05 幸福の象徴

「……ユーリの決断は、何か間違っていたのだろうか……」


 千駄ヶ谷の退出した五分後にカフェを出たユーリは、再び渋谷の雑踏を歩きながら、元気のない声でつぶやいていた。


「別に間違っちゃいないっすよ。復帰が三月だろうと四月だろうと、待ち受けてる仕事の量に変動はないんでしょうから」


「ううう。覚悟はしてたつもりなんだけども、二ヶ月もまったりしちゃってたからなぁ。今やユーリの心には、気後れと怯えしかないっ!」


「まあ、始まっちゃえば何てことないすよ。去年まで、ずっとそうやって頑張ってたんすから」


「うーん。この二ヶ月間がハッピーすぎたからなぁ! 休息の時よ、いざさらば!」


「声がでかいっすよ。……それに、仕事をしてなかったぶん日中からトレーニングに励んでたんすから、どっちかっていうと体力的には今のほうがハードなぐらいっすよ」


「だって、お稽古してるときはハッピーだもぉん」


 瓜子は、思わず苦笑してしまった。

 その顔を見て、ユーリも嬉しそうに笑う。


「やっとうり坊ちゃんが、普通に笑ってくれた! さっきの笑顔はほんとに怖かったから、何だかホッとするぅ」


「重ねがさね失礼っすね。自分は本当に、怒ってたわけじゃないんすよ?」


「でも、パラス=アテナのやり方は腑に落ちないんでしょ? ユーリにはそーゆーのがよくわからにゃいから、また知らないところでうり坊ちゃんの逆鱗に触れてるんじゃないかってヒヤヒヤしちゃうんだよぉ」


「……ユーリさんは、ユーリさんのやりたいようにやればいいんすよ」


「うん。最終的にはそうなっちゃうんだけどさぁ。それでも、うり坊ちゃんにはガマンしないでいただきたいの!」


「ガマン?」


「そうだよ。だって……ユーリとうり坊ちゃんは、その、おたがい変にガマンしちゃってたから、あのとき、あんな風になっちゃったんでしょ……?」


 これは、かなりの不意打ちだった。

 まさかこのような道端で、そのような問答をふっかけられるとは思っていなかったのである。

 瓜子は少し黙りこみ、考えを整理してから、言った。


「そうっすね。だから自分も、さっきは本音を隠さなかったんすよ。お偉方のやり口が気に食わないってのも本音ですし、だからといってユーリさんがそれに反発する必要はないと思うってのも、本音です」


「うん。そこはユーリも疑ってないにょ。でも……何ていうか、その……ユーリがうり坊ちゃんと同じ風に感じたり考えたりできないっていうのが、不安というか、悲しいというか……」


「そんなの、しかたないっすよ。だって、別々の人間なんすから。……特に自分らは、相性ばっちりって間柄でもないですしね」


「……ぎゃふん」


「それでもこうやって一緒にいるんすから、ケンカしたり小突きあったりしながら、やっていくしかないっすよ。……そこに誤解とか勘違いがなければ、それでいいじゃないっすか」


 今度は、ユーリが黙りこんでしまった。

 さっそく何かを誤解してしまったのかなと瓜子は危ぶんだが。少しうつむき、足もとに視線を落として歩きながら、ユーリはいきなり「うり坊ちゃんのこと、大好きだなぁ」などと言ってのけた。


「と、突然ナニを言うんすか? イヤガラセっすか?」


「違うよぉ。それでもユーリと一緒にいてくれるっていううり坊ちゃんが、愛しくて愛しくてたまらないにょ。最近のユーリはうり坊ちゃんにメロメロで、この一秒一瞬が幸福すぎて息苦しいぐらいなにょだよ」


「や、やめてくださいってば! ありがたいのを通りこして、薄気味悪いっす!」


「うん。それでも一緒にいてくれるうり坊ちゃんが、大好き」


 最後にそんな風に言ってから、ユーリは「てへへ」と小さく笑った。


「これ以上続けると感情をセーブできなくなりそうだから、ここでストップいたしましょう! ……それにしても、ユーリのベストバウトDVDってどーゆーお話なんだろ? 八勝十一敗一引き分けのユーリなのだから、使えそうな映像なんて半分もないじゃんね」


「おまけに十一月の三試合ぶんは、この前発売されたばかりですしね。……でも、勝ち試合が八つもあれば、それなりに格好はつくんじゃないっすか?」


 話題の軌道が修正されたことに安堵の息をつきつつ、瓜子もそう答える。

 胸の奥が、じんわりと熱い。こんな真昼間の雑踏で、むやみに人の情動を揺さぶらないでいただきたいものだ。


「八つの勝ち試合か……でも、来栖選手や小笠原選手との試合以外は、ぜぇんぶ一ラウンドで終わっちゃってるんだよねぇ。トータルしても、三十分ぐらいにしかならないんじゃなかろうか?」


