Extra Bout~You always make me happy~

01 荒ぶる新人門下生

 瓜子とユーリが星空の下で年の終わりを迎えた大晦日から、およそ一ヶ月――二人が巡りあってから一年と少しの歳月が過ぎ、まだまだ冬らしい寒さの中にある、一月終わりのことである。


                   ◇


「ファイターだって、女性らしさを放棄するのは間違っていると思うのです!」


 いったい、どうしてそのような話の流れになってしまったのか。

 気づいたとき、瓜子たちは道場の片隅で、邑咲愛音むらさきあいねの熱弁を拝聴する顛末と相成ってしまっていた。


 愛音は年明けに入門を果たした、新宿プレスマン道場の新入門下生である。

 年齢は、十六歳の高校一年生。外見は、明るく染めた茶色の髪をサイドテールにしており、くりくりと大きな目が印象的で、なかなか可愛らしい顔立ちと言えることだろう。百五十八センチの身長に、四十六キロという細身の体型で、普通にしていれば格闘技の選手には見え難い風貌であった。


 しかし彼女はキック界の雄である武魂会で八年のキャリアを積み、数々のアマチュア大会で優勝を果たしたのち、満を持して新宿プレスマン道場のプロコースに入門を志願してきた期待のホープであった。

 なおかつ彼女が志願したのは、キック部門ではなくMMA部門である。瓜子が新宿プレスマン道場に入門して以来、初めて直属の後輩が誕生したわけであった。


 ただし、瓜子にとってはあまり扱いやすい相手ではない。

 というか、このプレスマン道場において愛音の扱いに困っていない人間など、そうそういないことだろう。

 そんな瓜子の内心も知らぬまま、愛音は無駄に熱のこもった言葉をぺらぺらとまくしたててきた。


「スポーツ生理学的に、女性は激しいトレーニングに没頭していると男性ホルモンがどぴゅどぴゅ分泌され、女性らしさが損なわれていく傾向にある、と愛音は聞き及んでいるのです。ならばなおさら、女性ファイターは女性らしさを保てるように努力するべきなのではないでしょうか?」


「……ご高説はごもっともっすけどね。なんていうか、もうちょいTPOってやつを考えたほうがいいんじゃないすか、邑崎さん?」


 先輩格の二名――ユーリとサキが何も言わないので、しかたなく瓜子が掣肘することにする。何せ今はその激しいトレーニングを終えた直後であり、みんなくたびれ果ててしまっているのだ。


 ユーリはだらしなく壁にもたれて、バナナ味のプロテインシェイクをストローですすっている。

 サキは負傷した左足を床に放りだし、愛音から徴収したフルーツの盛り合わせをがつがつと喰らっている。

 瓜子だって、そんな先輩らと同様の有り様だ。全員が汗だくで、疲労困憊の極みにある。ただでさえ周波数の高い愛音の声は、そんな瓜子たちにとって負荷が過ぎた。


「ふみゅう。これでもユーリはグラドルちゃんなんぞを副業にしておりますため、女性らしさをキープする努力も怠ってはいないつもりにゃのですが」


 しかたなさそうにユーリが口を開くと、「も、もちろんです!」と愛音は声を上ずらせる。


「ユーリ様は完璧です! 強くて可愛い女子ファイターの鑑です! 至高の存在です!」


「あうう……恐縮でしゅ」


 この愛音は、ちょっと偏執的な熱情でもって、ユーリの存在に心酔してしまっているのだ。その熱情を受け止めかねているユーリは、先輩らしい威厳を示すこともできぬままに、小さく縮こまってしまった。

 まあ、ユーリが女子ファイターの鑑や至高の存在であるかはさておくとしても、愛音の説法などは不要無益であっただろう。どちらかといえば、ファイターとしてよりも、アイドルとしての知名度のほうが高いぐらいのユーリなのである。


 ピンク色に染めたショートヘアに、やや垂れ気味の大きな目と、ノーメイクでも桜色をした肉感的な唇。

 ぬけるように白い肌と、超絶的なプロポーション。

 どんなにトレーニングをしても女性らしい優美な線を失わないその身体は、まあ、特異体質としか言い様がない。こんな色気とフェロモンの塊みたいな女の子が、男子選手をも圧倒するパワーや、誰にも負けないグラウンド・テクニックを有しているなどとは、その目で見ないとなかなか信じ難いことであるはずだった。


「……だから愛音は、そちらのセンパイ方に苦言を呈しているのであります!」


 と、愛音の丸っこい瞳が、肉食のウサギみたいに、瓜子とサキをにらみつけてくる。この愛音だって、小動物みたいに愛くるしい顔立ちをしているのに、その暑苦しい性格が見た目を裏切ってしまっていた。

 サキは知らん顔でフルーツの盛り合わせをがっついていたので、瓜子がしかたなく反論してみせる。


「邑崎さんがどんな主義主張を持っていようと勝手っすけどね。他人のことは、ほっといてくれないっすか?」


「どうしてですか! 猪狩センパイだってモデルに誘われるぐらい秀でたルックスを有しておられるのに、持って生まれた素養に頼りきって努力を怠るなどというのは不誠実なのではないですか?」


「そんな素養を持って生まれた覚えはないっすよ。あれはただの……カメラマンの気まぐれっす」


「だけど、猪狩センパイはユーリ様と肩を並べてグラビアを飾ったではありませんか! 一度ならず、二度までも!」


「だから、その話はいいですって。……それに、女らしさを放棄した覚えもないっすよ。毎日おフロにだって入ってますし」


「女らしさのハードルが低すぎます! それは女性らしさではなく、人間性のお話です!」


「別にフロに入らなくたって、立派な人間はたくさんいると思うっすけどね。ほら、あの有名な映画監督とか……」


「だから! 今は人間性を論じているのではなく、女性らしさを論じているのです!」


 愛音の声はどんどんと大きくなっていき、練習後の清掃作業に従事していたキック部門の練習生たちが、ぎょっとしたようにこちらを振り返る。

 どうも愛音が入門して以来、MMA女子部門のメンバーが周りをお騒がせする率が上昇してしまったような気がしてならなかった。


「ピイチクパアチク、うるせーなー。食わねーんなら、そっちもよこせ」


 と、今まで黙りこくっていたサキが、その卓越したリーチで、愛音の足もとに手をのばした。そこには、グレープフルーツやらリンゴやらマンゴーやらが詰めこまれた可愛らしいタッパーが放置されている。プロテインは体質に合わないとかで、稽古のリカバリー用の食品すら小洒落ている愛音なのである。

 ウサギ顔の少女は慌ててそれをガードして、先輩選手の顔を正面からにらみつけた。


「こ、これは愛音のぶんです! 何ですか、サキセンパイ! 女性らしさを論じている最中に、そのようにはしたない行動を!」


「ジョセーラシサって何語だよ。それ、食えんのか?」


 愛音の怒りなどどこ吹く風で、サキは「ふわーあ」と大あくびをする。

 まったくもって、頼もしい先輩様であった。


 この中では一番の先輩格であるサキは、切れ長の目に、薄い唇、シャープな細面と、革鞭のように引き締まった体躯を有する、《アトミック・ガールズ》のライト級チャンピオンである。


 もともとは、男のように短い真っ赤なショートウルフをトレードマークにしていたが、最近は面倒くさくなってしまったのか、ショートとセミロングの中間ぐらいの長さで、根もとも黒くなってしまっている。

 ユーリも瓜子もショートなので、この中では愛音に次ぐ髪の長さであるが、何せのばし放題にしているだけなので、凛々しくも雄々しい容貌に変化はない。

『アトミック・ガールズ随一の男前』として名高い、サキなのである。


「サキセンパイも、猪狩センパイも、もともとのお顔立ちは整っていらっしゃるのに……いや、そうだからこそ、女性らしさを放棄したその振る舞いが、よけい目についてしまうのです! 愛音は、猛省を促します!」


「おめーみたいなヒヨっ子にそんなもんを促される筋合いはねーや。ジョセーラシサとやらで試合に勝てたら世話はねーんだよ、タコスケ」


「むぎぎ。……だいたい、サキセンパイの服装センスは破綻しているのですよ! 真冬にスカジャンとか! 草履ぞうりとか! 装飾性どころか機能美さえ放棄しておられる有り様ではないですか!」


「草履じゃなくて、雪駄せっただろ」


「一緒です! あんな格好、見ているこちらが寒くなってしまうのですよ!」


「うるせーなー。これぐらいの寒さはどーってことねーだろ。雪駄なのは、足が曲げらんねーから靴やら靴下やらを履くのが面倒くせーからだしな」


 サキは左膝の靭帯を損傷して、選手としては休業中なのである。

 しかし、瓜子たち後輩のトレーニングを指導するかたわら、膝には負担をかけない稽古にも従事しているため、運動量に大差はない。

 それはまた、右肘の靭帯を損傷してしまったユーリも同様である。いまだ右肘はテーピングによって固定されたままであるが、ようやく少しずつ本格的なトレーニングに励めるようになってきたユーリは、練習中毒の本領を発揮していた。


 誰もがこうしてそれぞれの目標を掲げて、日々是れ過酷なトレーニングに明け暮れているのだ。

 MMA、総合格闘技の女子選手では、なかなか食べていくことは難しい。それゆえに、日中は生活のために働きながら、数ヶ月に一度の試合に向けて、己を研磨している。それは生易しい生き方ではない。

 だから――瓜子の正直な気持ちを述べさせていただくと、これ以上、余計なものを背負いこみたくはなかったのだった。


「ですからね、女性らしさを余計なもの扱いしてしまう、その精神構造に難ありと愛音は述べさせていただいているのです」


 今日の愛音は、とりわけしつこかった。

 そろそろシャワーでもあびないと、清掃組より帰りが遅くなってしまいそうなのに、その長広舌は終結する気配もない。


「センパイ方は、異性の目を意識してらっしゃらないのですか?」


「はあ……これといって」


「てめーみたいな思春期の色ボケ娘と一緒にすんな、タコ」


「だだだ誰が色ボケ娘ですかっ! 愛音はお年頃の娘として、常識の範囲内で異性を意識しているだけです!」


「へえ。好きな男の子でもいるんすか?」


「……めっちゃくちゃに興味なさそうな口ぶりでありがとうございます、猪狩センパイ。ええ、愛音はいつでもココロの片隅に憧れの男性を配置しておりますですよ! それこそが、女性らしさをキープする最大最強の特効薬だというのが、愛音の持論でありますので!」


 それは僥倖。ユーリに憧れてこのプレスマン道場に入門してきたあげく、やたらと瓜子に突っかかってくるこの邑崎愛音という娘さんには、いくぶん同性愛者的な素養があるのではないかと、瓜子は危ぶんでいたのである。

 瓜子がそんなことを考えていると、サキはいくぶん冷たさを増した目つきで後輩の威張りくさった顔をにらみつけた。


「……別におめーがどんな男に発情しようと勝手だけどよー。まさかそいつは、この道場の人間じゃねーだろうな? 道場内で色恋騒ぎなんて冗談じゃねーぞ、ジャリ」


「それはもちろん、この道場内の殿方ですよ! それぐらい日常的にお顔をあわせる殿方でないと、特効薬としてのご利益が薄まるではないですか!」


 何だかちょっと、破綻してきた。

 そこはやっぱり十六歳の幼さというべきか。はたまた立派な脳筋というべきか。本人に自覚はないようだが、あまり女性らしい主張だとも方法論だとも思えなかった。


「……誰なんすか、それ? 聞いて良ければ」


 何とはなしに尋ねてみると、愛音はいっそうおっかない顔つきになってしまった。


「い、言うわけないでしょう。仮想恋愛とはいえ、恋は恋なのです。そんなデリケートな部分にズカズカと踏みこんでこないでください、猪狩センパイ」


「……仮想って自分で言っちゃったよ」


 そんな恋愛に意味があるのかなあと、瓜子はタオルで汗だくの頭をかき回す。

 と――サキの切れ長の目が、値踏みするように愛音を見た。


「ははーん……そーゆーことか。何だか他の連中とは態度がちげーなーとは思ってたけどよ、まさかそんな下心があったとは思ってもみなかったぜ」


「ななな何ですか? 愛音はトレーニング中にそんな心情をさらけだすような未熟者ではないですよ? おかしなカングリはやめてください、サキセンパイ!」


「自分でそんな風にほざくやつほど、未熟者なんだよ。言われてみりゃあ、一目瞭然じゃねーか」


「ええ? そうっすかね?」


 サキは妙に自信ありげだったが、瓜子には見当もつかなかった。

 ユーリもドリンクボトルのストローをくわえたまま、きょとんとしてしまっている。


 この新宿プレスマン道場には、キックとMMAを合わせれば十数名のプロ選手と、さらに数多くのアマチュア練習生が所属しているが――何というか、質実剛健にして個人主義の風潮が強いので、そこまで女子選手との交流もないのである。


