04 真情
翌日は、瓜子もユーリもさまざまな思いを抱えて仕事に奔走することになった。
朝の七時に起床して、まずは渋谷でグラビアの撮影と、格闘技雑誌のインタビュー。それが済んだら昼食をとり、すぐさま郊外に移動である。午後は緑の豊かな公園にて、ファッション誌の春服特集のための撮影であった。
右拳と右肘のテーピングを外したユーリは、これから店頭に並ぶのであろう最新のファッションを身に纏い、輝くような美しさをカメラの前にさらしている。
が、途中の小休止で瓜子のもとに戻ってくるなり、「うにゅう」とつぶれた大福なような面持ちになってしまう。
「サキたん、本当に大丈夫かにゃあ。ユーリがぐじぐじしたって何の解決にもならないんだろうけど……どうしても気になっちゃうよぅ」
「気にならないほうがおかしいっすよ。自分だって昨日から、頭の中身はそればっかりっす」
そんな風に答えてから、瓜子はユーリの顔を間近からのぞきこんだ。
「でも、サキさんも言ってた通り、これはユーリさんのせいなんかじゃないっすからね? それだけは、忘れないでほしいっす」
「うん……でも、無差別級トーナメントに出場しろーってサキたんを煽ったのは、ユーリだからにゃあ……」
「サキさんは、もともと引退するべきかどうか悩んでたから、それをふっきるために参戦したんすよ。絶対に、ユーリさんのせいじゃありません」
ユーリの身に触れることはできなかったので、瓜子は袖口にそよぐフリルをつかんでみせた。
「それでサキさんは、理央さんがあんな目にあったから悩んでたんです。突き詰めたら、悪いのは理央さんをあんな目にあわせたゲス野郎っすよ。恨むんなら、あのゲス野郎を全身全霊で恨みましょう」
サキの妹分たる牧瀬理央は、あけぼの愛児園で職員に虐待され、それを苦にして屋上から飛び下りることになった。そうしてサキは理央の苦しさに気づくことのできなかった自分を責め、自分ばかりが楽しく暮らしていいのかと思い悩み――それで、選手を引退するべきかという自棄的な考えに行きついてしまったのである。
「ユーリさんが叱咤激励してなかったら、サキさんはあのまま引退しちゃってたかもしれません。ユーリさんが自分の過去をさらけだしてまでサキさんに本音をぶつけたからこそ、サキさんは思い留まることができたんすよ。だから、自分を責めないでほしいっす」
「うん……そうだといいんだけど……」
そのとき、少し離れた場所から撮影スタッフが呼びかけてきた。
「こちらのセッティングは完了しましたー! ユーリさん、次の衣装をお願いしまーす!」
「はいはぁい。すぐ行きまぁす」
と、スタッフのほうには満面の笑みを届けてから、ユーリは瓜子に力なく微笑みかけてきた。
「うじうじしちゃって、ごめんね? でも、うり坊ちゃんが泣き言を聞いてくれるから、ユーリもまだ元気でいられるの。こんなユーリを、嫌いにならないでね?」
「ならないっすよ。こっちだって、ユーリさんに支えられてるんですからね」
瓜子が笑顔を返してみせると、ユーリは幸福そうに目を細めてから、撮影スタッフのもとに飛んでいった。
そうして撮影が再開されると、もう普段通りのセクシーで無邪気なモデルのユーリである。瓜子に泣き言をこぼしてくれていなければ、ユーリは何ひとつ悩んでいないのではないかと誤解してしまいそうなところであった。
(その誤解で、去年はとんでもないことになっちゃったんだからな)
ユーリには、ネガティブな感情を綺麗に隠蔽できてしまう強靭さがある。去年はそれでユーリの真情を見誤って、瓜子のほうが破綻してしまったのだった。
だけど今のユーリは、瓜子に自分の弱さをさらけ出してくれている。瓜子にとって、それは何より得難いことであった。
(でも、サキさんは本当に大丈夫なのかな……)
靭帯損傷の厄介さは、瓜子も知識としてわきまえている。たとえば来栖選手なども二度に渡って膝靭帯の再建手術を行っており、現在もなお危険な爆弾として抱えている身であるのだ。
当初、サキの負傷はユーリと同じく、全治三ヶ月と診断されていた。しかしそれは、あくまで日常生活に支障がないという意味での「完治」であったのだろう。MMAの過酷な試合やトレーニングに挑むには、それ以上のものが必要となってしまうのだ。
