05 薄幸の少女

「よー、今日のお仕事、おつかれさん」


 無事に閉会式まで終えて、関係者用の裏口からミュゼ有明の外に出ると、そこにはサキが待ち受けていた。

 そのかたわらには、車椅子の少女――牧瀬理央もいる。

 昨年末に約束した通り、サキは理央とともに一般客として本日の試合を観戦に来てくれたのだ。試合前はバタバタしていて顔をあわせることができなかったので、瓜子はほっと息をついた。


「ありがとうございます。おかげさまで、勝ちを拾えました」


「拾ったっつー勝ち方じゃなかったろ。まさに強奪って感じだったぜ」


 なんだか、ものすごく照れくさい。

 そういえば、一年前に出会いを果たしてから、サキにきちんと試合を観てもらうのは、これが初めてのことだったのだ。


「おめーが負けるとは思ってなかったけど、まさかここまで実力に開きがあるとはな。ストライカーが相手だったら、おめーの実力も中堅クラス以上ってこった」


「そ、それは言いすぎっすよ、サキさん。あまり後輩を甘やかさないでほしいっす」


「あん? アタシにそんな気の利いた機能はついてねーよ。おめーはキックのトップランカーなんだから、別におかしな話じゃねーさ。……ま、これであのウサ公も、アホみてーな突進だけじゃあ勝てねーってことが身にしみたろ。もしかしたら、これがきっかけで大化けするかもしんねーぞ、あいつは」


「そうっすね。何だか自分もそんな気がしてたっす。……あ、理央さんも、ありがとうございました。初めて観てもらえたのが勝ち試合で良かったっすよ」


 瓜子がそう呼びかけると、車椅子の少女は、びくりと細い肩を震わせた。

 顔はうつむき、表情は見えない。耳には異常などないはずなのに、瓜子のほうを見ようともしてくれない。


 まさか、初めて格闘技の試合を生で観戦して、何か嫌なものでも感じてしまったのだろうか。

 今日の理央は、ワンピースの上にコートを羽織り、ニットの帽子とニットのマフラー、それに手袋ともこもこのブーツという完全防備で、白を基調としていたために、なんだか雪国の妖精みたいに可憐だった。

 こんな少女に、格闘技観戦などは刺激が強すぎたのかもしれない。おまけに出場しているのは女ばかりで、瓜子の試合は乱打戦のKO劇――怖がるな、というほうが無理な話だったのか。


「ん? 何だよ、おめー。シカトしてんじゃねーよ。居眠りこいてんのか、このタコスケ」


 と、サキが容赦なく、少女の左肩をゆさぶる。


「ちょ、ちょっと、サキさん、あんまり無茶はしないでくださいよ」


「無茶じゃねーだろ。屋上から飛び下りても生きてたんだから、これぐらいじゃあ死にはしねーよ」


 実におそろしいことを言ってのける。その乱暴な所作にようやく面を上げた理央は、おずおずと、拾われてきたばかりの子犬のように、瓜子の顔を見上げてきた。

 とたんに、その頬が少女マンガみたいなバラ色に染まる。

 理央はまたすぐうつむいてしまい、サキの着ていたスカジャンのすそに指先をからませた。右半身は麻痺しているので、左手の指先だ。


「何だ、会うのは二回目なのに、ひと目惚れかよ? ……瓜、こいつはおめーがウサ公をぶちのめす姿を目の当たりにして、何だかおかしな趣味に目覚めちまったみたいだなー」


「はい? 悪い冗談はやめてくださいよ、サキさん」


 理央はいっそう顔を真っ赤にして、ぐいぐいとサキのスカジャンをひっぱっている。


「冗談じゃねーって。他の試合ではぽかんと目を丸くしてるだけだったのに、おめーの試合だけは目をギラギラさせて、車椅子から落っこちそうになるぐらい身を乗りだしてたんだもんよー。あれがひと目惚れじゃねーってんなら、いったいどーゆー病気だってんだ?」


