03 革命児のデビュー戦
新宿プレスマン道場の一行はさまざまな相手と邂逅を果たして、なかなか落ち着かない気分を味わわされたものの、興行そのものは何の問題もなく粛々と開始されることになった。
まずは、開会セレモニーである。浜松アクト・ガーデンでは望むべくもなかった色とりどりのスポットライトと重低音のきいたBGMが、選手たちの姿を派手派手しく彩り、観客たちに歓声をあげさせる。
それが、ユーリの登場によって爆発した。
ユーリは間にふたつの興行をはさんで、ついに四ヶ月ぶりに選手として登場したのである。セコンドの立場であってもあれほどの大歓声であったのだから、この状況は予想して然るべきであったろう。
よって瓜子も、十分に心の準備をしていたつもりであったのだが――いざ会場中に「ユーリ!」のコールが吹き荒れると、思わず胸がいっぱいになってしまった。
怒号のような大歓声の中を、ユーリはひらひらと両手を振りながら進んでいく。
その顔には、きっと無邪気な笑みがたたえられているのだろう。ユーリはどのような大歓声でも、あるいはそれが大ブーイングであったとしても、決して心を揺らすような気性ではなかったのだ。
(そういう意味では、本当に大物だよな)
しかし、瓜子の試合で大歓声があげられたときは、これが瓜子の邪魔になってしまうのではないかと、子どものように不安がっていた。そういう豪胆さと脆弱さが複雑に絡み合ったのが、ユーリ・ピーチ=ストームという不可解な生き物の生態であったのだった。
最後に入場したマリア選手がマットの上に並んでも、歓声はいっこうに収まらない。
レトロなマジシャンのような格好をしたリングアナウンサーは、まるで我がことのように満足げな微笑をたたえながら、マリア選手のもとに近づいた。
『では、選手代表のマリア選手に、開会の挨拶をお願いいたします!』
開会の挨拶は、おおよそメインイベントの赤コーナー側の選手が受け持つことになる。それが本日は、マリア選手であったのだ。
自分の対戦相手の名が連呼されるこのような状況で、そんな役割を担わされるというのは、なんとも気の毒な限りであったが――しかしマリア選手は、普段通りのにこやかな面持ちであった。
『本日は、ご来場ありがとうございまーす! ついに今日は、ユーリ選手の復活の日ですねー!』
大歓声が、マリア選手の言葉に呼応する。
マリア選手はバンデージに包まれた左拳を高々と突き上げて、さらなる声をほとばしらせた。
『無差別級の試合ではユーリ選手と対戦する機会がなかったので、マリアもこの日を楽しみにしていましたー! ユーリ選手もマリアも頑張りますので、みなさん楽しんでいってくださーい!』
歓声の中に、「マリアー!」の声も入り混じる。彼女もまた、ユーリほどではないにせよ、人気選手のひとりなのである。
マリア選手は歓声のシャワーを満身にあびながら、背後にたたずむ他の選手たちにくるりと向きなおる。
『他の試合に出場する選手のみなさんも、頑張ってくださいねー! 一緒に力をあわせて、今日の大会を盛り上げましょー!』
ノリのいい選手はマリアと一緒に拳を突き上げて、そうでもない選手は適当に拍手で応じている。そして、ごく一部の選手――沙羅選手やメイ=ナイトメア選手や犬飼京菜などは、清々しいほどの他人顔であった。
『マリア選手、ありがとうございました! それでは、選手退場です!』
入場の際とは逆の順番で、ユーリとマリア選手からリングを下りる。左右に分かれて別々の花道を進む両者に対しては、もちろん飽きることなく声援が投げかけられていた。
出入り口の扉の隙間からそのさまを盗み見ていた瓜子は、大きな満足感を胸に身を引いた。
やがてユーリが扉から現れ、スタッフには「控え室へどうぞ!」と言いつけられる。ここで立ち止まっては、出入り口が渋滞してしまうのだ。
「いやあ、さすがの大歓声っすね。先輩選手に失礼っすけど、運動会か何かで子どもの活躍を見守る母親の心境でした」
「にゃっはっは。うり坊ちゃんの母性愛を刺激できたのなら光栄ですわよん」
通路を歩きながら軽口を交わす二人のもとに、沙羅選手が駆け寄ってくる。セミファイナルに出場する彼女は、ユーリの次の順番であったのだ。
