04 新たな波②

 ユーリの動きが、チャイフラッペのグラスを持ち上げたまま、フリーズする。

 話は、まったくそれてなどいなかった。

 千駄ヶ谷は最初から最後まで、「ユーリの今後の選手活動を左右する突発的な非常事態」について語り続けていたのである。


「ま、待ってください、千駄ヶ谷さん。ユーリさんとの再戦を条件に、専属契約ってことは……ベリーニャ選手自身が、ユーリさんとの再戦をそこまで熱烈に希望してるってことっすよね?」


「そうです。ベリーニャ選手は十一月の試合の直後から、すでに直談判を行っていたそうなのですね。万全のコンディションのユーリ選手と試合がしたい、と。それに対してパラス=アテナの提示した交換条件が、《アトミック・ガールズ》との一年間の専属契約だったのです」


「一年間……今年の夏には自由の身になれるっていうのに、今度は《アトミック・ガールズ》と専属契約しようっていうんすか」


 そもそもベリーニャ選手が《スラッシュ》を退いたのは、北米で最大規模を誇る《アクセル・ファイト》がついに女子部門を発足させると宣言したためであるのだ。

 それでベリーニャ選手は無差別級の王座を返上し、《スラッシュ》との契約を打ち切ったわけであるが、向こう一年間は北米の他大会に出場できないという契約に縛られていた。ゆえに、北米以外の土地に闘いの場を求めて、この日本にやってきたのである。


 その契約が本年の夏ごろに満了を迎えるというのに、ベリーニャ選手が《アトミック・ガールズ》との専属契約を結んだということは――《アクセル・ファイト》への参戦を遅らせてでも、ユーリとの決着をつけたいという意思表明であるはずだった。


「でも……どうしてそこまで、《アトミック・ガールズ》にこだわるんすかね? さっきの話じゃないっすけど、《NEXT》や《フィスト》の興行だったら、そんな条件なしにいくらでもカードを組んでくれるでしょう? ユーリさんとベリーニャ選手のリベンジマッチだったら、どんな興行でも評判を呼べるでしょうし……」


「ユーリ選手には、《アトミック・ガールズ》と交わした特別契約が存在します。猪狩さんにも、その内容はご説明したはずですね?」


「特別契約」と反問しながら、瓜子は懸命に頭の中をまさぐった。


「ああ、えーっと……他団体におけるユーリさんの選手活動は、《アトミック・ガールズ》の興行に支障のない範囲で行うっていう、アレっすか?」


「そうです。ユーリ選手はパラス=アテナと《アトミック・ガールズ》の放映権を所持するスポーツチャンネルの合同企画によってプロデビューを果たしたお立場でありますため、そういった特別契約が交わされることになったのです」


「でも別に、興行の日取りをズラすぐらい簡単な話じゃないっすか。《NEXT》や《フィスト》は男子選手の試合がメインで、毎月のように興行を行ってるんですから」


「日取りの問題だけではありません。他団体の興行でユーリ選手とベリーニャ選手の再戦を行うというのは、《アトミック・ガールズ》にとって著しく営利を損なう行いと見なされてしまうことでしょう」


 残りわずかであったカプチーノを飲み干してから、千駄ヶ谷はさらに語った。


「『《アトミック・ガールズ》の興行に支障のない範囲』という契約を拡大解釈すれば、それを契約違反として訴えることも可能であるかと思われます。そのような面倒を抱えてまで、他団体の運営陣がユーリ選手とベリーニャ選手の再戦に固執することはありえないでしょう。猪狩さんもおっしゃっていた通り、それらの団体はいずれも男子選手の試合が主体なのですから、余技たる女子選手の試合でそうまで危ない橋を渡る理由はないはずです」


「……そのユーリさんとの特別契約を盾に取って、パラス=アテナの連中がベリーニャ選手に専属契約を迫ったっていうんすか?」


「部外者たる私にその内実を知るすべはありませんが、ベリーニャ選手の行動が答えを示しているのではないでしょうか?」


 瓜子は溜息とともに、反論を呑み込むことになった。

 ずっと動きを止めていたユーリが、そこでようやく我を取り戻す。


「そ、それであの……ユ、ユーリとベル様が、再戦……できるのでしゅか? ほんの二ヶ月前に、対戦したばかりなのに……?」


「はい。ただしそれには、もうひとつの条件が付与されます。……すなわち、ベリーニャ選手は無差別級の王座を死守すること。ユーリ選手は、ミドル級の王座を獲得して、やはりそれを死守すること。その条件が満たされれば、本年の十一月に、無差別級とミドル級の王者対決という舞台を準備する……それが、パラス=アテナの首脳陣が描いた青写真なのです」


