05 危機一髪
その後はこれといった騒動もなく、一時間ばかりもかけてビル内の店舗を見て回ったユーリとその友人は、再び渋谷の街を散策し始めた。
人通りは、だんだん増えてきている。
これならもうユーリたちに気づかれる心配もほとんどないが、その代わり、その人混みからあのあやしい人物を探しだすこともまた困難になってしまった。
「もうちょっと近づいておきましょうか。ユーリさんたちにバレるより、さっきのあいつに先を越されることのほうがマズイっすからね」
「……そうですね」
愛音はなんだか、すっかり静かになってしまっていた。
見た目は、かなり不機嫌そうだ。さきほどの瓜子の言い分に納得できなかったのか。あんまり瓜子の顔を見ようともしない。
それなのに、カップルを演じて腕など組んでいるのだから、妙な具合だ。
「……だけど、あれがユーリさんを追い回す悪質なファンだったとしても、いったいどこでユーリさんを見つけることができたんすかね? マンションから渋谷までの道のりでは、自分がユーリさんの後をつけ回すような格好になってたから、さすがにあんなあやしげなやつがいたら、目に入ると思うし……だけど、人相を隠してるってことは、たまたま見つけたんじゃなく、計画的な犯行っぽいし……」
「……そうですね」
「それに、ユーリさんはファンの顔なんていちいち覚えてないんだから、あそこまで人相を隠す必要もないんすよね。……いや、サイン会とかに来たことのあるファンだったら、やっぱり顔は隠しておかなきゃとか思うものなのかな」
「……そうですね」
「あのね……邑崎さん、何か文句があるんだったら、きちんと口で伝えてくださいよ。邑崎さんらしくないじゃないっすか?」
「……愛音にだって、口に出したくないことぐらい、ありますです。愛音は猪突猛進の猪狩センパイとは違うのです」
ユーリの後ろ姿に視線を固定したまま、愛音は暗い声でつぶやく。
「……ユーリ様のナイト役をおおせつかっている猪狩センパイが羨ましいとか、妬ましいとか、そんな言葉を口にしたって、愛音がみじめになるだけじゃないですか? 自分はしょせん無力の役たたずで、いざというときにユーリ様を守ることもできない未成年のガキンチョなんだって嘆いたところで、その現実が塗り替えられるわけではないじゃないですか?」
「ああ……全部、言っちゃったっすね」
「言わせたのは、猪狩センパイです」
歩きながら、瓜子はふかふかのキャスケットに包まれた頭をかいた。
「だけどまあ……邑崎さんがユーリさんを尾行しよう、なんて言い出さなければ、あの不審人物を発見することもできなかったわけだし。さっきの店の前でも、自分はあの男と何回もすれ違ってたってことに気づいてなかったわけだし。邑崎さんが無力で役たたずだなんてことは、ないんじゃないんすかね」
「…………」
「適材適所っていうか。ユーリさんは、ああいうちょっと変わった人だから……敵とか、障害とか、多いんすよ。そんなユーリさんをサポートするには、色んな立場や色んな性格の人間がいたほうがいいんだと、自分は思うっすよ」
「……猪狩センパイに慰められるのは、何だか屈辱的なのです」
「ああそう。だったら、自力で立ち直ってくださいね」
瓜子は苦笑して、愛音の腕を肩で小突いた。
べつだん、愛音を慰めるつもりでもなく、瓜子は本心を語ったまでである。
接触嫌悪症やら過去のトラウマやらをわきまえた上でユーリの身を案ずる瓜子と、そんなことは知らないままにユーリの身を案ずる愛音の間に、上下の差などはないと思うのだ。
むしろ、ただユーリの生きざまに心酔している愛音のほうが、より純粋である、という言い方さえできるかもしれない。
ユーリが過去の出来事を愛音にも打ち明けたい、と思う日が、いつかはやってくるのかもしれないが――だけど、たとえそんな日がやってこなかったとしても、愛音の心情の価値は変わらないと思う。
何にせよ、ユーリの敵は瓜子の敵であり、ユーリの味方は瓜子の味方でもあるのだ。たとえそれが、どんなに小生意気で口のきき方を知らない娘さんでも、瓜子の気持ちに変わりはなかった。
「あっ……」と、愛音がふいに身体をこわばらせる。
同時に、瓜子も息を呑むことになった。
スクランブルの交差点で、赤信号に気づかず前進し続けようとしたユーリの腕を、となりの青年が素早くひっつかんだのだ。
「危ないなあ、もう! 寿命が何秒か縮まったですよ」
ほっとしたように、愛音が息をつく。
しかし、瓜子はまだまだ気を抜けなかった。
ユーリがほとんど反射的に青年の指先を振り払い、それから慌てて頭を下げる姿が、人混みの隙間から垣間見えたからだ。
しかし――青年のほうも慌てて首を振り、それから申し訳なさそうに手を合わせていた。
(もしかしたら……)
あの青年は、ユーリの不幸な体質のことを、すでに知っているのだろうか?
