03 決意

 そうして一月も終わりに近づくと、瓜子たちはいっそう慌ただしい日々を迎えることになった。

 それぞれの試合に向けてトレーニングを積むばかりでなく、ユーリの副業に関してもスケジュールが詰まり始めたのだ。


 仕事の中心は、三月に発売を予定されているセカンドシングルの制作である。

 一月の下旬からレコーディングを開始して、三月中旬には発売されるという、突貫工事だ。が、その前の数ヶ月間で千駄ヶ谷が入念に段取りを構築していたため、何ら問題はないようだった。すでに楽曲のオケは完成しており、あとはユーリの歌入れとミックスダウンのみと、そこまで作業は進められていたのだった。


 そして、ジャケット撮影に関しては――とある騒動をきっかけにして、瓜子と愛音までもが水着姿で引っ張り出されることになってしまった。瓜子としては、数ヶ月ぶりの悪夢である。


 そんな悪夢を乗り越えて、瓜子たちは懸命に日々を過ごしていた。

 ユーリの負傷もだいぶん回復してきたために、ついにモデルとしての活動も再開させることがかなったのだ。この時期に撮影するということは、きっと三月発売の雑誌でユーリが表紙やグラビアを飾ることになるのだろう。まるですべてが、ユーリの選手活動の再開に照準を定めているかのような騒ぎであった。


(だけどやっぱり、一回の敗戦と二ヶ月ていどの休養ぐらいじゃあ、ユーリさんが忘れさられることもなかったってことだな)


 そんな風に考えると、瓜子の胸にはじんわりとした幸福感が広がった。

 ユーリはこのまま世間に忘れさられてしまうのではないか――という心配も、まったくなかったわけではないのだ。


 そんな瓜子の胸中を嘲笑うかのように、ユーリのもとには仕事のオファーが殺到した。

 いずれセカンドシングルの発売日が迫れば、これにプロモーション活動まで加えられるのである。その忙しさを思うと目がくらみそうなほどであったが、ユーリは幸福そうにしていたし、瓜子も充足した心地であった。


「問題は、復帰戦を勝利で飾れるかだよねぇ」


 一月も終わりに差し掛かったある日、新宿プレスマン道場にて練習後の清掃活動に励みながら、ユーリはそのように言いたてた。


「今はまだムラサキちゃんに左のハイとミドルを封印してもらってるのに、ローと前蹴りだけで動きを止められちゃうんだもんなー。あと二ヶ月弱で、なんとか攻略の糸口を見つけださねば!」


「そうっすね。マリア選手は邑崎さんよりもリーチやコンパスがあるはずですから、余計に厄介なはずっすよ」


 すると、ともに仕事に励んでいた愛音がユーリにすり寄ろうとした。


「愛音ひとりでは力不足でしょうか? よければ武魂館から、どなたか招集いたしましょうか?」


「あー、いやいや。ユーリだってこちらに軒先をお借りしている身であるからして、そうそう勝手な真似はできないのだよ」


 愛音の身に触れてしまわないようにと距離を取りつつ、ユーリはそのように答えた。トレーニングをともにすることにより、わずかばかりは苦手意識を払拭できたようである。


「外のお人に助力を頼むなら、こっちから出向くのが筋っすよね。……でも、邑崎さんにそんなコネがあるんすか?」


「愛音のコミュ力を見くびってもらっては困るのです! 愛音の携帯には、武魂館の関係者の名前がびっしりなのですよ!」


 武魂館はちょくちょく大会を開いているので、そういう場で交流を深めることもかなうのだろう。

 そこで瓜子は、ひとつの想念に思い至った。


「邑崎さん。そのお友達リストの中に、小笠原選手が入ってたりはしないっすかね?」


「小笠原選手? アトミックでもご活躍されている、あの小笠原センパイですか?」


「そうそう、それっす。さすがに年齢やキャリアも違うんで、厳しいっすかね?」


「ふふん。猪狩センパイのちっぽけな定規で、愛音を測らないでほしいのです。愛音はMMAへの転向を目論んでいたのですから、アトミックの有力選手である小笠原センパイを放っておくわけがないのです!」