 そういうことか、と瓜子は頭をかき回す。

 おたがいに再戦を望んでいるユーリとベリーニャ選手の気持ちを逆手にとって、去年に劣らぬ一大イベントを画策しているのだ。

 それはべつだん誰が損をする話でもないのだが、瓜子が手放しで喜べるような話でもない。ユーリの踏み台として設定されてしまったマリア選手やジジ選手らの関係者であったならば、怒りさえ覚えるのではないかと思えてしまった。


「……で、ベリーニャ選手を陰ながらフォローするために、ライト級の選手は防波堤となってメイ=ナイトメア選手を食いとめよ、っていうお話っすか」


 瓜子の口調には、少なからず反感の心情がにじんでしまったかもしれない。

 フリーズしていたユーリはハッとしたように瓜子を振り返ったが、千駄ヶ谷の鉄仮面のごとき無表情は微動だにしなかった。


「日本では無名のメイ=ナイトメア選手を、ベリーニャ選手と対戦させたくはない。それがもちろんパラス=アテナの偽らざる本心なのでしょうが、サキ選手の独壇場となりつつあるライト級を活性化させたいという思いもあるのでしょうね。それほどの実力を持つ選手がみずから参戦を希望してくることなど、そうそうある話ではないのですから。……猪狩さんは、何かご不満があるのですか?」


「……いいえ」


 不満があるなら、ユーリやベリーニャ選手以上に影響力のある選手になってみよ、ということなのだろう。

 そう考えれば、メイ=ナイトメア選手との対戦は、名前を上げるための絶好のチャンスであるのかもしれない。――もっとも、デビュー三戦目の瓜子などに、そんな機会が巡ってくる可能性は皆無であるのだが。


「だいたいお話はわかりましたけど、なんか、オルガ・イグナーチェヴァ選手の存在だけが宙に浮いちゃってる感じっすね。その選手は本当に参戦してくるんすか?」


「それはまだ不明です。彼女は無差別級の選手ですし、まだまだこれからの新人選手でもありますから、パラス=アテナとしても扱いに困っているのでしょう。ただし……何故だか、早い段階で《アトミック・ガールズ》に迎えたいという感情はちらちらと覗かせておりましたね」


「どうしてっすかね。扱いに困ってるなら、参戦なんて拒否すればいいでしょうに」


「わかりません。何か裏事情でもあるのかもしれません」


 これ以上の裏事情など、瓜子としては聞きたくもなかった。

 だいたいが、同門選手のリベンジなどというのが、筋違いも甚だしい。ユーリはリュドミラ選手と正々堂々闘って、打ち倒したのだ。リベンジなど、リュドミラ選手本人が成し遂げなければ何の意味もないだろう。


「あの……メイ=ナイトメア選手は、サキたんとの対戦が予定されているのですか?」


 瓜子のほうを気にしつつ、ユーリがおずおずと言葉を発する。


「いいえ。サキ選手は最後の砦なのですから、そこに至る前にメイ=ナイトメア選手を退けたいと願っているでしょうね。むしろ、メイ=ナイトメア選手を陥落させた選手を、次期のタイトル挑戦者の筆頭として後押ししていく算段なのではないでしょうか」


「にゃるほど。……うり坊ちゃんは、どう思う?」


「え? 何すか?」


 瓜子は驚き、ユーリを振り返った。

 そしてそこに、予想よりもはるかに不安そうな顔を見出し、いっそう驚いてしまう。

 リュドミラ選手や来栖選手を打ち倒してきたユーリである。今さらマリア選手やジジ選手に恐れをなしたりはしないだろう。つまり、この不安げな表情は――もっと別の何かに懸念を抱いている、ということだ。

 そう、たとえば、内心の苛立ちがおもいきり顔に出てしまっている瓜子に対して、とか。


「……いいお話じゃないっすか。何から何までプロモーターのお膳立てってのは、ちょっと自分の趣味には合わないっすけど。このチャンスを逃したら、次はいつベリーニャ選手と対戦できるかもわからないですし。右肘の心配さえなければ、何も迷う必要はないと思うっすよ?」


