ACT.3 記念の日

01 その日の朝

「うり坊ちゃん! 朝だよ! 朝が来たのだよ!」


 その日の瓜子の安眠は、けたたましいわめき声と扉を乱打する音色で木っ端微塵に吹き飛ばされることになった。

 枕もとの時計を見て、溜息をつく。まだ朝の七時前ではないか。試合の翌日で、おまけに仕事も入っていないのに、どうしてこんな早起きを強要されなければいけないのか。今日一日はユーリのプランにのっとって過ごすという約束を、瓜子は朝一番から後悔する羽目になってしまった。


 試合の翌日。一月第三週の、月曜日。

 本日は、瓜子とユーリが出会ってちょうど一年目――ユーリの言葉で言うならば、二人が奇跡的な邂逅を果たした祝うべき一周年記念日、ということになる。

 結婚記念日じゃあるまいし、出会ったその日を祝う人間などいるだろうか? 二人は恋人同士でも何でもなく、いまだ友達という肩書きすら面映くて使えないような間柄であるというのに。


(だけどまあ……)


 あれからもう一年もの歳月が経過してしまったのか、という感慨は深い。

 千駄ヶ谷に連れられて、恵比寿AHEADにまでおもむいた、あの日――ユーリはアメリカのジーナ・ラフ選手に三十八秒で一本負けを喫し、瓜子はそれを立ち見席から眺めていた。


 それを、昨日のことのように鮮明に覚えている――とまでは言わないが、やはり、一年も昔のことなのだとも思えない。

 あの頃の瓜子は、ユーリを嫌っていた。

 ユーリは、瓜子と暮らすことを心底から嫌がっていた。

 そんな二人が一周年の記念日を祝うような関係性を構築してしまおうなどとは、誰にも想像できなかっただろう。

 煎餅蒲団の上でそんな想念にふけっていると、ユーリの声音はいっそうボリュームと切迫感を増していった。


「うり坊ちゃん! どうしたの! まさか、脳溢血でも起こしているのではなかろうね! ユーリを置いて死んじゃったりしたら、あの世まで追いかけていって横四方に抑えこんであげちゃうからね!」


「朝っぱらから不吉なことを言わないでくださいよ。カギなんてついてないんだから、勝手に入ってくりゃいいじゃないっすか」


 瓜子が寝室として使っているのは、かつてサキが使っていた六畳の和室だった。ユーリの接触嫌悪症がぶり返してからの四ヶ月間、瓜子は眠るときだけこの部屋を使わせていただいているのだ。


 山のようなDVDソフトと、古びたコンポ、格闘技雑誌の束、それにカンフー映画の特大ポスターといったサキの荷物は、そっくりそのまま残されているのだが――サキがこの部屋に戻ってくることは、果たしてこの先ありうるのだろうか。

 そんなことを考えている間も、ユーリは飽きずに扉の外でわめいている。


「入っていきたいのは山々でございますけれども、寝起きのうり坊ちゃんはおっかないんだもぉん。あの右フックは強烈なトラウマとして、まだユーリのココロに深く傷痕を残しているのだよ!」


「あれはユーリさんが無言で人の寝顔をのぞきこんでたから、反射的に手が出ちゃっただけっすよ。薄気味の悪い真似はやめてほしいっす」


「うわあん。ユーリの愛情表現が薄気味悪いって言われたぁ! うり坊ちゃんは鬼だ! 鬼畜だ!」


 瓜子はひとしきり頭をかきむしってから、居心地のいい布団と決別する覚悟を決めた。

 なにせ一月の朝である。室内の空気はこれでもかというぐらい凍てついている。スウェットの上に部屋着のジャージを羽織っても、そんなものは気休めにもならなかった。

 裸足に畳が、また冷たい。とにかく温かいミルクでもいただこうと、瓜子はスライド式の扉に手をかけた。


「あ、起きた! 一周年おめでとう、うり坊ちゃん!」


「……はい。おはようございます」


 朝からこんなテンションについていけるはずもない。

 扉の外に立ちつくしていたユーリは、ピンク色のカーディガンにダメージデニムというお気に入りの格好で、耳にはピアス風のイヤリング、手首にはシルバーのブレスレット、白い面にはもともとの魅力をさらに際立たせるナチュラルかつ巧みなメイクまでほどこされ、もう上着を羽織ればすぐにでも外に飛び出せるような準備万端のいでたちであった。


