エピローグ

誓約の夜

 そうして、冬がやってきた。

 あと二週間ほどで、ユーリやサキと出会った夜から、ちょうど一年の時が経つのだ。


 本日は、十二月三十一日の、大晦日。

 夜には、数年ぶりにエイトテレビで格闘技の大会が生中継される。その日は、ブーム時に一世を風靡した《JUF》───ジャパン・アルティメット・ファイティングの特別開催日でもあった。


 来栖選手を相手に勝利をおさめたという実績が評価され、ユーリ・ピーチ=ストームもこの記念すべき大会に参戦を呼びかけられた。メインは男子選手の試合で、女子選手は二試合ぶん四名の枠しかなかったのだから、それは栄誉あるオファーであっただろう。


 しかし、ユーリは出場することができなかった。


                  ◇


「うふふぅ。やっぱり冬はお鍋だよねぇ。今日は豪勢に、国産の牛肉さんにしちゃおっかぁ」


 ニット帽に黒ぶち眼鏡、それに暖かそうなダッフルコートを着込んだユーリが、カートを押しながら、はしゃいだ声をあげている。


 八王子のマンションからほど近い、大きなスーパーの食品売り場である。

 今宵に放送される《JUF》をの試合をテレビで鑑賞しながら食する予定の食材を、瓜子とユーリは二人で選別している真っ最中なのだった。


「あ、おうどんだよ、おうどん! これをお鍋のシメにしたならば、ちょいと年越しそばっぽくない?」


「どんだけ食う気っすか。油断してると、ほんとに無差別級の体格になっちゃいますよ?」


「ふーんだ! ユーリのボディのどこにそんな不備があるというのだねっ! お疑いなら、今宵こそ一緒にお風呂でも入ってみようか、うり坊ちゃん!」


「やかましいっす。店内ではお静かに」


 言いながら、ごくさりげなくカートを横取りすると、ユーリは目を細めて「ん、ありがと」とつぶやいた。


 ユーリの右腕はコートの内側にしまわれたままで、用を果たしていない右袖はひらひらと後方にそよいでいる。

 ユーリの右腕は、中手骨を骨折した上に、肘の靭帯を損傷してしまっているのだった。

 骨折は、小笠原選手を相手に自爆してしまったもの、靭帯は、ベリーニャ・ジルベルト選手との対戦で傷めたものである。


 診断結果は、全治3ヶ月。

 こんな腕では、試合などできるわけもない。

 よって、ユーリは《JUF》の参戦オファーも断り、来月一月の《アトミック・ガールズ》も、デビュー以来初の欠場を余儀なくされてしまったのだった。


「だけど今宵は、ベル様が出場するからね! 楽しみだなぁ。ドキドキしちゃうなぁ。相手のメイ=ナイトメアってどんな選手なんだろ!」


「さぁ。オーストラリアの選手らしいっすけどね。打撃技が得意とかって雑誌に載ってたっすけど、ベリーニャ選手にどこまで通用するのやら」


 当然というか何というか、現在のベリーニャ選手は《アトミック・ガールズ》無差別級タイトルの保持者であった。


 ユーリは、負けてしまったのだ。


 やはり、右拳が使えない状態で勝てる相手ではなかった。打撃はもちろん寝技においてもまともに防御することはかなわず、ユーリは腕ひしぎ十字固めによって、右肘の靭帯をも破壊されてしまったのである。