「それだけ聞いてると、ものすごい自慢話みたいっすね。……まあ、そんな悩みはパラス=アテナのお偉方にまかせておいて、ユーリさんはマリア選手への対策に頭を使ったほうがいいんじゃないすか?」


「そんなものは、明日から考えるさ! 今日はうり坊ちゃんとの一周年記念日なんだからね! 堅苦しいお話は、すべて明日に先のばし!」


 ユーリはあっけらかんとしていたが、瓜子などは雑多な情報を一度に詰め込まれてしまい、さっきから頭が重くてしかたがなかった。

 しかしまあ、これもユーリ・ピーチ=ストームにベリーニャ・ジルベルトという二頭の怪物が出現した余波なのだろう。


 ミドル級の王者ジジ・B=アブルケル選手と、《スラッシュ》の元・軽量級王者メイ=ナイトメア選手は、ベリーニャ選手と闘いたがっている。

 そのベリーニャ選手と、ロシアの新鋭オルガ・イグナーチェヴァ選手は、ユーリと闘いたがっている。

 要約すれば、それだけの話なのだ。


 全員の希望をかなえるのは、簡単である。全員を無差別級に登録させて、またトーナメント戦でも開いてしまえばいいだけのことなのだから。

 しかしそれでは、商売にならない。

 四人もの強豪外国人選手が出場しては、日本人選手が勝ち抜くことも難しいし、そもそも外国人選手を招聘する飛行機代や滞在費だけで、ずいぶんな負担になってしまうのだ。昨年のトーナメント戦でも三名の外国人選手を招聘していたが、ユーリがらみの物販商品の売り上げが見込めなければ、とうてい採算は取れなかったろうと思う。


 興行とは、ビジネスだ。ビジネスであり、エンターテイメントなのだ。

 アマチュアのスポーツ大会とは、違う。

 下手を打てば、運営会社のパラス=アテナは倒産する。あれほどの隆盛を極めた《JUF》でさえ、不祥事のひとつで破綻し、瓦解してしまったのだ。パラス=アテナの首脳陣が何とか興行を成功させようと躍起になるのは、当然である。そうでなくては、《アトミック・ガールズ》など、とっくの昔に雲散霧消し果てていただろう。だから、お偉方のやり口は気に食わないが、間違っているとも思えない。


 しかし、何となく、去年あたりから迷走しはじめてはいないだろうか?

 去年――地上最弱のプリティファイターが、地上最凶のプリティモンスターへと変貌を果たしたあたりからである。

 有り体に言って、彼らはユーリに期待をかけすぎているのではないだろうか。

 ユーリの強さと、そのカリスマ性によって、昨年後半の興行は大成功の連続だった。その成功に味をしめた彼らが、さらなるギャンブルに打って出ようとしている――瓜子には、そんな風に感じられてならなかった。


 ベリーニャ選手との対戦を希望している外国人選手など、放っておけばいいではないか。メイ=ナイトメア選手を無理に《アトミック・ガールズ》へと引きこむ必然性などないし、ジジ・B=アブルケル選手だって、本人が望んでいるなら、タイトルを返上させて無差別級に転向させてやればいい。それでベリーニャ選手との試合を組むか否かはパラス=アテナの胸先三寸なのだし、体面を保つためにタイトル戦をでっちあげるなど、いかにも急場しのぎの浅はかな計略だ。


 そもそも、体面とは何なのだろう。

 この数年間、沖選手や魅々香選手といったミドル級のトップ選手が、ジジ選手を王座からひきずりおろすことができなかったのは、厳然たる事実なのである。それが気に食わないというのなら、最初から外国人選手など参戦させなければいいではないか。


 そんな教訓も活かせぬまま、彼らはまたメイ=ナイトメアというモンスターを《アトミック・ガールズ》に呼びこもうとしている。

 赤みをおびた金色の髪と、闇夜のように漆黒の肌。黒い火のような眼光。野獣のように恐ろしげな形相――あの選手が、名ばかりのチャンピオンであるわけがない。アメリカにおいては最も女子選手の育成に意欲的であるという《スラッシュ》の、軽量級チャンピオンなのである。サキが負傷で動けぬ今、本当に《アトミック・ガールズ》のライト級の選手たちで、メイ=ナイトメア選手を迎撃することは可能なのだろうか。


 そして、オルガ・イグナーチェヴァ選手――

《アトミック・ガールズ》において益の少なそうなこの選手を、黙殺しないのは何故か? 裏事情とは、何なのか? そんなことは知りたくもないと思う反面、相手をさせられるのがユーリとあっては、瓜子としても看過できない。

 何となく、今年は昨年以上の波乱が待ち受けているように思えてならなかった。


「はぁい、到着! ここが午前の部の最終地点でございまぁす」


 ユーリのいきなりの大声に驚いて、瓜子はハッと面をあげる。

 瓜子たちは、小さな雑居ビルの前に到達していた。

 その一階の看板には、フランス語だかイタリア語だかで目になじまない名前が記されており、とりあえず理解できたのは、そこがアクセサリーショップであるということだけだった。