「ほほう! つまり理央ちゃんは、うり坊ちゃんの勇姿にココロを奪われてしまったというわけなのだねっ! 気持ちはわかる! わかりすぎるぞよ!」


 と、今まで静かにしていたユーリまでいきなり騒ぎ始めたので、理央は見ていて気の毒になるぐらいくにゃくにゃになってしまった。


「あ、ごみんごみん。ユーリもあのスサマジイKO劇を反芻してうっとりしておったのだよ。うん、あれは血のたぎる試合だった! うり坊ちゃん、ユーリも早く復活したい! みんなの前で、試合がしたいよっ!」


「わかりました。わかりましたから、もうちょいトーンを落としてください。理央さんが怯えちゃってるじゃないっすか」


 瓜子は理央のもとまで歩を進め、できるだけゆっくりとその顔をのぞきこんでみた。

 そうして、膝の上に投げ出された少女の右の手に自分の手を重ねる。


「大丈夫っすか? 大騒ぎして、申し訳なかったっすね。……自分の試合、怖くなかったっすか?」


 理央は深くかぶったニット帽が吹き飛びそうなぐらいの勢いで、ぶんぶんと首を横に振った。

 それから、まんまるい小動物みたいな目で、すがるように瓜子を見つめ返してくる。

 プレスマンの新人門下生もウサギみたいに可愛らしい顔つきをしているが、ずいぶん対極的な二人である。


「う……」


「え?」


「ういお、あん」


 瓜子は驚き、かたわらのサキを振り仰いだ。


「サ、サキさん! 理央さんは喋れるようになったんですか?」


「いんや。口の中はまだマヒしたまんまだよ。ま、火星人でも相手にしてると思って、うまいこと翻訳してくれや」


 口では人の悪いことを言いながら、サキの手は少女を力づけるように肩のあたりに置かれている。


「ういおあん……あっおよあっあ……」


 わからない。

 幼い顔を真っ赤にして、目にはうっすらと涙までためた少女の姿を、瓜子は懸命に見つめ返した。


「……うりこさん、かっこよかった、かにゃ?」


 と、いつのまにか瓜子の背後にまで忍び寄ってきていたユーリが、ひどく優しげな声で言う。

 とたんに少女の瞳にためられていた涙は白い頬にまで流れ落ち、泣き笑いのような表情になってしまった。


「ういおあん……あいあふぉう……」


 これは、瓜子にも聞き取ることができた。


「こちらこそ。今日は観にきてくれて、ありがとう」


 いつもにこにこと微笑んでいる理央だったが、瓜子はこのとき初めてこの少女の本当の笑顔を見たような気がした。

 そして、胸が痛くなる。

 世の中には、こんなに可憐ではかなげな女の子もいるのだな、と。


「ううむ。何だかうり坊ちゃんが王子様みたい! 微笑ましさのあまり、悶死しそうだわん」


 ふざけたことを言いながら、ユーリが「はい」とピンク色の可愛らしいハンカチを差しだしてくる。


「どうぞこれをお使いになってくださいまし、王子様」


「……その呼び方を今すぐやめないと、ユーリさんにもバックブローをプレゼントしてあげるっすよ?」


 瓜子はハンカチをつまみあげ、涙でぐしゃぐしゃになった理央の頬をふいてあげた。


「これでもうすぐ十八歳だってんだから、呆れんだろ。幼稚園からやりなおしたほうがいいんじゃねーのかな、このタコは」


「そんなことないっすよ。身体が回復するまでは、色々不安定になるのはしかたないじゃないっすか」


「関係ねーよ。こいつは二足歩行してたときから、いっつもこんな感じでピイピイ泣いてやがったんだからな。いちいち相手にしてたらキリがねーぞ?」


 理央はサキを振り返り、不満そうに頬をふくらませた。

 その子どもっぽい仕草を見て、瓜子は少しドキリとしてしまう。

 ふだんはまったく印象が異なるのに、やはりこの少女は、ときたまユーリと似たような表情を浮かびあがらせるのだ。


「しかしまあ、理央ちゃんが情動をゆさぶられてもしかたのないような試合っぷりだったよ! ユーリもすっかりお熱が出ちゃってさあ! さっきからずっと全身がカッカしているのだよ!」


