石の仮面じみた無表情を保っていたが、その双眸だけは細かく編み込まれたドレッドヘアの隙間で野獣のように燃えていた。


「……ふん。こいつも背丈は、うり坊とタメかいな」


 モニターの付近でウォームアップに励みながら、沙羅選手はそのように言いたてた。


「ほんでもって、シルエットはうり坊とそっくりやな。ちゅうことは、うり坊とおんなじぐらい、みっしり骨が詰まっとるのかもなあ」


 そのような話は瓜子自身が眉唾であるのだから、何も確たることは言えない。

 ただ、メイ=ナイトメア選手のシルエットが瓜子に似ているということは否定できなかった。

 身体の厚みだけではなく、頭の大きさや首回りのサイズ、手足の長さや胴回りのサイズなどが、かなり瓜子と近い感じであるように思えるのだ。


「ふみゅふみゅ。さながら、ブラックうり坊ちゃんですにゃ。そういえば、このお人もストライカーなんだっけ?」


「やめてくださいよ。相手が元・世界王者じゃ、恐れ多いっす」


 それに瓜子は、こうまで恐ろしげな目つきはしていないはずだ。

 瓜子の対戦相手が、もしもこのような目つきをしていたならば――きっと、血が騒いでしかたがないところだろう。


 控え室の面々も、これまで以上に真剣な眼差しでモニターを見やっている。

 特にライト級の選手たちは、この存在を看過できないはずだった。


 レフェリーからのルール説明が終わり、両者はグローブのタッチをうながされる。

 メイ=ナイトメア選手も山垣選手も、当たり前のようにそれを黙殺して、自分のコーナーへと退いた。


『ファイト!』


 本日、何回目かのゴングが鳴らされる。

 先にコーナーを飛び出したのは、山垣選手のほうであった。

 序盤からラッシュをかけて相手の出鼻をくじくというのが、彼女の常套手段であったのだ。そうして首尾よく一ラウンド目のポイントを取れたならば、二ラウンド目は体力を温存し、三ラウンド目で再び爆発するという、そんなしたたかさも持ち合わせていた。


 山垣選手は遠めの距離から、ぶんぶんと左右のフックを振り回す。

 八センチの身長差であるのだから、射程距離に関しては、山垣選手に分があった。

 メイ=ナイトメア選手は深めに腰を落としたクラウチングのスタイルであり、俊敏なるウェービングとダッキングですべての攻撃をかわしていく。

 山垣選手の猛攻とメイ=ナイトメア選手の俊敏さに、観客たちはいっそう盛り上がった。


 両者の距離は、じわじわと詰まっていく。

 メイ=ナイトメア選手がほとんど立ち位置を変えないため、山垣選手が前進した分、距離が詰まってしまうのだ。気づけば、ほとんどボクシングのような至近距離に成り果てていた。