 愛音はユーリとおそろいのラッシュガードに包まれた胸を、ぐぐっとそらした。


「むろんのこと、小笠原センパイの連絡先もゲットしているのです! なおかつ愛音は持ち前の愛くるしさで、小笠原センパイに可愛がられているのです!」


「そういうのは、自分で言わないほうがいいっすよ。……それならちょっと、小笠原選手とお話をさせてもらえないっすか?」


 愛音は、形のいい眉をきゅっと吊り上げた。


「なんですか? ユーリ様のみならず小笠原センパイにも媚びへつらって、寵愛を賜ろうという目論見なのですか?」


「媚びへつらうつもりはないっすけどね。ちょっと確認しておきたいことがあるんすよ」


 言うまでもなく、それは一月大会における小笠原選手の態度についてであった。

 すると、バケツで雑巾をしぼっていたユーリがふにゃふにゃと笑いだす。


「そんなの別に、うり坊ちゃんが気にすることないよお。ユーリが嫌われるなんていつものことなんだから、ご心配なく!」


「ユーリ様を嫌う? 小笠原センパイが? どうしてそんなことになってしまったのです?」


「だから、その理由を知りたいんすよ」


 礼儀として、瓜子は愛音にも事情を説明することにした。

 昨年の無差別級トーナメントの試合前、小笠原選手は至極友好的な態度でユーリに接してくれた。その後、ユーリは小笠原選手を試合で打ち負かし、それ以降は顔をあわせる機会もなかったのだが――つい先日の一月大会において、ユーリに含むところがありそうな態度であったのである。


「いくら試合に負けたからって、それだけであんな風に態度を変えるのは腑に落ちないんすよね。それぐらい、もともとの小笠原選手は感じのいいお人だったんで……」


「もちろんです! 小笠原センパイは、そんな器量の小さなお人ではないのです! きっと猪狩センパイの、愚かしき勘違いなのです!」


「勘違いなら、それでいいっすよ。ただ、モヤモヤするんで確認したいだけなんです」


「わかりました! 愛音が真相を突き止めるのです!」


 そうして瓜子たちは清掃作業を完了させたのち、更衣室にて小笠原選手に電話をかけることになった。


「あ、もしもし! 邑崎愛音なのです! このような遅くに電話をしてしまい、申し訳ないのです!」


 にこにこと笑っていた愛音の顔が、じょじょに曇っていく。


「あ、はい。そうなのです。愛音はプレスマン道場に移籍したのですが……ぶ、豚野郎? そ、それはユーリ様のことなのですか?」


 ユーリは「うにゅう」と情けない声をあげた。


「ほらー、間接的に罵倒されちゃったよぅ。これぞまさしく藪ヘビだよぅ」


「も、申し訳ありません、ユーリ様! ……あ、はい。今はお稽古の後で、ユーリ様も隣にいらっしゃるのですが……えええええ? 豚臭いって! 電話でニオイは伝わらないはずですし、ユーリ様はどんなに汗だくでもフローラルなお香りなのです!」


「おおう……ユーリのハートが無駄に削られてゆく……」


「も、申し訳ありません、ユーリ様! ……小笠原センパイ、どうしてそのようにユーリ様を罵倒されるのですか? 愛音の知ってる小笠原センパイは、そんな真似をするお人ではなかったのです!」