「そいつは何かのビョーキじゃねーか? 拾い食いでもしたんだろ」


「おおう。ご無体な言い草だねぃ。……そーゆーサキたんは、どうなのさ? 少しは先輩らしくアドヴァイスしちゃったりする気はないのかにゃ?」


「アドヴァイスなんざ必要ねーだろ。あんな状況であんな勝ち方ができりゃあ、十分以上じゃねーか。今日の敵は、ウサ公じゃなく牛だったな」


 ユーリは「うぐぐ」とうなり、瓜子は「そうっすね」と笑う。


「だけど、楽しかったっすよ。会場の観客全部が敵みたいで。何百人もの相手をいっぺんにKOしたような気分だったっす」


「ドMなんだかドSなんだかわかんねーような発言だなー。……ま、あのウサ公も雑魚じゃねーけど、地力が違ったな。おめーがもっと無残な目にあうような試合があったら、そんときはアドヴァイスらしき言葉をひねりだしてやんよ」


「……ありがとうございます」


 瓜子は、素直にそう言った。

 アドヴァイスなど、必要ない。サキにその目で試合を見てもらえただけで、今の瓜子には十分すぎるほどだった。


「さて。今日は珍しく打ち上げなんだろ? 終電がなくなっちまうから、アタシらはとっとと帰らせていただくぜ。あの金髪は酒グセがわりいから、むやみに近づくんじゃねーぞ?」


「はい。気をつけて帰ってください。理央さんも、本当に今日はありがとうございました」


 まだ少し頬に赤みを残した少女は、名残惜しそうな表情を浮かべながらも、子どものようにこくりとうなずく。

 本日は、新年会を兼ねた宴がひかえているのである。試合の観戦に来れなかった門下生も合流して、なかなか盛大に打ち上がるらしい。女子ではトップ選手のサキがそれをボイコットしてしまうというのはずいぶん不義理な話なのだろうが。さすがに理央を同伴させるわけにもいかないだろうから、各人納得してもらう他なかった。


「それじゃーな。大馬鹿どもにもよろしく伝えといてくれや」


「了解っす。また明後日にでも、道場で」


「ああ、明日は例のアレだっけか。ダメージなんざはねーんだろうけど、連日ご苦労なこったなあ」


「いやまあ、つきあいも大事っすから」


「ちょっと! ユーリとのデートを軽んじるべからず! 明日はユーリとうり坊ちゃんにとって、至福の一日になる予定なんだからねっ!」


「うるせー牛だな。こんだけ毎日顔を突き合わせてるってのに、まだ遊び足りねーのかよ?」


「全然足りないね! ふだんはちっとも遊んだりしてないし! そもそもユーリのうり坊ちゃんへの愛情は、無尽蔵の底なし沼なんだよっ!」


「おかしなセリフを大声でわめかないでくださいよ。知らない人が聞いたら誤解するじゃないっすか」


「知ってる人間でも誤解すんだろ」


「誤解なぞ、愛の前には無力なり!」


「やめてくださいってば。そろそろ行かないと、みなさん待ちくたびれてるっすよ?」


「とっとと行けや、未成年。大馬鹿どもにそそのかされて、道を踏み外すんじゃねーぞ?」


「酒なんて飲まないっすよ。それじゃあ、失礼します」


「ああ。おつかれさん」


「おつかれさまぁ。うり坊ちゃん、何かあったらすぐに携帯で連絡するんだよぉ?」


「……はい?」

「あん?」

「うにゅ?」


 一同は、きょとんと顔を見合わせることになった。


「ユーリさん、携帯がどうしたんすか?」


「うにゃ? ユーリの携帯はどうもしてないぞよ? 電波も快調、電池も満タンですじゃ」


「いや、何かあったらの意味がわかんないんすけど」


「何かって言ったら何かだよぉ。ふだんは紳士的なプレスマンのみなさまも、お酒が入ったらどうなるかわかんないじゃん! うり坊ちゃんは、自分がどれだけ蠱惑的な美少女ちゃんであるか、もっと自覚しておいたほうがよいんじゃなかろうか?」