(MMAファイターには、膝を痛める選手が多いって話だもんな……そういえば、鞠山選手との対戦でも、サキさんは左膝を痛めてたんだっけ……)
瓜子がそんな想念にひたっている間に、撮影は終了してしまっていた。
スタッフの責任者と挨拶を交わし、呼んでおいたタクシーで新宿駅を目指す。昨年下半期のブレイクによって与えられた、ささやかならぬ贅沢である。
「でもきっと、こういう贅沢もユーリの稼ぎの中から経費としてさっぴかれてるんだろうにゃあ。だったら、遠慮する必要はないよね!」
私服姿で後部座席に収まったユーリは、普段通りの笑顔でそのように語っていた。第三者の目があるところでは、決して弱い内面をさらさないユーリであるのだ。相手がタクシーの運転手でも、それに変わりはなかった。
「それじゃあこの後は、小笠原選手とのご対面っすね。自分が盾になりますから、納得いくまでお気持ちを聞かせていただきましょう」
「あう……ユーリはほんとに、そんなのどうでもいいのににゃあ。あのなかなかかわゆらしいお顔が羅刹と変ずるところなど、ユーリはこれっぽっちも見たくはないのだよ」
「いいんすよ。自分がスッキリしたいだけなんで、ユーリさんは気にしないでください」
「気にするよ! 罵倒されるのは、ユーリなんだからね!」
そうして二十分ばかりも騒いでいると、新宿駅前に到着した。
トレーニングウェアの詰まったそれぞれの荷物を担いで、新宿プレスマン道場へと進軍する。時刻はまだ五時半にもなっていないぐらいであったが、一月の空はだいぶん暗くなっていた。
「押忍。失礼します――」
と、瓜子が入り口のガラス戸を開けるなり、そこにはすでに一触即発の雰囲気がみなぎっていた。
玄関口に長身の人影が立ちはだかり、腕を組んだ愛音がそれと相対していたのだ。
「お待ちしておりましたです、ユーリ様! 小笠原センパイがお見えになられているのです!」
長身の人影が、ゆっくりとこちらを振り返った。
まぎれもなく、小笠原選手である。
身長は百七十八センチで、手足の長いすらりとした体格だ。
セミロングの髪は首の右側でひとつにくくっており、本日は薄手のダウンジャケットとブッシュ・パンツを着込んでいる。
二十四歳という実年齢よりも幼く見える、なかなか愛嬌のある顔立ちであるのだが――その顔には、今日も不機嫌そうな表情がしっかりと刻みつけられていた。
「ど、どうもぉ、おひさしぶりですねぇ、小笠原選手……」
ユーリはふにゃふにゃと愛想笑いを浮かべながら、ぺこりと一礼した。
先の一月大会において、けっきょく両者は一度として顔をあわせていなかったのである。
「きょ、今日はわざわざお越しくださって、恐悦至極でありますよぉ。あ、明日は武魂会の試合だそうで……ユーリも陰ながら、応援させていただきますですぅ」
「…………」
「……うり坊ちゃん、タッチ!」
ユーリは居たたまれなくなった様子で、瓜子の背後に隠れてしまった。
そこで、トレーニングルームのほうからサイトー選手が近づいてくる。
「おお、ようやく来やがったか。どういった用件か知らねえけど、乱闘騒ぎは表で頼むぜ?」
「そんな騒ぎは起こさないっすよ。でも、場所を変えたほうがいいっすよね」
「騒がねえなら、事務所を使えや。ちょうど立松っつぁんも、事務仕事が終わったところだからよ」
瓜子は、サイトー選手の提案をありがたく受け入れることにした。サイトー選手にしてみても、このように不穏な空気を撒き散らしている一行を表に放り出す気持ちにはなれなかったのだろう。
熱気のこもったトレーニングルームの端を通って、一行は事務所へと移動した。
事務所は四畳半ほどの小さな部屋で、金属のラックには書類や格闘技雑誌が詰め込まれている。椅子は二脚しか存在せず、瓜子がすすめても小笠原選手は座ろうとしなかった。
「……で?」と、小笠原選手はようやく口を開く。
「人をこんな場所まで呼び出して、いったい何の用があるっての?」
「言いだしっぺは、自分です。こんな話でわざわざ出向いていただいて、本当に申し訳なく思ってます」