 と、愛音の目が練習中にも劣らぬ気迫をこぼした。


「愛音はユーリ様を心よりお慕い申しあげておりますが、それを抜きにしたって不可解だし、不愉快です! 愛音は尊敬するセンパイをひとり失ってしまうのでしょうか?」


 小笠原選手がなんと答えているのか、瓜子たちには聞こえない。

 が、愛音の鋭い眼光に変わるところはなかった。


「はい……はい……あ、なるほど。それはいいタイミングであったのです。ちょっとユーリ様にもおうかがいしてみるのです」


 そうして愛音は携帯端末の通話口をふさぎつつ、やおらユーリに向きなおった。


「ユーリ様、明日お時間を作っていただくことは可能でありますか?」


「明日? 明日は……どうだったっけ、うり坊ちゃん?」


「明日は五時まで、撮影の仕事っすね。五時半には道場に着けるはずっすよ」


「五時半ですね。了解なのです。……もしもし、お待たせしました。五時半以降なら、問題ないようなのです。……はい。道場の場所はおわかりですか? ……はい。了解なのです。では、そのようにお伝えするのです。どうぞよろしくお願いいたしますです」


 愛音は通話を切り、ユーリと瓜子に向きなおってきた。


「五時半までに、こちらの道場に来ていただけるそうなのです。そこで決着をつけましょう!」


「えーっ! 小笠原選手が、ここに来ちゃうの? あの人って、どっか遠くのお住まいじゃなかったっけ?」


「小笠原センパイは、小田原にお住まいなのです。ちょうど明後日の午前から東京で武魂会の試合があるので、前乗りでこちらにやってくるそうなのです」


 ユーリは「うにゃあ」とピンク色の頭を抱え込んだ。


「そしたら今度は、目の前で罵倒されるのだね! あんなに気さくで善良そうなお人に豚ちゃん呼ばわりされたら、ハートがゲシゲシ削られそうだよぅ」


「大丈夫なのです! いざとなったら猪狩センパイを盾にしてでも、愛音が一矢むくいるのです!」


「道場で乱闘はまずいっすよ。でも、わざわざこっちに来てくれるなんて、親切な話っすね」


 そんな風に言いながら、瓜子は自分の手の平に拳を打ちつけてみせた。


「でも、これでモヤモヤが晴れそうっす。感謝するっすよ、邑崎さん」


「愛音だって、真相を突き止めたいのです! 小笠原センパイはあんな風に他人を悪く言うお人ではなかったので、きっと深い事情があるはずなのです!」


 どうやら瓜子は、愛音とさまざまな思いを共有することができているようだった。

 瓜子は何も、ユーリを敵視する人間を無条件で嫌っているわけではない。ただ、何か誤解や勘違いがあるなら、それを正したいと願っているだけであるのだ。


(試合に負けたってだけでユーリさんを嫌うことになったんなら、それまでのことだからな。そんなみみっちい人間は、こっちだってお断りだ)


