03 不埒な歓声

 それからおよそ、三時間後。

 バンテージのチェックと、メディカルチェック。開会セレモニーと、アマチュア選手によるプレマッチを経て――瓜子のかたわらには、再びユーリがいた。


「うわあ。なんだかドキドキしてきちゃったよぉ!」


 入場口の扉の裏でしゃがみこみ、ぎゅうっと自分の身体を両腕を抱きすくめている。キャップを目深にかぶっているためにわかりにくかったが、ユーリは何だか泣きそうな表情をしているみたいだった。


「大丈夫っすか? ちょっとは落ち着いてくださいよ。試合をするのは、ユーリさんじゃないんすから」


「そんなことは承知の上だけど、心臓が爆発しそうなんだもん! ううう、うり坊ちゃん、頑張ってねえ」


「頑張りますよ。ユーリさんも、初めてのセコンド業務を頑張ってください」


「うん! 頑張る! うり坊ちゃんがKOされたら、ユーリが控え室まで運搬してあげるからね!」


「不吉な発言をしないでくださいよ! 誰がKOされるんすか!」


 そんな二人のやりとりを眺めながら、「夫婦漫才もたいがいにしとけよ」とサイトー選手が苦笑をしている。


「ま、緊張はしてなさそうで何よりだ。てか、お前さんが試合前に緊張してる姿ってのは見た覚えがねえよなあ。《G・フォース》までふくめりゃあ、ぼちぼち長いつきあいだってのによ」


「はあ。体調も悪くないですしね。自分は自分のやれることをやるだけっす」


「大物だな。その心意気で、コスプレ女なんざマットに沈めたれや」


 そろそろ、第二試合の最終ラウンドが終了する。

 瓜子の試合は、この次である。沙羅選手は第八試合で、小笠原選手はメインイベントだ。

 いまだ《アトミック・ガールズ》においては一勝一敗というキャリアしか有していない瓜子に用意されたのは、『バニーQ』という珍妙なリングネームといくぶん異色の経歴を持つ、灰原久子なる選手との一戦だった。


 身長百五十六センチ。体重五十二キロ。年齢は二十五歳。プロキャリアは、ユーリと同じく二年ほどで、戦績は、四勝四敗。――そういった数字の上では、特筆すべき点もない。

 しかし、昨年の春頃まで、彼女の所属は一階級下のバンタム級だった。

 バンタム級は上限四十八キロの、《アトミック・ガールズ》においてはもっとも軽い階級である。そこで彼女は一年強のキャリアを過ごし、一勝四敗という戦績を築きあげた。その特徴的な風貌から、彼女はもともと人気選手だったのだが、残念ながら、人気に実力がついてこなかったのだ。


 かなり強気な性格で、惨敗を喫しても「減量に失敗した!」とわめくばかりで、周囲のアドヴァイスなどまったく耳に入れなかったのだ、という。

 それで、ジムの先輩方にもサジを投げられてしまった。

 だったら好き放題食って、階級を上げてみろ、と。

 そうして彼女は、ライト級に転向した。それからの一年弱で、彼女は三戦三勝し、しかもそのすべてを一ラウンドKOで飾ることに成功したのである。


 遅れてきた新鋭、『極悪バニー』こと、バニーQ。

 二年のキャリアを持ちながら実力は未知数という、本日の対戦相手はそういう珍妙な選手なのだった。


「油断しちゃダメだよ、うり坊ちゃん! 見た目の愉快さでイロモノあつかいされてるけど、もしかしたら実力は中堅以上かもなーってサキたんも言ってたから!」


「わかってますよ。その話を聞いたときは、自分も一緒にいたじゃないっすか」


「あうう。そうだった……こんなへろへろのユーリがセコンドについてて大丈夫かなあ? ダムダムさん! 絶対イヤだけど、ユーリの存在がセコンドとして不適格でありましたら、すぐさまステイホームとお命じください!」


「ああ。試合中でもそんなザマだったら、オレの右フックでおねんねしてもらうわ」


 サイトー選手は、べつだんユーリのパニックぶりも気にはなっていないようだった。瓜子に悪影響が及ぶようだったら、きっと問答無用で拳を振り下ろしていたと思うのだが、瓜子自身も苦にはしていない。瓜子が唯一自慢できるのは、試合前にプレッシャーや気後れを感じることのない、神経の太さだけなのだった。