背中に隠れたユーリの体温をほんのり感じながら、瓜子はそのように答えてみせた。
「言葉を飾ってもしかたがないんで、単刀直入に聞かせていただきます。……小笠原選手は、ユーリさんの何がそんなに気に食わないんすか?」
「…………」
「いや、ユーリさんを嫌うのは、別にかまわないんすよ。でも、無差別級トーナメントの前にお話をさせてもらったとき、小笠原選手はとても打ち解けた態度で接してくれたっすよね。あれから二ヶ月ていどで、どうしてそんな風に態度が変わっちゃったのか……よければ、それを聞かせてほしいと思ったんです」
小笠原選手は腰に手を置いて、小馬鹿にしたように「はん」と鼻を鳴らした。
「そんなの、自分の胸に聞いてみなよ。心当たりがないんだったら、気にするだけ無駄ってもんでしょ」
「いきなり態度が変わったんだから、気にするなってほうが無理っすよ。自分はただ、理由を知りたいだけなんです。そこに誤解や勘違いがないんなら、ユーリさんを嫌ってくれてもいっこうにかまいません」
「愛音は、かまいます! 小笠原センパイは、理由もなく人を嫌うような御方ではないでしょう? どうして愛音の敬愛するユーリ様をそのように嫌うことになってしまったのか、理由をお聞かせ願いたいのです!」
肉食ウサギの眼光で、愛音は小笠原選手をにらみつけていた。
と――小笠原選手の目がそれよりも物騒な光をたたえながら、瓜子の背後へと向けられる。
「……桃園、アンタはどう思ってるのさ?」
「ひゃ、ひゃい? ユーリは至らなさのカタマリでありますため、嫌っていただいていっこうにかまいません! どうせ悪いのは、ユーリなのでありましょうから!」
「本人は、よくわかってんじゃん。だったら、話は終わりだね」
小笠原選手が事務所を出ていこうとしたので、瓜子はその眼前に立ちはだかってみせた。
「待ってください。自分の価値観を押しつけて申し訳ないっすけど、自分は誤解とか勘違いで仲違いするのが、嫌なんすよ」
「誤解も勘違いもないよ。アタシはそこの豚野郎に、心底から腹を立ててるんだからね」
「あうう」と、ユーリが頭を抱え込む。罵倒にはなれっこであるユーリであったが、この小笠原選手の口から放たれる「豚野郎」には、妙な重みがあるのだ。
「小笠原選手のほうは、そうかもしれません。でも、そうしたらこっちが誤解しちゃうんすよ」
「あん? 意味がわからないね」
「小笠原選手は、そちらの裏事情を色々と打ち明けてくれたっすよね。来栖選手がユーリさんに負けた影響で、兵藤選手がいっそうユーリさんに反感をつのらせてるけど、そんなのは筋違いだって……そんな風に言ってた小笠原選手が、ユーリさんに負けただけで態度を変えるとは、どうしても思えないんです」
瓜子はいつ殴られてもいいように全身を引き締めながら、そのように言ってみせた。
「でも、他には心当たりがありません。このままだと、小笠原選手はユーリさんに負けたせいで態度を変えたって考えるしかなくなっちゃうんすよ。それが誤解なんだったら、ここで晴らしてもらいたいんです」
「……アンタ、なに言ってんの? どんな理由だとしてもアタシがそいつを嫌ってるのは事実なんだから、そっちも勝手に嫌ってりゃいいじゃん」
「だから、小笠原選手がそんなに心のせまい人間なんだったら、思うぞんぶん嫌ってるっすよ。でも、小笠原選手がそんな人間だとは、自分には思えないんです」
小笠原選手はきつく眉根を寄せながら、探るように瓜子を見据えてきた。
「やっぱ、意味わかんない。そもそもアンタとは、口をきくのも初めてのはずだよね? どうしてそんなアンタに、ウダウダ言われないといけないわけ?」
「それは……小笠原選手がユーリさんに気さくに話しかけてくれたことが、自分には嬉しかったからっすよ」
小笠原選手の真情を知るために、瓜子も真情を語ってみせた。
「ユーリさんはもともと誤解されやすいお人ですし、誤解がなくても嫌われやすいお人です。そんなユーリさんに、小笠原選手は気安く声をかけてくれたから……自分は、すごく嬉しかったんです。だから、誤解や勘違いで嫌ったり嫌われたりはしたくないんです」