 そうして瓜子たちが、ようやくシャワーと着替えに取りかかろうとしたとき――更衣室のドアの外から、「しつけーんだよ!」という怒声が聞こえてきた。


 それからすぐに、ドアが勢いよく開かれる。

 そこに立っていたのは、トレーニングウェア姿のサキであった。


「ど、どうしたの、サキたん?」


 ユーリが心配そうに尋ねたが、サキは無言で自分のロッカーに近づき、リュックを取り出した。そうして私服に着替えようともせずに、更衣室を出ていってしまう。


「ちょっと、サキさん!」


 瓜子も続いて更衣室を飛び出すと、そこには仏頂面の立松とサイトー選手が居並んでいた。

 サキはその鼻先を通りすぎ、わずかに左足を引きずりながら、道場の出口に向かってしまう。瓜子はそれを追いかける前に、サイトー選手に問い質すことにした。


「いったい何があったんすか? サキさんは、事務所でおふたりと語らってたんすよね?」


「オレらが説明する筋合いじゃねえな。聞きたいなら、本人に聞けや」


「……わかりました。そうさせていただきます」


 瓜子が駆けだそうとすると、サイトー選手が「おい」と呼びかけてきた。


「悪いけど、あの馬鹿を頼むわ」


 言葉の意味はわからなかったが、瓜子は「押忍!」と答えておいた。

 その間に、サキは玄関を出てしまっている。瓜子が足を踏み出すと、ユーリがすぐさま追いすがってきた。


「ムラサキちゃんには、待っててくれるように言っておいたよ。ムラサキちゃんの前では話しにくい内容かもしれないからね」


「はい。ナイス判断っすね」


「ほんでもって、ユーリもお邪魔虫だったら、うり坊ちゃんが聞いてあげてくれる? ついつい勢いで追いかけてきちゃったけど、たぶんユーリは能無しの役立たずだから!」


「きっと、そんなことはないっすよ」


 そんな言葉を交わしながら、ふたりは寒風吹きすさぶ夜の街路へと飛び出した。

 汗で湿った稽古着姿なので、一月の寒さもひとしおである。しかし、そのようなものにかまいつけるゆとりもなく、瓜子とユーリはサキを追いかけた。


「サキさん、いったいどうしたんすか? サイトー選手らも、心配してましたよ?」


 幸いなことに、サキは左足を負傷しているために、すぐ追いつくことができた。

 サキは歩を止めぬまま、横目で瓜子たちをねめつけてくる。


「……タコどもが。そんなカッコで歩いてたら、馬鹿でも風邪ひくぞ。おまけにそっちの牛は、猥褻物陳列罪だな」


「あは。いつも通りのサキたんでよかったー!」


 ユーリはほっとしたように息をついた。確かに通行人たちは、ラッシュガードとスパッツ姿のユーリに目を奪われてしまっている。


「どうしたんすか、サキさん? 自分らじゃ、なんの力にもなれないかもしれないっすけど……よかったら、聞かせてほしいっす」


 サキはようやく足を止めて、瓜子たちの背後を透かし見た。


「……あのジャリは置いてきたのか。珍しく気がきいてるじゃねーか」


 長くのびた赤い前髪が、サキの目もとを隠している。

 その向こう側にある切れ長の目は、どこか――これまで見たこともないような光をたたえているように思えてならなかった。


「べつだん、騒ぐような話じゃねーんだよ。ありがたいことに、あいつらは仕事のクチを紹介してくれようってんだからな」


「仕事のクチ?」


「ああ。プレスマンで、コーチをやらねーかってよ」


 ユーリは「ふにゅ?」と首を傾げた。


「ダムダムさんも、コーチ兼選手だもんね。サキたんぐらい教えるのがお上手だったら、声がかかっても不思議はないけど……サキたんは、なんで怒ってたの?」


「そりゃあまあ、事実上の引退勧告だったからだな」


 瓜子はユーリとともに、息を呑むことになった。

 サキは「へっ」と口だけで笑う。


「アタシの左膝は、大金を積んで靭帯再建手術の権威にでも手術を頼まない限り、もとには戻らねーって見込みなんだよ。だからまあ、選手としてはすっぱり引退して、コーチに専念してみたらどうだって話なわけだ」


「そんな……サキさんが引退だなんて……」


「だから、お断り申しあげたんだよ。医者どもが何と言おうが、アタシは引退する気なんざこれっぽっちもねーからな」


 あくまでふてぶてしい口調で、サキはそう言った。


「ま、アタシがこんな目にあったのは、ヤケクソになって無差別級のデカブツどもとやりあったせいだ。手前の尻ぐらい手前でふくから、おめーらは黙って見といてくれや」


「でも、サキさん……」


「アタシがヤケクソになった理由を知ってるのは、コーチ連中とおめーらだけだ。だから、おめーらには話しておくことにした。それだけのことなんだから、同情なんざいらねーよ」


 そうしてサキは、これまで見たこともないような光をたたえた目で、瓜子とユーリを見つめてきた。


「ようやく理央が目を覚まして、格闘技にも興味を持ってくれたってのに、こんなところで引退なんてできねーよ。靭帯なんざ気合でくっつけて、どうにか復帰してみせるさ」

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