05 ガトリング・ラッシュ
「ウリコ、よくタえたねー。このチョウシで、ツギのラウンドもガンバろー」
青コーナーでは、ジョンがそのように声をかけてくれた。
愛音は黙々と瓜子の腕をもみほぐし、ユーリは首裏に氷嚢をあててくれている。
会場からは、「ユーリ!」のコールが一掃されていた。
その代わりに吹き荒れるのは、「まりりん!」の大合唱だ。
鞠山選手はその卓越したグラウンド・テクニックでもって、会場内の空気を奪い返してみせたのだった。
「カニバサミにはイヒョウをツかれたけど、それイガイはカンペキだったよー。ちょっとスタミナをケズられちゃったから、ツギからはプランBにイコウしようかー」
まだ呼吸の整わない瓜子は、「押忍」と答えることしかできなかった。
パウンドのダメージは感じなかったが、全身の筋肉に疲労が溜まってしまっている。何より、スタミナの削られ具合が尋常ではなかった。
「ところで、シアイチュウはボクのコエがキこえないのかなー?」
「押忍……序盤は聞こえてましたけど……中盤は誰の声も聞こえなくて……終盤は、ユーリさんの声だけが聞こえました」
「ウン。ココはカンセイがヒビくからねー。ユーリはコエがタカいから、カンセイにもマけないのかなー」
ジョンは笑いながら、ユーリのほうに視線を転じた。
「スタンドでは、ユーリがボクのシジをウリコにツタえてくれるかなー?」
「はいっ! グラウンドでは、どうしましょう?」
「グラウンドは、ユーリにおマカせするよー。ボクよりもテキカクなシジだったからねー」
「そ、それはお言葉が過ぎるように思う次第でありまする」
そんな風に答えながら、ユーリは瓜子の顔を覗き込んできた。
「うり坊ちゃん、他に冷やしてほしいところはある? ユーリは気がきかないから、ご命令を!」
「大丈夫っす……水、もらえますか?」
「はいはい、ただいまー!」
左手で瓜子の首筋に氷嚢を当てがいつつ、ユーリが右手でドリンクボトルを差し出してくれた。
その中身をひと口だけいただいてから、瓜子は大きく息をついてみせる。
「よし。全回復っす」
「えっ! うり坊ちゃん、すごーい! さすがはスタミナのモンスター!」
「それは、ユーリさんに送られた異名でしょうに」
そうして瓜子が軽口を叩く元気を取り戻したとき、『セコンドアウント』のアナウンスが流された。
「ヨシ。ウリコ、プランBだよー」
「頑張ってね、うり坊ちゃん!」
「……ご武運を祈りますです」
頼もしいセコンド陣に別れを告げて、瓜子は椅子から立ち上がった。
椅子も速やかに回収され、レフェリーが左右に大きく手を広げる。
『ラウンド、ツー』のアナウンスに、レフェリーの「ファイト!」という号令がかぶせられた。
瓜子は調子をはかるために、遠い間合いでステップを踏む。
スタミナの残量は――およそ五割といったところであろうか。呼吸はそれなりに整ったが、上半身に熱がこもっていた。
いっぽう鞠山選手は、元気いっぱいの様子でぴょんぴょんとステップを踏んでいる。ラウンドの大半が得意なグラウンドの攻防で、しかも自分が攻め続けていたのだから、瓜子よりも遥かにスタミナは残されているだろう。
(プランB、ね)
瓜子は遠い間合いから、おもいきり右のハイキックを繰り出してみせた。
鞠山選手はぎょっとした様子で、バックステップを踏む。その眠たげな目が、うろんげに瓜子を見据えてきた。
(玉砕戦法か、あるいは何かの罠かって考えてるだろうな)
しかし、どちらも外れである。プランBは打って変わって、蹴り技を主体に試合を組み立てる作戦であった。
(タックルに入れるもんなら、入ってみるがいいさ)
瓜子は再び遠い間合いから、今度は肩口を狙ったミドルハイを狙ってみせる。
瓜子の足先は、鞠山選手の左肩を浅く叩いた。
序盤は相手のアウトサイドに回り込んで、遠い間合いから右の蹴り。
むろん、パンチも適度に織り交ぜる。そちらもジャブを主体にして、相手の接近を許さない戦法だ。
鞠山選手は気を取り直した様子で、瓜子に迫り寄ってくる。
しかし瓜子は、ステップワークと左ジャブで近づけさせない。気分は、アウトボクサーである。
瓜子は若輩者であるが、これでも《G・フォース》でランキング第一位の身だ。
なおかつ、鞠山選手よりもリーチとコンパスで勝っている。これならば、柄にもないアウトボクサーを気取ることも、それなりには可能であった。
(もちろん、それだけで勝てる相手じゃないだろうけどな)
それで勝てる相手であれば、こちらがプランAとして採用されていたことだろう。
瓜子が最初からこの作戦を取っていたならば、鞠山選手もお手並み拝見とばかりに様子見をしていたはずだ。そして、試合の終了前には何らかの打開策をひねり出していたに違いない。これは最低でも一ラウンド分は違う戦法を行使したのちに発動させることで、相手のペースを乱すことができるのではないかと考案されたプランであったのだった。
(ジョン先生とサキさんが、頭をひねって作りあげてくれたプランだからな。自分は、それを信じるだけだ)
