02 スパーリングパートナー

「ご無沙汰しておりましたです、ユーリ様! ……と、猪狩センパイ」


 ビギナークラスの稽古を終えるなり、邑咲愛音が瓜子たちのほうに迫り寄ってきた。

 表情が暗く、目つきが険しい。

 せっかく愛くるしい顔立ちをしているのに、これでは台無しだ。


「あ、猪狩センパイ。先日は試合を観戦に行けず、申し訳ありませんでしたです。見事にKO勝利をおさめられたそうで、おめでとうございますです」


「え? ああ、いや……どうも、ありがとう」


「祝勝会にも参加できず、重ねがさね申し訳なかったです。愛音はこれでも高校生ですので、夜間の外出には色々と制限がかかってしまうのです」


「うん。いいんすよ。そりゃあ親御さんだって心配でしょうしね」


「寛大なお言葉、いたみいるです。……で、ユーリ様も予定を変更されて、祝勝会にご参加されたそうですね」


「う、うん。そうそう。図々しくも、参加させていただいちゃったぁ」


「で、昨日はけっきょく道場が閉まるまで、お二人は一度もお顔を見せなかったですね。一昨日の祝勝会でお二人がどれだけ楽しそうに過ごされていたかは、何名ものセンパイがたからじっくり拝聴することができたのです」


 深海に棲む生き物のように陰鬱な眼差しでユーリと瓜子を見比べてから、愛音はサキに向きなおった。


「……それではサキセンパイ、本日もご指導のほど、よろしくお願いいたしますです」


「え? あれ? む、邑咲さん、話はもうお終いっすか?」


「お終いですよ。愛音は稽古をするために入門したのであって、おしゃべりを楽しむために入門したのではないのですから。……無知で無力な愛音としては、一生懸命に稽古を頑張るしか進む道は残されていないのです。お二人の親密なご関係に心を乱してその時間を無駄にすることなど、今の愛音に許されるはずもないのです」


 サキの平手が、スナップをきかせて少女の後頭部を打ちすえた。

「痛いっ!」と愛音はわめき声をあげる。


「また暴力ですか、サキセンパイ! 謙虚でけなげで身のほどをわきまえた愛音の頭をなぜ殴打するのですか!」


「鬱陶しいんだよ、ジャリ。……そんなことより、頼みがある」


「た、頼み? サキセンパイは人にものを頼むときに、後頭部を殴打するのですか? 人格を疑いますです!」


「疑いたきゃあ、勝手に疑ってろ。……あのなあ、一日三十分でいいからよ、この牛のスパーリングパートナーになってくれねーか?」


 サキの言葉に、全員が驚いた。


「ム、ムラサキちゃんが、スパーリングパートナー?」


「どういうことっすか、サキさん? 彼女はまだ入門したての練習生っすよ?」


「……やりますです!」


 ユーリと瓜子の声をかき消さんばかりに、愛音が吠えたてた。


「スパーリングパートナー! ユーリ様の! ……やりますです! 三十分と言わず、一時間でも二時間でも!」


「声がでけーっつーの。それに、三十分以上は牛のほうがもたねーよ。おめーは憧れの牛先輩を過労死させる気か?」


 そんな風に言ってから、サキはふっとユーリのほうを振り返った。


「……おっと、さしでがましい口をきいちまったな。よく考えたら、アタシがあれこれ指図をする立場でもなかったわ。やるかやんねーかは、おめーが決めろや、牛」


「ええ? そりゃあもちろん、サキたんには何か深いお考えがあってのことなのでしょうけども……できればその謀略の一端を、事前に開示してはいただけませぬでしょうか?」


「謀略ってのは、どーゆー言い草だよ。このクソ生意気なガキんちょだったら、立ち技限定のスパーにはうってつけだろうがよ?」


「その不名誉きわまりない呼称には一言申し上げたいところですが、ユーリ様のためでしたら、愛音は一肌でも二肌でも脱ぎまくる所存でありますです!」


 泣いたカラスが何とやら、だ。つい先刻まで生ける屍のようだった愛音が、爛々と瞳を輝かせている。


「異存がねーなら、完全武装でリングにあがれや。おめーの安請け合いを後悔させてやんよ、牛」


 ということで、ユーリと愛音は16オンスのボクシンググローブとヘッドガード、レガースパッドとニーパッドというフル装備でリングに上がることになった。まるで愛音が入門した日のスパーリングを思わせる様相である。


