エピローグ 三頭の若獅子

 日が過ぎて、二月の第二日曜日――

 その日は恵比寿AHEADにて、《G・フォース》による本年最初の興行であった。


 瓜子は選手としてではなく、サイトー選手のセコンドとして来場している。

 同じ役割を受け持つのは、コーチのジョンと邑崎愛音だ。愛音もかつては先輩選手のセコンドを務めた経験があるとのことで、気後れしている様子はまったくなかった。


「今日は、勝つだけじゃ足りねえからな。きっちりKOして、爪痕を残してやるよ」


 いつも好戦的なサイトー選手であるが、今日はいっそう入れ込んでいる。本日のメインイベントは、サイトー選手の所属するアトム級のタイトルマッチであるのだ。


(サイトー選手は年末のトーナメントで負けたばかりだから、そうそうタイトル挑戦の出番も巡ってこないだろうけど……だからこそ、結果を残さないといけないもんな)


 そのサイトー選手を打ち負かした選手こそが、本日のタイトルマッチに臨む挑戦者であるのだ。一昨年のアマ大会で優勝し、プロデビューからわずか一年で王者に挑戦するという、いまだ負けなしのホープなのである。


(しかも年齢は、ようやく十七歳になったばかりだっていうんだもんな。サイトー選手より十歳以上も若いんだから、そりゃあ燃えるだろう)


 サイトー選手のかたわらにあるだけで、熱気が伝染しそうである。

 そんな中、瓜子の頭にふっとユーリのことが思い浮かんだ。


(そろそろ午後の七時か……ユーリさんは、今頃ひとりで晩御飯かな)


 ユーリと半日も行動を別にするのは、この二ヶ月ほどで初めてのことだった。無差別級トーナメントを終えて以来、こうしてセコンドの仕事を頼まれるのも初めてのことであったので、ユーリと離ればなれになる理由がなかったのだ。


(家に戻ったら、またぶちぶちと文句を言われるんだろうなあ。……まあ、本心を隠されるよりはいいけど)


 瓜子がそんな風に考えたとき、「よ、瓜子ちゃん」という声が頭上から降ってきた。

 控え室でモニター画面に視線を飛ばしていた瓜子は、「押忍」とひかえめに挨拶をする。それは、赤星道場のレオポン=ハルキ選手であった。


「挨拶が遅くなっちまったな。ジョン先生にサイトー選手も、おひさしぶりです」


「はん。声をかける順番に下心がにじみ出てるぞ、発情オス猫野郎」


「勘弁してくださいって。懐かしい順番に名前をあげただけッスよ。お二人とは、年末の興行でも顔をあわせてますしね」


 悪びれた様子もなく、レオポン選手は白い歯をこぼした。金褐色の髪をライオンのように逆立てた、キックとMMAの両方で活躍する若手選手である。

 一時期は彼とも気まずい関係になってしまった瓜子であるが、現在は和解を果たしている。もうその小麦色に焼けた端正なる顔を見ても、瓜子の胸が騒ぐことはない。ただ、ことさら愛想をふりまくべき相手でもなかった。


「おひさしぶりっすね。そちらもセコンドのお仕事っすか?」


「ああ。男女問わず、若い選手のセコンドに駆り出されることが多くってね。……あれ? そっちのそのコは――」


「はじめまして。新宿プレスマン道場の新人門下生、邑崎愛音と申しますです」


 愛音は、真面目くさった面持ちで一礼した。ただ、いくぶん視線にトゲがあるのは――かつてレオポン選手が、リング上でユーリを抱擁してしまったためであろうか。愛音であれば、あのようなエキシビジョン・マッチもぬかりなくチェックしていそうなところであった。


「あー、そっかそっか。武魂会と《G・フォース》の二冠王が、プレスマンに入門したんだっけか。なるほどなるほど」


「発情すんじゃねえぞ、オス猫野郎」


「だから、勘弁してくださいって。……こっちもひとり、紹介させてもらっていいッスか?」


 レオポン選手のかたわらから、ひとりの少女が音もなく進み出た。

 栗色の髪をツインテールにした、実に純朴そうな女の子である。赤星道場のロゴが入った赤と黒のトレーニングウェア姿であるが、愛音に劣らず若そうで、体格もごくほっそりとしていた。