「そ、そんな話はしてないっすよ! ……ユーリさん、まさか打ち上げに出ないつもりじゃないっすよね?」


 瓜子の言葉に、ユーリはますますきょとんとした顔になってしまう。


「だって、新宿プレスマン道場の新年会なのでありましょう? ユーリは正式な所属選手ではないのでありますから、参加する資格を有しておらぬのです!」


「何を言ってるんすか! プロ契約はしてなくても、月謝を払ってる門下生じゃないっすか。そもそも門下生じゃなくったって、出ない理由にはならないっすよ。部外者なんて、他にも山ほど来るはずなんすから」


 山ほどというのは語弊があるかもしれないが。とにかく資格だ何だというような固い集まりではないのだ。新年会および祝勝会という看板をかかげた飲み会に過ぎないのだから。たまたま今回は予定が合わずに不参加となってしまったが、そうでなければ瓜子の応援に来てくれた数少ない友人知人たちにだって、参加は可能なぐらいなのである。


「うん、まあ、そこは察しておくんなさいまし。せっかくの楽しい飲み会を、ユーリなんぞの存在で台無しにしたくないのだよ。……ああ! 自分で言ってて悲しくなってきた! さあ、こんなユーリはほっといて、うり坊ちゃんはみなさまのところに!」


「あのですねえ、ユーリさん……」


「いいんだってば! ユーリは明日、うり坊ちゃんを独占できるのだから! 強がりでも何でもなく、笑顔でうり坊ちゃんを見送ることができるのです! ね? この清らかな笑顔にウソはないでしょ?」


 きっとユーリは本気で言っているのだろう。その天使のような笑顔も、おそらく虚勢ではないのだろうと思う。

 が、それとこれとは、話が別だった。


「ユーリさん。そんな風に気を使いすぎるのは、かえって良くないと思うっすよ? たかが新年会なんすから、すみっこでおとなしくしてれば誰の迷惑にもならないっすよ」


「いやいや! 迷惑でございましょ! そいつはほんの数時間前にも立証されたばかりの、ゲンゼンたる事実ではありませぬか!」


「……さっきの大歓声のことっすか? だから、あんなの全然迷惑じゃなかったって言ってるじゃないっすか。自分にとっては、笑い話っすよ」


「……うり坊ちゃんにとってはそうだったとしても、ユーリにとっては生き地獄でございましたわよ」


 そう言って、ユーリはやわらかい微笑をたたえたまま、そっと目を閉じた。

 瓜子は、小さく息を呑む。


「あれで万が一にもうり坊ちゃんが負けてしまっていたら、ユーリは今でも生き地獄の真っ只中だったと思うにょよ。きっとうり坊ちゃんはそれでも許してくれると思うのだけれども、ユーリがユーリを許せるはずないじゃん? どうしてセコンドをやりたいなんて軽率なことを言ってしまったのだろう! って、むこう一年間は自己嫌悪と後悔のスパイラルに叩きこまれることは必然でございましょ? ……だから、ユーリには石橋を叩いてなお渡らない慎重さが要求されるのだよ! ユーリは、これからもずっとプレスマンでお世話になっていきたいしさ!」


「だけど……」


「うむ! それでは恥をしのんで、ぶっちゃけよう! 正直なところ、ユーリが本日の新年会に参加したならば、半分ぐらいのみなさまは喜んでくれる気がするのだよ! 今までカタクナにこーゆー集まりから逃げまどっていたユーリが、ついに歩み寄ってきた! ってね! ……その代わり、もう半分のみなさまは、何だこいついけしゃあしゃあと来やがったよ何かカンチガイしてんじゃねーの酒がまずくなるぜ早く帰れよコン畜生とか思っちゃうと思うんだぁ。それを回避したいと願うユーリを、臆病者だと笑いたければ笑うがいい!」


