03 プレマッチ
そうして時間は流れすぎ、ついに興行の幕開けである。
開場時間からきっかり三十分後、まずは開会セレモニーが行われることになった。
段取りは普段通りで、《アトミック・ガールズ》のテーマソングが流れる中、リングアナウンサーの紹介とともに出場選手が一名ずつリングに上げられていく。こちらの会場は特別な照明セットも準備されていなかったため、単色のスポットライトに照らされるだけのささやかな演出であった。
出場選手は、二十四名。プロの試合が十試合、アマの試合が二試合という配分も、東京の興行と同一だ。
客入りは――やはり、千名弱であろうか。
数年ぶりの地方巡業で、この人数がどのような評価になるのか、新参の一選手に過ぎない瓜子にはとうてい計り知れなかった。
この場にはセコンド陣も姿を出さないため、「ユーリ!」のコールが響くこともない。地元出身の選手に対しては、やはり他よりも熱気のこもった歓声があげられているようだった。
すべての選手が出そろった後、開会の挨拶をするのは選手代表の小笠原選手だ。彼女はお隣の神奈川出身であったが、さすがは無差別級のホープということで、惜しみない拍手をもらっていた。
アクシデントもトラブルも生じないまま、いよいよ試合が開始される。
プレマッチの第一試合は、いきなり大江山すみれの登場である。
愛音は控え室のモニターにかじりつき、瓜子も大いなる好奇心を胸にその試合を観戦することになった。
『青コーナー。百五十九センチ。四十六・四キログラム。赤星道場所属……大江山、すみれ!』
ヘッドガード、ニーパッド、レガースパッドの三点セットを装着した大江山すみれが、オープンフィンガーグローブに包まれた右拳を頭上に掲げる。モニター越しで見る限り、まったく気負っている様子はないようだった。
『赤コーナー。百五十五センチ、四十八キログラム。天覇館静岡東支部所属……成沢、
対戦相手の成沢選手は、なかなか鋭い眼光をした強面の選手であった。
骨格もかなりしっかりしており、まだ十六歳の大江山すみれよりも遥かに頑強そうなシルエットである。瓜子よりも年長の二十二歳で、アマチュア選手としての戦歴を重ねているためか、貫禄のほうも十分であった。
両者がリングの中央に招かれて、レフェリーから簡単なルール説明を告知される。
プレマッチとプロの試合の最大の相違点は、やはりグラウンド状態における打撃技が禁止されている点であろう。あとは、試合時間が三分二ラウンドで、ダウンは二回でTKO、ファイブカウンドでKOと定められている。身体のできあがっていない人間が多いアマチュアの試合では、安全性が重視されると同時に、試合がむやみに長引かないように配慮されていた。
『では、両者クリーンなファイトを心がけて』
レフェリーの合図で、両者はグローブをタッチさせる。
成沢選手は静かに闘志を燃やしており、大江山すみれは――やはり、至極リラックスしている様子であった。
『ファイト!』
ゴングが打ち鳴らされ、ほどほどの歓声が巻き起こる。
成沢選手は、これといってクセのないファイティングポーズだ。MMAらしく重心をやや落として、顎の高さで左右の拳をかまえている。
そして、大江山すみれは――腰よりも低い位置に拳を垂らして、重心もやや高めの、いかにもアウトスタイルの構えであった。
「ふみゅふみゅ。赤星道場には、アウトスタイルの選手が多いのかしらん」
ユーリの発言は、もちろん来月対戦するマリア選手を意識してのものであろう。
しかし瓜子は、「いえ」と答えてみせた。
「レオポン選手を筆頭に、男子選手だったら何名か試合を観たことがありますけど、どっちかっていうとインファイターのほうが多い印象っすね」
「そっか。それじゃあ、女子選手に限った話なのかにゃ」
そんな瓜子たちの会話もよそに、モニター上では前哨戦が開始されている。
ジャブを振りながら前進する成沢選手に合わせて、大江山すみれが左右や後方に回避する格好だ。
その姿に、瓜子は若干の違和感を覚えることになった。
大江山すみれのステップワークが、ちょっと独特であったのである。
足をほとんどマットから浮かさずに、すり足ですいすいと移動していく。それはMMAやキックやボクシングではなく、空手や柔道を彷彿とさせるステップワークであった。
成沢選手は焦れた様子で、大きく踏み込み、右ローを放つ。
大江山すみれは左足を一歩引いて、それをすかした。
しかし右足は同じ位置であるので、そのままサウスポーの構えになってしまう。それもまた、ある種の空手に通ずる動きであった。
「……あの御方は、まだ一回の攻撃も出しておりませんね。あのように消極的で、KO勝利など狙えるものなのでしょうか」
成沢選手よりも焦れた様子で、愛音がそのようにつぶやいた。大江山すみれのこれまでの戦績は、三戦ともにKO勝利という話であったのだ。
また、愛音もアウトスタイルであるが、そのアグレッシブさは瓜子も身にしみている。そもそもアウトスタイルというのは距離感が生命であるため、適度に手を出して距離を測るのが本道であるはずなのだ。
しかし大江山すみれは、いっこうに手を出そうとしない。