 そこで山垣選手は同じ勢いのまま、いきなり右足を振り上げる。

 膝蹴りを繰り出しつつ、自分はパンチをくらわないように上体を引く、ムエタイのテンカオである。相手があまりに立ち位置を変えないため、これなら当たると踏んだのだろう。


 メイ=ナイトメア選手は、左腕でそれをブロックした。

 山垣選手は右膝を下ろし、上体を戻す反動を使って、左フックを繰り出す。

 メイ=ナイトメア選手は右腕で頭部をガードしていたが、その曲げた右腕をくぐるようにして、山垣選手の左拳がメイ=ナイトメア選手の下顎を撃ち抜いた。


 メイ=ナイトメア選手は大きくのけぞり、観客たちは歓声をほとばしらせる。

 が――メイ=ナイトメア選手は上半身をのけぞらせただけで、立ち位置はまったく変わっていなかった。

 おたがいに、まだいくらでも手足の届く距離である。

 山垣選手は、とどめの右フックを振るおうとした。

 前に出した左足に、おもいきり重心をかけていたことだろう。


 その左足を、メイ=ナイトメア選手が踏み抜いた。

 まさしく、踏み抜いたとしか言いようのない攻撃である。素早く振り上げた右足で、斜め上方から膝関節の横合いを足の裏で踏み抜いたのだ。


 山垣選手の左足が、嫌な角度にたわんでいた。

 そして、メイ=ナイトメア選手の左拳が、山垣選手の横っ面を殴りつけた。回転の早い、ショートフックである。


 山垣選手の右フックは左足を踏み抜かれたことによって立ち消えになり、深く身を屈めたメイ=ナイトメア選手がさらに細かいパンチを乱打する。

 ガードも何も関係ない。速射砲のごときショートフックとショートアッパーが、山垣選手の顔や腕や胸や腹に、ゴツゴツとぶつけられていった。


 その勢いと、おそらくは左足の痛みによって、山垣選手は力なく後ずさる。

 その瞬間、メイ=ナイトメア選手は拳ではなく手の平で山垣選手の左肩を突いた。

 そして同時に、逆の手が山垣選手の右膝をすくっている。

 テイクダウンを取る技術、ニータップである。


 右足一本に重心をかけており、おまけにバランスを崩していた山垣選手は、あっけなくマットに倒れ込むことになった。

 その上に、メイ=ナイトメア選手が覆いかぶさる。

 それは、なんだか――弱った獲物に襲いかかる肉食獣のような風情であった。


 マウントポジションを取ったメイ=ナイトメア選手は、再び速射砲のごとき乱打を放つ。

 やはり、ガードなど無視である。そのほとんどは頭部を抱え込んだ両腕を打つばかりであったが、何発かに一発はガードをすりぬけて山垣選手の顔面や頭部を殴打した。


 客席は、熱狂の坩堝と化している。

 レフェリーは、いつでも止められるようにと身を屈めながら、真剣な目つきでこの一方的な蹂躙を見守っていた。


 メイ=ナイトメア選手の乱打はあまりにスピードフルで、体重もまったく乗せられていない。肩から上の動きだけで、手打ちのパウンドを繰り出しているのだ。

 それでレフェリーも、これではさしたるダメージも与えられまいと考えて、ストップをかけずにいるのだろうが――何とはなしに、瓜子はぞっとしてしまった。


 たとえ手打ちの軽いパンチでも、こうまでラッシュを持続できるものであろうか?

 というか、これは本当にそこまで軽いパンチなのだろうか?

 メイ=ナイトメア選手はオープンフィンガーグローブを装着しているのに、ゴツゴツと骨のぶつかる音色が聞こえてくるように感じられてしまう。


 そして――頭を抱え込んだ山垣選手が狂ったように両足をばたつかせたところで、レフェリーはようやく試合を止めた。

 大歓声の中、メイ=ナイトメア選手はゆらりと立ち上がって、大きく息をつく。

 山垣選手は力尽きた様子で両腕を投げだし、そのまま動かなくなってしまった。


 顔中が、青黒く腫れあがってしまっている。

 潰れた鼻から、栓が抜けたように鼻血が噴きこぼれた。

 おそらく、鼻骨が折れているのだろう。下手をしたら、眼窩底も骨折しているかもしれない。顔面をガードをした両腕と絶え間なく振るわれる拳のせいで、レフェリーはこの惨状を見て取ることができなかったのだ。


 レフェリーは、(こんなはずでは……)という顔つきで固まってしまっていた。

 そこに、セコンド陣とリングドクターがなだれこんでくる。セコンドのひとりは、どうしてもっと早く止めなかったのだとばかりに、レフェリーに食ってかかっていた。


 しかし、セコンド陣もタオルを投げなかったのだから同罪である。

 メイ=ナイトメア選手は、その場に集った人間たちの常識を打ち砕き、おぞましい悪夢をもたらしたのだった。


『……三分四十一秒、パウンドによるKOで、メイ=ナイトメア選手の勝利です!』


 異常事態を証し立てるように、ずいぶん遅れて勝利者の宣言がされた。

 レフェリーは怒れるセコンドをなだめすかしつつ、メイ=ナイトメア選手の右腕を高く掲げる。

 観客たちは、それでいっそうの歓声をほとばしらせた。


「……なんや、地味だか派手だかわからん結末やったな」


 ひとりでシャドーをしていた沙羅選手が、不敵な声でつぶやいた。


「ま、階級が違うて幸いだったわ。ウチはミドルと無差別で手一杯やから、ちっこい怪物退治はまかせたで、うり坊」


「……自分なんかに、そうそうチャンスが回ってくるとは思えませんけどね。そんな幸運に見舞われたら、ベストを尽くします」


「ん。いい返事や。ほな、お先に」


 沙羅選手は後輩のセコンドを引き連れて、控え室を出ていった。出場選手は、二試合前から出入り口で待機する取り決めであるのだ。


「……ありゃあ確かに、怪物の部類だな。はっきり言って、まだまだ底がまったく見えねーわ」


 と、サキがいきなり背後から瓜子の肩をつかんできた。


「ひとつハッキリしてるのは、テクニック云々だけの強さじゃねーってこった。あいつとやりあうのは、このお牛様とやりあうぐらいしんどいことになるだろうぜ」


「はい。ちょっと身体が疼いちゃいますね」


「えー?」と、ユーリは不満げな声をあげた。


「ユーリはあんなお人とうり坊ちゃんがやりあうのは、なんか気が進まないにゃあ。まるでケンカみたいなファイトスタイルだし、何よりベル様に唾などを吐きかけた無礼者なのだからね!」


「ま、やりあうチャンスがあったらっすよ」


 瓜子はユーリを振り返り、そのつぶれた大福のような顔に笑いかけてみせた。


「ユーリさんも、そろそろ出陣っすね。廊下でミット打ちでもしますか?」


「うん! それじゃあ、お願いいたしまっする!」


 どくどくと心臓が脈打つのを感じながら、瓜子は頼もしい仲間たちとともに控え室を出た。

 頭で考えるのを止めることはできても、心の疼きまで止めることはかなわない。

 瓜子の中に、メイ=ナイトメアという新たなモンスターの存在は、これまで以上にくっきりと刻みつけられてしまったようだった。

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