03 新たな波①
「お休みのところをお呼び出ししてしまい、まことに申し訳ありませんでした、ユーリ選手」
約束の十一時三十分に一ミリ秒と遅れることなく、千駄ヶ谷女史はいつもの颯爽とした足取りでユーリと瓜子のもとにやってきた。
彼女とは電話で連絡を取り合うことが多いので、顔をあわせるのは新年の挨拶以来となる。本日も紺色のレディススーツと深いグレーのチェスターコートにすらりとした長身を包んだ千駄ヶ谷女史は、漫画に出てくる社長秘書のように凛々しく毅然としていた。
場所は、渋谷駅前の小洒落たカフェである。店はなかなか繁盛していたので、ユーリはニット帽と黒ぶち眼鏡を外すこともできないまま、スターゲイトの敏腕社員と相対することになった。
「いえいえ、滅相もございません。千さんはいっつもユーリのために東奔西走してくださっておられるのですから、ユーリには感謝の気持ちしかありませんですよぉ。……なのに朝方はついぶちぶちと文句ばかり言ってしまって、こちらこそ申し訳ありませんでしたぁ」
文句を言ったのか。この千駄ヶ谷に。ずいぶん恐ろしいことをしたものだ。
ユーリは丸っこい肩をすぼめつつ、上目づかいで千駄ヶ谷の表情をうかがっていたが、そうそう簡単に内心を覗かせてくれる相手ではない。千駄ヶ谷は「恐縮です」と無表情につぶやきながら、ふたりの正面の席に腰を下ろした。
「で、さっそく本題なんですけどぉ、ユーリの選手活動に関わる非常事態っていうのは、いったい……?」
「お待ちください。その前に……猪狩さん、ちょっとよろしいですか?」
「は、はい。何すか?」
「私からの電話をクライアントのユーリ選手に出ていただくというのは、いささかならず常識の欠けた振る舞いではないでしょうか? これだけ行動をともにしているのですから個人的な交流が深まるのは当然ですし、また、それは非常に喜ばしいことだとも思いますが、だからこそ、公私の別はわきまえていただかなければ困ります」
「あ……はい。どうもすみません。今後は気をつけます」
「ちょ、ちょっと千さん、アレはユーリが勝手に出ちゃっただけなのでありますから、うり坊ちゃんを怒らないであげてくださぁい」
「怒っているわけではありません。直属の上司として然るべき訓告を述べているだけです。どうぞユーリ選手はお気になさらずに」
抑揚のない声でユーリの反論を封じつつ、千駄ヶ谷はこちらに近づいてこようとしていたウェイトレスに「エスプレッソを」と短く告げた。
瓜子の前にはホットカフェオレ、ユーリの前にはチャイフラッペなるフローズンドリンクがすでに並べられている。
「さて。それでは時間もありませんので、本題に入らせていただきましょう。……昨晩、パラス=アテナの駒形氏より、三月大会の参戦オファーをいただきました」
「え? 昨日興行が終わったばかりなのに、ずいぶんせっかちさんですね! ユーリとしては、もうちょいまともにお稽古ができるようになるまで、試合のお誘いは待っていただきたかったのですが……」
「もちろんそれは、駒形氏のほうでもご承知の上です。現段階では、ユーリ選手としても明確な返事をすることはできないでしょう。それを十分にわきまえた上での、参戦オファーなのですよ。……何せ、非常事態が勃発してしまったものですから」
そう言って、千駄ヶ谷は白刃のごとき眼光でユーリを見つめ返した。
「《アトミック・ガールズ》のミドル級チャンピオン、ジジ・B=アブリケル選手が、タイトルの返上を申し出てきたそうなのです。……無差別級に転向して、ベリーニャ・ジルベルト選手と対戦するために」
「ええ? そりゃあ確かに非常事態ですねっ! ……だけど、それとユーリへの参戦オファーにどのような因果関係が存在するのでありますか?」
瓜子には、何となく想像がついた。
そして千駄ヶ谷は、その想像通りの台詞を口にした。
「ミドル級の絶対王者として君臨していたジジ選手に無敗のままタイトルを返上されてしまっては、残された選手たちの立つ瀬がありません。ゆえに、パラス=アテナの首脳陣としては、きちんと防衛戦を執り行った上で、ジジ選手からベルトを奪還したいのでしょう。そのタイトル挑戦者を決定するために、ミドル級のトップファイターによるミニトーナメント戦が開催されるはこびとなったのです」
沙羅選手が言っていたのは、これか。
瓜子はようやく納得がいった。
しかし、ユーリはまだ黒ぶち眼鏡の向こうで大きな目をぱちくりとさせている。
「それはそれは。無差別級のトーナメントが終わったばかりなのに、慌ただしいことですにゃあ。……で、それとユーリへの参戦オファーにどのような因果関係が存在するのでありますか?」
瓜子は、ずっこけそうになってしまった。
千駄ヶ谷は、ぴたりと唇を閉ざす。
不穏な空気があたりにたちこめて、それが気まずい重苦しさを併発しそうになったとき――実に絶妙なタイミングで、ウェイトレスが注文の品を持ってきた。
「お待たせいたしました。エスプレッソです。伝票、失礼いたします」
千駄ヶ谷はゆっくりとカップを取り上げて、その中身を一口すすり、「なかなかの豆を使っていますね」とつぶやいてから、あらためてユーリに向きなおった。
「ユーリ選手。このたびの参戦オファーとは、五月に開催される挑戦者決定戦の、いわば予選試合なのです」
「ふにゅにゅ? どうしてユーリに、そのような大役が? ユーリなんて、八勝十一敗一引き分けの負け越し選手じゃないですかぁ。今回は無差別級のときみたいに、誰でも自由に参加できるってお話でもないのでしょう?」
「無論です。むやみに参加選手を増やしてしまっては、肝心のタイトル戦までに余力を使い果たしてしまうでしょう。三月には四名の選手による予選試合が執り行われ、五月には、その勝者二名に沖選手と魅々香選手を加えた四名で本選のミニトーナメントが開催される予定だそうですよ」
「にゃるほどにゃるほど……で、どうしてユーリにそのような大役が……」
「ユーリ選手も、トップ選手のひとりであるからです」
ユーリの言葉をさえぎるように、千駄ヶ谷はそう言った。
その声はふだん通りの冷静さを保持していたが、やや性急な物言いに内心の焦れったさがにじんでしまっている。血液の代わりに不凍液でも流れていそうな千駄ヶ谷にしては、珍しいと言っても足りないぐらいの椿事であったに違いない。
「ミドル級のトップファイターと名高い魅々香選手は、本選への参戦が決定しているのです。その魅々香選手にも勝利したことのあるユーリ選手は、まぎれもなくミドル級のトップコンテンダーではありませんか?」
「ううむ。だけど魅々香選手や沖選手は、それこそタイトル戦の経験もあるベテラン選手さんじゃないですかぁ? そんな中に、ようやく勝ち星を拾えるようになったばかりのユーリが混じりこんじゃうっていうのは、何やら腑に落ちないような……」
「だからこその、予選試合なのでしょう。現在パラス=アテナの首脳陣が予選試合への出場を呼びかけようとしているのは、ユーリ選手と、沙羅選手、それにマリア選手と、オリビア・トンプソン選手の四名だそうです」
持ち前の忍耐力を復活させて、千駄ヶ谷は辛抱強く説明の言葉を重ねる。
「うがった見方をするならば、これはユーリ選手と沙羅選手の査定試合、という意味合いが強いのでしょう。戦績には恵まれないものの、確かな実力を示しているマリア選手と、日本人キラーとして名高いオリビア選手。この二名を打ち破る実力があるならば、挑戦者決定戦に参加する資格あり、ということです」
「はあ……」
「なおかつユーリ選手は魅々香選手ばかりでなく、このオリビア選手と、それに沙羅選手にも勝利しています。それどころか、無差別級のエースたる来栖選手や小笠原選手にも勝利しているのですから、本来ならば予選試合など必要ないぐらいの実績なのです。……しかし、ユーリ選手のおっしゃる通り、他のベテラン選手をさしおいてタイトルに挑戦させては角が立ってしまいます。それでパラス=アテナの首脳陣としても、このような予選試合を設定せざるを得なかったのでしょう」
「ふにゅにゅ……ということは、ユーリの対戦相手に予定されておられるのは……」
「無論のこと、いまだ対戦経験のないマリア選手ということになりますね」
赤星道場の、マリア選手。
メキシコ人とのハーフであり、昨年の無差別級トーナメントにも名乗りをあげた強豪選手である。その予選試合においては兵藤選手に敗北を喫してしまったが、あれほどの体格差があってはしかたがない。十キロ以上も重い無差別級のファイターと互角以上の闘いができるユーリやサキや沙羅選手のほうが、規格外なのだ。
それでもまた、マリア選手がミドル級のトップ選手だという事実に疑いはない。千駄ヶ谷の言う通り、戦績のほうは勝ったり負けたりでパッとしないが、何というか、型にハマると無類の強さを発揮するタイプなのである。新人選手にまさかの敗北を喫することもある反面、沖選手や魅々香選手を相手に勝利をおさめたこともある。オリビア選手やジーナ・ラフ選手にも勝ったことがあるはずだ。まだまだ年齢も若かったはずなので、ユーリや沙羅選手の台頭がなければ、もっとも期待をかけられるべき若手の筆頭格であったのかもしれなかった。
「ユーリがマリア選手、沙羅選手がオリビア選手と闘って、勝った二人がミニトーナメントに出場、でしゅか。……ううん、それは何とも血湧き肉躍るご提案でございますけども……お返事は、近日中にしなくてはならないのですよね?」
「はい。ユーリ選手が辞退される場合は、他の候補者を選出せねばならなくなりますので、少なくとも今月いっぱいには返事をしなくてはならないのでしょうね」
「ううむ……悩ましいでしゅね……」
「それに加えて、ユーリ選手はオルガ・イグナーチェヴァ選手からも対戦を表明されているそうです」
「は? 何でしゅか?」
「オルガ・イグナーチェヴァ選手。ロシアのチーム・マルスに所属する新人選手です。昨年度、ロシアにおいて初めて開催された女子選手によるMMAのトーナメント戦で、十八歳の若さにして優勝をおさめた新進気鋭の強豪だそうですよ」
「はあ。そのオルガ選手とやらが、どうしてユーリに?」
「……彼女はリュドミラ選手の同門でありますから、そのリベンジということなのでしょう。チーム・マルスの威信は自分が回復させると雪辱に燃えておられるそうです」
「せ、千駄ヶ谷さん、その選手はもしかして、キリル・イグナーチェフ選手の関係者か何かなんすか?」
思わず瓜子が口をはさんでしまうと、千駄ヶ谷は「はい」と冷静にうなずいた。
「オルガ・イグナーチェヴァ選手は、キリル・イグナーチェフ選手の実の息女であられるそうです。父親譲りの苛烈な打撃技とサンボのテクニックで、もはやロシア国内には敵なしという評判のようですね」
「ふみゅ? そのお父様は、何か有名な方なのですか?」
ユーリがきょとんとしているので、瓜子は呆れ果ててしまった。
「キリル選手は、《JUF》の全盛期に活躍してたロシアの強豪じゃないっすか。ユーリさん、知らないんすか?」
「だってぇ、《JUF》が定期的に開催されてたのって、七、八年も前のことでしょお? ユーリはその頃、まだ格闘技のカの字も知らなかったもぉん」
そうなのか、と瓜子は息をつく。
《JUF》、ジャパン・アルティメット・ファイティングは、日本における格闘技ブームの象徴である。主催者の不祥事によって《JUF》の栄華が終焉すると同時に、格闘技ブームにもまた幕を下ろされた、と言っても過言ではないだろう。
瓜子とて、その頃はまだ小学生にすぎなかったが――ああして格闘技の大会が民放のゴールデンタイムに放映されるというムーブメントがなかったら、格闘技の魅力にとりつかれることもなかったはずであった。
「それじゃあユーリさんは、《JUF》の四天王も知らないんすか?」
「知らなぁい。どこのどなた様?」
「アメリカのゴードン・ロックハート選手。フランスのマテュー・ドゥ・ブロイ選手。ブラジルのジョアン・ジルベルト選手。それに日本の卯月選手、ですね」
千駄ヶ谷が代わりに答え、ユーリに「おお!」と声をあげさせる。