 それでもユーリは、ギブアップしなかった。

 完全に極まっていたはずの腕ひしぎからも脱出を果たし、五分三ラウンドを闘いぬき、判定によって惜敗を喫したのだった。


 そうして大きな負傷をしてしまったために、グラビアアイドルやモデルとしての副業もほとんど休むことになってしまった。

 今、メディアでユーリの姿を見かけることは、ほとんどない。

 わずか二ヶ月で猛威を奮うことになったユーリ旋風は、もしかしたら数ヶ月の休息で霧散し果ててしまうのかもしれない。


 しかし、心配はいらないだろう。

 ユーリは、ユーリなのだ。

 三月か、遅くとも五月の大会までには復活を果たし、また化け物のような強さで、みんなの度肝をぬいてくれるに違いない。

 少なくとも、瓜子はまったく心配していなかった。


                 ◇


 マンションに戻り、鍋の準備をしていると、玄関口の呼び鈴が鳴った。


「んにゃ? オートロックの城壁を突破してきたってことは、サキたんかにゃ?」


「そうでしょうね。時間も五時ちょうどですし。……あ、でも、開ける前にちゃんと確認してくださいよ?」


「まったくもぉ。ここまで来たなら普通に入ってくればいいのにぃ。意外に照れ屋さんなんだにゃあ」


 今日は、数ヶ月ぶりにサキがやってくる日なのだった。

 ユーリは笑っているが、瓜子は少し緊張してしまっている。瓜子たちの和解を見届けたサキは、その後も、けっきょくマンションには帰ってこなかったのだ。


 それから今日までの一ヶ月半、道場には普通に顔を出しているし、瓜子たちとも普通に接してくれるようにはなった。普通の先輩として、普通に瓜子たちを指導してくれているのだ。

 その普通さが、瓜子には少し物悲しい。


 それでも、「大晦日ぐらい、一緒にすごそうよっ!」というユーリの呼びかけに、サキは応じてくれた。

 今はこれで満足すべきなのだろう、と瓜子はざわめく気持ちをなだめる。


「やあやあ、サキたん、おかえりなさぁい! ……あれぇ?」


 と、ユーリの素っ頓狂な声が響く。

 それ以降、物音が途絶えてしまったので、キッチンにこもっていた瓜子も、慌てて玄関口まで飛び出すことになってしまった。


「ど、どうしたんすか、ユーリさ……」


 途中で、舌が凍りつく。

 そこには確かに、サキがいた。

 真冬でもスカジャンの、見なれたサキの姿。ユーリの背中ごしに、その姿が見える。


 ただし、サキはひとりではなかった。

 サキは車椅子を押しており、その車椅子に、見なれぬ少女がひっそりと座っていたのである。


 白い面。

 大きな瞳。

 はにかむように、微笑んだ口もと。

 長い髪――では、ない。頭にかぶった可愛らしいニット帽からのぞく栗色の髪は、とてもとても短いようだった。

 ポンチョを羽織り、長いスカートをはいていて、膝の上にそろえた手首から先が、ものすごく細い。


「……あっちのちっこいのが、瓜。こっちのでっけーのが、牛だ」


 ふだんと変わらぬハスキーな声で、サキはそう言った。


「どっちも大馬鹿だから、気は使わなくていい。……牛、瓜、こいつはアタシの妹分で、牧瀬理央っつー大馬鹿だ」


「……はじめまして! 牛じゃなくて、ユーリです! どうぞよろしくね、理央ちゃん!」


 でっかい声で、ユーリが言った。


「ちゆりちゃんが、いっつもお世話になってます! ユーリたちも、お世話になったりお世話をしたりしてあげてます! ちゆりちゃんは、素敵なお姉ちゃんだよね! ユーリもちゆりちゃんみたいなお姉ちゃんが欲しかったよ!」


 サキは無言で、ユーリの額のど真ん中に左ストレートをぶちかます。

 牧瀬理央なる車椅子の少女は、サキたちのそんな姿を、楽しそうににこにこと眺めやっていた。


「瓜、わりーけど、雑巾かなんかもらえるか? こいつのタイヤをふかなきゃなんねーからよ」


「あ、はい! ちょっと待っててくださいね!」


 瓜子は大急ぎでキッチンに駆け戻り、言われた通りのものを差し出した。

「サンキュー」と言い捨てて車椅子の車輪を清め始めるサキの姿を、おでこを押さえたユーリがじとっとした目で見つめている。


「まったく人が悪いなぁ! 理央ちゃんを連れてくるなら連れてくるで、事前に言ってくれればいいじゃん! そもそもユーリたちは、理央ちゃんがお目々を覚ましてたってことすら聞いてなかったよっ!」


「おお。聞かれなかったからな。聞かれもしないことに答えるほど親切な性格をしてねーんだよ、アタシは」


「まったくもう……いったいいつのまに、理央ちゃんはお目々を覚ましてたにょ?」


「モウモウうるせー牛だな。……ちょうどこの前の試合の、次の日だよ」


 この前の試合とは、もちろん無差別級トーナメントのことだろう。

 ということは――もう一ヶ月半も前から、この理央という少女は意識を回復させていたのか。


 いくら何でも、これはサキのほうが水くさい。

 しかしまあ、サキらしいと言えばサキらしい水くささだったので、あんまり腹は立たなかった。


「ようやく外出許可が下りたんで、こうして外に連れ出すことにしたんだ。まだ右手と右足に麻痺が残ってて、ついでに口もきけねーから、まあ役立たずの人形が転がってるとでも思ってくれや」


