04 世紀の一戦

 小笠原選手との一戦が終結すると、画面はまたユーリのインタビュー風景に切り替えられた。

 ユーリはいくぶんかしこまった表情で、テーブルに置かれたティーカップの中身を意味もなくかき回している。


『はい。それで何とか小笠原選手には勝てたんですけどぉ、ユーリは右拳の骨を折っちゃって、ついついバンデージをほどいちゃったんですよねぇ。あれは一生の不覚でありましたぁ』


 グローブの下に巻いたバンデージは不正防止のため、事前にレフェリーからチェックされる。その場で割り印代わりのサインが記されるため、試合前にそれをほどいてしまったら、本来は失格負けとなってしまうのだ。


 その日もひとたびはリング上で、ユーリの失格負けが宣告されていた。

 観客席から巻き起こった津波のごときブーイングは、それこそ暴動に発展しかねないほどの凄まじさであった。ユーリとベリーニャ選手による決勝戦が中止されるなどとは、誰にとっても許せなかったのだろう。


 そんな中、リング上のユーリはしょぼんと肩を落としてしまっている。

 それを救ったのは、ベリーニャ選手に他ならなかった。

 彼女は悄然としたユーリと怒り狂う観客たちの姿を見回したのち、おもむろに右手のグローブを脱ぎ捨てて、自らもバンデージをほどいてしまったのだった。


 彼女の奇妙な振る舞いに、ブーイングの声が少しだけ鎮静化する。

 その隙を逃さずに、彼女は試合の中止を告げたリングアナウンサーからマイクを奪い取った。


 ベリーニャ選手の少しハスキーな声が、ポルトガル語で何事かを告げる。

 慌ててリング上にあがってきた通訳担当の女性が、その内容を解説することになった。


『ピーチ=ストームが失格なら、私も失格でいいです。戦わずして、ベルトをもらおうとは思いません』


 観客たちは困惑したように押し黙ってから、すぐさま喚声を張り上げた。

 ただし今度はブーイングではなく、ユーリとベリーニャ選手の名を呼ぶコールである。

 そんな中、今度はパラス=アテナの代表である花咲氏とブッキングマネージャーの駒形氏が泡を食ってリングに上がってきた。

 ベリーニャ選手は通訳を通して、両名と密談を開始する。彼女のセコンドたる実兄のジョアン・ジルベルト選手は、ひどく澄んだ目でその姿を見守っていた。

 数分後、密談を終えた花咲氏が普段通りの朗らかな笑顔で、声も高らかに宣言した。


『協議の末、両者のバンデージを再び巻きなおし、レフェリーのチェックを受けた上で、決勝戦を執り行うことに決定いたしました! 観客の皆様は、どうぞそのままお待ちください!』


 その後に巻き起こった歓声は、さきほどのブーイングを上回るほどの勢いであった。

 画面上に映し出されるその熱狂を眺めながら、サキは「ははん」と鼻を鳴らす。


「この無茶苦茶な裁定も、アトミックならでは横紙破りだな。拳が割れたんなら、普通はその場でドクターストップだったろうによ」


「はい。パラス=アテナの面々も、のちのち苦しい言い訳を連呼してたっすね」


 いわく、一日に複数の試合を行うワンデイトーナメントにおいては、ゆるんだバンデージを巻きなおすという行為も許されるべきである。いわく、試合中に拳を骨折した場合は試合後まで発覚しないことが多いため、即時のドクターストップに固執する必要はないように思われる。――などなど、パラス=アテナの運営陣は、試合後に報道陣へとそのような声明を発表していたのだった。


 ともあれ、商業主義に偏向したパラス=アテナの方針が、この際はユーリを救うことになった。両者はバンデージを巻きなおして、試合を決行することなったのだ。

 そして――画面上ではなく生身のユーリが、「うみゃー!」と絶叫することになった。

 騒乱の試合会場からどこかのトレーニングルームへと画面が切り替えられて、そこに黒い柔術衣を纏ったベリーニャ選手の姿が映し出されたのだ。


『どうしてあの場で、あなたもバンデージをほどいてしまったのでしょう?』という質問が、テロップで表示される。

 ベリーニャ選手はポルトガル語でその質問に答え、同時にテロップでその内容が表示された。


『ピーチ=ストームに勝利しなければ、王者を名乗る資格はないと考えました』

『ピーチ=ストームは、素晴らしいファイターです。彼女が来栖選手に勝利した映像を観たときから、ずっと闘いたいと願っていました』

『リュドミラ選手をタップアウトさせた試合も見事でしたし、小笠原選手との試合は……あれは本来の彼女でなかったように思いますが、それでいっそう本来の彼女というものを知りたくなりました』

『だから私は、無理を言って試合の場を整えてもらったのです』


 ユーリは我を失って、瓜子の肩をがくがくと揺さぶってきた。


「ベル様が、ユーリのことを語っておられる! しかも、ユーリのDVDの中でっ!」


「本当っすね。こんな演出が組み込まれているとは知りませんでした」


 ベリーニャ選手は昨年の試合後もずっと日本に滞在しているという話であったので、このようなインタビューを申し込むことも可能であったのだろう。DVD制作の企画会議には千駄ヶ谷しか出席していなかったので、瓜子たちも詳細は知らされていなかったのだ。