「なあ。マリア選手いうのは、あないな芸人魂を隠し持ってたんやな。あの状況でお客の気持ちをわしづかみにできるなんざ、なかなかのタマやないか」
「はい。沙羅選手は、ずいぶんシラケてたっすね」
「そらあ他の人間に主役を張られたって、なんもおもろいことはあらへんからな。どうせなら、この手でマリア選手をぶっ潰して、あの大歓声をかっさらいたかったわ」
にやりと不敵に笑いながら、沙羅選手はそんな風に言っていた。
「ま、今日のところは自分に譲ったる。ミドル級のナンバースリーいうても、あいつは食わせ物やからな。せいぜい寝首をかかれんなよ、白ブタ」
「はぁい。白ブタじゃないけど、頑張りまぁす」
そうして控え室では、サキとジョンが待ってくれていた。
メインイベントに出場であるユーリは、奥まった場所で休ませていただく。控え室には青コーナー側の選手がぞくぞくと集結したが、幸いなことに、メイ=ナイトメア選手や犬飼京菜は赤コーナー陣営であった。
「ふん。《スラッシュ》の王者だったメイなんちゃらはともかく、あの人騒がせな犬っころまで赤コーナーとはな。えらく忖度されとるやないか」
やはり沙羅選手も、犬飼京菜の巻き起こした騒乱についてはわきまえていたようだ。斯様に、せまい業界なのである。サキと同じく「犬っころ」呼ばわりするということは、『人喰いポメラニアン』という異名をもわきまえているということであった。
「どうでしょうね。もちろん格上の選手が赤コーナーってのは不文律なんでしょうけど、同じジムから複数の選手が出るときなんかは、同じ側に固められたりしますからね。そのあたりの兼ね合いもあるんじゃないんすか?」
「ふうん? ドッグ・ジムやらいうジムから、他の選手も出とるんかいな?」
「そっちじゃなくて、対戦相手のほうっすよ。犬飼選手と対戦するヒロ・イワイ柔術道場から、今日は奥村選手も出場するんです」
奥村選手は瓜子と同じくライト級であり、サキとも対戦経験があったので、しっかりチェックしていた。瓜子がデビュー戦を飾った日に、サキと対戦していた選手である。
(……今日はなんだか、ライト級の試合が多いんだよな)
無差別級はトップスリーが全員欠場で、ホープの高橋選手しか出場しない。なおかつ、ミドル級は予選試合に絡む四名だけだ。あとはのきなみ、ライト級とバンタム級で構成されていた。
(まあ、ミドル級は王座挑戦のレースが始まったところだから、それに絡まない選手は弾かれたのかもしれないけど……もしかしたら、メイ=ナイトメア選手にぶつけるべき選手を査定しようって考えなのかな)
そんな風に考えかけて、瓜子は雑念を振り払った。
今日は、ユーリのセコンドに徹するのだ。ライト級の今後などを考えるのは、明日以降で遅くないはずだった。
「それにしても、まさか大和源五郎があんなうらぶれたジムに所属しとったとはなあ。まったく、盲点やったで」
と、沙羅選手はそのように言葉を重ねている。
瓜子は黙っていようと思ったが、ユーリ当人が「ふにゅにゅ?」と反応してしまった。
「沙羅選手は、あの御方をご存じなのでありますかぁ?」
「当たり前やろ。ウチはもともと格闘系プロレスの関係者に狙いを絞って、キャッチ・レスリングの何たるかをご教示願ってたんやからなあ。その筆頭格である大和源五郎をチェックしないわけないやろ」
すました顔で、沙羅選手はそのように言いたてた。
「せやけど、赤星大吾の引退で《レッド・キング》が傾いた頃、大和源五郎は消息不明になってもうたんや。もうええトシやったんで業界から身を引いた思うてたんやけど、ドッグ・ジムやらいうジムはウチのアンテナにも引っかからんかったわ」
「……だったらおめーは、どうして赤星道場を頼らなかったんだ? 赤星大吾はトレーナー業からも身を引いちまったけど、あそこにはまだ赤鬼と青鬼が居残ってるだろうがよ?」
「ふふん。ついでに、大怪獣ジュニアも居残っとるやろ? 表舞台の来栖を潰したら、舞台裏の裏番長も潰したろ思て、あっこは避けることにしたんや。道場主を潰すのに、その道場のお力を拝借するわけにはいかんからなあ」