小笠原選手は眉をひそめたまま、今度は口をへの字にした。
どこか、子どもがすねているような表情だ。
「さっき、誤解や勘違いじゃないって言ってましたよね。それならそれで、かまいません。でも、本当に誤解じゃないかどうか、その内容を聞かせてもらえませんか? それで納得いったら、二度とよけいな口ははさまないとお約束します」
「愛音からも、よろしくお願いいたします! ユーリ様は素晴らしいお人ですので、きっと何か誤解があるはずなのです!」
「だから、誤解でも勘違いでもないってのに……まったく、おかしな連中だね」
小笠原選手は頭をかきながら、溜息をついた。
そうして改めて、ユーリのことをにらみつける。
「わかったよ。そうまで言うなら、好きに罵倒させてもらうさ。……おい、桃園」
「ひゃ、ひゃい!」
「アンタ、ずいぶんふざけた真似をしてくれたよね。無差別級トーナメントの、アタシとの試合――ありゃあいったい、何だったのさ?」
「な、何だったとおっしゃいますと……?」
「アンタは試合が始まっても、ずーっと上の空だったじゃん。アタシがどれだけぶん殴っても、心ここにあらずでひょこひょこ逃げまくって……人を馬鹿にするのもいい加減にしろって話だよ」
小笠原選手は瓜子を押しのけて、百七十八センチの高みからユーリを見下ろした。
「一回戦目のリュドミラ選手と、決勝戦のベリーニャ選手のときは、すごい気迫をみなぎらせてたのにさ。アタシなんざ、眼中になかったってわけ? アンタ、どういうつもりでリングに立ってたの?」
「ちょ、ちょっと待ってください。あのときのユーリさんは……ちょっと自分と色々あったもんで……」
瓜子が口をはさもうとすると、小笠原選手の眼光がたちまちこちらに向けられてきた。
「そんなの、わかってるよ! リング下にアンタが来るなり、こいつは豹変してたじゃん! アタシがそれに気づかないボンクラだとでも思ってんの?」
「い、いや、あの……」
「アタシはさ! こいつとやり合えるのを楽しみにしてたんだよ! 舞さんとリュドミラ選手を倒したこいつとどこまでやり合えるか、試合前からウズウズしてたのに……いざ試合が始まっても、こいつはぽけーっと上の空でさ! どんなにぶん殴っても、アタシを見ようとすらしなかったじゃん! これで何か、誤解や勘違いがあるっての?」
瓜子は、返答に窮してしまった。
それと同時に、ユーリが「ああーっ!!」と雄叫びをほとばしらせる。
「そ、そういうことだったのでありますか! やっぱり悪かったのは、完全無欠にユーリのほうです! 小笠原選手、本当にごめんなさいいいいっ!」
ユーリはその柔軟な身体でもって、額が膝につくほど頭を下げた。
いくぶん気勢をそがれた様子で、小笠原選手はユーリのピンク色の後頭部を見下ろす。
「わざとらしい真似してくれんじゃん。それで許されるとでも思ってんの?」
「わざとらしく見えてしまうのは、ユーリの不徳のなすところでございますっ! でも、小笠原選手のお怒りは120%理解できたように思う次第でございますっ!」
そうしてユーリは直角ぐらいに上半身を起こして、上目づかいに小笠原選手を見上げた。
「あのときのユーリはうり坊ちゃんと仲たがいしてしまったために、完全に心ここにあらずでありましたっ! でも、もしもベル様がユーリとの試合のときに、そんなご様子を見せていたならば……ユーリは悲しみのドン底に突き落とされていたことでありましょう! せっかく試合でぶつかり合えるのに、相手が自分を見ていないだなんて……そんなの、悲しいに決まっているのですっ!」
そして、驚くべきことが起きた。
おかしな姿勢で固まっているユーリの目に、じんわり涙が浮かべられたのだ。
「ユーリは頭が足りていないので、敬愛の極致にあるベル様を思い描くことで、ようやくその悲しみを理解いたしましたっ! でもでも、相手がどなたでも一緒なのですよねっ! 何より大事な試合で対戦相手が自分を見てくれないなんて、そんなの悲しいに決まっていますっ! それは許されざる裏切り行為ですっ! 自分がどれほどひどいことをしたのか……ユーリはようやく、完膚なきまで理解いたしました……」