なおかつ成沢選手の攻撃も、一発としてかすりもしなかった。
(あんなんでも、距離はそれなりにコントロールできてるのかな。なんか……不気味だな)
瓜子がそのように考えたとき、成沢選手の左ローが初めて相手の右足をかすめた。
そしてそれに勢いづいて、成沢選手がラッシュを仕掛ける。
その大部分は空を切ったが――最後の鋭い右ストレートが、大江山すみれの鼻先にスパンと命中した。
大江山すみれは、あえなく後ろざまにひっくり返ってしまう。
それほど深い当たりではなかったが、クリーンヒットであることに違いはなかったので、レフェリーは容赦なくダウンを宣告した。やはりプレマッチは安全性を考慮して、ダウンの判定も厳しいのだ。
大江山すみれはダメージを受けた様子もなく、スリーカウントで立ち上がる。
その顔は――やはり、やわらかく弛緩したままであった。
『ファイト!』
ここを勝負時と見たか、成沢選手は再び突進する。もう一回のダウンを奪えば、それでTKO勝利であるのだ。
大江山すみれはこれまで通り、すり足のステップワークで距離を取ろうとする。
不思議と、成沢選手の攻撃はなかなか当たらなかった。大江山すみれの動きはそれほど機敏にも見えないのに、紙一重のタイミングですかされてしまうのだった。
(でも、大江山さんは腰が高いからな。これならいっそ、組みついてみても――)
瓜子がそのように考えると、まるでそれが聞こえたかのように、成沢選手が身を沈めた。大江山すみれの前に出された右足に、片足タックルを仕掛けようとしたのだ。
その瞬間――大江山すみれの左拳が、ふわりと持ち上げられた。
腰より低い位置に垂らされていた左拳が、振り子のように振り上げられて、成沢選手の下顎をこつんと打ったのだ。
成沢選手は、そのまま前のめりに突っ伏した。
片足タックルを回避した大江山すみれは、すでにサイドに回り込んでいる。
成沢選手が起き上がろうとしなかったため、レフェリーは『ダウン!』を宣告した。
そうして驚くべきことに、成沢選手はファイブカウントが数えられるまで、立ち上がることができなかった。レフェリーがいくぶん慌てた様子で成沢選手の身体を仰向けに返すと、彼女は失神してしまっていた。
ゴングが打ち鳴らされて、当惑気味の歓声が巻き起こる。
『一ラウンド、二分三十二秒! 大江山選手のKO勝利です!』
「ほえー」と、ユーリがとぼけた声をあげた。
「アッパーの一発で終わっちゃったねぃ。相手選手はタックルに入ろうとしてたから、カウンターになったのかにゃ?」
「そうっすね。狙い通りか出会いがしらかは、ちょっと判断が難しいところっすけど」
すると今度は、ジョンが「あははー」と笑い声をあげる。
「いやー、ビックリだねー。アレはタブン、ネラいドオりだとオモうよー」
「ジョン先生は、どうしてそのようにお考えなのですか?」
愛音がおっかない目つきで問い質すと、ジョンは何だか感慨深そうに目を細めた。
「アレは、ヤヨイコのファイトスタイルなんだよー。ダンシセンシュでも、ヤヨイコのマネをするセンシュはヒトリもいなかったのにねー」
ヤヨイコ――赤星弥生子か。
瓜子は何か、得体の知れないおののきを覚えることになった。
「ああやってノーガードでカウンターを狙うのが、赤星弥生子さんのファイトスタイルなんすか? なんかずいぶん、危なっかしいように見えたんすけど」
「ウン。スミレはまだまだミジュクだから、サイショにイッパツもらっちゃったんだろうねー。ヤヨイコのタイさばきは、ホントウにカミワザだよー」
自分の想念から弾き出した赤星弥生子の幻影が、再び瓜子のもとに戻ってきてしまった。
赤星道場というのは格闘系プロレスからスタートした道場であったので、このように古武術めいたファイトスタイルが飛び出してくるとは夢にも思っていなかったのだ。
(……今のベリーニャ選手と赤星弥生子がやりあったら、いったいどっちが勝つんだろう?)
そんな思いを抱え込みながら、瓜子がユーリのほうを振り返ると――満面の笑みをたたえたユーリが、瓜子を見つめていた。
「なんか、面白い試合だったね! それじゃあうり坊ちゃんも、そろそろウォームアップしたほうがいいんじゃない?」
瓜子は思わず笑みをこぼして、ユーリの丸っこい肩を小突いてしまった。
瓜子はすでにグローブを装着していたので、これならば鳥肌を誘発することもないだろう。しかしいきなり小突かれたユーリは、「うにゃにゃ?」と不思議そうに小首を傾げた。
「今のボディタッチの真意は、奈辺に? その返答次第で、ユーリちゃんのご機嫌は大きく左右されますわよ?」
「それじゃあ、いい風に解釈しといてください」
瓜子はあらためて、赤星弥生子の幻影を頭から追い払った。
たとえそれがどのような存在であろうとも、試合前には雑念に過ぎないのだ。
そんな心地でモニターに視線を戻すと、大江山すみれがレフェリーに右腕を掲げられているさなかであった。
そのヘッドガードに包まれた顔には柔和な微笑がたたえられていたが、やはり内心を読み取ることは難しかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます