03 洗礼
数分後――瓜子は16オンスのグローブをはめて、怒れる新人練習生とリングで向かい合う羽目になっていた。
どうしてこんなことになってしまうんだよと、瓜子はがっくり肩を落とす。
「ルールはGルールでいいな? アマとプロで違いはあったっけか?」
スカジャンを脱いで和柄のシャツ姿になったレフェリー役のサキが、リングの中央から問いかけてくる。
「大きな違いはないっすよ。アマチュアルールだと首相撲が禁止で、あとはファイブカウントのダウンでKO負けってぐらいっす」
「ふん。ほんならそれでオッケーだな。時間は二分で一ラウンドのみ。ダウンは二回までってことにしておくか」
もちろん名目上はスパーリングなので、ヘッドガードとレガースパッド、ニーパッドも装着させられている。
サイトー選手か立松コーチあたりにストップをかけられるのではないかと瓜子は期待したのだが、案に相違して、この遺恨に満ちみちた私闘まがいのスパーリングを止めてくれる者はいなかった。門下生の半数は興味深そうにこちらを眺めやっており、もう半数は、素知らぬ顔で稽古を続けている。
オランダ流というか何というか、このプレスマンにおいては良くも悪くも個人の主張が尊重され、そして、謙虚は美徳とされていない。瓜子の実力に疑問があるならば、実際に手を合わせてみればいい、というサキの乱暴な提案には、立松でさえ異を唱えなかったのだ。少しでも心配そうな様子をしてくれているのは、エプロンサイドにかぶりついているユーリぐらいのものだった。
「うり坊ちゃん、ケガしないでねぇ。……そんでもって、ムラサキちゃんにもケガさせないでねぇ」
そんなことは、言わずもがなだ。もちろん敗北など喫してしまうのは論外だが、これで相手に手傷など負わせてしまったら、世間的には新人練習生への制裁行為と受け取られかねない。こんなに気の進まないスパーリングはいつ以来だろうと、瓜子としては品川MA時代の追憶にでもひたりたいぐらいだった。
(先輩選手に目をつけられて、無理矢理スパーをやらされて、失神KOを食らったこともあったっけ。……だけど、自分があんな役回りをやらされるのはカンベンだなぁ)
だいたい瓜子は、この邑咲愛音に怒りを覚えているわけではない。ただ、困ったやつだなあと呆れているだけだ。腕っぷしの証明なんて、試合だけで十分であろう。道場とは強さを誇る場所ではなく、強さを磨く場所であるはずなのだ。
「……瓜。しょぼくれたツラしてねーで、覚悟を決めろや。しょーもないガキんちょに正しい道筋を示してやんのは、トシくった人間の役目だろーが?」
と、少し左足をひきずりながら近寄ってきたサキが、細くしなやかな右腕を瓜子の首に巻きつけてくる。サキはユーリよりも、靭帯損傷の予後が思わしくないのだ。
「あのまんまじゃあ、あのガキは道場中の反感をくらっちまうぞ。……ついでに、牛も巻き添えだ」
「え? どうしてユーリさんまで?」
「そりゃあそうだろーがよ。正式な所属選手でもない牛に憧れて入門してきて、牛以外の連中には興味なし、って言ってるようなもんなんだからよ。あのガキが騒げば騒ぐほど、牛の好感度も地に落ちていくって寸法だ。……実はあのガキが牛に怨みでも持ってるっていうんなら、拍手を送りてーぐらいの見事な策略だよ」
まさかそんな馬鹿げたことはないだろうけども、確かにこのままでは、ただでさえ煙たがられているユーリの立場が風前の灯火だ。
「ついでに忠告させていただくけどな。今、道場の連中が注目してるのは、あんなクソガキじゃなくおめーのほうだ。世間知らずで物事の道理もわかってねード新人を、見事に黙らせることはできるのか。こいつはおめーの力量が試されてるんだぜ?」
「……そいつは心の躍るお話っすね」
瓜子が力なく答えると、ユーリがエプロンサイドのマットをバンバンと子どものように叩き始めた。
「ちょっと! サキたん、うり坊ちゃん! あんまりむやみにベタベタしないでいただけますかしら? そこは神聖なるリングの上ですわよ?」
サキはそちらを無表情に一瞥してから、さらに瓜子を引き寄せて、ハスキーな声音を耳朶に注ぎこんでくる。
「難しく考える必要はねえ。世間の厳しさってやつを、アマチュアチャンピオン様に思い知らせてやればいーんだよ。……よし、ほんじゃあそろそろ始めんぞ」
「作戦会議は終了ですか? 愛音はいつでもオッケーですよ!」
