02 憧憬と反感

 実に素っ頓狂なる登場を果たした新人練習生が更衣室に姿を隠すと、ユーリは元気を失った顔を瓜子に寄せてきた。


「ユーリが言うのも何だけど、とても格闘技をやってるようには見えないコだねぇ?」


「……はい。そうっすね」


「ほんでもって、武魂会と《G・フォース》の二冠王っていったら、立ち技ではかなりの実力者なんでしょお?」


「そりゃあそうっすよ。Gのアマチュア大会で優勝できたら、それだけでプロデビューも確約なんすから」


 一昨年の優勝者も、そのまま《G・フォース》でプロデビューを果たした。そして連戦連勝のままアトム級の王座挑戦決定トーナメントに挑み、サイトー選手を打ち倒した末に、見事そこでも優勝してしまったのだ。来月の大会では、その新人選手がいよいよアトム級のタイトルに挑戦するのである。

 まあそれは極端な例であるとしても、アマチュア選手としてはトップクラスの実力者であることに間違いはない。


「それなのに、キックボクサーじゃなくてMMAファイターを目指すのかあ。いったいどういう事情がおありなのかねぃ?」


「……ユーリさんを魂の奥底からお慕い申しあげてるからじゃないっすか?」


 皮肉ではなく軽い冗談のつもりで瓜子が言うと、ユーリは心底しんどそうな表情になってしまった。


「うにゅにゅ……申し訳ないけど、ユーリはちょっと……ああいうコって、苦手かもぉ」


「え! ユーリさんにも苦手なタイプってあるんすか?」


「そりゃあそうさあ。ユーリだって、人間だもの」


 いったいどういう部分が苦手なのかと問い質そうとしたとき、「お待たせいたしましたです!」という元気いっぱいの声とともに当人が戻ってきてしまった。

 そちらを振り返った瓜子とユーリは、絶句する。邑咲愛音なる少女がそのほっそりとした身体にまとっていたのは、ユーリとおそろいのラッシュガードおよびロングスパッツであったのだ。


「ム、ム、ムラサキちゃん? ひょっとしなくても、その格好は……?」


「はい! 恥ずかしながら、購入させていただきました! 家には保存用に、もう一着ありますです!」


 胸もとに燦然と輝く『Yuri・Peach=Storm』のロゴマーク。

 それはユーリとスポンサー契約を結んでいる『ピーチ☆ブロッサム』がスポーツブランドとの提携で制作した、ユーリ・ピーチ=ストームのコラボ商品に他ならなかった。


 しかし、ラッシュガードもスパッツもTシャツなどと違ってそれほどの売れ行きが見込めなかったため、完全予約生産の限定品であったはずだが――とりあえず、ユーリ本人以外で着用している人間を見るのは、瓜子にしてもこれが初めてのことだった。髪の色までもが以前のユーリとよく似た栗色であることは、さすがに偶然だと思いたいところである。


「えーと……それじゃあ、稽古を始めましょう。邑咲さん、自分は猪狩瓜子といいます。とりあえずは自分が邑崎さんの指導をまかされましたんで、どうぞよろしく」


「はい! よろしくお願いしますです!」


 返事は元気いっぱいだが、その瞳はユーリに固定されたまま、ぴくりとも動かない。悪気はないのかもしれないが、やりにくいことこの上なかった。


 それにしても、本当に可愛らしい女の子だ。

 一月の現在で十六歳ということは、高校の一年生か二年生ということだろう。格闘技どころかスポーツをやっているようには見えないぐらい体格もほっそりとしていて、顔には痣の痕ひとつついていない。

 サイドでひとつに結いあげた栗色の髪が、尻尾のようにふわふわと揺れている。もちろん化粧などはしていないのだろうが、その必要もないぐらい愛くるしい顔立ちをしており、表情もあどけない。


 ファイターらしからぬ、という意味では、ユーリとよく似たタイプである。

 しかし、その実力を開化させるのに時間のかかったユーリとは異なり、彼女はすでにアマチュア選手としては申し分ないぐらいの実績を有しているのだ。

 そういう意味では、ユーリ以上に素っ頓狂な存在であるのかもしれなかった。


「ええと……このプレスマンでは、まず選手本人の希望にそってトレーニングメニューを決めるんすけど。邑咲さん、何か希望はあるっすか?」


 軽いストレッチの後に瓜子がそう問いかけると、少女は「ありますです!」と力強く答えた。


「愛音は、ユーリ様を目標にしているのです! だから、ユーリ様と同じメニューでお願いしますです!」


「同じメニューって言っても、邑咲さんとユーリさんじゃ素養が違うんすから。……総合のトレーニングをするのは、これが初めてっすか?」


「はいです!」


「それじゃあまずは、スタンド状態の組み技からっすかね。キックと総合じゃ、まず間合いの取り方からして変わってくるんすよ」


「はあ……でもあの、猪狩センパイって、プレスマンの入門はユーリ様より後だったのですよね?」


「そうっすよ」


「てことは、ユーリ様を教える立場ではなかったのですよね?」


「むしろ、教えられる立場だったっすね」


「……だったら愛音も、ユーリ様ご本人に手ほどきしていただきたいです!」


 その期待と喜びに満ちみちた表情を見つめながら、瓜子は溜息を抑制することができなかった。

 品川MAジムだったら、この時点で平手打ちの制裁は確定だろう。しかしここは、自由さと奔放さで知られる新宿プレスマン道場である。新人練習生の無礼なふるまいをどのレベルまで看過していいものか、瓜子あたりでは何とも判別がつかなかった。