どうやら沙羅選手のサクセス・ストーリーには、赤星弥生子の打倒までもが組み込まれていたようである。
しかし、それも今の瓜子には雑念でしかなかった。
「まあ、今はとりあえず犬飼選手の試合っすね。ユーリさんは、関心ありますか?」
「んにゃ? とりたたてー。んでも、ムラサキちゃんの未来のライバルになりえるなら、いちおうチェックしておくべきなのかしらん」
なおかつドッグ・ジムというのはサキと因縁浅からぬ間柄であるわけだが、そちら方面でもユーリが関心をかきたてられた様子はなかった。どれほどサキのことをお慕い申しあげていたとしても、過去にはこだわらないのがユーリの流儀なのである。
いっぽうサキは平静を装いつつ、やはり鋭い眼光で控え室のモニターを睥睨している。瓜子と同じくユーリのセコンドに徹しようという心づもりであるのだろうが、この時間には為すべき仕事もさほど存在しないのだ。
そうして開会セレモニーの余熱が残る中、リング上のリングアナウンサーにスポットが当てられて、観客たちに歓声をあげさせた。
『それではこれより、プレマッチ第一試合を開始いたします! 青コーナーより、
ヒロ・イワイ道場の新鋭が、張り詰めた顔つきで花道に再登場する。彼女は開会セレモニーを終えた後、控え室に戻ることなく、入場口の裏でプロテクターを装着されたはずだった。
犬飼京菜の対戦相手ということで、瓜子も多少はリサーチしてみたのだが、《フィスト》のアマ大会や柔術の公式大会に何度か出場経験があるらしいというぐらいで、実力のほうは未知数である。
『赤コーナーより、犬飼京菜選手の入場です!』
ジャージを脱いだ犬飼京菜は、わざわざ道場名の入った黒い
それに、同じ法被を着込んだセコンドのひとり、柔和な面立ちをした若者が、巨大なフラッグを携えている。それも黒地で、横向きに駆ける犬のシルエットとともに、『犬飼格闘鍛錬場ドッグ・ジム』の名がプリントされていた。
(そうか。《G・フォース》では、ああいう飾り物も持ち込み禁止だからな)
道場の名を上げたいという一心であるならば、こういった演出もむべなるかなといったところであろう。
エプロンサイドに上がった大和コーチがトップロープに両手をかけて固定すると、誰よりも小柄な犬飼京菜は軽々とそれを跳び越えてリングインした。
『プレマッチ第一試合。バンタム級、四十八キロ以下契約。三分二ラウンドを開始いたします! ……青コーナー。百五十二センチ。四十八キログラム。ヒロ・イワイ柔術道場所属……堤、由真!』
開会セレモニーの熱狂の余韻か、プレ・マッチとは思えぬような拍手と歓声が巻き起こった。
そんな中、瓜子たちの近場に陣取った沙羅選手が「ほら見い」と言いたててくる。
「あいつはうり坊とおんなじ背丈で四キロや五キロも軽いはずやのに、うり坊より太く見えるぐらいやんか?」
「それはまあ、骨格とかでも見た目は変わってきますからね」
堤なる選手は肩幅が広く、なかなかがっしりとした体格をしていた。顔立ちも精悍で、瓜子より年長であるように見受けられる。
『赤コーナー。百四十二センチ。三十九・八キログラム。犬飼格闘鍛錬場ドッグ・ジム所属……犬飼、京菜!』
会場が、いささかどよめいた。
こちらでは、沙羅選手が「はあん」と鼻を鳴らしている。
「なんぼなんでも、四十キロを切ったらあかんやろ。事故でも起きたら、どないする気なんや?」
「そうっすね。《G・フォース》のときは四十キロジャストでしたけど……何にせよ、八キロ以上の体重差ですもんね」
犬飼京菜は、その数値の通りの小さな姿をリング上にさらしている。
ヘッドガードもニーパッドもレガースパッドも、オープンフィンガーグローブまでもが大きすぎるように見えてしまう。身長ばかりでなく、とにかく彼女は華奢すぎるのだ。
レフェリーにリングの中央まで招かれると、十センチの身長差もあらわになる。
《G・フォース》のタイトル戦よりはまだマシな身長差であったが、その代わりに身体の厚みの違いが際立ってしまっていた。
「でもまあこの犬っころは、このちっこいカラダでKOの山を築いてきたって評判やったようやしな。とりあえずは、お手並み拝見といこか」
両者はコーナーまで下がらされて、ゴングが高らかに鳴らされた。
