ACT.2 そうる・れぼりゅーしょん#1

01 特別イベント

 邑咲愛音が新宿プレスマン道場に出現してから六日後の、日曜日。

 本年度における《アトミック・ガールズ》の第一回大会、『そうる・れぼりゅーしょん#1』がミュゼ有明にて開催されることになった。


「……どうして、ひらがななんだろうねぇ?」


「カタカナや英語だと、カッコつけすぎになるからじゃないっすか?」


「ううむ。だったら他のタイトルにすればよいのに。はかり知れないセンスだのう」


 ユーリなどに示唆されるまでもなく、瓜子にだって、何が魂で何が革命なのかは、はかり知れない。

 ともあれ、いつも通りに関係者用の裏口から入館を果たしたユーリと瓜子は、いつも通りに荷物を控え室に下ろしてから、正面ロビーへと移動することにした。


 いつもと違うのは、あたりに関係者の姿がまったく見えないことである。

 それは何故かと問うならば、現在の時刻は午後の二時前であり、本来の集合時間よりも一時間ほど余裕があるためだった。

 本日のユーリは、出場選手として参上したわけではない。三日前に発売された《アトミック・ガールズ》の最新版DVDソフト、その販促キャンペーンの役を担わされてしまったのだ。


『最強の女は誰だ? アトミック・ガールズ 初代無差別級王座決定トーナメント!』と銘打たれたこのDVDソフトを本日この会場で購入すれば、先着百名様までに、ユーリの直筆サインと限定プロマイドが特典として付与される――という企画であるらしい。

 しかし、この会場の正式なレンタル時間は午後三時からであるし、その時間以降は物販スタッフも通常業務で大わらわなので、わざわざ特別に二時から一時間だけこのイベント用にロビーを借り受けた、という顛末なのだった。


「ごめんねぇ。うり坊ちゃんは出場選手なのに、こんなお仕事につきあわせちゃってぇ」


「別にいいっすよ。三時のルールミーティングまでには終わる予定なんすから」


 ユーリはひとりで大丈夫だと力説していたが、やはり大勢のファンが集まる場所にユーリを投入するのは、いささかならず心もとない。ユーリ旋風の吹き荒れていた頃のストーカー騒ぎは、いまだに苦い記憶として瓜子の心に刻みつけられているのだ。

 お気に入りのボアコートにダメージデニムという格好をしたユーリは、薄暗い通路をてくてくと歩きながら、「それにしても」と不思議そうに言った。


「絶賛休業中のユーリに、ファンのみなさまを呼び集める吸引力などあるのかねぃ? しかも、ユーリがベル様に敗北した試合が収められているDVDなのに! なんだか筋違いな気がしてならないわん」


「それでも、ユーリさんのサインが欲しいっていうファンの百人ぐらいは集まるっていう見込みなんでしょう。優勝は逃したけど、あの大会の立役者はユーリさんだったんすから、筋違いってことはないっすよ」


「ふにゅにゅ。……しかしやっぱり、このような大役は優勝者のベル様にこそ相応しいのではないのかにゃあ。そしたらユーリも、朝一番で並んじゃうのに!」


「やめてくださいよ、みっともない。だいたい、こんなちょっとしたイベントのためだけに、わざわざベリーニャ選手をブラジルから呼べるわけないじゃないっすか。DVD百本ぶんの売り上げなんて、きっと飛行機代と滞在費で消えちゃうっすよ」


 瓜子がそんな風に答えると、ユーリは大きな目をぱちくりとさせた。


「うり坊ちゃん、あなたは認識不足ですねぃ。ベル様は、あの大会以降もずっと日本に留まっておられるのですぞよ?」


「え? マジっすか?」


「マジっすよ! あの凛々しきお兄さまともども、六月いっぱいは滞在される予定なのですって! ふだんはジルベルト柔術アカデミー調布支部にて、臨時コーチのお役目に励んでおられるそうですわよ?」


「何なんすか、そのうざったい喋り方は。……だけど、どうしてっすか?」


「そりゃあもちろん、うり坊ちゃんのご指摘した通り、興行のたんびに飛行機で行ったり来たりするのは不経済だし、コンディションを整えるのも大変だからでございましょ。あのお兄さまのほうは、何やら六月にも大きな大会への出場が決まっておられるそうでございますし」