「お、おい、ちょっと……」
「どうぞお好きなだけ、ユーリを罵倒くださいませっ! 小笠原選手に許してほしいなんて、そんなことはとうてい言えません! ユーリは……ユーリはやっぱり、駄目なコです……」
ユーリは子どものような顔で泣き、リノリウムの床にぽたぽたと大粒の涙をこぼした。
小笠原選手はすっかり毒気を抜かれた顔で、瓜子を振り返る。
「ちょ、ちょっと、何とかしなよ。いいトシこいて、何こいつ泣いてんの?」
「それだけ、反省してるんすよ。それで、責任の半分以上は自分にあります」
瓜子はユーリの隣に並んで、同じように頭を下げてみせた。
「本当に、申し訳ありませんでした。大事な試合の前にユーリさんの心をかき乱しちゃったのは自分なんで、悪いのは自分です」
「うり坊ちゃんは悪くないよっ! ユーリの精神修養が足りてないだけ!」
「いいえ。どう考えたって、自分のせいっす。あんな話は、試合の後にするべきでした。精神修養が足りてないのは、自分っすよ」
「なんなの、こいつら?」と、小笠原選手は深々と溜息をついた。
「もういいから、頭を上げなって。これじゃあ、アタシが馬鹿みたいじゃん」
「馬鹿じゃないっすよ。自分も小笠原選手の立場だったら、死ぬほど腹を立てていたと思います」
あの試合のふた月前、瓜子はサキとリングで向かい合っていた。言葉を交わすことができないなら、せめて拳を交わそうと――そんな気恥ずかしくも悲壮な覚悟でもって、サキとの対戦を望んだのだ。
しかしあのときのサキは、瓜子を拒むように常ならぬ攻撃を仕掛けてきた。自分の思いを拒絶されたような心地で、瓜子はリングに沈んだのだった。
(それがどんなに苦しいことか、自分だってわかってたはずなのに。小笠原選手が怒ってる理由がわからなかったなんて……本当に、なんて間抜けなんだろう)
自分の間抜けさに、目もとが熱くなってきてしまう。
すると小笠原選手が、「やめてよー」と力なく声をあげてきた。
「この上、アンタにまで泣かれたら、もう手がつけられないよ。……ほら」
小笠原選手の長い手が、ユーリのほうにのばされた。
その手の平にのせられていたのは、タオル地のハンカチである。
「ユーリのような不埒者に……このようなお情けを……?」
「だから、そんな目でアタシを見るなって! 何なんだよ、アンタたちは!」
ユーリは小笠原選手の指先からつまみあげたハンカチで目もとをぬぐい、瓜子は自前の手の甲で目もとをぬぐった。
「本当にさ……泣くほど後悔するなら、あんな真似するなっての」
「申し訳ありませぬ……返す言葉もございませぬ……」
「もういいって。アタシも溜め込んでたもんをぶちまけて、ちょっとはスッキリしたからさ」
右肩に垂れた黒髪をいじりながら、小笠原選手は苦笑した。
二ヶ月前に見せてくれた、ちょっと幼げな笑顔である。
「アタシも、大人げなかったね。当日にきちんと文句を言えたら、こんなひきずることもなかったんだろうけど……アンタのパウンド一発で脳震盪を起こしちゃったんで、あの日は病院に直行だったのさ」
「悪いのはユーリですっ! 小笠原選手が反省する要素など、1ナノグラムも存在いたしませぬっ!」
「声がでかいっての。もうこれで手打ちってことにしようよ。……アンタにも世話をかけちゃったね、邑崎」
と、愛音のほうを振り返った小笠原選手が、きょとんと目を丸くする。
「あれ? アンタはなんで、そんなしかめっ面なのさ?」
「いえ、別に。……ユーリ様にとって猪狩センパイの存在とは何なのか、あらためて考察を巡らせているだけなのです」
そのように語る愛音の瞳は、めらめらと闘志の炎を燃やしている。
瓜子としては、この気まずさも自分の不徳と受け入れるしかなかった。
そんな中、小笠原選手は同じ表情のまま肩をすくめる。
「どいつもこいつも、わけわかんないや。プレスマンってのは、変わり者の巣窟みたいだね。……それじゃあ、アタシは失礼するよ。明日に向けて、ゆっくり休んでおきたいんでね」
「あっ! 小笠原選手! こちらのハンケチーフは如何いたしましょう?」
「アンタの判断にまかせるよ。煮るなり焼くなり好きにしな」
