04 ウサギ狩り

「ファイト!」


 レフェリーの宣言とともに、ゴングが打ち鳴らされる。

 それと同時に、灰原選手は右腕を振りかざして突っ込んできた。

 ここ最近の勝ちパターン通り、いきなり乱打戦を仕掛けてくるつもりなのだろう。


 瓜子は相手のアウトサイドに回りこみ、まずは強烈な右ローをぶちこんでやった。

 灰原選手は、その一撃でバランスを崩してしまう。

 このまま距離を取ってステップを使えば、相手のスタミナが尽きるまで逃げおおせることができるかもしれない。


 だけど瓜子は、そうはしなかった。

 よろめいた相手の横っ面にジャブを打ち、距離を測って、おもいきり右フックを叩きつけてやる。

 灰原選手は自分の突進力に背中を押される格好で、前のめりにべしゃりと崩れ落ちた。


「ダウン!」


「ユーリ!」のコールが引き潮のように引いていき、その代わりに、虚を突かれたような歓声と拍手が鳴り響く。


「……ってえな、コン畜生!」


 せっかくの美人であるにも関わらず、灰原選手はヤケクソのようにわめきながら、カウントファイブで立ち上がった。的が動いていたために、クリーンヒットはしなかったようだ。


 灰原選手の復活に、また新たな歓声が巻き起こる。

 ようやくデフォルトの状態に戻った。

(勝負はここからっすよ)と心の中で念じながら、瓜子は相手の懐に飛びこんだ。

 得たりと、灰原選手も両腕を振ってくる。


 フックがメインの、大振りの攻撃だ。

 スタミナ配分など、頭にないのだろう。一発でも食らえば、大ダメージは必須である。

 だけど瓜子は下がらずに、両腕のガードとダッキングだけで、その猛攻をやりすごした。

 やりすごしながら、自分もジャブを当てていく。

 スキがあれば、ボディと足もとにも攻撃を散らしてやる。

 向こうも、下がらない。まるでMMAではなく、キックボクシングの、インファイター同士の攻防だ。


 打ったら下がる。また飛びこんで打つ。それを繰り返しながらタックルなどのテイクダウンを狙うのが、MMAの本道である。もちろん本道から外れるのも戦略のひとつだが、ここまで両者が足を止めて打ち合うことなどは、まれであるに違いない。


 体重の乗った左フックをダッキングでかわし、ボディアッパーを叩きつける。

 右ストレートを左腕ではじき、膝蹴りを腹に食らわせる。

 灰原選手の攻撃は、ほとんどまともには当たらない。

 だけど、ガードをした腕が痺れるほどの重さであり、押し寄せる圧力も半端ではなかった。


 その圧力に耐えながら、瓜子は拳を振るい続ける。

 真正面から打ち合ってくれることに、きっと灰原選手はほくそえんでいるのだろう。一発当てれば、形勢などすぐに逆転できるのだ、と。

 だけどこの距離は、瓜子の距離だ。小柄な瓜子は自由に腕を振り回せて、大柄な灰原選手は少し窮屈になってしまっている。そのことに、彼女はまだまったく気づいていない。


 彼女がライト級に転向してからの試合は、ぞんぶんに研究させていただいた。

 三試合のうち一試合は外部の興行だったので映像が手に入らなかったが、二試合も見れば十分だった。


 灰原選手は、典型的なストライカーだ。

 パンチが主体で、キックはフェイントか奇襲技にしか使わない。

 グラウンドには、絶対につきあわない。相手が組みに来たら力づくで押し返し、問答無用でパンチを振るう。その代わりに、相手が弱ってきたら力づくで押し倒し、問答無用でパウンドを振るう。


 試合はいつも短期決戦で、瓜子の観た二試合は、どちらも一ラウンド目の三分以内で決着がついていた。

 一試合目は、二回のダウンを奪った末の、レフェリーストップ。

 二試合目は、パウンドを打ちまくっての、レフェリーストップ。

 どちらも文句なしの、TKO勝利である。


 二試合目の対戦相手などは、パウンドを食らいすぎて失神してしまったらしい。

 力強くて、当て勘もある。気性が荒くて、決して怯まない。ここぞというときのラッシュ力は、トップ選手にも引けを取らないぐらいだろう。中堅以上の実力かもしれないというサキの評価にも、まったく異論はない。


