ACT.4 出る日つぼむ花
01 相性
「本当の本当にタコスケなんだな、おめーは。そのトチ狂ったピンク色の頭には、いったい何が詰まってやがるんだ? 脳味噌の代わりにラードでも詰まってるんじゃねーのか、本当によ」
ユーリと瓜子の邂逅一周年記念日の、翌日の夕刻――道場で顔をあわせるなり、サキの罵詈雑言がユーリにあびせかけられることになった。
ユーリは「あうう」とうめきながら、瓜子の背後に隠れようとする。
「サ、サキたんが本気で苛立っていらっしゃる! うり坊ちゃん、ユーリはいったいどんな不始末をしでかしてしまったのでありましょうか?」
「さ、さあ? 自分にもよくわからないっすけど……」
すると今度は、鋭く細められたサキの目が瓜子のほうにまで突きつけられてくる。
「とぼけたこと言ってんじゃねーぞ、瓜。知ってて止めなかったんなら、おめーも同罪だ。あの千駄ヶ谷ってお人はなかなかのやり手だってアタシも感心はしてるけどな、それでも格闘技に関しちゃ素人だ。強い弱いの判断なんて、星の数で勘定するしかねーのは仕方のねえこったろ。それをおめーらがフォローしなくて、誰がフォローするってんだ?」
「す、すみません。サキさんは、いったい何をそんなに怒ってらっしゃるんですか?」
「怒ってねーよ。呆れてるだけだ。……このアタシが何に呆れ果ててるのか、おめーらには本当にわかってねーのか?」
わからない。だいたい、ユーリはまだ二言三言、サキと言葉を交わしただけであったのだ。
◇
「おっはよー! サキたん、一日ぶりぃ!」
「おお。今日もぞんぶんに太いな、牛」
「牛じゃないもん! 太くもないし! ……あのねぇ、三月の対戦カードが決まったんだよぉ。それまでに右腕が完治すればだけどさぁ」
「はあん? そいつはずいぶん性急なこったな。ま、あと一ヶ月もありゃあ完治はするんだろうけどよ」
「うん! ユーリは頑張るよぉ! ……でね、お相手は、ミドル級のナンバースリーと名高いマリア選手なのぉ」
「……何だと? このタコ野郎……!」
◇
以上が、罵詈雑言をあびせられるまでの顛末である。
何がサキの逆鱗に触れたのか、正真正銘、瓜子にはこれっぽっちもわからなかった。
「三月に復帰なんて早すぎる……ってことでは、ないんすよね?」
「ああん? 何月に復帰しようが知ったことかよ。だけど、よりにもよってあんなメキシコ女とやりあう必要がどこにあるってんだ?」
「必要というか何というか……ミドル級の王座挑戦を懸けた予選試合ってことらしいっすけど……」
「王座挑戦だあ? はん。だったらなおのこと、負けちまったら無意味じゃねーか」
と、サキの眼光が再びユーリに突き刺さる。
「牛。おめーはようやく勝ち星を拾えるようになったこのタイミングで、また新たな連敗記録でも樹立したくなったってのか?」
ユーリの戦績は、ベリーニャ選手に敗北したところで一時停止している。復帰戦で敗北を喫すれば、確かに連敗ということになってしまうが――瓜子にはまだ、サキの苛立ちが奈辺に起因するのかがつかめなかった。
ユーリは、来栖選手や小笠原選手といった無差別級のトップファイターにも勝利してきた。リュドミラ選手という怪物じみた外国人選手にも勝利をおさめることができた。ミドル級においては、マリア選手よりも格上とされている魅々香選手やオリビア選手にも勝ってきた。はっきり言って、現在のユーリにとって警戒すべきは、ミドル級の絶対王者であるジジ・B=アブリケル選手ぐらいのものであろう、と瓜子はタカをくくっていたのだが――サキの見解は、異なるのだろうか?