「邑咲さん。ユーリさんは、プレスマンの正式な所属選手じゃないんすよ。肩書きとしては、邑咲さんと同じ練習生なんです。練習生に練習生を指導させるわけにはいかないっていう理屈はわかるっすか?」


「でも! 愛音はユーリ様に憧れて、この新宿プレスマン道場に入門したのです! ユーリ様みたいに強くてかわゆいプロファイターになるのが愛音の夢なのです!」


「ああ、うん、だからその……」


「八年間も通った武魂会を辞めて! キックボクサーとしてのプロデビューも断って! 親族一同の猛反対も押し切って! 愛音は一大決心してやってきたのです! ここが愛音の正念場なのです!」


「…………」


「……それに猪狩センパイは、MMAファイターとしてのキャリアは一年未満で、戦績も一勝一敗なのですよね?」


 あどけない少女の清らかな瞳に、ちろりと小悪魔のような光が灯る。


「そんな猪狩センパイに、愛音を指導してるお時間なんてあるのですか? 愛音が猪狩センパイのお立場だったら、とうてい新人の指導をしているような心情ではいられないと思うのですけど」


「……それこそ、新人の練習生にそんな心配をされる筋合いはないっすよ」


「心配してるんじゃありませんです。愛音は自己主張してるだけなのです。きちんと月謝をおさめてるのですから、不満は不満として主張させていただいても問題はないですよね?」


 年齢相応の、無邪気であどけない女の子――という仮面を脱ぎ捨てて、邑咲愛音が本性を現した。

 瓜子とて、いい加減にカンづいていなかったわけではない。

 この少女は、何故だか瓜子を敵視していたのだ。


「ちょっと調べさせていただいたのですけども、猪狩センパイはアマチュア時代、《G・フォース》のトーナメントでは準優勝だったのですよね? その後、通常ルートでプロテストを受けられて、それでプロ選手としての活動をスタートさせたのですよね?」


「……それが何なんすか?」


「それから二年でプロランキング第一位という戦績は素晴らしいと思いますですけども、でも、一昨年のアマチュア大会優勝者は、プロキャリア一年でもうタイトルマッチなのですよね?」


「…………」


「だからって別に、今回の優勝者である愛音のほうが猪狩センパイより才能にあふれている、なんていうおバカな主張をするつもりはありませんですけど。でも、愛音が猪狩センパイのお立場だったら、そんな状態でキックとMMAとモデルの掛け持ちをするような心情にはなれないと思うのですよね」


「だ、誰がモデルっすか! モデルを副業にしてるのは、ユーリさんだけっすよ」


「とぼけないでほしいです。モデルじゃないなら、どうして猪狩センパイのお姿が『P☆B』のカタログや『ミリアム』のグラビアに掲載されてるのですか?」


 ひさかたぶりにトラウマを撃ちぬかれて、瓜子は言葉を失ってしまった。

 ユーリはユーリで、目を丸くしたまま固まってしまっている。

 他の連中は、見て見ぬふりだ。ただ、サイトー選手や立松コーチが、遠くのほうからいぶかしそうにこちらをにらみつけていた。


「愛音は、本気の本気なのです! 八年間続けてきた空手を辞めて、ユーリ様みたいなプロファイターになるって決めたのです! 何週間も悩みぬいた結論がこれなのです! 中途ハンパな気持ちで格闘技をやってるような人とは、関わりたくないのです! ……うきゃあっ!」


 威勢よく啖呵をきっていた邑咲愛音が、いきなりべしゃりと這いつくばった。

 背後から忍び寄った何者かが、その小さなおしりをしたたかに蹴りあげたのだ。


「甲高い声でピイピイわめいてんじゃねーよ。まわりの皆様にご迷惑だろーが?」


 邑咲愛音を蹴り飛ばしたのは、ようやく道場に姿を現したサキだった。

 スカジャンにカーゴパンツという格好で右肩にリュックをひっかけたその姿を、少女はマットに倒れふしたまま振り返る。


「い、いきなり何をするのですか! 暴力は最低の行為なのです!」


「うるせーよ。そう思うんなら、こんな場所からは出ていけや。……瓜、牛、おめーらも雁首そろえて何やってんだよ?」


「は、はい。自分はその……そこの邑咲愛音さんの指導役を頼まれたんすけど……」


「むらさきあいね? 噂の女子高生二冠王かよ」


 格闘技に関しては博覧強記のサキが、冷めた目つきで少女を見下ろす。

 以前はすっきりとしたショートヘアであったが、最近は手入れが面倒になってしまったのか、ざんばら髪とでも呼びたくなるようなワイルドな風情になってしまっている。また、髪の根もとは黒のままで、毛先だけが血のように赤い。感情の読みにくい切れ長の目や鋭く引き締まったシャープな顔立ちと相まって、サキは以前よりも迫力や風格が増していた。