 だけど、中堅は中堅だ。

 現時点では、トップ選手に挑める力量ではない。

 まだ階級を上げたばかりで、ファイトスタイルも固まっていないのだろう。体内にあふれるエネルギーを好き勝手に放出できるのが楽しくてたまらない、という闘いっぷりなのだ。


 勝ちパターンにはめれば、中堅の選手にも勝てるかもしれない。

 しかし、勝ちパターンを逃してしまえば、瓜子にすら勝てはしない。

 きっとサキなら、あの優雅なステップで敵を翻弄し、一発のパンチを食らうこともなく、スタミナ切れを待つに違いない。


 また、このていどのボクシングテクニックだったら、瓜子にも同じことはできるだろうと思う。

 だけど瓜子は、もうひとつの道を選ぶことにした。

 インファイトの得意な相手にインファイトを挑み、それに打ち勝つことで、相手の勝ちパターンを崩壊させてやろうと思ったのだ。


(ま、なめてかかったら、こっちがKOされるんだろうけどさ)


 左の頬に、熱い痛みが走り抜ける。

 灰原選手のフック気味の右ストレートが、両腕のガードをすりぬけて、瓜子の頬をかすめたのだった。

 MMAは、これが怖い。キックと同じ感覚でいると、グローブが小さいためにガードしきれないことが多いのである。


 たたみかけてこようとする相手の顔面に、ワン、ツー、スリー、と、こまかいパンチを叩きこむ。

 灰原選手の顔が、怒りと苦痛に引き歪んだ。

 どうして自分の攻撃がなかなか当たらないのか。どうして自分ばかりが攻撃を食らってしまうのか。そろそろ疑問に感じてきたのかもしれない。


「うり坊ちゃん! 二分経過!」


 ユーリの声が、響きわたる。

 相変わらず、よく通る声だ。その声を合図に、瓜子は全力の左ボディアッパーをレバーの付近に食らわせてやった。


「うえ」とうめいて、灰原選手が初めて引き下がろうとする。

 そのふくよかな胸もとを、右ストレートの要領で突き飛ばし、それと同時に、浮いた右足にローキックまがいの足払いをかけてやる。

 灰原選手は背中からマットにひっくり返り、すかさず瓜子はその上にのしかかった。


「おお!」と、観客たちがどよめく。

 互角以上に打ち合えているこのタイミングで、まさかグラウンドに移行するとは思いもしていなかったのだろう。観客たちも、灰原選手も。

 ガードポジションを取りながら、灰原選手は必死の形相で自分の頭を抱えこんだ。パウンドが怖いのだろう。その危険性は、彼女が一番よくわきまえているのだ。


 しかし、顔面を守ることに懸命で、ボディはがらあきになってしまっている。

 瓜子はフェイントとして顔面を守る両腕に何発かのパウンドをくれてから、タイミングをずらして全力の左拳を再びレバーに叩き込んでやった。

「うええ」と灰原選手は悲痛な声をあげ。それを尻目に、瓜子は立ち上がる。


「スタンド!」


 レフェリーが無慈悲な声をかけるが、もちろん灰原選手は起きあがれない。

 レフェリーは一瞬だけ考えこみ、それから新たに「ダウン!」を宣告した。

 さらなる歓声が、爆発する。


「立て、バニー!」

「Qちゃん、頑張ってぇ!」

「そんな新人に、負けんなよ!」


 さすがは人気選手である。ここで逆転勝利でも決めれば、彼女の人気はさらに上昇することだろう。

 灰原選手はカウントエイトで立ち上がり、彼女のファンたちは熱狂した。

「バニー!」のコールまで聞こえ始める。

 瓜子はひとつ大きく息をついてから、ぴたりとファイティングポーズを取ってみせた。


「……の野郎!」


 怒りや、苦悶や、困惑の入り混じった激情の雄叫びとともに、灰原選手はまた頭から突っ込んできた。

 右の腕が、頭の後ろにまで引き絞られている。

 起死回生の、オーバースイングの右フックだ。

 右腕を振り上げているために、そちらの側は顔面ががら空きになってしまっている。


 それだけの情報を一瞬で頭に叩きこみ、瓜子は身体を左回転で旋回させた。