 そうこうしているうちに、第二試合の終了を告げるゴングが鳴った。

 やはり判定までもつれこんでしまったようである。

 試合を終えた選手およびセコンド陣と入場口裏ですれ違い、いよいよ瓜子の出番であった。


『青コーナーより、猪狩瓜子選手の入場です!』


 リングアナウンサーのコールに、膝を抱えて丸まっていたユーリが、すっくと立ち上がる。販促イベントの終了後、白地にピンクのラインが入った自前のジャージにわざわざ着替えたユーリは、全身に緊張感をみなぎらせながら、「行こう、うり坊ちゃん!」と叫んだ。

「そうっすね」と肩をすくめてみせてから、瓜子は大きく開け放たれた入場口の扉をくぐる。


 とたんに、耳を聾するような大歓声が、四方八方からあびせかけられてきた。

 全身の皮膚が、びりびりと共振する。

 何だか、ずいぶんごたいそうなお出迎えだなと、瓜子が違和感を覚えかけたとき――誰かが、「ユーリ!」とひときわ大きな声で、がなった。


 とたんに、「ユーリ!」のコールが唱和され始める。

 これには、さすがの瓜子も立ちすくんでしまった。


「え? ……何これ? どういうこと?」


 と、瓜子以上にユーリ当人が当惑してしまっている。

 ユーリは親猫とはぐれてしまった子猫のような表情で、きょろきょろと周囲を見回していた。


「ユーリちゃん、サインありがとーっ!」

「ユーリさん、早く復活してくださいねっ!」

「ユーリ、頑張れえっ!」


 花道に近い席に陣取っている観客の声は、かろうじてそんな風に聞き取ることができた。

 そんな言葉をも呑みこんでいくかのように、膨張し、せまりくる「ユーリ!」のコール。流れているはずの入場曲すら、ほとんど聞こえない。


 サイトー選手は、不快げに眉をひそめており、

 ジョンは、きょとんと目を丸くしており、

 そして、ユーリは――

 ユーリは死人のように、真っ青な顔になってしまっていた。


「……先輩方、行きますよ」


 瓜子はその大歓声に負けぬ大きな声で言いながら、ごくさりげなく、ユーリの肩あたりを肘でつついてやった。

 客席を見上げていたユーリは、何かを耐えるように唇を噛み、ものすごくのろのろとした動作で瓜子のほうを振り返ってくる。

 その青ざめた顔に、にやりと笑いかけてやってから、瓜子は花道に足を踏み出した。


『赤コーナーより、バニーQ選手の入場です!』


 瓜子たちがリングに到着し、相手選手の名がコールされても、「ユーリ!」の大合唱は鳴りやまなかった。

 露骨に不機嫌そうな顔をした灰原選手が花道に姿を現すと、スコールじみた歓声の隙間から「バニー!」「Qちゃーん!」という声が飛んだ。

 が、そんな声援もすぐにかき消されてしまう。


『第三試合。ライト級。五十二キログラム以下契約。五分二ラウンドを開始いたします!』


 時ならぬ大歓声に負けじと、リングアナウンサーも美声を張りあげる。


『青コーナー。百五十二センチ。五十一・八キログラム。新宿プレスマン道場所属。《G・フォース》、フライ級第一位……猪狩、瓜子!』


 瓜子はいつもの通りに歩を進めて、誰にともなく、右腕を上げてみせた。

「ユーリ!」のコールが、それに応える。


『赤コーナー。百五十六センチ。五十二キログラム。四ッ谷ライオット所属。……バニーQ!』


 灰原選手はコーナーポストに背をあずけて、トップロープに両腕を乗せながら、指一本と動かそうとはしなかった。

 それでも、ちらほらと彼女を応援する声は聞こえてくる。

 その豪快なファイトスタイルと、ライト級に転向してからの連勝記録――そして、《アトミック・ガールズ》において一、二を争う奇抜な試合衣装から、彼女は人気選手の仲間入りを果たすことに成功し得たのである。