「……本当にわかってねーんだな、おめーらは」
赤と黒が入り混じった頭をかきむしりながら、サキは深々と嘆息する。
「牛。おめーと一番相性が悪いのは、どーゆータイプのファイターだ?」
「うにゅ? それはやっぱり……スピード重視の、アウトタイプかにゃあ。蹴り技の得意なストライカーで、なおかつサウスポーだったら、いっそうやりにくそう……おお、こう考えてみると、ユーリにとってはサキたんこそが最大の強敵なのかもねぇ」
「瓜。おめーはどう思う?」
「そうっすね。ユーリさんの意見に、おおむね異論はないっすけど……ジジ選手みたいなパワー型のインファイターも、けっこう厄介なんじゃないっすかね。スピードだけに特化してるより、スピードはやや上でパワーが互角ってほうが危うい感じがします」
「ふん。どっちにしろ、ストライカーかよ? ……それじゃあ、牛、この一年間で、おめーが一番厄介だと感じた対戦相手は、誰だ?」
これは何とも、興味深い質問だった。
しかし、ユーリはあっさり「そりゃあ、ベル様っしょ」と答える。
「そりゃあそうだな。あのブラジル女は、別格だ。……それじゃあ、二番手は誰だ?」
「二番手? う~ん、そいつは難しい質問ですにゃあ。みんな、ものすごく強かったし、ユーリなんかでよく勝てたなあって、自分でも不思議に思えるぐらいだし……う~ん……」
「誰が強かったか、じゃねえ。誰が一番厄介だったか、だ。……もしも再戦が決まったら一番厄介だと思えるのは、誰だ?」
「一番厄介……う~むむむ……来栖選手に、小笠原選手……リュドミラ選手に、オリビア選手……秋代選手に、魅々香選手……」
そうして三十秒ばかりもうんうんうなったあげく、ようやくユーリは「よし!」と手を打った。
「決めました! 沙羅選手に一票を投じまする!」
「そうだろうな。そうだろうと思ったぜ」
そうなのか。
瓜子にとっては、いささかならず意外な答えだった。
瓜子はてっきり、来栖選手か小笠原選手あたりの名が挙がるものとばかり思っていたのだ。
「それじゃあ、次の質問だ。あのプロレス女は、ストライカーか?」
「いえいえ。彼女は空手とレスリングがばっくぼ~んのオールラウンダーであるというサキたんのお言葉は、今でもユーリの脳髄にしっかり刻まれておりまする! 実際問題、プロレスラーとは思えない打撃の鋭さだったしねぇ」
そんな風に答えてから、ユーリはけげんそうに小首を傾げた。
「ではでは、サキたんがそこまでマリア選手を危険視しておるのは、彼女もオールラウンダーだからなのでありますかにゃ? それを言ったら、来栖選手も魅々香選手もオールラウンダーとして名高いお人たちであったように記憶しているのですけれども……」
「天覇館のババアやタコ入道は、立ち技も寝技も一級品だろうよ。でも、真のオールラウンダーを名乗るんだったら、組み技も磨く必要があるんじゃねーのか?」
昨今では、立ち技の得意なストライカー、寝技の得意なグラップラーに加えて、組み技の得意なレスラーという呼称も定番化されつつある――と、瓜子もそのように聞いた覚えがあった。MMAの最先端である北米において、ムエタイ&柔術からボクシング&レスリングのスタイルが主流になってきた、という背景があるらしい。
「メキシコ女の所属してる赤星道場ってのは、もともとレスリングを土台にしてるんだからな。スタンド状態の組み技とグラウンド状態のポジションキープを重視してるって点では、沙羅とかいうプロレス女と同じくくりってこった」
「ふみゅふみゅ……」
「そんでもって、牛。おめーがプロレス女とやりあったときも、まともに組み合ったら勝機はねーから、打撃で削りまくってから寝技で勝負をかけるって、そんな作戦を授けてやっただろうがよ? たった一年で、もう忘れちまったのか? 脳味噌に回る栄養を乳牛みたいな乳に吸い取られちまったのか?」