一分少々を同じペースでしのいだ瓜子は、テンポチェンジして相手の内側に踏み込んだ。
相手も、それを待ちかまえていたのだろう。すかさず組みつこうと接近してきたので、それは前蹴りで突き放す。
そしてさらに、相手の内腿に左のインローをおもいきり叩き込んだ。
ブロックしそこねた鞠山選手は、痛そうな顔で左足を泳がせる。
しかし瓜子は追撃せずに、再びアウトサイドに回り込んだ。
ミドルハイを繰り出すと、さきほどよりは深く当たる。
鞠山選手の平たい顔に、じわりと苛立ちの表情がにじんだようだった。
「いいよいいよー! もっと散らしてねー!」
歓声の向こうから、ユーリの声が聞こえてきた。
もしかしたら、口調までジョンを真似ているのだろうか。思わずゆるみそうになる気持ちを引き締めて、瓜子は左ジャブに右ストレートも織り交ぜてみせた。
「はい、二分半経過ー! 残り半分!」
時間の進みを、速く感じる。
きっとそれは、鞠山選手も同様であろう。おたがいに手は出しているが、ほとんどノーダメージであるのだ。
瓜子にしてみれば、このペースで五分間を過ごすことも難しくはなかった。
そしてこのままラウンドが終われば、手数の多い瓜子にポイントがつくだろう。第一ラウンドは鞠山選手が取っているはずなので、こんなメリハリのない内容でも1-1に並んでしまうのだ。
よって、鞠山選手のほうからリズムを変えようとするに違いない。
それにどこまで対応できるかが、勝敗の分かれ目であった。
(さあ、どうする?)
瓜子は再び、インサイドに踏み込んだ。
鞠山選手は、待ってましたとばかりに突っ込んでくる。
瓜子は膝蹴りではなく、右のアッパーでそれを迎え撃った。
鞠山選手の踏み込みも鋭かったので、拳は下顎ではなく胸もとにヒットする。それに耐えながら、鞠山選手はさらに肉迫してきた。
タックルではなく、また組みつきだ。
ならばと、瓜子は相手の首筋を抱え込み、首相撲で迎え撃った。
相手の突進をいなしつつ、左の膝をレバーに叩き込む。
鞠山選手の身体がぐっと強張ったので、瓜子は欲をかかずに相手の身体を突き放した。
放っておいても、鞠山選手はまた自らマットに倒れ込んでいたことだろう。ならば、いつまでも密着している理由はなかった。
(自分が上をいけるのは、中間距離の打撃の交換だけなんだ)
そこで自分のペースをつかみ、相手が穴を見せるのを待つ。それがプランBの基本戦略であった。
瓜子がアウトサイドに回ろうとすると、鞠山選手はがむしゃらにつかみかかってこようとする。
これは――たぶん、穴ではない。隙を見せて、接近戦に持ち込もうとしているのだ。
よって瓜子は、そのままステップワークで逃げてみせた。
鞠山選手はなおも追いすがってこようとするので、ジャブも振らずに逃げに徹する。両腕を突き出してバックステップを続けると、ついに客席からブーイングがあがり始めた。
(ブーイングだって、大歓迎だよ)
鞠山選手は、あきらめた様子で足を止めた。
その際の立ち位置が絶妙であったので、すかさず瓜子は大きく踏み込み、相手の両足を抱え込む。自分でもびっくりするぐらい、綺麗に両足タックルが決まった。
ブーイングが消失し、驚きの声が巻き起こる。
それを聞きながら、瓜子は素早く鞠山選手のもとから跳び離れた。この生粋のグラップラーを相手にグラウンド勝負を挑む気は、さらさらないのだ。
鞠山選手は、憤然とした様子で立ち上がる。
自分が狙っていたはずのタックルを先に決められて、さぞかし屈辱的な思いであろう。
だけど今のは、鞠山選手がまったくタックルを警戒していなかったゆえに、決まっただけのことであった。上を取られてもひっくり返す自信があるために、鞠山選手はまるきり無警戒になってしまっていたのだ。瓜子がキャリア四戦目のストライカーでなければ、鞠山選手とてああまで隙を見せることはないだろう。
せっかく揺さぶった心が復調する前にと、瓜子はアウトサイドから右ローを叩き込む。
これは会心の一撃であり、鞠山選手は痛みに顔を歪めることになった。
「四分経過ー! ラスト一分!」
ユーリの声が響きわたり、それがスイッチになったようだった。
鞠山選手は、ものすごい勢いでラッシュをかけてくる。無理にでも乱打戦を仕掛けて、接近戦に持ち込もうというのだろう。鞠山選手が残り一分でポイントを取るには、ダウンでも奪うかグラウンドに引きずりこむしかないのだ。
しかし瓜子はプランBを遂行するべく、ステップを踏んで逃げに徹する。
乱打戦で負ける気はしなかったが、そこに組み技を織り交ぜられたら、回避できる自信はなかった。
このラウンドは、とにかく相手のペースを乱すことに徹底する。
決着は、最後のラウンドで決めればいい。
そんな思いで、瓜子がバックステップしたとき――鞠山選手が、右の拳を大きく振り上げた。迫力満点の、フルスイングのオーバーフックだ。
ただ、左のガードが完全に下がってしまっている。
これは――穴か?