 瓜子やユーリは、一介の選手にすぎないのだ。趣味に合おうと合わなかろうと、プロモーターのお膳立てに乗らなければ、試合に出場することさえできない。

 たとえば瓜子は《G・フォース》において、主力ジムの品川MAから外様の新宿プレスマンに移籍してしまった。おそらくはそれが原因で、冷遇の憂き目にあわされている。ランキング一位であるにも関わらず、タイトル戦の話などはいっこうに上がらぬまま、昨年は下位のランカーとばかり対戦させられたのだ。――しかも、苦手な足クセの悪い選手とばかり。


 しかし逆に考えれば、わずか二年で瓜子が現在のポジションを築けたのは、品川MAに所属していたためである、とも言えるだろう。

 当時はまったく意識していなかったが、外様の選手よりは多くのチャンスをもらえていた気がする。そのチャンスを活かしてランキング一位の座を獲得できたことを、恥じ入るつもりはない。

 冷遇されれば、数少ないチャンスを逃さないように、全力を尽くす。

 優遇されれば、それが分不相応なあつかいではなかったと証明するために、全力を尽くす。ただそれだけのことだ。


 相応の実力が証明できなければ、周囲に嘲笑され、罵倒されるだけである。

 かつてのユーリが、そうであったように。

 言ってみれば「優遇」とは、ハイリスクハイリターンの試練に他ならないのだろう。

 だけど今のユーリには、どんな試練にも耐えうる強さがある。この優遇が不当だと思うならば、マリア選手やジジ選手がユーリを食い止めればいい。

 選手は、試合で語るしかないのだ。

 瓜子は、そう思う。


「……本当に、いい話だと思ってる?」


 しかしユーリは、不安そうな顔のままだった。

 瓜子が何に対して怒り、苛立っているのかがわからないから、不安でたまらないのかもしれない。

 瓜子は大きく息をつき、ぴしゃぴしゃと自分の頬を叩いてから、ユーリににっこりと笑いかけてやった。


「いい話だと思ってるっすよ。何も心配する必要はありません」


「うう……うり坊ちゃんの笑顔がこわい……」


「どうしてっすか! 失礼なことを言わんでください!」


「だってぇ、明らかに何かをガマンしてるんだもぉん。……うり坊ちゃんは、何に怒ってるにょ?」


 真正面から聞かれてしまった。

 千駄ヶ谷の手前、ここではあまり本心をさらしたくなかったのだが、これではしかたがないだろう。


「怒ってるわけじゃないんすよ。ただ、自分らの試合をビジネスとしてしか考えていないお偉方のやり口が、ちょっと気に食わないだけなんです。……でも、気に食わないだけで間違っているとは思わないから、こうやって心から賛成してるんすよ」


「……試合をビジネスとしてとらえるのは、プロモーターとして当然のことです。むしろ彼らは、そのためにこそ存在しているのでしょうから」


 ふちなし眼鏡の角度をなおしつつ、千駄ヶ谷は静かに述べたてる。


「少し気恥ずかしい台詞を使わせていただきますと……その商業主義にもとづいて立てられたプランに魂を吹き込むのが、選手の役割なのだと思われます。かの《JUF》というイベントなどは、《アトミック・ガールズ》よりもさらに徹底した商業主義に則って開催されていたはずですが……卯月選手やジョアン選手のもたらす魂の輝きがあってこその、大成功だったのでしょう」


「た、魂でしゅか」


「はい。魂です。魂でもって、革命を起こすのです。いわゆる、『Soul revolution』です」


 千駄ヶ谷は《アトミック・ガールズ》のイベント名を実にネイティブな発音で発声し、ユーリをのけぞらせた。


「ですから、プロモーターの思惑などは、考慮しなくてけっこうなのですよ。ユーリ選手はユーリ選手の思うままに、自分の信ずる道を突き進めばいいのです。……パラス=アテナからの要請を受けて、ミドル級のタイトル争奪戦に参加するか。あるいは、地道に実績を積んで、別の角度からベリーニャ選手へのアプローチを試みるか。それを決断するのは、ユーリ選手自身です」