「……気が早いっすよ。いったい何時から起きてたんすか? 昨日は午前様だったっていうのに……」


「午前様だったのは、うり坊ちゃんが新年会を強要したからじゃん! まさか二次会にまでつきあわされるとは思わなかったよ!」


「強要なんてしてないっすよ。参加するって決めたのは、ユーリさん本人でしょう?」


「うぐぐ。盗人たけだけしいとはこのことじゃ! ……まあ、気まずさよりも楽しさのほうが優ってたから、うり坊ちゃんには感謝してるけどさあ」


 楽しかったのなら、何よりだ。店を移動しての二次会においては、二人そろって立松コーチに説教されていた記憶しかないのだが……まあ、やんわりと距離を取られるよりは、説教でも食らっていたほうが健全かつ幸福な関係性なのだろう。


「そういえば、ムラサキちゃんにも新年会は不参加よんって言ってあったんだよにゃあ。明日顔をあわせたら、またぶちぶち文句を言われちゃうかにゃあ。そのときは、うり坊ちゃんが守ってね?」


「そいつは請け負いかねるっすね。自分が口を出したら、よけいややこしいことになりそうっすもん。……とりあえず、寒いんでダイニングに移動しないっすか?」


「あ、お先に朝ごはん? お風呂もわかしてあるのだけれども?」


 そうだ。昨晩は帰りが遅かったので、入浴を割愛させていただいたのだ。女二人の気楽な生活だと、こんな怠惰も許されてしまう。


「てことは、ユーリさんは風呂も済ませた上でそんな格好をしてるんすね。ほんとに、何時に起きたんすか?」


「黙秘権を行使いたします! 言ったら、さすがに引かれちゃいそうだから」


 と、頬を赤らめて身体をくねらせる。なんだか瓜子は、色気の過剰な新妻でももらったような心地であった。


「それじゃあ、お言葉に甘えてお風呂をいただきます。……中で寝ちゃったら申し訳ないっす」


「うにゅにゅ? そしたらユーリが、眠れるうり坊ちゃんの珠玉のお肌をぴっかぴかに磨いてあげましょうぞ! ……ううむ、楽しそう! ユーリももっかいお風呂からやりなおそうかしらん」


「自重してください。それじゃあ、行ってくるっす」


 門番のように立ちはだかっていたユーリを追い払い、瓜子はバスルームへと急ぐ。

 羽織ったばかりのジャージを脱ぎ、スウェットを脱ぎ、寒さに震えながら下着に手をかけたとき――くもりガラスの戸が、ひかえめにノックされた。


「何すか。のぞかないでくださいよ」


「のぞいてないじゃん! あのね、うり坊ちゃんの携帯がみいみい鳴いてるにょ。千さんからのお電話みたいだよぉ?」


 何たるバッドタイミング。いくら何でも、ここからまたスウェットの袖に腕を通す気にはなれなかった。


「ええっと……クライアント様にこんなことを頼むのは気が引けるんすけど、代わりに出ておいてもらえないっすか?」


「合点承知! うり坊ちゃんは湯船で悦楽にふけっている最中とお伝えしておくよん」


 それはオーバーな言い様だったが、冷えた身体に熱い湯は、吐息がもれるほどに心地よかった。

 最近は、ずいぶんのんびりとした日が続いている。何せ仕事がないものだから、昼すぎに道場がオープンするまで、自由に時間を使えてしまうのだ。


 もっとも、それで鍛錬を怠るようなユーリと瓜子ではない。昨晩は珍しく帰りが遅くなってしまったが、基本的には0時前に寝て七時か八時には起床する。しかるのちにリビングという名のトレーニングルームでひと汗流し、ゆとりがあれば試合の映像を研究する。昼食の後は道場で稽古、夕食の後も道場で稽古、マンションに帰ってすぐに就寝――こんな生活が、もう二ヶ月ほども続いているのである。