「立ち技限定で、首相撲も禁止だ。……ま、わざわざ禁止にするまでもねーだろうけどよ」


 愛音側のエプロンサイドから、サキはそのように言いたてた。

 瓜子も放ってはおけなかったので、ユーリ側のエプロンサイドで待機する。


「あともう一点、ガキのほうは左のハイとミドルも遠慮しとけ。牛はまだ右前足が修理中だからな」


「ガキじゃないです!」「牛じゃないもん!」という声音が交錯した。

 それからユーリは、「ふみゅみゅ」と神妙な顔をする。


「ところで、ユーリは攻撃しちゃってよいのかにゃあ? 決してムラサキちゃんの実力を見くびってるわけではないのだけれども……ほんのちょっぴりウェイト差があるので心配なのです」


「おう。二十キロの差はでけーわな」


「そんなにないもん! ……でも、十キロちょっとはあるはずだよね?」


 ユーリの通常体重は、六十キロ近くにも及ぶことがある。ユーリは超絶的なプロポーションを誇っており、なおかつふよふよとしたやわらかそうな肉づきをしているが、驚くべきことにそれらはすべて筋肉であるため、外見よりも重量がかさむのだ。ならば、愛音との差は十五キロ近くにも及ぶはずだった。


「これだけ完全武装でも、おめーの攻撃をまともにくらったら昇天しちまうかもな。ま、そんときはアタシが骨を拾ってやんよ」


「はい! どうぞ愛音のことはお気になさらず! ユーリ様に絶命させられるなら本望なのです!」


「あうう。ユーリは過失致死罪に問われたくないよぅ。……うり坊ちゃん、どうしよう?」


「さすがにユーリさんの怪力でも、16オンスで防具までつけてれば大丈夫っすよ。……首相撲で膝蹴りでもぶちあてたら、内臓破裂しそうですけどね」


「だから首相撲は禁止っつったろ。牛は牛らしく、相手の尻を追っかけてみせろや」


 そう言って、サキはストップウォッチを顔の横に掲げた。


「とりあえず、手始めに三分な。その内容で微調整すっから、どっちも思いのままに暴れてみろや」


 そうして、ユーリと愛音によるスパーリングが開始された。

 愛音は興奮のあまりか、肉食のウサギのように両目をぎらつかせている。憧れの相手と手合わせをするのに、気後れではなく昂揚するタイプであるようだ。


 ユーリはムエタイ流のアップライトの姿勢を取り、愛音は素早くアウトサイドに回り込む。

 しなやかな右のアウトローが、ユーリの左足に叩き込まれた。


「おおう。これは確かに、うり坊ちゃん以上のスピードかも……」


「おほめにあずかり光栄であるのです!」


 愛音は嬉々として、小鹿のようにステップを踏んだ。

 サイドに回り込めばアウトロー、踏み込まれそうになれば奥足のインローで、ユーリを翻弄する。


 もちろんこれだけの体重差で防具まで装着しているのだから、ユーリにダメージはないだろう。