「おー、スミレ。セコンドなんて、メズラしいねー?」


 ジョンコーチが気さくに声をあげると、少女は「はい」と微笑んだ。


「キックのセコンドは、初めてです。雑用係としてお手伝いすることになりました」


「そっか。ジョン先生とは、知った仲だったっけ。……こいつは大江山すみれって言って、うちの師範代の娘さんッス」


「大江山」という名前には、瓜子も聞き覚えがあった。


「ええと、大江山って……けっこう前に、《レッド・キング》で活躍されてた選手っすよね?」


「そうそう。大怪獣・赤星大吾の率いる赤鬼と青鬼な。こいつは、赤鬼の娘さんだ」


《レッド・キング》というのは格闘技ブームの勃興期から興行を行っており、どの団体よりも長い歴史を有している。初代の道場主である赤星大吾や大江山という選手が活躍していたのは、それこそ十年以上も前までさかのぼるはずだった。


「それで、と……すみれのほうは、瓜子ちゃんを知ってるんだよな?」


「はい。ご挨拶をする時間はありませんでしたけれど、一度会場でお見かけしました」


 そう言われてみると、この可愛らしいツインテールに見覚えがあるような気がしなくもない。

 しかし瓜子が思い出すより早く、レオポン選手の口から答えが語られることになった。


「サキ選手を赤星道場で預かってるとき、こいつがセコンドを務めてたんだよ。つまり、サキ選手と瓜子ちゃんが試合をした日のセコンドってことだな」


「ああ、あのときの!」


 確かにあのときのサキは、プレスマンの人間がセコンドにつくことも拒絶して、赤星道場の人間を引き連れていたのである。それが年若い女の子であったことは、瓜子も記憶に留めていた。


「で、風の噂で聞いたけど、瓜子ちゃんは来週の浜松大会に出るんだろ? 実はこいつも、その日がデビュー戦なんだよ」


「え? アトミックで試合をするんすか?」


「ああ。もちろんこいつはまだ十六歳だから、アマチュア選手のプレマッチだけどな」


 その言葉を耳にして、愛音がぎらりと目を光らせることになった。愛音もまた、その舞台で闘うためにトレーニングを積んでいるさなかであったのだ。


「あなたはキックではなく、MMAの選手であられたのですね。……失礼ですが、ウェイトは如何ほどでありますか?」


「わたしはまだ、四十六キロしかないんです。アトミックでは、バンタム級となりますね」


 年齢ばかりか体重までもが、愛音と同一であるようだった。ついでに言うならば、身長もさほど差はないようだ。


「では、いずれ愛音ともリングで向かい合う機会が訪れるかもしれないのです。そのときは、どうぞよろしくお願いいたしますです」


「はい。こちらこそ、よろしくお願いいたします」


 大江山すみれなる少女はにこにこと笑いながら、愛音の眼光を受け止めていた。

 栗色のツインテールの他は、これといって目立つところのない風貌であるのだが――なんとなく、内心の読みにくい笑顔である。


「十六歳でアトミックに出場なんて、すごいっすね。やっぱり他のアマ大会でキャリアを積んだんすか?」


「はい。十六歳になってすぐに、《フィスト》や《パルテノン》のアマ大会にエントリーさせていただきました。今のところ、三戦しています」


「三戦三勝で、ついでに全部KO勝ちだよ。それでアトミックのお人らも、プレマッチの出場を認めてくれたんだろうな」


 レオポン選手の注釈に、愛音はまた闘志をみなぎらせる。

 そして瓜子も、内心では驚いていた。このようにほっそりとした女の子がKO勝ちを収めるというのは、そうそうありえる話ではないのだ。


「将来有望っすね。来週の試合を楽しみにしてます」


「こちらこそ、猪狩さんとご一緒の日に試合ができるなんて、光栄です」


 ツインテールを揺らしながら、大江山すみれはまた穏やかに微笑んだ。

 やはり、内心が読めないという印象に変わりはない。


「おっと、試合が終わっちまったな。こっちもそろそろスタンバイだ。それじゃあサイトー選手、豪快なKO勝ちを期待してます」


 レオポン選手と大江山すみれは、出場選手のもとへと戻っていった。

 その後ろ姿を見送りながら、サイトー選手は「ふん」と鼻を鳴らす。


「どうも最近、赤星道場の連中と縁があるみてえだな」


「はい。自分もそう思ってました」


 ユーリはマリア選手との対戦が決定されており、サキは先日ジョンとともに、赤星大吾のもとにおもむくことになった。そして、大江山すみれの登場である。


「ま、うちらはもともと縁のある相手だけどよ。リングの上ではぶん殴り合いながら、せいぜい仲良くさせてもらうか」


「ああ、そういえばそうでしたね。新参の自分には、いまいち実感がわかないんすけど」


 十数年前、赤星大吾や大江山師範代が活躍していた時代、新宿プレスマン道場の創始者にして名誉師範たるレム・プレスマンその人も、現役選手としてしのぎを削っていたのだ。そして、レム・プレスマンの秘蔵っ子たる卯月選手もまた、赤星道場とはきわめてゆかりの深い存在であったのだった。