白いコーナーに寄りかかり、当の問題児はメラメラと両目を燃やしている。
十六歳の女子高校生というのはここまで直情的な生き物だったっけなと頭を悩ませつつ、瓜子はマウスピースをくわえた。
あらためて見ると、邑咲愛音はやっぱり細い。アマチュアの高校生なのだから当然だが、それにしても筋肉が足りていないと思う。身長は百六十センチ近くもありそうなのに、体重は四十キロ台の中盤ぐらいだろう。こんな細っこい身体をして、よくもまあ二冠王などになれたものだ。《G・フォース》のアマチュア大会も、武魂会のオープントーナメントも、運やマグレで勝ち抜けるような大会ではないはずであった。
(そいつはつまり、パワーを補ってあまりあるテクニックやスピードを持ってるってことだよな。八年もグローブ空手を続けて、顔に打たれた痕もないわけだし)
アマチュアとはいえ、なめてかかる気は毛頭ない。
反面、自分が負けるとはそれ以上に考えられない。
しかし――大きなダメージを与えずに勝つ、などという器用な真似が、瓜子に可能なのだろうか?
「ファイト」
かったるそうな声音で言い捨てて、サキがストップウォッチのスイッチを押す。
どうせグローブを合わせるつもりなどないだろうから、瓜子はガードを固めてすみやかに間合いを詰めることにした。
当然のごとく、相手もすみやかにステップを踏み始める。
(やっぱり、アウトボクシングか)
前進する瓜子から距離を取りつつ、ジャブを振ってくる。ステップが軽い。それだけの動きで、もうかなりのスピード型だということがわかる。
ただし、予想外のこともあった。
邑咲愛音は、サウスポーだったのだ。
(……ちょっと厄介だな)
瓜子はあまり、サウスポーが得意ではない。特別に苦手というわけではないが、人並みに苦手、という感じだった。
本来、構え方が鏡合わせのように真逆となるサウスポーとオーソドックスでは、どちらかが不利になるという道理もない。急所であるレバーが相手に近くなるぶん、サウスポーが不利であるという言い方もできるぐらいなのだ。
しかし、この国で圧倒的多数を誇っているのは、言わずと知れた右利きの人間である。格闘技の世界においても、それは例外ではない。
つまり、サウスポーの選手はオーソドックスの選手と闘うことになれているが、オーソドックスの選手はそうではない、ということだ。
サウスポーは、有利である。それゆえに、右利きでありながらサウスポーで闘う、「右利きサウスポー」などという選手も存在する。
(スピード型のアウトボクサーで、サウスポーか。それで足クセが悪かったら、一番苦手なタイプなんだけど……)
瓜子がそんな風に考えた瞬間、前足のミドルキックが飛んできた。
いや、ミドルではなく、ハイだった。
いったん膝を高く掲げてから足先ののびてくる、いわゆる空手式のブラジリアンキックというやつだ。ミドルかハイかのモーションがわかりにくい、厄介な蹴り技なのである。
まだ間合いが遠かったので、瓜子も慌てることなくブロックすることはできたが、内心では溜息を禁じ得なかった。
(ま、得てしてそういうもんだよな)
手足が長く、スピードに自信のある選手がアウトボクシングを習得するのは理にかなっているし、アウトボクサーならばヒット&アウェイが基本だから、射程の長い蹴り技を得意とするのが自然の摂理だろう。
手足が長くて、スピード型で、アウトボクサーで、蹴り技が得意。
レフェリーをつとめているサキだって、まさしくその通りの選手なのだ。
ついでに言うなら、サウスポーという点まで一致している。
(だけどこっちは、そのサキさんと本気でやりあったこともあるんだからな)
あれは九月の試合だったから、すでに四ヶ月も経過しているのか。
しかし、あの敗戦の記憶が薄れることはなく、今でも瓜子の頭と身体にしっかりと刻みつけられてしまっている。
どんなに苦手なタイプであろうとも、サキほど脅威的な選手などそうそういるはずもない――そんな思いを胸に、瓜子はさらに距離を詰めようとした。
そのとき、サイドキック気味の右前蹴りが、瓜子の腹部に突き刺さってきた。
(……おえ)
慌てて、ステップを後方に修正する。
とたんに、鋭い右のジャブが左腕を打ってきた。
距離を測られた――そう思った瞬間、今度は左のミドルが飛んでくる。
いや、また空手式のハイなのか?