「ああ、『アクセル・ジャパン』すか」


 MMAにおいては世界最大の規模を誇る北米のプロモーション、《アクセル・ファイト》。そのメイン開催地はもちろん北米であるが、去年あたりからついに日本でも年一回のペースで興行が行われることになったのだ。

 本年度は、新宿プレスマン道場からも男子のエース選手が一名、参戦する予定なのである。


「そういえば、ベリーニャ選手もジョアン選手も年末の《JUFリターンズ》に参戦してたっすもんね。ベリーニャ選手のほうは不戦敗でしたけど。……だけど、ユーリさんはその話をいつから知ってたんすか?」


 何の気もなしに瓜子がそう問い返すと、ユーリは何かをごまかすように、にこーっと笑った。


「い、いつから知ってたとは、どういうことでございますかにゃ? ベル様に関しては千里眼にして地獄耳たるユーリなのですから、何も不自然なことはありますまい?」


「ベリーニャ選手が《スラッシュ》を離脱したことは、千駄ヶ谷さんに教えられるまで知らなかったじゃないすか。……いや、この二ヶ月間、そんな話題は一度も出てこなかったから不思議だなと思っただけなんすけど。だって、いかにもユーリさんが大騒ぎしそうな話じゃないっすか?」


 それに、ほとんど二十四時間欠かさずに行動をともにしているユーリと瓜子であるのだから、どうして情報量に差異などが生じたのか、それもちょっと気になったのである。

 といっても、そんなものは本当にささいな疑問にすぎなかったのだが――ユーリは、明らかに動揺しまくっていた。その意想外のリアクションにこそ、瓜子は不審の念をかきたてられてしまう。


「あうう……うり坊ちゃん、隠し事をしていてごめんなさいでしたぁ!」


 と、ユーリはいきなり顔の前で手を合わせると、神仏でも拝むみたいに深々と頭を下げてきた。


「な、何すか、急に? 隠し事って、何のことです?」


「だから、ベル様が日本に滞在しておられることを、うり坊ちゃんに隠していたことだよぅ。……怒らないで、許してくれりゅ?」


「怒る理由なんてないじゃないっすか。ていうか、どうしてそんなことを自分に隠す必要があるんすか?」


 その理由の如何によっては、怒ってやらないこともない……などと瓜子は思っていたのだが、ユーリの釈明を聞いてしまうと、怒るどころの心情ではありえなくなってしまった。


「うにゅにゅ……実はね、その話を聞いたのは、あの、無差別級トーナメントの控え室でのことだったの……うり坊ちゃんが立松コーチに叱られて、控え室を出た後に、ベル様本人が語ってくれたことだったのでしゅ……」


「そ、そうだったんすか。……だけど、どうしてそれを自分に隠さなきゃいけないんすか? ベリーニャ選手が日本に居残ろうとブラジルに帰ろうと、自分にはまったく関わりのないことじゃないっすか?」


「うん。だからその話の内容自体はどうでもいいんだけどぉ……ただ、あんな風にうり坊ちゃんを怒らせちゃった直後に、ユーリは控え室でのうのうと世間話などに興じていたのか、なんて……うり坊ちゃんが知ったら、さぞかし不愉快な思いにとらわれてしまうのではないかと心配になり、どうしてもお話することができなかったのでしゅ」