 前足を軸に横回転して、遠心力を、右腕に乗せる。

 右の裏拳に衝撃が走りぬけ、灰原選手の身体が横合いに吹っ飛んだ。

 そのままニュートラルコーナーに激突し、ロープに腕をからませつつ、ずぶずぶと崩れ落ちる。


 カウンターのバックハンドブローが、これ以上ないぐらい狙い通りに、灰原選手の右頬を撃ち抜いていた。

 レフェリーは両腕を振り回し、試合終了のゴングが乱打された。

 ゴングの音色と観客たちの歓声が、縦横無尽に入り乱れる。


『一ラウンド、三分十六秒、スリーダウンによるTKOで、猪狩瓜子選手の勝利です!』


「ウィナー!」


 レフェリーに右腕を持ち上げられつつ、瓜子は天井を振り仰いだ。

 まばゆい照明が、汗に濡れた皮膚を灼く。

 灰原選手の逆転を願っていた歓声が、そのまま瓜子の勝利を称える歓声へと変貌を果たしている。

 今日はヒールの気分だったから、別にブーイングでもいいのにな、と瓜子は人の悪いことを考えてしまった。


 ぴくりとも動かない灰原選手に、セコンド陣とリングドクターが駆け寄っている。失神にまでは至っていないが、そんなすぐに起き上がることもできないだろう。それぐらいの強烈な手応えが、瓜子の右拳を痺れさせている。


 そして――自軍のセコンド陣がリング上にあがってくる姿が、目の端に見えた。

 先頭は、もちろんキャップをかぶったジャージ姿の色っぽい娘さんだ。


「うり坊ちゃん! TKO勝利、おっめでとう!」


 満面の笑顔が、灰原選手よりも圧倒的な勢いでせまり寄ってくる。

 想定内の事態である。これ以上、愛音の反感をかきたてても始末に困るので、瓜子は顔面を入念にガードした。


 が――やはりユーリ・ピーチ=ストーム選手は、灰原選手よりも、よほど手ごわかった。

 人目もはばからずに抱きついてくるかと思いきや、彼女は稽古中よりも俊敏な動作で、瓜子の足もとにすべりこんできたのである。


「うわあっ!」


 胴タックル? いや、両足タックルか?

 上半身ばかりを警戒していたので、足もとは完全におろそかになってしまっていた。

 テイクダウンを取られてしまうのだろうか?

 いや――ユーリはそのまま瓜子のバックを取り、両足の間に頭を突っ込んできた。


 瓜子の視界が、ふいに倍ほども高みに跳ね上がる。

 ユーリ・ピーチ=ストーム選手は、瓜子の両足を背後からがっちりクラッチして、肩車の姿勢で高々と宙に持ち上げてしまったのである。

 これはあまりに、想定外の攻撃だった。


「な、な、何をしてるんすか、ユーリさん!」


「んにゃ? だって接吻や抱擁じゃあ、またうり坊ちゃんのご不興を買ってしまうと思われたのでぇ」


 それはそうだが、女子選手の試合で肩車など見たこともない。持ち上げているのも女子選手とあっては、なおさらだ。


「いやっほーいっ! 見たかキミたち、うり坊ちゃんの見事な闘いっぷりをっ!」


 ユーリが、雄叫びをあげている。

 瓜子はそのがら空きの頭頂部に肘でも落としてやろうかと画策していたのだが――ユーリのはしゃいだ声を聞いていると、何だか力が抜けてしまった。

 だいたいユーリは試合中でも稽古中でもないのだから、今頃は全身が鳥肌まみれであるはずだ。そんな苦悶をも乗り越えて、ユーリは瓜子を天高く担ぎ上げているのだった。


(まあ、いいか……)


 スポットライトに照らされたリング上には、変わらぬ勢いで歓声が渦巻いている。

 その向こう側からうっすらと聞こえてくるのは、勝者の特権たる瓜子の入場曲である。

 瓜子はユーリのかぶっていたキャップを奪い取り、それを自分の頭にのせながら、誰にともなく右腕を突き上げた。

 今日聞いた中では一番の大きな歓声が、津波のように瓜子の五体を包みこんできた。

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