瓜子は一瞬、迷ってしまった。
迷ったために、おもいきり左ミドルを腹に食らってしまった。
重くは、ない。
しかし、疾い。
その蹴り足を戻すなり、今度はワンツー。
右ジャブは左腕で防げたが、左ストレートは顔面にまでのびてきた。
さらには右のローキックで、膝の裏を蹴られてしまう。
疾い。
とにかく、疾いのだ。
瓜子の背筋に、悪寒が生じる。
なすすべもなくサキに殴られ、蹴られまくった、四ヶ月前の記憶がいっそうまざまざと蘇ってくる。
そんな思いを想起されるほどに、邑咲愛音の攻撃は、疾く、鋭かった。
(……まずい)
二分一ラウンドのスパーでは、いったんペースを握られるだけで勝敗が決してしまうかもしれない。
もはや、なりふりかまってはいられなかった。
(……ごめんよ)
鋭いワンツーの後に繰り出された、左フック。
それをダッキングでかわした瓜子は、いっさいの手加減なく、右のボディフックを相手の腹のど真ん中に叩きこんだ。
「うっ……!」
レバーではない。
みぞおちでもない。
本当に、腹筋のど真ん中だ。
しかし、その一撃で邑咲愛音はマウスピースを吐き出し、ぐしゃりと崩れ落ちてしまった。
「ほい、終了っと。……なかなかに面白え見世物だったなー」
サキがストップウォッチを止め、てくてくと近づいてくる。
邑咲愛音は腹を抱えて丸くなりつつ、決死の形相でサキを振り仰いだ。
「待っ……てください。ダウンは……二度までって……」
「そう言ってる間に、五秒は経ってんだろ。立ち上がれんのかよ、おめーはよ」
「立て……ます……です……」
愛音は左のグローブをマットにつき、片膝立ちの姿勢をとった。
しかし、そこまでが限界だった。
腹が痛いのか、悔しいのか、「ううう」と嗚咽して涙をこぼし始める。
その頭を、サキは無慈悲にひっぱたいた。
「プロの選手にケンカを売って、負けて泣くとはいい根性だ。おめーは本気で勝てるつもりだったのかよ?」
「うう……ううう……」
ポタポタと、大粒の涙がマットに落ちる。
それを見下ろすサキの横顔は、冷淡そのものだった。
「ご丁寧に、急所を外してくれたんだからよー。感謝しとけよ、タコスケめ。あと数センチでも上に入ってたら、おめーは呼吸もできなくてのたうち回ってたとこなんだぜー?」
「ちょ、ちょっとサキさん、やめましょうよ。これじゃあまるで……リンチじゃないですか?」
見かねた瓜子が口をはさむと、サキは「んあ?」とけげんそうな声をあげた。
「別にいーだろ。どーせ他の連中はべたぼめするに決まってんだからよー。最初に鼻っ柱を折っとかねーと、このジャリが増長しちまうだろ」
「え? それはどういう――」
そのとき、リングの下から手を打ち鳴らす音色が聞こえてきた。
犯人は、いつのまにかユーリのかたわらにまで近づいていた、正規コーチのジョンだ。
「スバらしいフットワークだったねー。サイキンのアマチュアのセンシュは、こんなにレベルがタカイいのかなー?」
「いんや、こいつは別格だろ。フットワークもだけど、当てカンがハンパじゃねえなあ。猪狩みてえにすばしっこいやつに、よくもまああんなポンポンと当てられるもんだ」
ジョンに応えたのは、サイトー選手だった。