 しかし――愛音に比べると、ユーリの動きはあまりにスローモーだった。きっと瓜子とスパーをしているときも、傍目にはこう見えてしまうのだろう。


「うにゅう!」とおかしな声をあげながら、ユーリはいきなりハイキックを繰り出した。

 重い、鉈のような一撃である。

 が、もちろん愛音はそれを悠々と回避していた。完全に、愛音に距離を支配されてしまっているのだ。


「すごいです! 風圧がこちらにまで届いたのです! やっぱりユーリ様はすごいのです!」


「あ、ありがとねー!」とわめきながら、ユーリはやみくもに突進した。

 しかしそれは、前蹴りで止められてしまう。

 いや、ユーリの突進力に愛音のほうが弾かれてしまったが、立ち技のスパーではそこに追い打ちをかけることもできなかった。


「ガキは軽いからよく飛ぶな。ほれ、スリップだろ。さっさと立てよ、ジャリ」


「ガキでもジャリでもないのです!」


 颯爽と立ち上がった愛音は、さらなる攻撃を繰り出した。

 今度は右ジャブも織り交ぜつつ、左右のローでユーリを近づけない。ほとんどサンドバッグのごとき様相であった。


 ユーリも綺麗なワンツーや、ローやミドルを繰り出してみるものの、やっぱり距離を外されて、愛音の身体にかすりもしない。サキがスパーをできない現在、ユーリがこうまで翻弄される姿を見せつけられるのはひさびさのことであった。


「ほい、三分と。一分のインターバルなー」


 ユーリはぜいぜいと息をつき、愛音は「はふー!」と満足な吐息をもらす。


「ものすごい緊張感だったのです! やっぱりユーリ様はすごいのです!」


「おう、いい感じに煽ってくれるな。……どーよ、牛?」


「う、うん。サウスポーだし身長も近いから、サキたんにスパーをお願いしてた頃の甘美な悪夢がフラッシュバックしちゃったよぅ」


 そのように語るユーリはコーナーにもたれてしゃがみこみつつ、荒い息をついている。その姿に、瓜子は違和感を覚えることになった。


「ユーリさん、ずいぶん息があがってますね。どこか調子でも悪いんすか?」


「まっさかー! ユーリはいつでも絶好調だよん」


 そんな風に答えつつ、ユーリも「ありり?」と首を傾げた。


「でも、三分ぽっちのスパーなのに、やたらとくたびれちゃってるみたい。今日ってちょっぴり、酸素が薄い?」


「んなわけあるか、タコスケ。おめーは確かにスタミナの化け物だけどな、相手のペースに引きずられたら消耗も激しくなるもんなんだよ」


 ストップウォッチの時間を確認しつつ、サキはそう言った。


「最近のおめーは、無差別級にどっぷり漬かってたからな。ひさびさのスピードタイプを相手にして、牛みてーな突進グセが復活しちまってるんだよ。まずはそっから矯正しねーと、メキシコ女の相手はつとまらねーだろうよ」