「……不愉快になんてならないっすよ。あのときはまだ、おたがいに何にもわかってなかったんだから、しかたがないじゃないっすか」


 ユーリが、どのような不安を抱えこんでいたのか。

 瓜子が、どのような不安を抱えこんでいたのか。

 それをまったく知らないままに、二人は波風を立てないように毎日を過ごし、そして、決壊してしまったのだ。


「……それでこの二ヶ月間、自分に言いだせずに悶々としてたんすか? ユーリさんのそういう部分が、あの騒ぎの原因になったんだとは思わなかったんすか?」


「ううう……返す言葉もございませぬ……」


「……嘘っすよ。馬鹿だったのは、おたがいさまなんすから」


 次第に涙ぐんできてしまったユーリの瞳を、瓜子は真正面から見つめ返す。


「持って生まれた性格なんすから、そうそう簡単には改善されないっすよ。ユーリさんだけじゃなく、自分だって……だから、そんなに気にしないでほしいっす」


「う……ユーリをそんな優しい目で見ないで! 時も場所も考えずに押し倒したくなっちゃうから!」


「押し倒してどうするんすか! ユーリさんが鳥肌まみれになるだけじゃないっすか」


 そう言って瓜子が苦笑すると、ユーリもようやく「てへへ」と笑った。


「……だけど、よくもまあ今までそんな情報を大人しく黙ってられましたね? 見たところ、あんまり浮かれてるようでもないですし」


「ふみゅ? どうしてユーリが浮かれなければならないのじゃ?」


「え? だって……憧れのベリーニャ選手が日本にいるんすよ? 嬉しくないんすか?」


「ふみゅふみゅ。その発想は、なかったですにゃあ。だって、ベル様が日本にいたところで、そんなすぐには再戦なんてできないだろうし。再戦したって、ユーリが負けちゃうに決まってるし。ブラジルにいようが日本にいようが、ユーリがもっともっと強くならないかぎり、ベル様との距離感は縮まらないままなのだと思いますわよん」


 ユーリとしては、そんな心情なのか。

 サインが欲しいとか言っていたのは、いったい何なのだろうか。このアンバランスさこそが、ユーリのユーリたるゆえんなのかもしれないが。


「あ、ちなみにベル様のご出身はブラジルでございますけども、現在のお住まいはキャリフォルニアでございますわよ? アメリカで活躍されているブラジリアンファイターのみなさまは大半がアメリカに移住されているというのは常識の範疇だと思われますので、MMAファイターとしてデビューなされたうり坊ちゃんもそれぐらいの予備知識は頭の中に入れておいたほうがよろしかろうと愚考する次第でありまする」


「うわあ、ここ最近で一番むかついたっす。ちょっといい話の流れだったのに、台無しっすね」


「にゅっふっふ。うり坊ちゃんの大事な試合を控えた日にこれ以上しめっぽい空気にはさせまいという、ユーリなりの心づかいですわん」


 かぎりなく嘘っぽい。が、ここらが切り上げ時なのも確かだろう。ユーリは目もとを手の甲でぬぐい、瓜子は小さく息をつき、いくぶんの気恥かしさのこもった視線を最後に見交わしてから、再び無人の通路を歩き始めた。

 すると、まるでそれを待ち受けていたかのようなタイミングで、ロビーの方向から見覚えのある丸っこい人物がすっ飛んできた。


「ユ、ユーリ選手! お待ちしておりました! さ、ファンのみなさんがお待ちかねですので、こちらに!」


「ああ、おはよぉございまぁす。……そんなに慌ててどうしたんですかぁ? イベントの開始は、二時ジャストですよねぇ?」


 それは、《アトミック・ガールズ》を運営するイベント屋、パラス=アテナの駒形氏だった。

 確かに、ずいぶんと慌てふためいている。約束の時間まで、まだあと十分少々は残されているはずなのだが。


「予想以上の人出になってしまい、てんやわんやの大騒ぎなのです。ユーリ選手の準備がよろしければ、予定を早めてすぐにでも開始してしまいたいのですが……」


「そりゃまあユーリは、いつでも準備OKですけども。そんなに人が集まっちゃったんですかぁ?」


 どんなに人が集まっても、限定プロマイドとやらは百枚しか準備されていないはずだ。ずいぶん段取りの悪いことである。

 が――関係者用の通路を踏破して、正面ロビーの有り様をそっと覗きこんだユーリと瓜子は、駒形氏の当惑を共有する羽目になってしまった。

 行列整理用のポールとチェーンにそって、ずらりと立ち並んだユーリのファンたち――それは百人どころか、その倍か、へたをしたら三倍ぐらいの人数でもって、会場の外にまであふれかえっていたのである。


「スタッフに計測させたところ、現時点で二百六十九名です。……そして今も、ぞくぞくと人数は増え続けているのです」


「ありゃりゃあ。こいつは嬉しい悲鳴というやつですにゃあ。……で、どうするおつもりなのですかぁ?」


「はい。本来ならば、先着百名様までで入場を打ち切るところなのですが、そんなことをしたら暴動が起きてしまいそうですので……足りないプロマイドについては三百名様まで引換券を発行し、あとは何とかサインだけで納得していただこうかと……というか、肝心のDVDそのものだって、二百本しか準備していなかったのです」