きっと堤選手も、《G・フォース》の試合をチェックしていたのだろう。ゴングが鳴る前から、がっちり頭部をガードしている。
そんな堤選手のもとに、犬飼京菜は頭から突っ込んだ。
そして――地を這うような低空タックルで、相手をマットに転がしてみせたのだった。
サイドポジションを取った犬飼京菜は、そのままするりと相手の胴体をまたぐ。
マウントポジションを取ったならば、肘先で相手の鼻を圧迫する、えげつない嫌がらせだ。堤選手は、たまらず背中を向けてしまった。
その咽喉もとに、犬飼京菜は細い右腕をねじ込んだ。
相手の胴体を両足ではさみこみ、小さな背中をさらに小さくきゅっと丸める。
それと同時に、堤選手はマットをタップしていた。
ゴングが乱打され、控え室にも驚きのざわめきがあふれかえる。
犬飼京菜は悠然と身を起こし、這いつくばった対戦相手を顧みることなく、ちょこちょことリングの中央に帰還した。
『一ラウンド、十二秒! チョークスリーパーによるタップアウトで、犬飼京菜選手の勝利です!』
会場では、もちろん大歓声があげられていた。
モニターのスピーカーと壁の向こう側から、それが同時に伝えられてくる。
沙羅選手は、呆れた様子で首を振っていた。
「相手に何もさせんまま、秒殺かいな。アマの分際で、なめくさった真似しよるなあ」
「ええまあ、アマのほうが実力差が出るって面もあるかもしれないっすけど……でも、やっぱり驚きっすよね」
まがりなりにも、相手は柔術道場の選手であるのだ。それが、MMA初挑戦の新人選手に、寝技で秒殺されてしまった。一種あざとさを感じるほどの結末である。
「……あのジムに、柔術のコーチなんざいなかったはずだけどな。ま、どうにかしてトレーニングを積んだんだろ」
低い声で、サキがそのようにつぶやいている。
そして、ユーリは――目をまん丸にして、瓜子を振り返ってきた。
「どうしよう、うり坊ちゃん……ユーリ、心臓が痛いかも」
「え? 悪いもんでも食べたんすか?」
「うり坊ちゃんと同じものしか食べてないし、何を食べたって心臓は痛くならないよ! ……そうじゃなくって、胸がドキドキしちゃってるの」
そう言って、ユーリは凶悪なまでに盛り上がった胸もとに手を置いた。
「こんな気持ち、初めて……では、ないんだけどね。ベル様とサキたんとうり坊ちゃんの試合以外で、こんな気持ちになったことはないのだよ」
「そうっすか。まあ、柔術をこよなく愛するユーリさんだったら、不思議はないかもしれませんけど……」
「ううん! 柔術の得意なお人なんて、アトミックにも山ほどいらっしゃるでしょ? 来栖選手とか兵藤選手とか、魅々香選手とか沖選手とか、この前のまりりん選手とか……でも、こんな気持ちになったことは一度もないの。何故ならば、すべてがベル様の幻影にかき消されてしまうから!」
では、ストライカーたるサキや瓜子は、別の要因でユーリの心臓を揺さぶることができている、ということだ。そしてそこには、個人的な思い入れというものもぞんぶんに加味されているように思われた。
「なんだろね、これ? たぶん来栖選手とかのほうが、柔術はお上手なはずなのに……どうしてユーリは、こんなにドキドキしてしまうのでせう?」
「自分に聞かれてもわかりませんけど……ひと目惚れってやつじゃないっすか?」
「えー? それはベル様への裏切りみたいで、なんかイヤだにゃあ」
ユーリは、ぷっと頬をふくらませてしまった。
そういう仕草は普段通りであったので、瓜子はほっとする。
「まあ、考えるのは後回しにしないっすか? 今は自分の試合に集中するべきだと思うっすよ」
「それならだいじょーぶ! 頭蓋の中身は、マリア選手のことではちきれんばかりに成り果ててるから! 二度ともう、同じ失敗は繰り返さないのですっ!」
そうして見る者の心にさまざまな波紋を投げかけつつ、犬飼京菜のMMAデビュー戦は終了した。
レフェリーに腕を上げられた犬飼京菜は、二ヶ月前と同じように物騒な目つきでカメラをにらみつけていた。
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