 そんな口の悪さも、ユーリと理央の双方への親愛や信頼からくるものなのだろう。まったく得な性格である。


「あ、サキたん、そっちじゃないよぉ。テレビを見ながらお鍋をつつこうって言ったでしょ?」


「あん? あんな汗くせー場所でメシを食う気かよ?」


「うっふっふ。ニオイのほうはわかんないけど、現在あのリビングは年末年始用のスペシャル仕様へとリフォーム済みなのだよ! 刮目して入室すべし!」


 そんな大層なものではない。練習用のマットを半分ほど折りたたんで、空いたスペースにラグマットとコタツを置いただけのことだ。

 が、さしものサキも切れ長の目を細めて、いくぶん呆れたような顔になっていた。


「何だこりゃ。大馬鹿まるだしの部屋模様だな。こんなもん、トレーニングの邪魔だろうが」


「邪魔なときは廊下に出してるよん。ま、今はユーリがこの有り様だから、スパーリングもできないしねぇ」


 右肘を傷めてから、一ヶ月半。ようやく三角巾からは解放されたが、まだテーピングで関節部を固定され、ユーリはロクに腕を曲げることもできないのだ。


 それにしても、やはりエアロバイクやダンベルセットといったトレーニング機器と、実に家庭的なコタツという調度の組み合わせは、少なからずシュールであったかもしれない。


「待っててねっ! 理央ちゃんのために座椅子を持ってきてあげるっ!」


 ユーリがリビングを飛び出していき、サキは小さく息をつく。

 その目が、ちらりと瓜子を見た。


「瓜、理央をおろすの、手伝ってくんねーか? 左膝が、本調子じゃねーんだ」


「ああ、はい、了解っす」


 サキもまた、左膝の内側側副靭帯を損傷してしまっている。これまた全治三ヶ月で、ユーリともども休業の真っ只中なのである。


「鶏ガラみてーに痩せちまってるから、おめーひとりで抱えられんだろ。車椅子を引くから、そいつを抱き上げてやってくれ」


「え、ええ? わ、わかりました」


 これは責任重大だ。

 しかし、理央という少女の身柄を一任してくれたことが嬉しくて、瓜子は何だか胸が熱くなってしまった。


 少女の右脇と両膝の裏に腕を差し入れて、慎重に力をこめる。

 きっと身長は瓜子より高いぐらいなのだろうが。理央は、子どものように軽かった。


 ラグマットの上におろし、そのまま身体の右側を支えてやる。

 小さな顔が、瓜子のほうを見て、にこりと微笑んだ。

 初対面の人間を相手に、なんて無防備な笑顔を見せることのできる少女なのだろう。

 瓜子は少し泣きたいような気持ちになりながら、同じように微笑み返してみせた。


                   ◇


 数時間後。

 鍋もあらかた食いつくし、腹も心も満たされた頃合いで、ベリーニャ・ジルベルト選手の姿がテレビ画面に映しだされた。


「うわぁ、ベル様! 今日も素敵っ!」


 ユーリははしゃぎ、サキはお行儀悪くコタツのテーブルに頬づえをついている。

 そして理央は、初めて目にするのだという格闘技の試合にさっきから目を丸くして、幼子のような熱心さで画面を見つめていた。


「……あり? ベル様、今日は何だかカジュアルないでたちだにゃあ」


 ベリーニャ選手は、瓜子にも見覚えのある黒いパーカー姿でリングに上がってきた。

 髪も、自然に垂らしたままだ。

 そんなベリーニャ選手がリングの中央に立ち、四方に小さく礼をしている。


『……会場の皆様にお伝えいたします! 第七試合、スペシャルマッチに出場予定であったベリーニャ・ジルベルト選手は、試合前のメディカルチェックによって肋骨骨折の負傷が発覚したため、本日の試合は不戦敗と決定いたしました!』