 が、邑咲愛音はまったく物怖じした様子もなく、小型犬のように甲高い声で騒ぎ始める。


「《アトミック・ガールズ》でライト級チャンピオンの、サキセンパイでありますか。お会いできて光栄でありますけど、いきなりの暴力はひどいです!」


「うるせーなー。礼儀のなってねー新人を教育してやってるだけだろーが。ピイチクパアチクさえずってねーで、稽古に励めよ、タコスケども」


「あははぁ。大遅刻のサキたんに言われたくないってぇ」


 ほっとしたように、ユーリがようやく口を開く。

 すると、邑咲愛音はものすごい勢いでそちらを振り返った。


「ユーリ様! 愛音は何か間違ったことを言っておりますですか? 間違っているなら、改めますです! 愛音はただ、目標に向かって邁進したいだけなのです!」


「ええ? ううん。ええと、まあ……その心意気は素晴らしいけど、やっぱりセンパイの言うことにはきちんと従ったほうがいいかなぁ……なんて、思ったり思わなかったり……」


 さびついたハサミのように切れ味が悪い。どうやらユーリは、本当にこの少女のことが苦手であるようだ。

 サキは、そんなユーリのピンク色をしたショートヘアをも、ぺしんとひっぱたいた。


「腑抜けたセリフを垂れ流してんじゃねーよ。こんなタコスケに好き勝手させてたら、道場のモラルが崩壊するだろうが?」


「う、裏番長のサキたんがモラルを語っちゃうの?」


「誰が裏番長だコラ」ぺしん。「痛いよぉ、やめてよぉ」「ユーリ様をいじめないでください!」「うるせーよ、タコ」ぺしん。「暴力反対です! それ以上の無法をはたらくおつもりなら、訴訟問題に発展させますですよ!」「やれるもんならやってみやがれ」ぺしん。


「ちょっと! いったん落ち着きましょう!」


 瓜子は体内の気力をかき集めて、三人の中心に割って入った。


「邑咲さん。自分の指導じゃ納得いかないっていうんなら、コーチ陣に相談します。ユーリさんに指導をしてくれていた正規のコーチ陣なら、邑咲さんだって納得がいくんすよね?」


「何だよ、瓜。こんだけナメた口をきかれてんのに、教育のひとつもしてやらねーってのか? そいつはずいぶん不親切な話じゃねーか」


「……邑咲さんの言い分も、わからないじゃないっすから。やっぱり、道場で誰に手ほどきを受けるかってのは重要なことですし」


 瓜子としては、そんな風に答えるしかなかった。

 口惜しさがないわけではないが、とにかく大きな騒ぎにはしたくなかったのだ。

 すると、そんな瓜子の弱気を見て取ったかのように、サキは切れ長の目を光らせた。


「アタシは納得いかねーなー。こんな牛に憧れるなんざ酔狂の極みだけどよ、新人練習生の手前勝手を野放しにはしておけねーんだよ。ちっとは身のほどをわきまえろや、ガキ」


「確かに愛音はガキかもしれないですけど! 自分より不熱心な人に教わることなんてないと思いますです!」


「何が不熱心だよ。おめーはこいつが稽古をしてる姿を見たことあんのか?」


「そんな姿は見てなくても、試合はチェックしてますですよ! 《アトミック・ガールズ》のトーナメントは予選でサキセンパイに敗退して、その後の《G・フォース》は……KOチャンスが何度もあったのに、けっきょく判定までもつれこんでたじゃないですか! あれって、サキセンパイにやられたダメージが残っていたのですよね?」


 それはまったくその通りだったので、瓜子は弁解をしなかった。


「二兎を追う者は何とやらですよ! 総合もキックも中途ハンパじゃないですか! 愛音はそんな風になりたくなかったから、ダンチョーの思いで武魂会を辞めたんです! だから愛音は、猪狩センパイなんかがコーチになるのは、イヤなんです!」


「…………」


「さっきはあえて言いませんでしたけど、猪狩センパイみたいに猪突猛進のファイターには、全然負ける気もしないですしね! 自分より不熱心な上に、自分より弱い選手になんて、何も教わることはありませんです!」


「……ほーお。ついに言ったな、そのセリフを」


 サキは細い目をさらに細くして、瓜子の頭にぽんと手を置いた。


「瓜。おめーの次のセリフで、アタシは今後のつきあい方を考えさせていただくからな。よーく考えて口を開けや」


 瓜子はもう一度、溜息をついた。

 できれば「トホホ」とでも言いたいところだ。

 しかしそんなセリフを吐いたら取り返しのつかないことになってしまいそうなので、別の言葉をひねりだすしかなかった。


「邑咲さんより弱い人なんて、少なくともこのレギュラークラスには一人もいないっすよ。それがわからないようだったら、どんな稽古をしてもなかなか身にはつかないでしょうね」

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