「あうう。罵倒とセクハラはほどほどに……でもそれなら、沙羅選手のときと同じ対策でマリア選手にも……」
「それが通じる相手なら、世話はねーだろ。メキシコ女はおめーが苦手だとあげつらった、ヒット&アウェイを得意にするスピード型のアウトタイプで、おまけにサウスポーなんだからな」
「…………うにゅう」
「うにゅうじゃねえよ。しかもあのメキシコ女は、すばしっこいけどパワーがないわけじゃねえ。組み技での得意技は、プロレスまがいのスープレックスだ。瞬発力とバネがハンパじゃねーんだよ。そこはさすがにメキシコの血ってところか」
「だけど、サキさん。そうは言っても、マリア選手はそれほど実績を残せている選手ではないっすよね? 沖選手や魅々香選手には勝ったこともあるのに、ナンバースリーの座に甘んじてるってのも、そこのあたりが原因なんでしょうし……」
「だから、そんな数字で強いか弱いかを勘定しちまうのが素人考えだっつー話をしてんだろ?」
サキに冷めた目でにらみつけられ、瓜子は恥じ入る。
だけど瓜子は、まだサキの危機感を共有できていなかった。
「たとえば、この牛だ。この牛は、去年の春先まで笑けるような戦績しか残してなかった。それじゃあ、こいつは去年の春先にいきなり強くなったから、試合で勝てるようになったのか?」
「いえ……」
「ほんでもって、こいつは春先に考え方をあらためる前に、ブラジルのノーマとかいう柔術女と引き分けることができた。あのノーマとかいう柔術女は、そこまでクソ弱いクソ雑魚だったのか?」
「いえ。ノーマ選手は強豪でしょうね」
「どんなに実力を持ったやつでも、戦績を残せないやつはいる。それでも相性のいい相手だったら、きちんと結果を残すこともできる。その生きた見本が、この牛だろうがよ?」
だんだんと、サキの言いたいことがわかってきた。
というか、ここまで言われてわからないほうが、馬鹿だ。
「つまり……マリア選手は、沖選手や魅々香選手ほどの実績は残せていないけど、ユーリさんにとってはそれ以上に相性の悪い相手ってことっすね?」
「悪すぎるだろ。最悪だ。アトミックのミドル級じゃあ、最強に最悪だろうな」
ようやく、前提条件をクリアすることができた。
マリア選手が、沖選手や魅々香選手よりも強い、ということではない。
ただ、ユーリにとっては、沖選手や魅々香選手よりも相性が悪い。
では、何がそこまで悪いのだろうか?
「牛。おめーにとって、ブラジル女やプロレス女が厄介なのは、何でだ?」
「ううう。質問攻めですにゃあ。ベル様と沙羅選手の共通項って言ったら、それはやっぱり動きの素早さと、あとは立ち技……立ち技、の……」
瓜子の背後に陣取りながら、ユーリはにわかに言いよどむ。
「……立ち技、の……迷いのなさ?……ふっきれた感じ?……あああ、言葉が見つからにゃい!」
「ま、おめーにしちゃあ上出来の部類だ。組み技と寝技への自信からくる、踏み込みの強さってとこだろ」
至極あっさりと言って、サキは腕を組んだ。
「いくら腕のいいストライカーでも、寝技や組み技に自信がなかったら、腰が引けちまう。対戦相手が腕のいいレスラーやグラップラーだったら、なおさらだ。……あのオーストラリアの空手女あたりが、良い例だろうがよ? あいつは玄武館の世界王者で、おめーなんぞよりはよっぽど強力な立ち技の技術を持ってるはずなのに、おめーなんぞにKO負けを食らわされた。打・投・極のひとつだけ飛びぬけてたって、MMAでは勝てねーんだよ」
「ふみゅみゅ……」
「そんでおめーは、プロレス女が一番厄介だと結論づけた。それでもそいつを撃退できたのは、圧倒的にパワーで勝ってたからだろ。だけどあのメキシコ女には、そういう穴もねえ」
「はにゃにゃ……」
