04 戦慄の魔法少女

 試合は順調に消化されていき、ついに瓜子の出番である第七試合であった。

 大きく開かれた扉から花道に足を踏み出すと、怒涛の歓声が押し寄せてくる。

 そしてそれは、いつしか「ユーリ!」のコールに変じていた。


 ジャージ姿で目深にキャップをかぶったユーリは「あうう」とうめいていたが、瓜子の意欲は燃えさかるばかりである。かつてサキに評された通り、嗜虐的なのか被虐的なのか判別は難しかったが、瓜子は大ブーイングにも匹敵するこういった観客たちの仕打ちが、楽しく思えてならなかったのだった。


 そうして瓜子がリングインすると、赤コーナーの側から対戦相手が入場してくる。

『戦慄の魔法少女』、あるいは『新人キラー』として名高い、「まじかる☆まりりん」こと鞠山花子選手である。


 その入場曲であるアニソンめいた楽曲が流され始めると、会場の声援が「ユーリ!」と「まりりん!」の声に二分された。彼女もまた、《アトミック・ガールズ》においては指折りの人気選手であったのだ。


 鞠山選手は軽やかにステップを踏みながら、花道を進軍する。

 その身に纏っているのはワンピースタイプの試合衣装であり、《アトミック・ガールズ》のゆるい規約に許される限りのリボンやフリルで彩られていた。


 何せ、魔法少女なのである。

 基調となっているのはホワイトとパステルイエローで、手には魔法のステッキなどを掲げている。明るく染めたアッシュ・ブロンドの髪はくりくりと渦を巻き、そこにもリボンがあしらわれている。《アトミック・ガールズ》以外の興行であれば、ここまで装飾的な試合衣装も決して許されないだろう。ムエタイ・トランクスを改造したという腰回りはミニスカートのようなデザインでひらひらとフリルをそよがせており、スパッツにはブーツをモチーフにしたデザインがプリントされ、膝から上はシースルーになっている。遠目には、本当にミニスカートとブーツを着用しているかのような凝り様であるのだ。


 試合衣装の派手さでは、《アトミック・ガールズ》でも三本の指に入るだろう。ある意味では、ユーリよりも派手であるかもしれない。

 彼女の所属は、天覇館からのれん分けされた天覇ZEROとなる。硬派で知られる天覇館に対して、天覇ZEROは自由な気風で知られていたが、彼女などはまさしくその象徴的な存在であるといえよう。


 なおかつ彼女は試合衣装ばかりでなく、とても個性的な容姿を有していた。

 決して顔立ちが悪いわけではないのだが――彼女は半分まぶたの下がった三白眼をしており、しかも目の位置がずいぶん左右に離れてしまっている。ついでに顔は平べったく、鼻はぺちゃんとつぶれており、口ばかりがやたらと大きいために、口の悪い人間には「眠たそうなカエル」などと評されていた。


 ただ、そのように独特な容姿をした女性がこれほどまでにド派手な衣装を纏っていると、これまた独特の愛嬌や愛らしさが生まれるものなのである。

 また、彼女は手足が短くてずんぐりとした体形をしているために、それもまた見る者の微笑みを誘ってやまなかった。


(まあ、自分にとっては容姿なんてどうでもいいんだけどさ)


 青コーナーのポストに寄りかかって鞠山選手の入場を見守りながら、瓜子はそのように考えた。

 瓜子は、この鞠山選手のことを好ましく思っている。これほど奇矯なキャラクターを演出しつつ、彼女が確かな実力を備え持っていたからだ。


 彼女は自称・永遠の十五歳であったが、《アトミック・ガールズ》を創世期から支えてきたベテラン選手の一人であった。来栖選手や兵藤選手と同じように、最古参の十年選手なのである。


 また、彼女の所属である天覇ZEROはムエタイとブラジリアン柔術に力を入れており、彼女はとりわけグラップリングの技術に特化している。柔術の腕前も、たしか茶帯であるはずだった。

 柔道とは異なり、柔術で茶帯というのはかなりの力量となる。コーチの立松に聞いたところ、柔術で茶帯を取得するには早い人間でも四年、そうでなければ倍の八年はかかるというほどであるのだ。日本国内の女子選手で茶帯を取得している人間はそう多くなく、彼女はその希少なひとりであったのだった。


 そんな鞠山選手であるが、《アトミック・ガールズ》のライト級においては中堅最強の選手と見なされている。確かな実力を持ちつつも、トップ選手には一歩及ばず、なかなかタイトルマッチにこぎつけることがかなわなかったのだ。

 その反面、下と横の選手には、めっぽう強い。新人および中堅と呼ばれる選手は総なめにしており、彼女に勝利することができればトップファイターの仲間入りと言われる所以であった。


(代役出場で鞠山選手とやりあえるなんて、ほんとラッキーだったよ)


 瓜子のキャリアはいまだ二勝一敗で、まごうことなきルーキーである。

 本日は、ぞんぶんに鞠山選手の胸を借りる所存であった。


 たっぷりと時間をかけてリングインした鞠山選手は、魔法のステッキをバトンのように回転させながら、リングを一周する。

 ちなみに入場曲で流されているのは、彼女自身の歌声だ。彼女はユーリよりも先んじて、インディーズ・レーベルから何曲かのCDを発売していたのだった。


『第七試合、ライト級、五十二キロ以下契約、五分三ラウンドを開始いたします!』


「ユーリ!」と「まりりん!」の歓声が吹き荒れる中、マジシャンのような格好をしたリングアナウンサーが宣言した。


『青コーナー。百五十二センチ。五十一・八キログラム。新宿プレスマン道場所属。《G・フォース》フライ級第一位……猪狩、瓜子!』


 瓜子は右腕をかざしてみせたが、やはり自分の名が聞こえてくることはない。

 しかし、瓜子はそれで満足であった。


『赤コーナー。百四十八センチ。五十二キログラム。天覇ZERO所属。……まじかる☆まりりん!』


 鞠山選手は、その手のステッキを頭上に高々と放り上げた。

 くるくると回転したステッキが魔法少女の手に戻ると、いっそうの歓声が爆発する。それを聞きながら、鞠山選手は眠たそうな顔でにんまりと微笑んでいた。


「両者、リングの中央へ」


 レフェリーの声に従って、瓜子は鞠山選手と相対した。

 身長百四十八センチというのは、サイトー選手と同じサイズだ。胴長でずんぐりとした体型も、サイトー選手に似ているかもしれない。それでいて、雄々しさの極致であるサイトー選手とは正反対の存在であった。


「……以上。両者、クリーンなファイトを心がけるように」


 ルール説明の後、レフェリーの合図で、瓜子は両手を差し出してみせた。

 鞠山選手はにまにまと微笑みながら、瓜子の拳を外側からぽんぽんと叩いてくる。自分の名もしっかりコールされているせいか、先月の灰原選手のように気分を害している様子はなかった。

 そうして瓜子が青コーナーに舞い戻ると、リング下からユーリが呼びかけてくる。


「うり坊ちゃん、頑張って! またあの突貫ファイトで、こんな筋違いの歓声はかき消しちゃってねっ!」


「はい。善処します」


 ゴングが、高らかに鳴らされた。

 瓜子はタックルを警戒しつつ、一気に距離を詰めてみせる。

 鞠山選手はリボンやフリルをひらひらとそよがせながら、瓜子のアウトサイドへとステップを踏んだ。


(自分より小さな相手とやり合うのは、けっこうひさびさだな)


 相手に合わせてステップを踏みつつ、左ジャブで牽制する。

 客席では「まりりん!」のコールが勢いを増しつつ、まだ「ユーリ!」のコールも入り混じっていた。

 今回はグラップラーの鞠山選手が相手であるので、致し方がない。たとえ乱打戦でなくとも、試合内容で観客を打ちのめすのだ。


(とにかく、タックルと組みつきを警戒だ。相手はライト級でも指折りのグラップラーなんだからな)


 かつてはあのサキさえもが、鞠山選手のグラウンド・テクニックに手こずらされたのだ。

 最後はKO勝利を収めたものの、サキはその試合で左膝靭帯を痛めることになった。言ってみれば現在の苦境も、その古傷が再発したようなものであるのだ。


(もちろん、リングにそんな私情は持ち込まないけどさ)