 途中で我に返ったユーリは、瓜子の肩から手を離して、指先をさすり始める。立て続けに瓜子の身に触れてしまって、きっと全身が鳥肌まみれだろう。しかしその目はきらきらと輝きながら、画面上のベリーニャ選手を見つめたままであった。


 やがて画面は試合会場に戻されて、ユーリとベリーニャ選手の試合が開始される。

 ムエタイ式のアップライトで構えたユーリの周囲を、ベリーニャ選手は軽やかなステップで回り始める。これといって特別なものも感じられない、きわめて静かな立ち上がりであったが――試合は、じわじわと熱を帯びていった。


 ユーリの打撃をかいくぐり、ベリーニャ選手が両足タックルを決める。

 しかしユーリも簡単には屈せず、下からスイープを仕掛けようとする。もちろん寝技の技術ではベリーニャ選手のほうがまさっているのであろうが、ユーリは熱情と怪力でそれを補っていた。


 それでもユーリが形勢をくつがえすことはできないが、さりとてベリーニャ選手も有効な技は仕掛けられない。二分ばかりも残されていた時間はそれで余さず消化され、第一ラウンドの終了を告げるゴングが高々と鳴らされた。

 観客席には、変わらぬ熱狂が渦巻いている。大きなアクションも発生しない地味なグラウンド合戦であったのだが、両者の熱気が客席にも伝播しているようだった。


 第二ラウンドは、ユーリが立ち技で積極的に仕掛けていく。カウンター狙いで待ち受けていても、あっさりタックルを決められてしまったので、ジョンがそのように指示を下したのだ。

 ユーリはその身に叩き込まれた打撃技のコンビネーションを、愚直に繰り出していく。かつて来栖選手にも使った戦法だが、ベリーニャ選手はユーリよりも俊敏であったため、その攻撃がヒットすることはなかった。


 しかしまた、試合当日のユーリとベリーニャ選手は、三キロていどしかウエイトが変わらない。ユーリの重い打撃をくらったならば、ベリーニャ選手も甚大なダメージを負うことだろう。それを理解しているゆえに、ベリーニャ選手も慎重になって、なかなか手を出せない状態に追いやられていた。


 その間隙をついて、ユーリのほうがベリーニャ選手につかみかかる。

 タックルではなく、首相撲に持ち込もうという作戦だ。

 が――ベリーニャ選手に両脇を差されたユーリは、片足を掛けられてあっさりテイクダウンされてしまった。

 そこからは、また寝技の攻防である。

 上になったベリーニャ選手が攻め、下になったユーリがそれをしのぐ。今回は前ラウンドよりも多くのパウンドが振るわれたが、ユーリは死力を尽くしてすべての攻撃をしのぎきっていた。


 第一ラウンドも第二ラウンドも、圧倒的にベリーニャ選手が優勢だ。

 しかし、サキや沙羅選手は、第一ラウンドでベリーニャ選手に敗北を喫していたのだった。

 柔術をベースにしたグラウンド・テクニックにおいては、ユーリのほうが両者を上回っている。その事実が、この試合で証明されたのだ。

 かくして、第二ラウンドも第一ラウンドと同じ様相のまま終焉を遂げていた。


 そうして、最終ラウンドである。

 ユーリはやはり、積極的に打撃技を繰り出していく。

 これがこの日で三度目の試合であり、しかもこの試合では劣勢に立たされているのに、ユーリは元気いっぱいのままであった。


 スタンド状態では自分のペースで動けており、グラウンド状態でも劣勢ではあったものの、寝技の攻防をこよなく愛するユーリとしては、心的負担も少ないのだろう。

 そしてそれ以上に、ユーリはベリーニャ選手との闘いに昂揚していたのだった。

 あるいはそこに、瓜子と和解できたという喜びや幸福感も作用しているのかもしれないが――真実は本人のみぞ知る、である。


 何にせよ、ユーリは元気いっぱいであった。

 ベリーニャ選手のほうも、スタミナを切らせている様子はなかった。

 ユーリはぶんぶんと重い攻撃を繰り出して、ベリーニャ選手が軽やかなフットワークでそれを回避する。第二ラウンドと同じ様相だ。


 しかし今度は、ユーリではなくベリーニャ選手のほうから組みついた。

 ミドルキックを放ったユーリが蹴り足を戻すのに合わせて、これ以上ないぐらいのベストなタイミングで胴タックルを決めてみせたのである。


 サイドポジションを取ったベリーニャ選手は、先日の鞠山選手を思わせる手腕で、鉄槌を振るいつつニーオンザベリーの姿勢に移行する。

 ユーリは持ち前の怪力と柔軟性を如何なく発揮して、腰を切ったり身体をバウンドさせたりしていたが、ベリーニャ選手はロデオに興じるカウボーイのごとく、ユーリの動きを受け流していた。