「ええ? この人たち全員にサインするんですかぁ? ユーリひとりでぇ?」


「それはもちろん、手伝えるものなら手伝ってさしあげたいですが、こればっかりはユーリ選手にお願いするしか……どうか、よろしくお願いいたします! 特別にロビーをお借りしたのにこんな騒ぎになってしまって、ミュゼ有明の責任者もカンカンなのです。これ以上騒ぎが大きくなってしまったら、今後、アトミックで会場をレンタルすることも難しくなってしまうかもしれません」


 駒形氏は本当に、泣いてしまわんばかりの顔つきだった。

 これでは嬉しい悲鳴どころか、ありがた迷惑の阿鼻叫喚だ。


「えっとぉ……だったら、イベント自体を延期することはできないんですかぁ?」


「どっ! どうしてそのように恐ろしいことをおっしゃるのですか!」


 駒形氏は拳銃でも突きつけられたかのように真っ青になり、瓜子も我が耳を疑うことになった。

 こんな話は約束と違うと、誰しもそれぐらいの文句は言いたくなる場面だが、ファンのためには苦労を厭わないユーリであれば、そんな不満も生じないはずだろう。だけどユーリは、子どものように頬をふくらませてしまっていた。


「だって、ユーリは今日、うり坊ちゃんのセコンドという大役を担っているのですよ? こんな人数にサインをしてたら、三時のルールミーティングには絶対まにあわなそうじゃないですかっ!」


「そ、そのような心配はご無用ですよ! 出場選手ならばともかく、セコンドでしたら少しぐらい時間に遅れたって……」


「えー? だけどユーリは、万全の体勢でセコンドの役に励みたいですもぉん。定刻の三時から、きっちりうり坊ちゃんのそばにいてあげたいんですぅ」


 もはや銃弾を二、三発ばかりも撃ちこまれたような面相で、駒形氏が瓜子を振り返ってくる。

 試合に出場できないのなら、せめてイベントで客寄せパンダとしての任を果たせ――このたびのパラス=アテナからの要請には、そんな心情が見え隠れしているような気がしてしまい、瓜子としてはたいそう面白くなかったのだが。このような状況下で駒形氏に報復行為を目論むほどの、冷酷さや嗜虐趣味の持ち合わせはなかった。


「ユーリさん、こっちはいいですから、何とかこの騒ぎを丸くおさめてきてあげてくださいよ。実際セコンドって言ったって、試合開始まではそんなにやることもないんすから」


「ううん、それはそうなんだろうけどさあ……」


「三百人近い人たちが、ユーリさんに会いたくて押しかけてきてるんすよ? これでイベントは後日に延期だなんて発表したら、あの人たちがあまりに気の毒っす。ファンのみなさんを大事にしてあげてください」


「う~~~~~~ん……わかったよ! うり坊ちゃんがそこまで言うのなら、泣いて馬謖を切りましょうぞ!」


 と、ユーリはそんな風に宣言するや、コートのポケットから一本のマジックペンを取り出した。

「馬謖を切る必要はないと思うっすよ?」という瓜子の言葉も耳に入らぬ様子で、そのマジックをテーピングでぐるぐると右手に巻きつける。

 右肘の靭帯ばかりでなく、右拳の中手骨をも負傷していたユーリは、まだ握力が完全には戻っていないのだ。こんな怪我人にサイン会なんてさせるなよ、というのが、瓜子のそもそもの不満であったのだ。


「行って参ります! なるべく迅速に三百人斬りしてみせるから、ユーリが駆けつけるまで待っててね!」


 試合前から、慌ただしいことだ。

 だけどもちろん、瓜子としては安堵の思いのほうが強かった。

 たかだか数ヶ月休むぐらいで、世間はユーリを忘れたりはしない――そんな風に主張していたのは他ならぬ瓜子であったのだが、さすがにここまで良い意味で想像を裏切られるとは思っていなかったのである。


 この数時間後にはさらなる裏切りに見舞われることになるのだが、神ならぬ瓜子には、そのようなことを見通す力はそなわっていなかった。

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