たとえ服の上からでも、他者にその身体を触れられることに耐えられない、ユーリの不幸な体質を。
そうでなくては、あそこまで申し訳なさそうにする道理がない。
それによく考えれば、そんな深刻な事実さえ知らない相手を、ユーリが「お友達」などと称するわけもない、ということが、今さらのように瓜子の心を揺らめかせ始めた。
(そりゃあまあ……そうだよな……)
しかしそれならば、ユーリはそこまであの青年のことを信頼しているのだろうか。
アイドルとしても活動しているユーリにとって、接触嫌悪症などという体質は、芸能生活を崩壊させるレベルのスキャンダルだ。
その心の病そのものは大きな問題ではないとしても、どうしてそのような病を患うに至ったか――そのプロセスが、致命的なスキャンダルなのである。
幼少時の、家族による性的虐待。
明るく無邪気なお色気アイドルとして売っているユーリにとっては――いや、たとえそうでないとしても、そんな過去を暴きたてられて平気な顔をしていられる人間はいないだろう。
だから、ユーリの体質を知る人間は少ないし、その原因を知る人間などは、もっと少ないはずだった。
(あの人は……)
どこまで、ユーリの秘密を知っているのだろう?
どれぐらい、ユーリにとって大事な相手なのだろう?
色んな立場の人間が、色んな形でユーリを支えてやれれば、それでいい――などと考えていた矢先に、瓜子はものすごく情動を揺さぶられることになってしまった。
(もしかしたら……自分は、自分のほうが邑崎さんよりユーリさんの近くにいるっていう大前提で……余裕をかましてただけなのかな)
なんて浅ましい人間だろう、と、瓜子は自己嫌悪のスパイラルに陥りそうになった。
そのとき、「猪狩センパイ……!」という愛音の切迫した声が、瓜子の心臓に突き刺さった。
同時に、激しく腕を引かれる。
その理由を問いただす前に、もうその答えが眼前に広がっていた。
赤信号のスクランブル前で、気を取りなおしたように談笑している、ユーリと青年。そのふたりに向かって、人混みをかきわけて迫り寄る人影が――ハンチングとサングラスで人相を隠した男の姿が、見えたのだ。
(……まずい!)
表情は見えないが、男が殺気だっているのはわかる。
なおかつ、あちらのほうがすでにユーリたちの近くにまで迫っていた。
あの男が刃物でも携えていたら、もうおしまいだ。
「ユーリさん! 逃げてくださいッ!」
無意識のうちに、瓜子は叫んでいた。
ぎょっとしたように、周囲の人々が振り返る。
ユーリは不思議そうに、きょろきょろと視線を巡らせたが、男はすでにそのすぐ背後にまで到達してしまっていた。
(くそっ……!)