 そして一瞬の隙を突き、ユーリの腹の上にまたがる。

 この試合で初めての、マウントポジションである。

 ユーリはいっそう激しく身をよじったが、やはりベリーニャ選手が振り落とされることはなかった。


 ベリーニャ選手のパウンドが、緩急をつけてユーリの顔面を打つ。

 ユーリはそれを右腕一本でガードしながら、左腕でベリーニャ選手の腰を押そうと試みた。

 その左腕を乗り越えて、ベリーニャ選手がユーリの右手首をつかむ。

 右手首をつかんだ瞬間には、その身体が横合いに倒されていた。

 電光石火の、腕ひしぎ十字固めである。

 両手をクラッチすることもできなかったユーリは、一瞬で右腕をのばされてしまった。

 おそらくユーリの体内には、靭帯を破壊されるおぞましい音色が駆け巡ったことだろう。


 しかしユーリは右腕をのばされると同時に、ブリッジをしてそのまま後方に回転していた。

 両足でどすんとマットに着地して、ベリーニャ選手につかまれた右腕をひと息に引き抜く。

 さしものベリーニャ選手もいくぶん平静を欠いた様子で、身を起こしていた。


 そこに、ユーリが躍りかかる。

 壊れた右腕も使ってベリーニャ選手の首裏を抱え込み、有無を言わさずに脇腹へと膝蹴りを叩き込む。

 ベリーニャ選手はその一撃で崩れ落ち、ユーリはそのまま体重をあびせかけた。


 会場に、声援が吹き荒れる。

 ついにユーリが、グラウンドで上を取ったのだ。

 胴体を両足ではさまれたガードポジションであったものの、ベリーニャ選手がマットに背中をつけたのは、これが初めてのことであったのだった。


 ベリーニャ選手は下から崩そうと試みるが、ユーリは巧みにそれをかわしていく。ユーリが片方の足をまたぐと、ベリーニャ選手もすぐさまそれを元に戻して、一進一退の攻防が続いた。


 歓声は、最高潮に高まっている。

 だが、無情にゴングが打ち鳴らされた。

 最終ラウンドの五分間も、あっという間に過ぎ去ってしまったのだ。


 判定は、いずれのジャッジも2-1で、ベリーニャ選手の勝利である。

 最終ラウンドは、スタンド状態でひたすら攻勢に出ていた点と、最後に上を取ったことで、かろうじてユーリにポイントがつけられたのだろう。


 客席には失望の声があふれかえったが、それがブーイングに発展することはなかった。それほどまでに、素晴らしい試合であったのだ。

 ベリーニャ選手の腰に無差別級王者のベルトが巻かれて、汗だくのユーリと握手が交わされる。

 そこで画面が、ユーリのインタビュー映像に切り替えられた。


『あの十五分間は、夢の中ではしゃいでいるような心地でしたねぇ。憧れのベリーニャ選手と力いっぱい闘うことができて……今でも本当に現実のことだったのかしらんと、そんな思いにとらわれちゃうんですぅ』


 幸福そうに笑いながら、ユーリはそのように語っていた。

 そして画面は、ベリーニャ選手の映像に切り替えられる。

 彼女は、ユーリ以上に能弁であった。


『実際に試合をしてみると、彼女はやはり素晴らしいファイターでした。まだまだ粗削りではあるのでしょうが、本当にストームそのものです。あの凄まじい膝蹴りで、私は肋骨を砕かれてしまいましたしね』


『ただ残念なのは、彼女が万全の体調でなかったことです。彼女は小笠原選手との試合によって、深いダメージを負っていました。そうでなければ、もっと違う展開になっていたことでしょう。そうしたら、もっともっと彼女の力を感じることができたはずなのに……それだけが、残念でなりません』


『だから私は、彼女との再戦を望んでいます』

『おたがいに万全の体調で、もっと強くなった彼女と闘いたいと願っています』

『その日に向けて、私もトレーニングをしているさなかです。ピーチ=ストームに失望されないように、私も力を惜しむことは許されません』


 画面が、ユーリのもとに戻された。


『あ、はい。恐れ多くもベリーニャ選手が、ユーリなんかと再戦を願ってくれてるなんて……それも現実とは思えないような出来事ですねぇ』


 うっとりと目を細めながら、画面上のユーリはそう言った。


『でもぉ、たとえ右腕が治ったとしても、今のユーリがベリーニャ選手にかなうわけがないのでぇ……とにかく、鍛錬あるのみですねぇ。ベリーニャ選手にガッカリされちゃわないように、もっともっとお稽古を積みたいと思いまぁす』


 まるで示し合わせたかのように、両名の最後のコメントは似通っていた。

 それはきっと、二人が同じ思いを抱いているという証であるのだろう。

 十一月のあのリングで、二人は見えざる絆を結ぶことになったのだ。

 にこにこと笑うユーリも、静かに微笑むベリーニャ選手も、その瞳に浮かぶ輝きに変わりはないように思われてならなかった。

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