04 迫り寄る影
平日のまだ昼前だというのに、渋谷の駅前通りはなかなかの賑わいを見せていた。
尾行をするにはうってつけだが、いっそ早めにバレてしまったほうが罪悪感も軽くて済むよなあと、瓜子はネガティブに考える。
「そういえば、学校のほうは大丈夫なんすか、邑崎さん?」
「そんなの、仮病に決まってるじゃないですか。制服は駅のロッカーにあずけてきたのです」
「あのですね……それが親とか学校にバレたら、たぶん責任を取らされるのは自分なんすけど?」
「バレなければ良いだけのことでしょう。ユーリ様の幸福な未来がかかっているというのに、猪狩センパイは覚悟が足りないですね」
そんな勝手な言葉をつぶやきながら、愛音がいきなりぐいっと瓜子の腕に自分の腕をからめてきた。
「な、何すか?」
「何すかじゃないですよ。カップル設定にしようと言ったでしょう? これなら少しぐらいユーリ様の視界におさまってしまっても、そうそうバレはしないですよ」
それはそうかもしれないが。何が悲しくてそんなに仲も良くない小生意気な後輩とカップルのふりなどをしなくてはならないのだろうか。
しかも、自分が女性役を演じなくてはならないというのが、何やら屈辱的でもある。
「だったら頑張って身長をのばしてください。まあ、猪狩センパイのおトシではそれも難しいのでしょうけれどもね」
「いちいちうるさいっすよ。ウェイトだったら、自分のほうが上なんすよ?」
「それが自慢になるのは稽古場とリングの上だけです。やっぱり猪狩センパイは、根本的なところで女性らしさが欠落してますですね」
憎まれ口を叩きながら、愛音は親の仇のようにユーリたちの背中をにらみつけている。
後ろ姿だけでもスタイルの良さがうかがえる、妙齢の女性と男性のふたり連れである。あちらこそ、カップル以外の何物にも見えはしないだろう。
ただし、ふたりの間には拳ふたつぶんぐらいの適度な距離が空いており、瓜子をひやひやさせることもない。
しかし――ときおり見えるユーリの横顔は、この距離からでも楽しげにしているのがわかる。
それはそうだろう。ユーリにしてみれば、ひさかたぶりに会う友人とのひとときであるのだ。
(友人、か……)
もちろん、それが嫌なわけではない。
一見、華やかな生活を送っているように見えながら、たいそう孤独で不幸な半生を送ってきたユーリなのだから、友人のひとりぐらいはいてほしい、と思う。
瓜子は愛音ほど独占欲の強い人間ではないので、それは、掛け値なしの本心である。
しかし――やっぱりなんだか、しっくりこない。
美容院で知り合った、四歳年長の、異性の友人。普通と言えば普通すぎる、そんな関係性が、ユーリには似合わないのだ。
それはやっぱり、ユーリが特異な人間だから、であろう。
アイドルとファイターの二重生活、というだけで十分に特異な環境であるのに、それにつけ加えて、ユーリは接触嫌悪症なのだ。
女性としてあれほどの魅力を有していながら、他者と触れあえない、不幸な体質。
そこから形成された、個性的に過ぎる気性。
子どものように無邪気で、明るくて、泣いたり、笑ったり、怒ったり、とても情感豊かでありながら、心の奥底にある暗い感情、恐れや、不安や、絶望感などは、決して他者に見せようとしない。ユーリは、そういう人間だ。
こんな自分が世間の人々に受け容れられるはずはない、と、真っ当な人間としての幸福な人生は早々に切り捨てて、総合格闘技という競技に自分のすべてを託してしまい、文字通りのアイドル――偶像たらんと願った女。
桃園悠宇里、ユーリ・ピーチ=ストームとは、そういう存在であるのだった。
(だから何だ、って言われると困るけど……)
要するに、ユーリが普通の相手と普通に仲良くなれるような人間だったら世話はない、ということだ。
そもそも「男である」という時点で、ユーリにとっては甚大なるマイナスポイントとなるはずであるのだった。
「あ。お店に入りますですね」
ユーリたちが目指していたのは、この渋谷でもたぶん一番有名であろう若者向けのファッションビルだった。
「うぬう。これが噂の……愛音としては、こんな小汚い格好ではなく、ふだんのフル装備で挑みたかったところです」
「はい?」
「田舎育ちの愛音には、敷居が高いです。猪狩センパイだって、ふだんはこんな場所には近づきもしないのでしょう?」
「そうすね。ユーリさんに連れられて、二回ばかり足を踏み入れたぐらいっす」
しかもその内の一回は、ここ十日以内の話であった。その日はいささか特殊な事情があって、渋谷のアクセサリーショップをローラー作戦で巡回することになったのである。
もちろんそんな余計な注釈はつけなかったのだが、けっきょく瓜子は至近距離から肉食ウサギのような目でにらまれてしまった。
「……要所要所でユーリ様との親密具合をアピールするのはご遠慮願えませんですか?」
「そんなつもりは、毛頭ないっすよ」
阿呆な会話を繰り広げながら、オープンしたばかりのビル内に突入する。
平日の早い時間とあって、混雑具合はほどほどだ。
エスカレーターのほうに歩いていくユーリたちを追いながら、瓜子はだんだん緊張してきてしまった。
やっぱり、今からでも引き返すべきなのではなかろうか?
「ふむ。きちんとユーリ様を先に乗せていますね」
「ん? ああ、レディファーストとかそういうお話っすか?」
「違いますですよ。女性が転倒した際、すぐ支えられるポジションをとるのが殿方の常識でしょう? 昇りのときは後ろ、降りのときは前、です」
「うわ……邑崎さんとおつきあいする人は大変っすね」
「やかましいです。とっとと追いますよ」
到着したのは、三階のアクセサリーショップである。
さすがに同じ店に入るのは危険だったので、店の前を何度か往復しながら、ふたりの様子を盗み見る。
(ユーリさん……ほんとに楽しそうだなあ)
用事があるのはお友達のほうであるはずなのに、ユーリのほうがはしゃいで色々なアクセサリーを物色している姿がうかがえる。
銀色に光るイヤリングを耳もとに当てて、「どうかな?」とばかりに青年へと笑いかけるその姿は、やっぱりお似合いの恋人同士にしか見えなかった。
「うぬぬ……あんな天使のような笑顔を向けられたら、そりゃあ男どもだって脳髄を打ち抜かれるに決まっているですよ」
「うん、まあ、そうかもしれないけど……でも、あの男の人も、そんな悪い人ではないんじゃないっすかね?」
ユーリに笑い返す青年の横顔は、ユーリと同じぐらい楽しそうで、なおかつ、とても優しそうだった。
二十四歳という年齢よりもずいぶん若そうに見えるが、物腰は落ち着いていて、すごく繊細な感じがする。
「善悪なんて、関係ないのですよ。どんなに人格者でも、優しくても、最終的にユーリ様を悲しませるような人間は、アウトなのです」
「うーん……それなら、お相手が格闘技に理解のある男性だったら、邑崎さんも祝福してあげられるってことっすよね?」
「……ユーリ様の心を独占するような存在を、愛音が祝福できるとでもお思いなのですか?」
「ええ? それじゃあ、ユーリさんに一生独り身でいろ、とでも?」
「何でですか! 愛音にユーリ様の幸福をさまたげる資格などありませんです!」
大きな声を出してしまってから、愛音はいくぶん悲しそうに瓜子をにらみつけてくる。
「ユーリ様が幸福であられるのならば、愛音は涙をかみしめて見守るばかりです。祝福はできなくとも、それぐらいの自制心は持ち合わせているつもりなのです」
とても申し訳ない話なのだが、瓜子は「ぷっ」とふきだしてしまった。
とたんに、愛音の顔が羅刹へと変ずる。
「何がそんなに愉快なのですか? 愛音の決意など、猪狩センパイにとってはお笑い種でしかないのですか? 猪狩センパイは、そこまで非道なお人だったのですか?」
「ご、ごめんごめん。憧れの選手にそこまで強い思い入れを抱けるなんて、すごいと思うっすよ」
「愛音を馬鹿にしているのですね。いいですよ。どうせ猪狩センパイには、愛音の心情など理解できないのですから」
理解は、できないかもしれない。
愛音は偶像としてのユーリを崇拝しており、瓜子は人間としてのユーリと親密になってしまったのだ。
入門して何週間も経過していながら、愛音のほうに変化はない。いつまでたってもファン目線で、ユーリの存在を全肯定してしまっている。
だからこそ、ユーリのほうも愛音が苦手で、心を開くことがかなわないのだろうが――
それでも、愛音は真っ直ぐだった。
真っ直ぐ、ユーリに心酔しているのだ。
ユーリにとっては、ありがた迷惑な存在なのかもしれないが。それでも瓜子が時として苛立ちつつもこの小生意気な後輩を嫌いになれないのは、そういう真っ直ぐなところ、打算や下心や見返りの期待もなく、ただひたすらにユーリの成功と幸福を願っているところが、素直に嬉しく感じられるためなのかもしれなかった。
「ちょっと……猪狩センパイ、こっちに来てください」
「え? な、何すか?」
いきなり腕を引っ張られて、瓜子は非常階段のほうまで引きずりこまれてしまった。
「どうしたんすか? そんなに気にさわったんなら、もっぺん謝るっすけど」
「何をたわけたことを言っておられるのですか。アレを見てください」
アレ、とは何のことだろう。
ユーリたちがショッピングを楽しんでいるアクセサリーショップの、入り口が見える。
だんだんと客も増えてきて、さっきまで瓜子たちが歩いていた店の前の通りを、ひっきりなしに若者らが通りすぎていた。
「アレですよ。あの、背の高いあやしげなヤツです」
女性向けのファッションビルなので、背の高い人間などは、ひとりしかいなかった。
オリーブグリーンのハンチングを目深にかぶり、店内なのに真っ黒のサングラス、それに大きな白いマスクまでつけて、完全に人相を隠してしまっている、年齢も何もわからない痩せぎすの男だ。
そのひょろりとした体躯にはベージュ色のトレンチコートを着込んでおり、木の棒みたいに細い足には、スリムのデニム。全体的には、まあ小洒落たファッションだが――サングラスとマスクのせいで、確かにちょっと胡散臭く感じられた。
「はあ。あの男の人が、何か?」
「気がつかなかったのですか? あの男、もうこれで三回ばかりも愛音たちとすれ違っているのですよ?」
「え? そこの店の前で?」
「そうです」
瓜子たちは、他のショップの店頭をひやかす態でてくてくと歩き回り、アクセサリーショップの前を三回ばかり往復した。その瓜子たちと三回すれ違っているということは、彼もまた、そこの通路を行ったり来たりしているということだ。
「ほら。見てください」
男が立ち止まり、ポケットから取り出した携帯端末を操作し始める。
場所は、ちょうどユーリたちのいる店の前だ。
「あいつ、ああやって携帯を見るふりをしながら、ユーリ様たちのことを盗み見ているのではないですか?」
「ええ? どうして? ……ああ、ユーリさんの正体がバレちゃったんすかね」
昨年、初めてのCDをリリースしたあたりから、ユーリの知名度は飛躍的にはね上がった。その代償として、悪質なファンやストーカー、スキャンダル雑誌のレポーターやパパラッチなど、ユーリにとって望ましくない輩の出現率も飛躍的にはね上がってしまったのである。
「ユーリ様は現在、殿方のご友人とふたりで行動されているのですよ。これって、まずいのではないですか?」
「そうっすね。だけど、スキャンダル雑誌のカメラマンとかだったら、あんなお粗末な変装はしないんじゃないっすかね」
「それじゃあ、ストーカーですか。なおさら、まずいではないですか」
ゆらりと、愛音が足を踏み出そうとする。
「愛音が、成敗して参りましょう」
「ちょっと待った! まだストーカーと決まったわけじゃないんすから、落ち着いてください! それで無害な一般人だったりしたら、邑崎さんのほうこそ警察送りっすよ?」
「何を呑気なことを言っているのですか。もしもアレがストーカーなら、あのように小綺麗な男性とデートまがいの行為にふけっているユーリ様を見て、どれほど危険な真似をしでかすか、わかったものではないですよ?」
肉食ウサギさながらに、愛音はまんまるの瞳をぎらつかせている。
「ユーリ様のためなら、愛音の身がどうなろうとかまいはしませんのです。それでは、成敗して参ります」
「落ち着いてくださいってば! ユーリさんのファンと、道場の後輩である邑崎さんとでモメゴトを起こしたら、最終的にまずい立場に立たされるのはユーリさんっすよ? 去年のストーカー騒ぎでだって、自分らはけっこうな窮地に追い込まれたんすから」
「去年のストーカー騒ぎ……ユーリ様の御身に触れた許されざる変質者を猪狩センパイが返り討ちにしたという、アレですね?」
「そうっすよ。そのときだって警察沙汰になっちゃったし……下手なことをすると、自分やユーリさんはプレスマンにいられなくなる可能性もあるんです」
「…………」
愛音は子どものように唇を噛みしめて、瓜子のほうに顔を寄せてくる。
「それでは、どうしろとおっしゃるのですか? あんなあやしげなヤツを放置しておくのですか?」
「いざとなったら、自分がユーリさんの盾になりますよ。自分はいちおうボディガード的な意味合いもあって、ユーリさんと行動をともにしてるんすから。相手に大怪我とかをさせなければ、まあ大きな問題になることもないはずです」
愛音の険しい目線を真っ向から受け止めつつ、瓜子は、低く、力強く答えてみせた。
「だから、邑崎さんは自重してください。プレスマンの門下生で、しかもまだ高校生の愛音さんに無茶をさせるわけにはいかないんです。……ユーリさんのためにも」
愛音は口惜しそうな顔をして、通りのほうに目を戻した。
その顔が、ハッとしたように青ざめる。
瓜子も慌てて目を戻すと、ちょうどユーリたちが店から出てくるところだった。
トレンチ姿のあやしげな男は、どこにもいない。
男は、瓜子たちが目を離していた数秒の間に、煙のように消え失せてしまっていたのだった。
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