 仕事など、ちょっとした取材か、千駄ヶ谷との打ち合わせぐらいしかない。

 本当に、練習漬けの毎日なのだ。

 もちろんロクに働いていないのだから稼ぎもなくなってしまうわけだが、ユーリには夏から冬にかけて働きまくったぶんの貯蓄もあった。給料の半分は歩合である瓜子のほうはもうちょっと深刻だったが、生活に困窮するほどではない。千駄ヶ谷などはスターゲイトの雑用でも割り振ってやろうかと気を使ってくれたぐらいだが、瓜子は謹んでそれを辞退した。どうせまた放っておいても馬車馬のように働く毎日が舞い戻ってくるのだろうから、それまではこの優雅な日々を満喫していたかった。


 ユーリがいつぞや言っていた、試合と稽古と体調管理だけの、幸福な生活。

 それが、これではないか、と思う。

 こんな生活が半年も続けば、たちまち財政は破綻してしまうので、あくまで期間限定の蜜月であるわけだが――瓜子は、ほぼ完全に充足してしまっていた。


 完全でないのは、ユーリが負傷してしまっているせいだ。

 負傷のせいで、トレーニングにも制限がかかる。試合を行うこともできない。今の生活にピースが足りないとしたら、その一点だけだろう。

 しかしまた、ユーリが負傷をしなければ、このような蜜月もやってはこなかったのだから、ないものねだりなのはわかっている。女子格闘技という存在がもっと世間に認知されないかぎり、瓜子たちが心から望むような日々はありえないのだった。


(自分たちが現役でいる間に、そんな時代がやってくるのかな……)


 難しいだろう、とは思う。

 しかし瓜子たちは、やれることと、やるべきことをやり通すだけだった。


 そんな想念にひたっていたせいか、瓜子は本当に湯船で沈没しそうになってしまった。

 朝から込みいった話を考えすぎだろと、自分で笑う。

 そうして入浴を済ませた瓜子が新しい部屋着を着てダイニングに出向いてみると、ユーリは瓜子よりも込みいった顔つきをしていた。


「どうしたんすか? 便秘のスライムみたいなお顔になってるっすよ」


「ユーリをゼリー状の怪物にたとえるのはやめて! ……千さんが、打ち合わせをしたいっておっしゃってるんだよぉ」


「打ち合わせ? 今日っすか?」


「そう! こんな大事で一生に一度しかない日に! 涙ながらにユーリが訴えても、千さんの鋼のハートにはヒビひとつ入らないにょ」


 なんと悲しげな顔をしているのだ。まるですべての友達に誕生日パーティーをボイコットされた小学生のような面持ちではないか。ユーリのテンションには共感しかねていた瓜子ですら、何だか胸が痛くなってしまった。


「ずいぶん急なお話っすね。セカンドシングルのレコーディングについては、あらかた話もまとまったんじゃなかったんでしたっけ?」


「うん。今日の打ち合わせはそっちじゃなくて、《アトミック・ガールズ》についてなんだってぇ。ユーリ選手の今後の選手活動を左右する突発的な非常事態が生じてしまったとか何とか……」


「ひ、非常事態? 何なんすか、いったい?」


 ほんの一瞬、小笠原選手の冷たい無表情が脳裏をよぎってしまった。

 かつて無差別級のトップスリーは、《アトミック・ガールズ》を離反して新団体を立ち上げる、などというとんでもない話を持ち出していたのである。


「わかんにゃい。ミドル級のチャンピオン様がどうのこうのって言ってた気がするけどぉ。それがどうして今日なのさ! ユーリは泣きたい! うり坊ちゃん、ちょっとそのかわゆらしいお胸を拝借できないものかしら?」


「お断りします。……だけど、打ち合わせなんてそんなに時間のかかるものじゃないっすよね? 千駄ヶ谷さんは、何て言ってたんすか?」


「ワタクシも多忙をきわめておりますもので、十一時半から十二時半までの一時間しか捻出できませぬが、だって。ううう。ユーリとうり坊ちゃんの大事な一周年記念日が……」


「何だ。一時間ぐらいなら、いいじゃないっすか。どうせ今日は、丸一日予定を空けてあるんですし」


「いいわけあるかぁい! 今日という日は一分一秒までうり坊ちゃんと満喫したかったの! すべての邪魔者は腕ずくで排斥する覚悟だったのに、千さんが相手じゃそれも不可能だよぅ」