「では、入念に洗い清めたのちに、お返しいたしますっ!」
「ご随意に」と苦笑しながら、小笠原選手は事務所のドアを開けた。
するとそこには、サキとサイトー選手が並んで立っている。二対の鋭い眼光が、瓜子たちの姿をじろじろとにらみ回してきた。
「でっけえ声が聞こえたけど、刃傷沙汰にはならなかったみてえだな」
「おかげ様で。親睦を深めさせていただきましたよ」
小笠原選手は無邪気に笑い、サイトー選手は「ふん」と鼻を鳴らした。
いっぽう瓜子は、サキとサイトー選手が昨晩の諍いを引きずっていないようで、ほっとする。もしかしたら、こちらはこちらで和解の言葉が交わされていたのかもしれなかった。
「なんだか知らねーけど、話が済んだんなら稽古の準備をしやがれ、タコスケども。三人そろって、さぼってるんじゃねーよ」
「はい。すぐに着替えます」
サキは赤い前髪をかきあげながら、稽古場のほうに引っ込もうとした。
そのわずかに左足を引きずる姿に、小笠原選手が細長い首を傾げる。
「サキ。アンタまだ、ベリーニャにやられた膝が悪いのかい?」
「あん? おめーに関係あるかよ」
「相変わらず、口の利き方を知らない女だね。……なんだったら、舞さんを紹介してやろうか?」
舞とは、来栖選手のことである。
サキのみならず、その場の全員がけげんに思うことになった。
「紹介ってのは、何の話だよ? あいつに医術の心得でもあんのか?」
「舞さんも膝に爆弾を抱えてることは知ってるでしょ? だからまあ、リハビリやトレーニングのノウハウも、しっかり蓄積されてるってことさ」
サキのふてぶてしさに気分を害した様子もなく、小笠原選手はそう言った。
「そんで舞さんのツテを辿れば、赤星さんの世話になれるんじゃないのかね。舞さんも、しょっちゅうお世話になってたからさ」
「赤星って、赤星道場のあの赤星か?」
そのように反応したのは、サイトー選手のほうだった。
小笠原選手は、気安く「うん」とうなずく。
「娘さんのほうじゃなくって、創立者の赤星大吾さんね。あの人って、膝を痛めて引退したでしょ? 引退前は壊れた膝を抱えて試合をこなしてたから、それこそ膝靭帯の治療に関しては生き字引だって話だよ」
「サキ、手前はこっちをバックレてる間、赤星道場の世話になってたんだよなあ?」
サイトー選手のぎょろりとした目が、強い光をたたえてサキを見据える。
サキは無言のまま、切れ長の目でそれを見返した。
「来栖のツテを辿らなくても、そっちから話を通せるんじゃねえか? 都合何ヶ月も世話になってたんだからよ」
「そんな毎日通ってたわけじゃねーし、歓迎された覚えもねーよ」
「だったら歓迎されるように、性根を入れ替えやがれ」
そうしてサイトー選手は、逞しい腕を組んで思考を巡らせた。
「いや、ジョンのやつも赤星道場にはツテがあったはずだな。よし、明日にでもジョンと一緒に挨拶してこい。手前だけじゃ、心配だからな」
「勝手なことを抜かしてるんじゃねーよ。膝の治療に見切りをつけろって言いだしたのは、おめーのほうだろ」
「それを嫌がったのは、手前だろうがよ? だったら、好きなだけあがきやがれ」
サイトー選手は小笠原選手に向きなおり、ごつい下顎を引くような仕草を見せた。
「来栖を紹介してもらうには及ばねえけど、アドヴァイスをありがとうよ。あとはこっちで、なんとかさせていただくわ」
「あっそう。ま、サキと舞さんじゃ乱闘になるか親友になるかの二択っぽいもんね。危ない橋を渡る必要もないか」
小笠原選手は楽しそうに、口もとをほころばせた。
そこに、ユーリの雄叫びが轟く。
「小笠原選手っ! ユーリのアヤマチを許していただいたばかりでなく、サキたんにまで温情をかけていただけるとは……心よりの御礼を申しあげたてまつりまする!」
「声がでかいっての。……ま、こういうときは、持ちつ持たれつさ」
小笠原選手は、にこりと微笑んだ。
それは、さきほどまでの険悪な表情からは想像がつかないほどの、温かくて魅力的な笑顔だった。
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