「はあ……」


「私の個人的見解を述べさせていただきますと、今回の参戦オファーは時期尚早に過ぎるのではないかと懸念を抱いております。現段階で右肘が完治していない以上、ユーリ選手が万全のコンディションでマリア選手と対戦できるかも不明ですし。ジジ選手の王座返上の要請や、ベリーニャ選手、およびメイ=ナイトメア選手の対戦希望といった個人的な事情にひきずられて、パラス=アテナが後手を踏んでいる、という印象がぬぐえないのです」


 そうだ。瓜子もそのあたりが特に気に食わなかったのである。

 ジジ選手の王座返上を認めずに、慌てて防衛戦の計画を立てるというのもみっともない話だし。ユーリと闘いたいベリーニャ選手、ベリーニャ選手と闘いたいメイ=ナイトメア選手、そんな両者の心情を、何とか《アトミック・ガールズ》の利益に結びつけようというパラス=アテナの目論みが――正しいとか正しくないとか論ずる前に、まず浅はかで計画性に欠けている、と思えてならないのだ。


 もしもユーリがジジ選手に負けてしまったら、どうするのだろう?

 もしもライト級の精鋭たちがメイ=ナイトメア選手に負けてしまったら、どうするのだろう?

 無差別級、ミドル級、ライト級の三階級が、外国人選手の天下になってしまうではないか。日本人選手の活躍を望むあまりに、墓穴を掘ってしまう結果になりかねない。

 しかし――


「……ユーリは、やりたいです」


 しばらく黙りこくっていたユーリは、やがて何かをふっきるように、強い口調でそう答えた。


「ベル様がそこまでユーリなんかと試合をしたいって言ってくれてるんなら、ユーリはその期待に応えなきゃって思いますし……それに、ユーリも、ベル様も、いつどこで選手を引退する羽目になるかわからないですよね? 稽古中に大怪我をするかもしれないし、交通事故にあうかもしれないし、いきなり病気になっちゃうかもしれないし……だったらユーリは、一番早くベル様までたどりつける道を進みたいです」


 ユーリの表情は、とても静かだった。

 ふだんのように昂揚したりもしていないし、ふざけてもいない。自分の心情をごまかそうともしていない。

 そんなユーリの表情を見ることで、瓜子の胸にくすぶっていた反感の残り火も、きれいさっぱりなくなってしまった。

 パラス=アテナの思惑など、どうでもいい。

 ユーリは、ユーリの道を行けばいいのだ。


「……承知しました。それでは三月大会の参戦オファーは前向きに検討する、という方向でよろしいですね、ユーリ・ピーチ=ストーム選手」


「はい。よろしくお願いします」


「承知しました。……それではセカンドシングルの発売に向けて、いよいよ本格的に始動しなくてはなりませんね」


「え? ああ、はあ」


「来週から、さっそくレコーディングに取りかかりましょう。心配はいりません。こんなこともあろうかと、プロデューサーにはすでに話をつけておきましたので。レコーディングスタジオも押さえておりますし、準備は万端です」


「はい? うーん、えーと」


「来週からはジャケット撮影、およびプロモーションビデオの撮影にも取りかからなくてはなりませんね。……あ、それと、ユーリ選手のベストバウトDVDが制作されることも決定いたしましたので、そちらとの連動企画も進めていかなくてはなりません」


「ええ? ユーリのベストバウトDVD?」


「そうです。そちらの版権はパラス=アテナに帰属しますが、ニューシングルとの同時購入の特典をもうけようという方向性で話は固まっております。発売日は、やはり三月大会の直前がベターでありましょうから、これから忙しくなりますね。……むろん、選手活動の復帰にあたっては、これまで控えていたテレビや雑誌といったメディアでのプロモーション活動も再開させねばなりませんし。私としても、身が引き締まる思いです」


「……そう、でしゅね……」


 もしもユーリが犬だったら、耳がぺたりと垂れていたところだろう。

 だけどユーリは犬ではなかったので。生まれたてのミニチュアダックスみたいな目つきで、瓜子を見つめるばかりだった。

 しかしそのような目で見られても、瓜子の仕事は千駄ヶ谷の補佐なのだから。その命令に諾々と従う他ない。


「それではタイムリミットとなりましたので、私は失礼いたします。よい休日をお過ごしください、ユーリ・ピーチ=ストーム選手。……来たるべき復活の日にそなえて、ですね」

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