「最後にアウトに引いてたら、猪狩もヤバかったんじゃねえのか? 一ラウンドで捕まえられるような足じゃなかったろ?」
「はい。そうかもしれないっすね」
「インサイドワークも悪くなかったし、ここぞというときにはしっかり踏みこめる性格も上々だ。カラダをしっかり作ったら、こいつは一気に大化けするんじゃねえか? ……おい、新入り、お前さんウェイトは何キロだよ?」
「え……四十六キロですけど……」
まだリング上にうずくまったまま、苦悶に眉根を寄せつつも、愛音は言葉をしぼりだした。
腕を組み、ごつい下顎をさすりつつ、サイトー選手はご満悦の表情である。
「総合じゃなくキックだったら、オレが面倒見れたのになあ。……でもまあその体格じゃアトム級で、オレの脅威になっちまうか。ジョン、こんだけの逸材を育て損なったら、お前さんたちに責任を取ってもらうかんな?」
「ウン。そのトキは、アタマでもマルめようかー?」
にこにこと笑いながら、ジョンはつるつるのスキンヘッドを撫で回す。
「……だとさ。その悔しさをバネに精進しろや、ジャリ」
と、サキがぶっきらぼうにつぶやいて、愛音のかたわらに屈みこんだ。
愛音は、まだ悔し涙を流し続けている。
「さて、と。……サイトー、このクソ生意気なジャリは、アタシがあずかるぜ?」
「ああん? 何だって?」
「何だもへったくれもねーよ。こんだけスタイルが似てんだから、アタシが面倒見んのがスジだろ。……それとも、まだプロ練に参加させるには早いってか?」
「いや。そんなことはねえよ。たった一分ていどであれだけの実力を見せつけてくれたんだからなあ」
そんな風に言いながら、サイトー選手はにやりと笑った。
「しかし、お前さんが自分からそんなことを言い出すってのは……それこそ、そこのネエチャンの教育係を志願したとき以来だな。そんなにその娘っ子が気に入ったのかよ?」
「ああ。そこの牛ぐらいムカつくジャリだってのは確かみてーだな」
「牛じゃないもん!」と、ひさかたぶりに言葉を発して、ユーリがリングによじのぼってくる。
そうして涙に暮れる新人練習生の背中を気の毒そうに見やってから、ユーリは瓜子にはにかむような笑顔を送りつけてきた。
「うり坊ちゃん、おつかれさま! あのままうり坊ちゃんがKOされちゃうんじゃないかってヒヤヒヤしたよぉ」
瓜子はふっと息をつき、グローブとヘッドガードを外しながら、ユーリに小さくうなずき返してみせた。
「そうっすね。確かにヒヤヒヤもんでしたよ。……邑咲さん、スパーリング、おつかれさまでした」
邑咲愛音は、キッと瓜子をにらみつけてくる。
その涙に濡れた強い眼差しを、瓜子は同じぐらいの強さで見つめ返した。
「頑張って身体を作ってください。あんなパンチで動けなくなるようじゃあ、プロではやっていけないっすよ。……スパーリングが必要だったら、いつでも相手になるっすから」
「……どうぞこれから、よろしくお願いいたしますです!」
やけくそのように大声でわめくなり、邑咲愛音は「うわあん!」と大声で泣き始めた。
こうして新宿プレスマン道場には、また将来有望な問題児がひとり追加されたのだった。
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