 本当に、どれほど入れこんでいるのだと瓜子は呆れてしまう。

 仕事のスケジュールを空けることは容易かったが、ユーリが――このユーリが、今日ばかりは道場の稽古さえ休ませていただこうと言いだしたときにも、瓜子は思わず絶句してしまったものだ。そしてその理由が、瓜子との出会いを祝するため、とあっては……もはや、どういう感想を抱けばいいのかすらわからなくなってしまう。


「ユーリさんって、そういうイベントごとには興味がないんだと思ってたっすよ」


 かつて瓜子がそう言ったとき、ユーリは「ふにゅふにゅ?」と首を傾げていた。


「イベントごとって、クリスマスとかバレンタインとか? 月並みなお返事で恐縮ですけれども、ユーリは別にキリスト教徒ではないのでねぇ」


「正月とか大晦日は?」


「ユーリは氏子でも仏教徒でもないぞよ。骨の髄まで無神論者なのであります!」


 だから初詣にも興味なし、ということか。確かに月並みといえば月並みな主張ではある。


「まあ、みんなが楽しげに浮かれておるのを遠くから眺めるのは好きなんだけれども。そこに混じるのはめんどくさいにゃあとか思っちゃうのよん。ユーリが好きなのは、誕生日ぐらいかにゃ」


「え? た、誕生日?」


「うん。誕生日って、その人だけの特別な日じゃん? 神様も仏様も関係ないし。誕生日だけは、ユーリも手放しでお祭り気分にひたれるのだよ。ビバ誕生日!」


「だけど……ユーリさんの誕生日には、何にもできなかったじゃないっすか?」


 ユーリの誕生日は、無差別級トーナメントの直前、十一月の十一日だったのだ。

 その頃のユーリたちは、多忙を極めていた。そしてそれ以上に、相手の気持ちを見失って、おのおの迷走しまくっていた。

 それが直接関係あるのかはわからないが、ユーリは自分の誕生日が訪れたことを瓜子に告げることもなく、瓜子もユーリに誕生日が訪れたことに気づくことができなかった。

 瓜子がそれを知ったのは、二人が和解を果たした後――十二月の、瓜子の誕生日が訪れてからのことだった。


「あ、いいのいいの! しめっぽくならないで! ユーリが楽しいのは、人の誕生日だけだから! 自分の誕生日には、死んじゃったパパやママたちのことを思い出しちゃうから、ちっとも浮かれられないんだよぅ」


「いや、余計にしめっぽくなるじゃないっすか!」


 それに瓜子は、ユーリの誕生日を知らなかったわけではない。ただ思い出せなかっただけだ。ユーリは十八歳になると同時にプロデビューを果たした、と、かのドキュメント番組でははっきりと告げていたのだし。なおかつ、無差別級トーナメントはユーリのデビュー二周年大会と銘打たれていたのだから、ヒントはそこら中に転がっていたことになる。


 もちろん、二年も前に観た番組の内容を忘れていたところで、誰に責められるいわれもなかったが、それで自分だけ誕生日を祝われてしまった口惜しさが消えるわけでもない。

 おたがいの真情を疑いながら、薄氷を踏むようにおそるおそる生活していた、あの最悪な時期――ユーリは、どのような気持ちで誕生日を迎えていたのか。想像すると、胸の奥が灼けそうになってしまう。

 だから瓜子は、一周年だ何だとむやみに騒ぎたてるこのたびのユーリに、文句をつける気持ちにはなれなかったのだった。


「……千駄ヶ谷さんがそこまで火急だっていうんなら、やっぱりけっこうな大ごとってことっすよ。それを先のばしにしたら、一日中落ち着かない気分になっちゃうんじゃないっすか?」


「……むぎゅう」


「二十四時間のうちの一時間ぽっちっすよ。残りの二十三時間を楽しみましょう。それだけあれば、何でもできるっすよ」


「……だけどもう、七時間四十分も経過しちゃってるじゃん。うり坊ちゃんが、お寝坊したせいで」


 と、唇をとがらせかけてから、ふいにユーリはにこりと笑う。


「でも、こんな風にうじうじぼやいてる時間がもったいないね! とっとと栄養補給して、外に繰り出そう! これなら筋トレのほうがまだ楽だよというぐらいの過密スケジュールなのだから、覚悟しておくのだよ、うり坊ちゃん!」


 ちょっとは手加減してくださいね、と瓜子は内心で苦笑した。

 こうして二人の祝するべき一日は、朝から騒々しく始まったのだった。

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