 色気とフェロモンの塊みたいなユーリでさえ、この道場内では異性にアプローチされたことなど――ほとんど――ない、と言っていた。

 こんな環境で、こんな短期間で、よくも恋心などひねりだせたものだ、と瓜子は妙な風に感心してしまった。


「冤罪です! 名誉毀損です! サキセンパイ、知ったかぶりもほどほどにしておかないと、自分が恥をかくことになりますよ?」


「ああそーかい。ほんじゃあアタシの洞察力に不備があったら、明日からフリフリのスカート姿で道場に来てやんよ」


「何それ! 超見たい!」


「うるせーぞ、牛」


「牛じゃないもん! ……で? サキたんの名推理によると、ムラサキちゃんの心を射止めた犯人は誰なのかにゃ?」


 サキはひとつ肩をすくめると、面白くもなさそうに「鰐だろ」と言い捨てた。

 瓜子とユーリは、言葉を失う。


 鰐。ワニ。わに。

 そのように愉快な俗称を持つ人物は、この道場には一名しかいない。

 それは、新宿プレスマン道場の正規コーチ、元ムエタイチャンピオンにしてMMAファイターでもあった、ジョン=アリゲーター=スミス氏である。


「サキたん……それはまた、ずいぶんな大穴に賭けたものだねぇ」


「何でだよ。おめーだって、あの鰐には一目置いてたんじゃねーのか?」


「そりゃあジョン先生は、コーチとしても一人の人間としても尊敬に値する御仁であらせられますから! ……しかし、異性として意識したことはないにゃあ」


 このあたりは、おそらく愛音の耳を気にして、言葉にヴェールをかけているのだろう。

 幼少時のトラウマのせいで接触嫌悪症などという心の病を抱えてしまったユーリは、ジョン先生であれ誰であれ、男女問わず、他者に恋愛感情を持つことが不可能な身の上なのである。


 それにしても――ジョン先生というのは、あまりに意外に過ぎる答えだった。

 いや、もちろんジョン=アリゲーター=スミスは尊敬すべき人格者であり、瓜子だって彼のことは大好きであったが。彼はひょろりと背が高く、頭をつるつるに剃りあげた、オランダ生まれの黒人男性であったのだ。

 年齢はまだ三十代の半ばであるはずだが、十六歳の高校一年生が恋愛の対象とするには、ちょっと独特の感性を必要とするところであろう。


「しかもあいつは嫁もいて、餓鬼だって三人ぐらいこさえてたんじゃなかったっけか? こりゃー最後は裁判沙汰の大騒ぎだな」


「ちょ、ちょっとサキさん、物騒なこと言わないでくださいよ。だいたい、まだジョン先生が邑崎さんの意中の人と決まったわけじゃあ……」


 そう言いかけて、瓜子はまた言葉を失うことになった。

 タッパーに詰めこまれたグレープフルーツに可愛らしいプラスチック製の楊枝を刺したまま、愛音がフリーズしてしまっていたのだ。

 そのほっそりとした肩はわなわなと震え、ウサギのように可愛らしい顔は――リンゴの皮のように赤く染まってしまっている。


「……残念。サキたんのスカート姿、見たかったにゃあ」


「ちちち違うんです、ユーリ様! デタラメです! 冤罪です! サキセンパイ、あなたは……あなたは本当にひどい人ですっ!」


「何がひでーんだよ。どうか誰にもバラさないでくださいませと土下座のひとつでもしてみせりゃあ、黙っててやらないこともなかったのによー」


 愛音が酸欠状態の金魚みたいに口をパクパクさせていると、長身の人影がぬうっと近づいてきた。

 まあ何となく予想していたが、それは練習生たちの清掃作業を手伝ってあげていたジョン先生その人であった。


「ドウしたのー? ダレかボクのコト、ヨんだかなー?」


「誰ひとり呼んでおりません! とっとと消え失せてください、ジョン先生!」


 新人門下生にあるまじき暴言を炸裂させる愛音に、いつでも陽気なジョン先生はにっこりと笑いかける。


「ウン。ボクもそろそろカエりたいからさー。シャワーをツカうならおハヤメにねー。あんまりノンビリしてると、デンシャもナくなっちゃうよー?」

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