 今さら説明の必要もないかもしれないが、彼女の衣装は「バニーガール」であった。

 ライト級のコスプレ三銃士、あるいは三羽烏と呼ばれるゆえんである。

 残りの二名、『戦慄の魔法少女』および『マッド・ピエロ』がデビュー当時から確かな実力を見せている中、『極悪バニー』たる彼女だけは結果を残せていなかった。そんな彼女が、ようやくじわじわと実力を発揮し始めて、いよいよ人気に拍車がかかってきたらしい。


 やはり、強くてなんぼの世界なのだろう。

 実に健全な話だと思う。

 あとは、その強さがどれほどのものであるか、ということだけだ。


「両者、リングの中央へ」


 いくぶん辟易とした様子のレフェリーに呼ばれると、しかたなさそうに灰原選手はコーナーから背中を引きはがした。

 バニーガールといっても、さすがに試合中にウサミミのヘアバンドはつけられない。よって彼女は、長い髪を頭のてっぺんでふたつにくくり、くくった先だけを金色にブリーチしていた。もちろん芯棒が入っているわけではないので、へにゃんと垂れ下がってしまっているが、まあ想像力を総動員すれば、垂れ耳のウサギに見えないこともない。


 衣装はもう、バニーガールそのものである。ざっくりと胸もとの開いたオフショルダーの白いレオタードに、黒いロングの競技用スパッツ。今はまだその上に、入場衣装であるタキシードを羽織り、蝶ネクタイつきの付け襟と、手首にはカフスまで装着している。


 そんな彼女が乱暴にタキシードを脱ぎ捨てると、一瞬だけ「おおっ!」というどよめきが「ユーリ!」のコールをも圧した。

 それから付け襟とカフスをわざとのようにゆっくりと外してから、ようやくリングの中央にやってくる。


 ちなみに瓜子は、ふだん通りの黒いハーフトップとキックトランクスである。去年の春先に新調したものだが、今のところ、これ以外に試合衣装は持っていない。一昨年まで使用していた衣装には、いずれも移籍前のジム名がプリントされたり縫いつけられたりしてしまっていたからだ。


「肘打ちは禁止。頭突きは禁止。髪や着衣をつかむのは禁止。グラウンド状態における頭部・顔面へのキックや膝蹴りは禁止……」という、おなじみのルール確認を聞きながら、瓜子は入念に相手の体格を検分してみた。


 身長百五十六センチならば、バンタム級でもライト級でもおかしな数字ではない。では、骨格などは、どうだろうか。

 これといって、目を引く点はない。リーチもコンパスも普通だし、骨の太さも、ごく標準だろう。


 しかしやっぱり、バニーガールの衣装に包まれたその身体は、アスリートらしく引き締まっている、とは言い難かった。

 太りすぎ、というほどではない。きちんと鍛えられた筋肉の上に、やわらかそうな皮下脂肪がまんべんなく乗っている感じだ。


 二の腕などは真っ直ぐで棒のようだが、力はかなり強そうである。

 レオタードのおかげで少し長く見える足は、一転して起伏にとんでいる。腿とふくらはぎは太く、膝と足首は細い。そういえば、胸とおしりもやたらと大きく、それでいてウエストはそれなりにくびれているので、力が強そうだな、とか、スタミナはなさそうだな、とかいう前に、まず色っぽいな、とか、女性らしいスタイルだな、という印象が勝ちすぎてしまう。


『遅れてきた新鋭』『極悪バニー』『ウサちゃんストライカー』……実に数多くの異名を持つ彼女だが、そのうちのひとつに『ライト級のプリティモンスター』というものも存在するのである。

 それはもちろん、プロファイターらしからぬ色気と、ビジュアル面のインパクト――そして、ある時期から急に実力を発揮し始めたという、ユーリとよく似た経歴から、なぞらえられた異名なのだろう。


 驚くほどの美人、というわけではない。が、少しきつめに吊りあがった目と、赤みの強い唇が印象的な、まあそれなりの美人ではある。気性の荒そうな面がまえと可愛らしいコスチュームのミスマッチが、なかなかに微笑ましい。

 ちなみに彼女の本業だか副業だかは、バニー喫茶とかいうケッタイなカフェのウェイトレス――ないしは、メイドさんであるらしい。さらに前職はもっといかがわしい水商売だったという噂だが、真偽のほどは定かではない。