「ウリコやユーリも、いずれアカボシドウジョウにデゲイコにイってみたらイいんじゃないかなー?」


 と、ジョンが唐突にそのようなことを言い出した。


「アカボシドウジョウは、ジョシセンシュもみんなツヨいからねー。シゲキになるとオモうよー?」


「そうっすか。……赤星道場のMMA女子選手ってほとんどアトミックに出てこないから、そっちも実感がわかないんすよね」


 その中で、唯一の例外がミドル級のマリア選手であるのだ。

 まずはそちらとの決着をつけなければ、出稽古におもむくことも不可能であった。


「そのときは、愛音もご一緒させていただきたく思います! あの大江山という御方に、ぜひ手合わせを願いたいのです!」


「うんうん。ライバルがイッパイで、タノしいねー」


「その前に、まずは今日の試合だろうがよ? 手前らの仕事を忘れるんじゃねえぞ、馬鹿野郎ども」


 サイトー選手の叱咤のもとに、瓜子たちも気持ちを引き締めなおすことになった。


 試合は、着々と進められていく。

 赤星道場所属のライト級選手は、判定ながらも星を拾っていた。

 その二試合後に行われた、サイトー選手の試合においては――宣言通りの、KO勝利である。相手は昨年のトーナメントを負傷欠場したランキング第五位の選手であったが、サイトー選手のライジング・フックによってあえなくリングに沈むことになった。


(本当はあっちの選手に勝たせて、次のタイトル挑戦者に仕立てたかったんだろうけどな。そうそう上手くいくもんか)


 サイトー選手は二十九歳のベテラン選手であり、かつては戴冠の経験もある。それから王座を失って以降もトップファイターの座は譲らず、現在でもランキング第二位の座を保持しているのだ。

 しかしまた、新宿プレスマン道場は《G・フォース》においては外様という扱いであるため、運営陣はそろそろ退陣を願っているはずであったのだが――そんな運営陣の思惑を吹き飛ばすような、痛快なるKO劇である。瓜子は心から、その勝利を祝福することができた。


「さて。あとはのんびり、王座交代の瞬間を見学させていただくか」


 さしてダメージを負うこともなかったサイトー選手は、タオルをかぶって控え室のパイプ椅子にふんぞりかえった。

 現王者は、すでに入場口に向かっている。こちらは赤コーナー側の控え室であったため、現王者も同室であったのだ。


 モニターに映し出されている試合は、セミファイナルである。

 その激闘を鑑賞していると、またレオポン選手と大江山すみれが近づいてきた。


「サイトー選手、KO勝利お疲れ様でした。……いよいよアトム級のタイトルマッチですけど、サイトー選手の見込みではどっちが優勢ッスか?」


「ああん? そんなもん、言うまでもないだろうがよ。オレをKOした人間が、他の誰かに負けるとでも思ってんのか?」


「そうは言っても、プロキャリア一年の十七歳でしょう? タイトルマッチで実力を発揮できるかどうかはわかんないじゃないッスか」


「はん。あいつが、そんなタマかよ」


 サイトー選手は、挑戦者の勝利を疑っていないようだった。

 瓜子もその選手の試合は、スポーツチャンネルの番組で随時視聴しているのだが――正直なところ、その実力を測りかねている。なんというか、あまりにトリッキーなファイトスタイルであり、不意打ちのような形で勝利を収めることが多い選手であったのだ。


(もちろんプロアマ通して二年間無敗で、サイトー選手にも勝ったぐらいなんだから、相応の実力はあるんだろうけど……でもやっぱり、自分で手を合わさないとピンとこないよな)


 そんなことを考えている間に、セミファイナルも終了していた。なかなかの乱打戦であったが時間内に決着はつかず、判定によって青コーナーの勝利である。

 そうして会場の光が落とされて、ついにタイトルマッチの開始であった。


『青コーナーより、犬飼京菜いぬかい きょうな選手の入場です!』


 リングアナウンサーのコールとともに、花道がスポットに照らされる。

 そこに姿を現したのは――最軽量のアトム級としても、きわめて小柄な選手であった。


 身長は百四十二センチで、体重はアトム級の上限四十六キロにも達していない。そして弱冠十七歳の、まごうことなきルーキーであるのだ。

 やたらと毛量が豊かで癖のある茶色の髪を大きなひとつの三つ編みにしており、大きな黒い目をぎらぎらと光らせている。彼女はわずか一年間のプロ活動で、『人喰いポメラニアン』だの『ミニマム・サイクロン』などという異名を拝命していた。