「言うことがねーなら、黙ってろ。……これで、おめーにとっての天敵ってのが割りだせんだろ」
腕を組んだまま、サキはぶっきらぼうに言い捨てる。
「スピードとパワーを兼ね備えた、レスラー寄りのオールラウンダー。スタンド状態ではアウトタイプ、だけどレスリング力も一級品。ついででおまけのサウスポー。……ここまでこまかく条件づけしたら、そうそう一致する選手なんていねーと思うけどな。アトミックの全階級をひっくるめたって、そんなやつは、ひとりしかいねーだろ」
「……それが、マリア選手だっていうんすか?」
試合会場で何度か対面したことのあるマリア選手の顔を、瓜子は思い出していた。
何というか、とても無邪気そうな笑顔を持つ、若い選手だった。年齢は、ユーリより少し上ぐらいであったはずだ。
無差別級トーナメントの予選試合。ユーリが来栖選手と、瓜子がサキと対戦したとき、マリア選手は兵藤選手と対戦し、そして負けた。
また、ユーリが無差別級トーナメントを闘っているとき、マリア選手はリザーブマッチで高橋選手と対戦し、その試合には勝っていた。
兵藤選手には判定負けで、高橋選手にはTKO勝ち。無差別級の選手を相手に、それは誇るべき戦績だとは思うのだが――いかんせん、ユーリやサキに比べてしまうと、インパクトが薄い。サキなどは、マリア選手よりも軽量であるのに兵藤選手をもKOしてのけたのだ。
あの選手が、ユーリにとっては来栖選手や小笠原選手以上に脅威だ、というのだろうか。
これだけの長広舌を聞いた後だというのに、やっぱり瓜子にはピンとこなかった。
「……それにな、こいつはアタシの推測にすぎねーけど、あのメキシコ女はとんだ食わせものかもしれねーぞ」
と、瓜子の心中を読み取ったかのように、サキが言葉を重ねてくる。
「食わせもの? 何だかずいぶん無邪気そうな印象しかないんすけど」
「ほうかい。だったらやっぱり、アタシの考えすぎなのかもな。……アタシはな、どうもあいつがアトミックの試合で本気を出してるようには見えねーんだ」
「それはまた、ずいぶん大胆な意見すね。試合で本気を出さないで、どこで本気を出すんすか?」
「決まってんだろ。もっと大事な試合で、だよ」
サキの目が、今まで以上に物騒な光をちらつかせていた。
「あいつの所属は、赤星道場だろ。で、赤星道場は《レッド・キング》っつー自主興行を開催してる。あいつにとってのメインの舞台は、アトミックじゃなく《レッド・キング》だってのは間違いねーこったろ」
「それはまあ……そうかもしれないっすけど……」
「ほんでもって、あいつの得意技は、左の蹴りとスープレックスのはずなんだけどよ。猛牛女との対戦では一発の蹴りも出さねーで、天覇館のでかぶつには一発の投げも見せなかった。そいつは、どういうお遊びなんだろーな?」
「…………」
グラウンドを得意とする兵藤選手には蹴り技を使わず、スタンドを得意とする高橋選手には投げ技を使わなかった?
それは――とても不穏な想像しかかきたてられない情報であった。
「対戦成績が白黒トントンってのも、案外そのへんにカラクリがあるんじゃねーのか? ……ま、あくまでアタシの妄想にすぎねーけどよ」
これは、今まで以上に研究と分析が必要な相手なのかもしれない。
ようやくサキの危機感を理解できたような心持ちで、瓜子は背後のユーリを振り返った。
「ふにゅう……まあ、何にせよマリア選手が強敵だってのは、最初っからわかりきってたことでありますし。ユーリちゃんとしては、いつも通りに死力を振り絞るだけですわよぉ」
そう言って、ユーリはふにゃりと子どものように笑った。
どうやらユーリには、何も伝わらなかったらしい。
瓜子はサキと、溜息を合唱させることになった。
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