「……わかったっすよ。ユーリさんも色々考えてるんすね」


 内心のざわめきを抑えこみつつ瓜子がそう答えると、ユーリは「あり?」と小首を傾げた。


「そうあっさりわかられてしまうと、熱弁したユーリがおバカみたい……いや、わかってもらえたのなら何よりなのだけどね!」


「はい。臆病者だと笑う気もないし、これ以上反論する気もありません。ユーリさんの主張は、そのまま丸ごと呑みこませていただきます。……それじゃあ、行きましょう」


「うにゅ? 行くって、どこに?」


「どこって、マンションっすよ。他に帰る場所があるんすか?」


「ユ、ユーリはマンションに帰りますけども。うり坊ちゃんは、新年会でしょ?」


「行かないっすよ。ユーリさんが帰るなら、自分も帰ります」


 今度は、ユーリが驚愕に目を見開く番だった。

 ざまを見ろ、と瓜子は内心で舌を出す。


「う、うり坊ちゃんは帰っちゃダメでしょ! 祝勝会の主役じゃん! 今日試合だったのは、うり坊ちゃんだけなんだから!」


「そんなの飲み会の口実っすよ。まだ新年会っていう看板が残ってるんだから、自分が帰ったって問題はないっす」


「問題あるって! どうしてうり坊ちゃんが帰らなきゃいけないのさ! その理由を簡潔かつ論理的に説明してみよ!」


「論理なんてありゃしません。行きたくないから、行かないだけっす」


 ユーリは頭を抱えこみ、すっかり蚊帳の外でくつろぎきっていたサキたちのほうを振り返った。


「うわぁん、どうしよう、サキたん! うり坊ちゃんが理不尽だよぉ! まるでふだんのユーリみたい!」


「自覚があるなら、改めろや。……ま、別にいーんじゃねーの? アタシだって行かねーんだから、何を言えた筋合いでもねーし」


「そうっすよね。それじゃあ駅までご一緒させてください。……あ、いちおうサイトー選手に一報いれとくっす」


「だだだ駄目だよ、うり坊ちゃん! お願いだから、早まらないで! こんな理由でうり坊ちゃんまでボイコットしちゃったら、ユーリのなけなしの立場が風前のともしびじゃん!」


「ユーリさんのせいになんてしないっすよ。バニー選手との試合で精根つきはてたとでも言っておくっす。それなら誰にも文句はないでしょう?」


「ユーリはあるぞよ! ありすぎる! これでうり坊ちゃんの立場まで悪くなっちゃったら、やっぱりユーリは自己嫌悪と後悔のスパイラルじゃんか!」


「そんなもん感じる必要はないっすよ。自分は自分のしたいようにふるまってるだけなんすから」


「……えーん。うり坊ちゃんの口がへの字だよぉ。てこでも動かないってお顔になっちゃってるよぉ。ユーリはいったいどうしたらいいにょ? お願いサキたん! ユーリに知恵を! 打開策を!」


「おめーらの痴話喧嘩にアタシを巻き込むんじゃねーよ。二人で帰るか、二人で打ち上がるか、お好きなほうを勝手に選べや」


 サキはいつもの仏頂面で、理央は何ひとつ理解していない様子で目をぱちくりとさせている。

 瓜子は、間違っているのだろうか?

 試合の直後で、感情を抑制できていないのかもしれない。

 しかし、たとえ間違っていたとしても、抑制が必要だったとしても、これが瓜子の本心であるということに間違いはなかった。


「……あ。サイトー選手からの着信っすよ」


 と、瓜子は携帯のディスプレイをユーリに突きつけてやる。

「ぬおう」とうめき、ユーリは十字架を突きつけられた吸血鬼のように後ずさった。


「とっとと来いよ馬鹿野郎ってなもんでしょう。どうするんすか、ユーリさん? 自分は別に、どっちでもいいんすよ?」


「そんなのずるい! どうしてユーリひとりが苦悩しなきゃいけないのさ! これは二人の問題でしょ?」


「だって、自分は答えを出しましたから。あとはユーリさんの問題だけっすよ。初志を貫徹するのかどうか、さっさと決めてほしいっすね」


 ユーリは、今にも崩れ落ちてしまいそうだった。

 別にユーリを苦しめるつもりはないのだが、これといって心は痛まない。瓜子としては、ユーリの繰り出してきた猛攻にカウンターをぶち当てただけなのだ。

 自分をひとりぼっちにして、とっとと帰ろうとした報いだよ――と、瓜子は内心でもう一度ユーリにアカンベーをしてやった。


 本日は、瓜子とユーリが出会ってから、ちょうど一年目――の、前日である。

 二人の過ごしてきた騒がしい一年間を象徴するかのように、最後のその夜も喧噪と混乱に彩られていた。

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