 瓜子が思うのは、ただひとつ。サキでさえ苦戦させられた鞠山選手に、自分の力がどこまで通用するものか。それを確かめることだけだった。


 極力、蹴りは使わない。タックルに来たら、膝を合わせる。あとはパンチで距離を詰め、四ツの組み合いは首相撲で対処する。それが瓜子の、第一ラウンドの基本戦略であった。


「うり坊ちゃん、一分経過だよーっ!」


 歓声の向こうから、ユーリのよく通る声が聞こえてくる。

 それに、ジョンの声も重ねられた。


「ウリコ、ローもダしていこー。ジョウゲにチらすんだよー」


 それは、フェイクのアドヴァイスであった。序盤で蹴りを封印するというのは、ジョンとサキが与えてくれたプランであるのだ。

 ただし、完全に蹴りを封印すると、相手に楽をさせることになる。

 蹴りのフェイントを入れてタックルを誘い、積極的に膝蹴りを狙うというのも、プランの中には練り込まれていた。


 瓜子は左右のワンツーを放ちつつ、相手が下がったところで右ローを放ってみせる。

 決して当たる距離ではないが、相手のタックルが届く距離でもない。

 これが、最初のエサ撒きであった。


 鞠山選手はぴょこぴょこと瓜子の周囲を回りつつ、ときおり左ジャブや右フック、それに左右のローなども振ってくる。あちらは寝技に絶対の自信があり、組みつきやタックルを警戒する必要がないために、打撃の攻撃も思い切りがよかった。それをガードする瓜子の手足にも、ほどほどの重い衝撃が走り抜けていく。


 しかしそれは、鞠山選手の撒いているエサであった。

 鞠山選手は組みつきたいがために、接近戦を誘っているのだ。瓜子が大きく踏み込めば、すぐさま密着してくるはずであった。


 瓜子はそれに乗ったふりをして、これまでよりも大きく踏み込んでみせる。

 そして、強めの左フックを振った後、右ローのフェイントを入れてみせた。


 リズムに乗った鞠山選手は、ぐっと腰を屈めて踏み込んでくる。

 得たりと、瓜子は右ローではなく右膝蹴りを繰り出そうとした。


 が――その膝が届くより早く、鞠山選手の腕に両脇を差されてしまう。

 タックルではなく、ただの組みつきであったのだ。

 瓜子はすかさず相手の首筋へと両手を回し、首相撲で対応しようとしたのだが――とたんに鞠山選手は瓜子の両脇から手を離して、そのまますとんと座り込んでしまった。


 さらに、鞠山選手は足を広げて、マットに背中をつけてしまう。

 瓜子を、寝技に誘っているのだ。


 瓜子はサキの教え通り、潔く身を引いてみせた。

 レフェリーは、鞠山選手に「スタンド!」と命じる。

 鞠山選手は残念がる風でもなく、ぴょこんと立ち上がった。


 (なるほど。サキさんから聞いてた通りだな)


 鞠山選手は組みつきやタックルに失敗すると、何の躊躇もなく自分からマットに倒れてしまう。そうして上からのしかかられても、ノーダメージでひっくり返す自信と技術を備え持っているのだ。


「あいつに点数をつけるとすると、寝技が九十点、組み技が六十五点、立ち技が五十点ってところだからなー。組み合いでスタミナを使うより、寝技でスイープするほうが楽ってこった」