瓜子は愛音の腕をもぎ離し、そのほっそりとした姿を追いこして、無我夢中で右拳を振り上げた。
こちらに刃物を向けられたら、そのときはそのときだ。
悲愴な覚悟を固める瓜子の鼻先で、男は、背後からつかみかかった。
ただし、ユーリにではなく、その隣りの青年にである。
「アキ! これはどういうことなの!? アンタ、アタシを……裏切るつもりなのッ!?」
その人物は、そう叫んだ。
聞き間違えようもない、男の声で。
しかも瓜子には、その声にものすごく聞き覚えがあったのだった。
「おっ……っとっと」
渾身の力で繰り出そうとしていた右フックを、あやういところで急停止させる。
瓜子の拳は男の後頭部に触れそうなぐらいの距離にまで肉薄していたが、しかし男は青年の両肩をひっつかんだまま、まるきり気づいてもいないようだった。
「ねえ、答えてよッ! アンタ、アタシのことが、嫌になったの? ……それで、女なんかとつきあうことにしたってわけ!?」
完全に逆上した男の声が、渋谷の雑踏に響きわたる。
青年は、ものすごい勢いで両肩を揺さぶられながら、当惑しきった様子で男の顔を見つめ返していた。
「トシさん……どうして、こんなところにいるの?」
その女の子みたいにやわらそうな唇から、いかにも気弱げな声がこぼれる。
「どうしてって! アンタをつけてきたに決まってるでしょ! アンタがアタシに隠れて、コソコソ何かやってるみたいだったから……そんなの、放っておけるわけないじゃない! いいから、アタシの質問に答えなさいよッ!」
「ううん、参ったにゃあ。先生ってば、アキくんが先生を裏切るわけないっしょー? ユーリはただ、アキくんに頼まれてショッピングにおつきあいしてただけだよん」
と、大して焦った様子もなく、ユーリが横から口をはさむ。
青年は、困り果てた面持ちでユーリを振り返った。
「あ、ユーリちゃん、あの……」
「うん、こうなったらもう駄目だよ、アキくん。すべてをセキララに語ってしまいましょう。……あのね、先生、アキくんは先生へのプレゼントを選ぶために、ユーリを呼びだしただけなの。それはサプライズのプレゼントだったから、先生に隠れてコソコソしていただけなのですよん」
先生と呼ばれた人物は、サングラスの奥から、疑わしそうにユーリと青年の姿を見比べている。
そんなことをしている間に信号は青へと変じ、物珍しそうに周囲を取り囲んでいた人々も、苦笑顔で歩き始めた。
「あの……これっていったい、どういうことなのですか?」
ただひとり、さっぱり状況がわかっていない様子の愛音が、息を切らしつつ、瓜子の袖を引いてくる。
瓜子がそれに答えようとしたとき、珍しくも眉を吊りあげたユーリが、怒った声でわめきだした。
「どういうことって、それはユーリの台詞だよっ! 先生はまだしも、どうしてうり坊ちゃんたちがこんなところにいるのさ!」
「え? いや……あの、すいませんでした」
とっさに気のきいた言葉をひねりだすこともできなかった瓜子は、ただ漫然と頭を下げるしかなかった。
そんな瓜子の姿を見て、ユーリはいっそういきりたってしまう。
「デートなのっ!?」
「……は?」
「うり坊ちゃんのそんなかわゆらしい格好は、今まで見たことなかったよっ! デートなの? まさか、デートなのっ!?」
「……女同士でつるんで出かけることを、世間ではデートとか言わないと思うっすけど」
男性陣には聞こえぬように小声で瓜子が応じると、ユーリはほとんど涙目になりながら、これまでで一番大きな声を爆発させた。
「やっぱり二人で遊んでたんだねっ! ユーリをのけものにして! そんなおめかしまでして! ……ひどいよ、うり坊ちゃん! 仕事仕事でユーリとだって数えるぐらいしか遊んだことないのに! 出会って一ヶ月もたってないムラサキちゃんとデートだなんて! これは重大なる背信行為だ! ユーリに対する、裏切り行為だっ!」
まだあんまりユーリが癇癪を爆発させる姿を見たことのなかった愛音も、言葉を失って途方に暮れてしまっている。
さてさてどうしたものかなあ、と、瓜子は安堵と困惑の入り混じった吐息をつくことになった。
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