「なるほど、さすがはサキたん! そのためのスパーであったのだね!」


 ユーリは瞳を輝かせながら、がばりと身を起こした。


「ユーリは、頑張るよ! そろそろ第二ラウンドじゃない?」


「おう。ちっとは反省を活かしやがれ」


 スパーリングの二ラウンド目が開始された。

 ここまで来ると、瓜子の出番はなさそうである。さすがサキの指導力は、見事なものであった。


「それじゃあ、自分は離脱するっすね。何か御用があったら、声をかけてください」


 とはいえ、MMA部門の三名がこちらにかかりきりでは、瓜子もひとりぼっちである。ここは大人しく、サンドバッグと向かい合うしかないようだった。

 そこに、サイトー選手が近づいてくる。


「おお、ちょうどよかった。猪狩、立松っつぁんが呼んでるぞ」


「押忍、すぐ行きます」


 瓜子は気持ちを引き締めつつ、男子門下生の面倒を見ている立松のもとを目指した。

 新宿プレスマン道場の正規コーチである立松は、厳つい容貌をした壮年の男性だ。瓜子が近づくと、立松は気難しげな目つきでにらみつけてきた。


「猪狩か。……さっき、パラス=アテナから連絡があったぞ」


「押忍。三月大会のオファーっすか?」


「いや。来月の浜松大会で、穴が空いたんだそうだ。代理出場のオファーだよ」


「来月っすか」


 瓜子が瞳を輝かせると、立松はいっそう難しげな顔をした。


「アメ玉もらったガキみてえな顔しやがって。……一昨日の試合から、きっかりひと月しか空いてないんだぞ。身体は作れるのか?」


「押忍。一昨日の試合はほとんどノーダメージだったんで、問題ありません。よければ、受けてもらいたいっす」


「ふん。対戦相手も聞かずに、か?」


「押忍。相手は、誰っすか?」


「天覇ZEROの、鞠山だ。一昨日のウサ公より、遥かに格上だな」


「まりやま?」と反復してから、瓜子は思いあたった。


「ああ、『まじかる☆まりりん』っすか! そいつは光栄なオファーっすね!」


「やめろよ、その名前。……ったく、女子連中にはイロモノが多くてかなわねえな」


『まじかる☆まりりん』こと鞠山花子は、コスプレ三銃士のナンバーツーである。一昨日の『バニーQ』こと灰原選手が「遅れてきた強豪」であるのに対して、こちらは押しも押されもせぬ中堅選手であった。


「ふざけたキャラで売ってやがるが、あいつの実力は本物だ。あいつの二つ名は、お前さんもわきまえてるんだろうな?」


「はい。『戦慄の魔法少女』……じゃなくて、『新人キラー』のほうっすよね? 十分にわきまえてます」


 鞠山選手はその奇矯なキャラクターとは裏腹に確かな実力を備え持っており、若手の登竜門と呼ばれるまでに至っているのである。

 王者やトップランカーには惜敗を喫しているが、同じ中堅や新人選手に後れを取ることはない。鞠山選手を打ち負かせばトップランカー入りという、そんな具合のポジションに鎮座ましましているのだった。


「デビュー四戦目で鞠山選手のお相手ができるなんて、光栄の限りっすよ。ぜひ、挑ませてもらいたいっす」


 瓜子がそのように言いたてると、立松は眉間に深い皺を刻んだ。


「あいつが『新人キラー』なんて呼ばれてるのは、これまでに何人もの相手を病院送りにしてるからだ。そこんところも、わかってるんだろうな?」


「はい。けっこう前っすけど、サキさんも対戦して靭帯を痛めたんすよね。テレビで観てて、自分もヒヤヒヤしたっすよ」


「ああ、あいつの足関は厄介だ。俺としては、大事な門下生をうかうかと送り込む気にはなれねえな」


 瓜子がきょとんと目を丸くすると、立松は「なんだよ?」と歯を剥いた。


「サキに続いてお前さんまでぶっ壊されたら、うちにはピンク頭と新人しか残らねえだろうが? それでもオファーを受けるってんなら、調整期間だろうが何だろうが徹底的にしごいてやるからな! そのつもりで、覚悟しとけ!」


「押忍! ありがとうございます!」


 男子門下生の邪魔になってはならじと、瓜子は早々に退散することにした。

 すると、サンドバッグの前にはサイトー選手が待ち受けていた。


「よお。また立松っつぁんに、カミナリを落とされてたな」


「押忍。だけど……一昨日に説教をくらった甲斐はあったみたいっす」


「ふふん。酔った勢いで、ずっとお前さんたちに絡んでたもんな。ちっとはストレス発散になったわけか」


 サイトー選手はふてぶてしく笑いながら、サンドバッグに重い右フックを叩き込んだ。


「で? 来月の代役オファーだって? お前さんには、オレのセコンドを頼みたかったんだけどな」


「あ、本当っすか? 《G・フォース》の興行とは一週ずれてるはずなんで、大丈夫っすよ」


「そうかい。なら、頼むわ」


 サイトー選手はサンドバッグを抱え込み、今度は膝蹴りを叩き込んだ。《G・フォース》の二月大会に向けて、いよいよ意気は盛んな様子である。

 やはり試合というものは、選手を何より昂らせるものであるのだ。

 サイトー選手やユーリとともに、瓜子もその日に向けて死力を尽くす所存であった。

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