「またアクセサリーっすか。もう十二時を回ってるんすよ? 自分はおなかがぺこぺこっす」


「そんなの、ユーリだって一緒だよ! だけど午後には午後で予定が詰まってるんだから、お昼の前にやっつけておかないと!」


 こんなところで押し問答をしていても昼食が遅れるだけなので、しかたなく瓜子は店内に足を踏み入れた。

 ずいぶん小さな店である。これなら十分とかからず退出できそうだ。

 ユーリは再びはしゃぎだし、きらめくアクセサリーに手をのばし始める。


「見て見て! カメさんのペンダント! かわゆくない?」

「ああ、可愛いっすね」


 どうやらユーリは、水棲動物がお好みであるらしい。これは新しい発見だ。


「おう、きれいなビーズだねぇ。このブレスレット、素敵じゃない?」

「いいんじゃないっすか。似合いそうっすよ」


「十字架のネックレス! キリスト教徒じゃないけど、これはかわゆい!」

「そんな注釈はいいっすよ。可愛いっすね」


「シルバーのバングル! ちょっとゴージャス!」

「高そうっすね。似合うっすけど」


「お、幸運を呼ぶ、四つ葉のクローバー!」

「……ああ」


 それは、小さなシルバーのペンダントだった。四つの葉っぱが可愛らしくて、何だか作り手のあたたかみのようなものが感じられる。


「それ、いいっすね。可愛いと思うっすよ」


 ユーリの動きがぴたりと止まり、瓜子をけげんそうにのぞきこんでくる。

 その顔がやがて、にこりと微笑んだ。


「これにしよう! 買ってくるから、うり坊ちゃんは外で待ってておくんなまし!」


「はいはい」


 ようやく心が決まったか。瓜子はいまにも鳴きだしそうな空きっ腹を抱えつつ、ひと足先に店を出る。


「お待たせぇ。きちんと包んでもらったよぉ」


「はい?」


 意味もわからぬまま振り返った瓜子の鼻先に、小さな包みが突きつけられる。


「……何すか、これ?」


「何すかこれって、一周年記念のプレゼントに決まってるじゃん! もったいぶってもしかたないから、さっそく進呈いたしますです!」


「いや、でも、これって、さっきのペンダントじゃないんすか?」


「もちろんそうだよ! ……ああ、みなまで言わないで! うり坊ちゃんがアクセの類いを忌み嫌ってるのは先刻承知! 別にこれをつけて歩けってことじゃないの! うり坊ちゃんの大事な大事な宝箱にでもしまっておいてくれれば、ユーリはそれで満足なのだから!」


「いや、そういうことじゃなくってですね……まさか、このためにあちこち朝から歩き回ってたってことなんすか?」


「そりゃあそうでしょ。何のためだと思ってたにょ? ……なかなかうり坊ちゃんのお目にかなう逸品ってのはないもんなんだねぇ。まあアクセに興味がないんだから、それも当然かぁ」


 ユーリは、幸福そうに笑っている。

 瓜子はどういう表情を浮かべればいいのかもわからなかったので、仏頂面のまま包装紙を解いた。


 ついさきほど目にしたばかりの可愛らしいペンダントが、きらきらと銀色に輝いている。

 葉っぱが、四枚。

 それが、二セット。


「はい。ひとつはユーリのだから、ちょーだい」


 と、ユーリが子どものように両手を差しだしてくる。

 瓜子は一月の白々とした空を振り仰ぎ、大きく深く、溜息をついた。


「何だよぉ。今どきペアルックってどーゆーセンスだよ、とでも言いたいのぉ? 別にうり坊ちゃんにつけろとか言ってないんだから、いいじゃん!」


「だから、そういうことじゃないんすよ」


 瓜子は視線を地上に下ろし、小さな銀色のペンダントをユーリの白い手の平にのせた。


「ありがとお! そして、おめでとお! ユーリはさっそく装着させていただきますわよん」


 うきうきとはずんだ声で言いながら、ユーリは元からつけていたネックレスを外し始める。


(まったく、この人は……)


 今さら指摘する気にもなれないが、マイペースに過ぎるのだ、この娘さんは。

 こんな真昼間の雑踏の真ん中で、人の情動を揺さぶらないでほしいのだ、本当に。


「にゅっふっふ。装着完了! それじゃあ遅めのランチと洒落こみましょうぞ!」


「……美味しいお店に連れていってくれるんでしょうね?」


 ぶっきらぼうに答えながら、瓜子は自分の手に残された幸福の象徴を、ポケットの中で握りしめた。

 そして、考える。

 このリベンジは、今年の十一月十一日に果たすしかないんだろうな、と。


 その頃のユーリと瓜子はどのような騒ぎの渦中にあるのか。そんなことは知るよしもないままに、時間はゆったりと過ぎ去っていった。

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