「ベル様のお兄様と卯月選手は存じあげております! 四天王だなんて、かっちょよろしいですわねぇ」
「ゴードン選手やマトゥー選手は一線を退いて、後人の育成に専念しておられるようですね。ジーナ・ラフ選手はゴードンMMAジムの所属で、ジジ・B=アブリケル選手はブロイFAの所属でしたか」
そう。そして卯月選手というのは新宿プレスマン道場の名誉師範であるレム・プレスマンの秘蔵っ子であり、ジョアン選手は言うまでもなくジルベルト柔術アカデミーの最強選手――なおかつ、ベリーニャ・ジルベルト選手の実兄でもある。
それに加えて、《JUF》四天王に次ぐ実力者として知られていたキリル・イグナーチェフ選手の娘、オルガ・イグナーチェヴァ選手の台頭、か。
たとえ日本国内の格闘技ブームが終焉しても、歴史が断絶しているわけではない。
それは当たり前のことであるはずなのに、瓜子は何だかぞくぞくとしてしまった。
「……ところで、お二人におうかがいしたいのですが。サキ選手の負傷の具合はいかがなのでしょうか?」
と、いきなり千駄ヶ谷に話題を転換させられてしまい、ユーリは「はにゃ?」と首をかしげる。
「サキたんは、ユーリほど順調ではないようですねぃ。もともとユーリよりも重傷の身であられましたし、リハビリにもけっこうなお時間がかかるのではないかと……それがどうかしたのですかぁ?」
千駄ヶ谷の仕事は、あくまでユーリのマネージメント管理である。ユーリとは階級の異なるサキのコンディションなど、千駄ヶ谷の業務には関わりがないはずなのだが――
「実はですね、メイ=ナイトメア選手の《アトミック・ガールズ》参戦が、正式に決定したようなのです」
「メイ=ナイトメア? それって大晦日、ベル様にご無礼をはたらいたオーストラリアの選手ですよね?」
黒ぶち眼鏡の向こう側で、ユーリの目の色が変化する。人を恨んだり呪ったりすることのないユーリだが、愛しのベリーニャ選手に唾を吐きかけたメイ=ナイトメア選手だけは見すごせぬらしい。
「はい。メイ=ナイトメア選手はかねてよりベリーニャ選手との対戦を熱望していたそうですので、ついに《アトミック・ガールズ》にまで追いかけてきた、ということですね。……ただし、彼女は体重五十キロ前後の軽量級選手でありますので、まずはその階級で実績を示さない限り、《アトミック・ガールズ》においては対戦を許可できないと突っぱねたそうなのです」
「へえ。《スラッシュ》の元軽量級チャンピオンに、ずいぶん強気な対応っすね」
「はい。パラス=アテナの首脳陣にしてみれば、ベリーニャ選手との対戦を熱望する外国人選手など、無用の長物でしかないのでしょう。ジジ・B=アブリケル選手の無差別級転向もまた然りです。……彼らが望んでいるのは、あくまでも日本人選手による活躍なのですから」
なるほど。ベリーニャ選手にはまだジルベルト柔術というブランドが付加価値として認められるが、メイ=ナイトメア選手やジジ選手には「日本人選手との対決」によって興行を盛り上げていただくしか用途がない、ということか。わかりやすすぎて、溜息も出ない。
「だったら、アトミックにこだわる必要もないと思うっすけどね。去年の《JUFリターンズ》はベリーニャ選手の負傷で流れちゃいましたけど、《NEXT》とか《フィスト》とか、そういう舞台で対戦を希望すれば、案外すんなりと通るんじゃないっすか?」
「私もそう思います。……ですが、ベリーニャ選手の側がその可能性を潰してしまいました。メイ=ナイトメア選手がベリーニャ選手と対戦するには、もはや《アトミック・ガールズ》に参戦するしか道が残されていないのです」
「え? どういうことっすか?」
「ユーリ・ピーチ=ストーム選手との再戦を、年内に実現させる。……それを条件に、パラス=アテナはベリーニャ選手との専属契約を成立させたそうなのですよ」
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