「……それでは、両者ともに、クリーンなファイトを心がけるように」


 レフェリーが、ポンと自分の手を組み合わせる。

 瓜子は、オープンフィンガーグローブに包まれた両手を差し出した。

 灰原選手はふてくされきった様子で、長い前髪をかきあげる。


「……こんなんだったら、いっそのことあの垂れ目ちゃんとの、セクシーファイター決定戦にでもしてほしかったなぁ。こんな羞恥プレイは、生まれて初めてだよ」


「私語は、つつしみなさい」


 レフェリーが忠告したが、その声にも同情の響きが強かった。

 何せ、いまだに「ユーリ!」のコールは鳴りやんでいないのだ。


「ほら、あんたじゃ色気不足だってさ。右肘の怪我なんて、階級違いのハンデってことにしてさ。今からでもカードを変更しちゃわない?」


「……そのていどのハンデじゃ、試合にならないっすよ」


 瓜子はグローブを引きながら、至極冷静にそう答えてみせた。

 その冷静さが鼻についたらしく、灰原選手は細い眉を吊りあげる。


「言ったな、貧乳! ちょっとスレンダーだからって、いい気になるんじゃないよ! そんなん全然うらやましくないんだからね!」


「どこかで聞いたような台詞っすね。あんがいユーリさんと話したら、意気投合するんじゃないっすか?」


「両者とも、私語はつつしむ! 次は反則を取るぞ!」


 やれやれというように首を振るレフェリーにぺこりと頭を下げてから、瓜子はゆっくり青コーナーに引き下がった。


 そうして暗い場内を見回してみると――千六百余名まで収容できるというミュゼ有明の客席は、ずいぶん空席が目立っていた。

 歓声だけは大したものだが、下手をしたら三分の二弱、千名ていどしか入場していないのではなかろうか。

 前年度下半期の好成績に気をよくして、常打ち会場を恵比寿AHEADからこのミュゼ有明に変更したらしいのだが、これではパラス=アテナの経営陣も頭を抱えてしまっていることだろう。もしかしたら、これもユーリやサキやベリーニャ選手といった人気選手が負傷欠場してしまっているあおりなのだろうか。


 何はともあれ――と、瓜子は考える。

 千名弱しか観客がいない中、そのうちの三百名までもが、ユーリにサインをもらうために行列をなしていたあの熱心なファンたちであるのだ。であれば、この素っ頓狂な騒ぎも致し方のないことなのかもしれなかった。


「猪狩、お前さん、大丈夫かよ?」


 エプロンサイドから呼びかけてくるサイトー選手に、瓜子は「大丈夫っすよ」と、うなずき返す。

 そのかたわらでは、サイトー選手より頭ひとつぶんばかりも背の高いユーリが、まだ青い顔で眉根を寄せていた。


「ごめんね、うり坊ちゃん。まさかこんなことになるなんて……静かにしろって、ユーリが怒鳴っちゃおうかなぁ」


「駄目っすよ。ユーリさんにとっては、大事な大事なファンのみなさんじゃないっすか」


 瓜子は口もとがにやけてしまうのを抑えきれぬまま、そんなユーリの肩口を今度はグローブに包まれた拳で小突いてやった。


「ユーリさんって、焦るとそういう顔になるんすね。貴重なもんを見れて、得した気分っす」


「……うり坊ちゃん?」


 不安そうにつぶやくその声に、『セコンドアウト』のアナウンスがかぶさった。


「問題ないっすよ。祝杯の準備でもしててください」


 ガラにもないことを言ってしまってから、瓜子はリングの中央に向きなおった。

 顔が、ますますにやけてしまう。

 普段にはない奇妙な高揚感が、瓜子を満たしつつあったのだ。


 面白いじゃないか、という気持ちがぬぐえない。

 これではまるで、敵地でブーイングをあびながら試合をするようなものだ。

 ふつふつと、熱い感情がたぎってくる。

 せいぜい目にものを見せてやりましょう、と、瓜子は内心で対戦相手に呼びかけた。

 赤コーナーでは、灰原選手が極悪な感じに両方の目を燃やしていた。

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