考えるより早く、瓜子は右拳を繰り出していた。
こちらは真っ直ぐの、右ストレートだ。
フックとストレートなら、後者のほうが軌道が短い。なおかつあちらはフルスイングであったため、瓜子が後の先を取る格好になった。
瓜子の右拳が、鞠山選手の左頬にめりこむ。
カウンターの威力も相まって、鞠山選手は腰からマットに沈むことになった。
「ダウン!」
レフェリーがカウントを始めて、瓜子はニュートラルコーナーに退く。
ずっと神経を集中し、さして得意でもないタックルなどを披露したために、思った以上に息が切れている。
さきほどの右ストレートも咄嗟に出したものであったので、KOにまでは至らないだろう。
鞠山選手はぶるぶると頭を振って、カウントセブンで立ち上がった。
大歓声の中、レフェリーは「ファイト!」と告げる。
残り時間は――
「残り、十五秒!」
ユーリの声が、瓜子の背中を押した。
鞠山選手は、ハッとしたようにガードを固める。
その右腕に、瓜子は左フックを叩き込んだ。
さらに右フックでテンプルを狙い、続けざまに左のレバーブロー。
十五秒あれば、十発や二十発の攻撃を撃ち込めるだろう。
そんな思いを込めて、瓜子は無酸素ラッシュを仕掛けてみせた。
左右のフックにをあびせかけ、さらにボディブローも織り交ぜる。
鞠山選手は後退するが、それを追いかけてさらなるラッシュだ。
ここで組みつかれても、たとえグラウンドに引きずりこまれても、もはやかまいはしなかった。残り数秒なら、何としてでも生き残ってみせる所存だ。
視界が酸欠で白く染まっていくのを感じながら、鞠山選手の肉体を殴打する。
いったい何発目のボディブローであったか――鞠山選手の左腕が、力なく下げられた。
左腕で腹を守りながら、鞠山選手はよたよたと後ずさっていく。
その瞬間、電撃のようなものが瓜子の頭を走り抜けた。
その不可解な感覚に従って、瓜子は右足を振り上げた。
鞠山選手の身体が、ちょうどいい位置まで下がっている。
鞠山選手の頭部が、ちょうどいい高さに浮いている。
そして、頭部を守る左腕が存在しない。
瓜子の中の本能のようなものが、それを瞬時に察知したのかもしれなかった。
寝技は練習に時間をかければかけただけ、強くなると言われている。
さまざまな選択肢が存在する攻防の中で、どれだけ素早く正しい判断をすることができるか。それを肉体に叩き込むために、長きの時間が必要となるのだろう。
寝技の攻防に励んでいるとき、ユーリはスタンド状態での鈍重さが嘘のようにくるくると動くことができる。
この鞠山選手も、きっとそうであるに違いない。
寝技の稽古を始めてようやく一年ていどの瓜子には、決してかなわない領域だ。
しかし瓜子は、十四歳から十九歳までの五年間、立ち技の修練を積んできた。
本当のベテラン選手に比べれば、それだってささやかな期間であっただろう。
しかしそれでも、瓜子は死力を尽くしてトレーニングを積んできたのだ。
そして瓜子はサキに憧れて、ハイキックの技を磨いてきた。
おおよその試合においては相手のほうが高身長であったため、なかなか使う機会もなかったのだが――それでも、他の技と同じかそれ以上に、ハイキックの技術を磨き抜いてきたのだ。
なおかつこの鞠山選手は、瓜子よりも背の低い対戦相手であった。
だからこれほど絶妙な位置に、彼女の頭部は存在したのかもしれなかった。
むしろ、理想よりも少しだけ低い位置にあったため、瓜子の右足は鞠山選手の左こめかみを直撃しつつ、そこから頭頂部付近までを削るような軌道で、宙を走り抜ける格好となった。
鞠山選手のずんぐりとした身体がフィギュアスケーターのようにきゅるんと横回転して、マットに倒れ込む。
「ダウン!」と宣告してカウントを数え始めようとしたレフェリーは、鞠山選手の姿に視線を落とすなり、無言で両腕を交差させた。
鞠山選手は、白目を剥いて失神してしまっていたのだ。
大歓声の中、すみやかにゴングが乱打された。
『二ラウンド、四分五十七秒。猪狩選手のKO勝利です!』
瓜子の右足の甲が、じんじんと疼いていた。
そしてそれ以上に、胸の奥底が熱く疼いていた。
瓜子はプロデビュー四戦目にして、『新人キラー』たる鞠山選手を打ち負かすことがかなったようだった。
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