 小さな身体に黒い法被はっぴを纏っており、背中に背負うは『犬飼格闘鍛錬場ドッグ・ジム』の白文字だ。彼女に付き従う二名のセコンドたちも、同じ法被にその身を包んでいた。


「……ジョン先生は、ドッグ・ジムって知ってます?」


 レオポン選手の質問に、ジョンは「んー?」とスキンヘッドを傾げた。


「ボクはシらないねー。ユウメイなジムなのかなー?」


「いや、有名とは言えないでしょうね。俺なんかは、とっくに潰れたと思ってましたから」


 レオポン選手の声がずいぶん神妙であったので、瓜子は思わずそちらを振り返ってしまった。

 瓜子と視線がぶつかると、レオポン選手は複雑そうな顔で笑う。


「いや、赤星道場とは、ちょいとご縁のあるジムでさ。……ドッグ・ジムを立ち上げた犬飼拓哉ってお人も、《レッド・キング》の全盛期に暴れてた選手なんだよ」


「え? イヌカイ・タクヤ? タクヤだったら、シってるよー。ボク、《レッド・キング》では、しょっちゅうレムのセコンドをしてたからねー」


 当時のジョンは二十歳前後のうら若き青年であったはずだが、そんな頃からレム・プレスマンのセコンドを務めていたのだ。これもまた、知られざる歴史の一ページであった。


「タクヤがジムをヒラいたなんて、ゼンゼンシらなかったよー。ボクがデビューしてオランダでシアイをしてたコロに、タクヤはアカボシドウジョウをヤめちゃってたからさー。……でも、タクヤはもうナくなってるよねー?」


「はい。それで、あの犬飼京菜ってのが、亡くなられた犬飼拓哉ってお人の娘さんらしいッスよ」


 いまひとつ事情はわからなかったが、とにかくまた赤星道場と縁のある存在が台頭してきたわけだ。

 モニターのほうに視線を戻すと、犬飼京菜はことさら身軽さをアピールするようにトップロープを跳び越えてリングインをして、会場の観客たちを沸かせていた。


『赤コーナーより、レミ=ホワイトタイガー選手の入場です!』


 そして、現王者が花道に現れる。

 かつて瓜子が対戦したアヤノ=ホワイトタイガー選手と同門の、アトム級チャンピオンだ。ホワイトタイガー・ジムに所属する選手は、のきなみジム名をリングネームに冠しているのだった。


 レミ=ホワイトタイガー選手は二十五歳で、すでに二年間もタイトルを死守している。かつてサイトー選手が挑戦した際は、引き分け判定で王座を奪取することがかなわなかった。豪腕たるサイトー選手の猛攻を最後まで回避することのできる、若いながらも試合巧者である。


(ホワイトタイガーの選手は、みんなステップワークと蹴り技を磨き抜いてるからな。これに勝てたら、犬飼選手の実力も本物ってことだろう)


 レミ=ホワイトタイガー選手はアトム級としては長身の百六十センチで、ウェイトは上限の四十六キロとなる。この細身の体型ではパワーなど望むべくもないが、射程距離の長さは大きな武器であるし、しかも、犬飼選手との身長差は十八センチにも及ぶのだ。それは、瓜子とユーリ以上の身長差であった。


 リング上で国歌が流されて、そののちに選手の名前がコールされる。

 法被を脱いだ犬飼選手は、相手に劣らぬぐらい細っこく見えてならなかった。リングアナウンサーに読み上げられた今回の体重は、わずか四十キロである。


(身長百四十二センチで、体重四十キロジャストか。……プロの格闘技選手としては、日本で一番小さいのかもな)