 サキは、そのように語らっていた。

 対戦経験のある先輩選手が自分の側にいるというのは、これほどありがたい話であるのだ。


「だからあいつはタックルの切れ味も大したことねーし、四ツの組み合いでも粘りはない。ただ、グラウンドに引きずり込まれたら、今のおめーじゃ勝ち目はねーだろうな」


 そんなサキの言葉を胸に、瓜子は再び鞠山選手と相対した。

 鞠山選手は、変わらぬリズムでほどほどに重い打撃を繰り出してくる。瓜子もプラン通り、パンチと蹴りのフェイントで遠めの中間距離をキープした。


「二分半経過ー! 残り半分だよー!」


 ユーリのよく通る声が、歓声の隙間から聞こえてくる。

 そのとき――鞠山選手が、大きく踏み込んできた。

 今度こそ、と瓜子は右の膝蹴りで迎え撃つ。


 が、その軌道上に鞠山選手の肉体は迫ってこなかった。

 鞠山選手はスライディングの体勢ですべりこんできて、瓜子の左足を両足でからめ取ってきたのだ。

 いわゆる、蟹挟かにばさみである。

 瓜子は、完全に意表を突かれてしまった。この技は柔術の公式大会において禁止技とされており、鞠山選手が過去の試合で見せたことも一度としてなかったのだ。


 結果、瓜子はなすすべもなく足を取られて、マットに倒れ込むことになった。

 その頃には、鞠山選手の腕が瓜子の左足を捕らえている。

 小脇に抱え込まれた足首に重い圧迫がかかり、瓜子をぞっとさせる。これはいわゆるアキレス腱固めで、ヒールホールドや膝十字固めほど靭帯に危険が及ぶ技ではなかったが、ここからくるくると体勢を入れ替えて技を発展させていくのが、鞠山選手の妙技であったのだった。


(落ち着け。そのために、稽古を重ねてきたんだ)


 瓜子はすぐさまマットに手をついて、身を起こしてみせた。

 さらに、取られた左足に体重をかけて、足裏をマットに密着させる。危険なヒールホールドに移行されないための用心である。


(よし。相手の足を払って、左足を抜き取る。寝技には付き合わないで、そのまま離れるんだ)


 瓜子は、相手の足に手をかけようとした。

 その前に、鞠山選手は足のホールドを解いていた。

 そして、左足で瓜子の右足を蹴ってくる。それだけで、瓜子はあっけなく尻もちをつくことになった。


(まずい!)と、瓜子は一瞬だけ混乱する。

 足関節を壊される恐怖が、さしもの瓜子の心を乱したのだ。

 その間隙を突くように、鞠山選手が瓜子の上にのしかかってきた。

 瓜子の左足は、とっくに解放されている。鞠山選手は下半身ではなく、上半身の制圧に移行したのだった。


 気づけば瓜子は、サイドポジションを取られてしまっていた。

 瓜子の左側から、鞠山選手が体重をあびせかけてきている。道場のユーリや男子選手ほどの重圧ではなかったものの、自分とほぼ同じ体重の相手とは思えぬほどの圧迫であった。


(これぐらいだったら、あたしだって――)


 そのように考えた瓜子の頭に、軽く火花が散った。

 鞠山選手が、鉄槌を振り下ろしてきたのだ。

 鉄槌とは、拳の小指側の側面で殴打する変則パンチである。通常のパンチに比べれば威力は落ちるものの、相手に密着したグラウンド状態でも繰り出しやすい、安価な攻撃であった。


 それでも数をくらえばダメージが溜まってしまうので、瓜子は何とか顔面をガードする。

 そのガードをかいくぐろうと、鞠山選手もうねうねと腕を動かし――その間に、思わぬ重圧が瓜子の腹にかけられた。鞠山選手の左膝が、瓜子のみぞおちをぐりぐりと圧迫してきたのだ。


 ブラジリアン柔術において、ニーオンザベリーと呼ばれる技だ。放置しておけば苦しいだけだし、そのまま腹をまたがれたらマウント・ポジションを奪われることになる。

 瓜子は必死に腰を切りながら、相手の左膝を押しのけようと試みたが、そうするとたちまち鉄槌が振り下ろされてきた。


 左手で顔面を守りつつ、右手で相手の膝を押す。しかし、鞠山選手の身体はどっしりと重く、鉄槌はガードをかいくぐって瓜子の顔を叩いてくる。何かじわじわと、真綿で首を絞められているような心地であった。


「……ちゃん! 相手の右脇を差して! そしたら鉄槌は防げるから、腰を切って膝を押し返すの!」


 と――ふいにユーリの切迫した声が、頭の中に飛び込んできた。

 もしかしたら、これまでも助言を与えてくれていたのだろうか。瓜子はしばらくの間、聴覚が麻痺していたようだった。


(み、右脇? 相手の右脇ってことは、向かって左側のことだよな?)


 まだパニック状態から脱しきれていなかった瓜子は、ユーリの言葉を迅速に処理することができなかった。

 その隙に、鞠山選手の左膝がするりと瓜子の胴体をまたいでいく。

 マウント・ポジションを取られてしまった。

 天井の照明を背景に、鞠山選手の顔が頭上に浮かぶ。

 半分まぶたに隠された三白眼は、羽虫を狙うカエルのように瓜子を見下ろしていた。


「うり坊ちゃん! シザース!」


 シザースとは、両足を振り上げて相手の上半身に絡めることだ。

 が、瓜子がそれを実践するより早く、鞠山選手はぺたりと身を伏せた。

 もともと重たかった身体が、いっそうの重量を増す。それこそ、軟体動物にへばりつかれたような心地であった。

 胸が圧迫され、呼吸が苦しい。それに、くりくりの巻き毛が瓜子の下顎に押しつけられてくる。知らず内、瓜子のスタミナはずいぶん削られてしまったようだった。


 そして、こめかみに衝撃が走り抜ける。

 身を伏せたまま、鞠山選手が横合いから拳を飛ばしてきたのだ。

 瓜子はとっさに、側頭部をガードした。

 すると鞠山選手は、ひょこりと半身を起こした。

 さきほどよりも後方に下がっており、腰の上に乗られてしまっている。これでは、足を振り上げることもできない。そして、瓜子の上半身が完全に鞠山選手の眼下にさらされてしまっていた。


 瓜子は腰をバウンドさせるが、鞠山選手をはねのけることはできない。

 そうして今度は正面から、鞠山選手の拳が振るわれてきた。

 初弾は何とかガードできたが、鞠山選手は黙々とパウンドを振るってくる。横殴りのフックが主体で、瓜子のガードが左右に開くと、正面からも鼻先を狙われた。


(このままだと、試合を止められる!)


 瓜子は両腕をのばして、鞠山選手の上体を突き放そうとした。

 とたんにユーリの、「だめーっ!」という声が響きわたる。


「お手々をのばしたら、腕ひしぎのエジキだよっ! 立松先生の教えを思い出して!」


 道場では、立松からもさまざまな教えを乞うことになった。こと寝技に関しては、ジョンよりも立松のほうが上手うわてであるのだ。

 瓜子は相手を突き放すのではなく、相手の上体に抱きついた。

 むろん相手は容赦なく、瓜子の喉咽もとに腕をこじ入れてくる。

 力尽きて腕を離せば、またパウンドの雨あられだ。

 瓜子は何とか腰を切り、相手の重心を揺さぶりつつ、相手の身体に組みついては引きはがされ、とにかくパウンドをくらう回数を減らすことしかできなかった。


「うり坊ちゃん、残り一分!」


 まだ一分も残されているのか。

 瓜子は、気が遠くなってしまいそうだった。


(それでも、あきらめてたまるもんか!)


 瓜子は死力を振り絞って、相手の身体を抱きすくめた。

 するとまた、咽喉もとに腕をこじいれられてくる。

 ぎりぎり限界まで粘ってから、瓜子は背中をマットに戻した。

 その瞬間――鞠山選手の身体が、瓜子の腹の上でぐりんと横回転した。


「膝十字に気をつけてっ!」


 右足に、鞠山選手の手がかけられる。

 瓜子は無理やり上体を起こして、鞠山選手のずんぐりとした背中を抱きすくめてみせた。


「右膝を立てて! まだ足首はロックされてないから、それで逃げられるよ!」


 この背中の向こうで鞠山選手がどのような動きを見せているのかもわからないまま、瓜子はユーリの指示に従った。

「ちっ」と小さく舌打ちの音が聞こえたような気がしたのは、果たして錯覚であったろうか。

 瓜子がそれを判ずる前に、ラウンド終了を告げるゴングが鳴り響くことになった。


「ブレイク!」と、レフェリーに肩を揺さぶられる。

 瓜子が手を離さないと、鞠山選手も立ち上がれないのだ。

 瓜子は大の字にひっくり返って、大きく息をついてみせた。

 そうして、瓜子の腹の上から立ち上がった鞠山選手は――軽いスパーでもこなしたかのように、余裕の表情でにんまりと微笑んでいた。

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