 しかし、犬飼選手の小さな身体には、闘志がみなぎっているようだった。

 どこか、飢えた犬を思わせる、物騒な雰囲気である。そのたたずまいが、『人喰いポメラニアン』などという珍妙な二つ名を呼び寄せたのだろう。


『ファイト!』


 レフェリーの宣言とともに、ゴングが鳴らされる。

 それと同時に、犬飼選手はコーナーを飛び出した。

 ガードも何もしていない、文字通りの全力疾走である。レミ=ホワイトタイガー選手もいささか泡をくった様子で、迎撃の体勢を整えた。


 犬飼選手が、跳躍する。

 その身体が、空中でぐるりと弧を描いた。

 キックの試合ではまず使われる機会もない、ジャンピング・バックスピンキックである。

 真横に旋回させた犬飼選手の右足が、革鞭のようにしなって相手の頭部に襲いかかり――右のかかとが、右のこめかみに突き刺さった。


 まだコーナー付近にたたずんでいたレミ=ホワイトタイガー選手は、横合いのロープに激突し、そのままもんどり打って倒れ伏す。

 レフェリーはカウントを数え始めたが、スリーカウントで両手を大きく交差させた。レミ=ホワイトタイガー選手は、その一撃で意識を刈り取られてしまったようだった。


『い、一ラウンド、七秒! 犬飼京菜選手の、KO勝利です!』


 モニターごしにも、会場の大歓声が伝えられてきた。

 控え室では、サイトー選手が「ハハッ!」と咽喉を鳴らす。


「まったく、ふざけた小娘だぜ。ま、次にやり合う日がいっそう楽しみになったってもんだ」


 他の選手やセコンドたちも、一様に驚きのざわめきをあげている。

 瓜子もまた、大きな感銘にとらわれていた。秒殺KOに驚かされたのは当然として、犬飼選手の曲芸まがいのバックスピンキックが――あまりに、美しかったのだ。


(すごいな……あれだけしっかり遠心力と体重が乗ってれば、そりゃあKOできるだろう)


 細い腰にチャンピオンベルトを巻かれながら、犬飼選手はぶすっとした顔をさらしている。これだけのKO劇を披露しながら、まったく昂揚していないかのようだった。


『それでは、新チャンピオンに輝いた犬飼選手に、お言葉をいただきます。今の心境は、如何でしょうか?』


 大歓声の中、インタビュアーが犬飼選手にマイクを突きつける。

 犬飼選手はぎらぎらと輝く黒目がちの目で、カメラのレンズを真正面からにらみつけていた。


『ようやくミッション・クリアだね。こんなもんに、一年もかかっちゃったよ』


 その容貌に相応しい、キンキンとした甲高い声であった。

 彼女の不遜なキャラクターはすでに知れ渡っていたので、インタビュアーもにこやかな表情を保持している。


『プロデビュー一年で、しかも十七歳で戴冠というのは、《G・フォース》設立以来の快挙でしょうね。若きチャンピオンの次なる目標は、いったいどのようなものになるのでしょう?』


『あたしの目標はただひとつ、ドッグ・ジムが世界で一番のジムだって証明することだよ』


 言いざまに、犬飼選手は腰からチャンピオンベルトを剥ぎ取った。

 そして、インタビュアーにそれを差し出す。


『はい、あげる』


『え? ああ、はい。何でしょうか?』


『あたし、もうここでは試合しないからさ。防衛戦を行わない王者なんて、そっちも用なしでしょ?』


 控え室内の空気が、瞬時にして凍りついた。

 そんな中、犬飼選手は再びカメラをにらみつけてくる。


『あたしの本番は、MMAだから。十八歳になるまでは、アマの大会を荒らさせてもらうよ。関係者のお人らは、そのつもりでね』


 凍りついた空気がひび割れて、さまざまな激情が沸騰する。

 その中で、サイトー選手が怒りの咆哮をほとばしらせた。


「なんだそりゃ! このまま勝ち逃げしようってのか!?」


 瓜子は怒るよりもまず、呆れ果ててしまった。

 こんなやり口は、あまりに常軌を逸している。キックであろうとMMAであろうと、どこかで根は繋がっている業界であるのだ。《G・フォース》の舞台でこんな不義理を働いたならば、業界中からそっぽを向かれる危険性だってあるはずだった。


「面白いですね。……犬飼さんは、アトミックにも参戦するのでしょうか?」


 と――煮え立つ空気もどこ吹く風で、そんな言葉が聞こえてきた。

 瓜子が振り返ると、呆けたレオポン選手の隣で、大江山すみれがにこにこと微笑んでいる。


「ウェイトが四十キロだったら、どう頑張ってもバンタム級ですもんね。なんだかワクワクしてきませんか、邑崎さん?」


「まったくですね! こんな無礼なお人は、愛音がリングで性根を叩きなおしてあげたく思いますです!」


 愛音は腰に手を当てて、肉食ウサギのように両目を光らせていた。

 どうやらバンタム級のアマチュア部門にも、とてつもない波乱が巻き起こりそうな気配である。

 羨ましいような、そうでもないような――瓜子はきわめて複雑な気持ちを抱くことになった。

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