 吹き荒れる、ブーイングの嵐。

 ベリーニャ選手は、また小さく頭を下げた。


「ベ、ベ、ベ、ベル様が肋骨骨折? 試合できないの? うわぁん、何だよう、ガッカリだぁっ!」


 ユーリはわめき、後ろざまにひっくり返ってしまった。

 サキも、少しだけ眉をひそめている。


「柔術の選手が調整不足で試合放棄なんて、いい恥さらしだな。ましてやジルベルト柔術ってのは、いつどんな時でも相手を制圧できなきゃ真の武術ではない、とかいう御大層な信条がウリなんじゃなかったっけか?」


「ちょっとサキたん! ベル様を悪く言わないでよっ!」


「ほんとのこったろ。だいたい、試合当日まで骨折してることにも気づかねーってのが、アホだ」


 ブーイングの中、リングアナウンサーからマイクを受け取ったベリーニャ選手が、静かに何事かを語り始めた。

 しかし、母国のポルトガル語であるらしく、何を言っているのかはわからない。


 が───


「……ん? 今、ピーチ=ストームって言わなかったっすか?」


「うにゃ?」


 けげんそうに、ユーリが身を起こす。

 ベリーニャは一礼して、通訳係の女性にマイクを手渡した。


『日本の格闘技ファンの皆さん、試合ができなくてごめんなさい。ケガは痛いけど、試合には出たかった。骨折に気づかなかったのは、自分のミスです。本当にごめんなさい』


 日系のブラジル人なのだろうか。外見は普通の中年女性だが、イントネーションが少したどたどしい。


『ピーチ=ストームは、とても強かった。自分もケガをしてしまったし、彼女にもケガをさせてしまった。またいつの日か、彼女と万全のコンディションで闘える日がやってくるまで、自分は日本で闘い続けます。ありがとうございました』


 ブーイングの声がじょじょに消えていき。しかたなさそうな拍手が、ベリーニャ選手の謝罪に応じる。

 そしてこちらでは、ユーリが目をまんまるにして固まってしまっていた。


「……何だよ、あいつにケガをさせたのはおめーか、牛」


「そういえば……あのときの試合で一発だけ、膝蹴りがクリーンヒットしたっすよね」


「ユ、ユ、ユ、ユーリが? ベ、ベル様の肋骨をへし折ってしまったの?」


「おめーの膝蹴りをまともにくらって、無傷なわけはねーもんな。肋骨ってのは折れてもわかりにくいから、打ち身か何かと思って病院に行かなかったんだろ。何にせよ、マヌケな話だ」


 何をどう考えていいかもわからぬ様子で、ユーリは肩を震わせてしまっていた。


 そしてテレビの向こう側が、何やら騒がしくなっている。

 青コーナー側で立ちつくしていたTシャツ姿のメイ=ナイトメア選手が、ゆらりとベリーニャ選手に近づき始めたのである。


 夜の闇のように黒い肌をした、あまり大柄ではない、年齢不詳の女子選手だった。

 金褐色のドレッドヘアーをざんばらに垂らし、その隙間から、飢えた肉食獣のような目でベリーニャ選手をにらみすえている。


 そして、険悪な形相で何事かをまくしたてると、メイ=ナイトメア選手はベリーニャ選手の胸もとに唾を吐きかけた。

 両者のセコンドが間に割って入り、場内はいっそう騒然とする。

 そしてもちろん、ユーリも飛び上がって激怒した。


「な、な、な、何たる無礼を! 許すまじ、メイ=ナイトメア! ユーリがこれから会場に駆けつけて、あやつを成敗してくれようか!」


「やめとけや、牛。返り討ちにされるだけだぞ。こいつはたぶん、おめーが片腕でどうにかできるやつじゃねえ」


 二回りも大柄なセコンドに羽交い絞めにされながら、メイ=ナイトメア選手は野獣のように暴れ狂っていた。

 双眸が、黒い火のように燃えている。

 本当に、ケダモノのような迫力だった。


「こいつは《スラッシュ》のストロー級チャンピオンで、ずっと柔術女に挑戦を表明してたんだけど、無差別級にチャレンジさせるには身体が小さすぎるってんでプロモーターにストップをかけられてたらしい。で、柔術女が《スラッシュ》を辞めるなり、こいつも《スラッシュ》を飛び出して柔術女を追い回し始めたってわけだ。……こいつもそのうち、アトミックに参戦してくるかもなー」


「うぬぬ。ならばその時こそ、ユーリが目にものを見せてくれるわ! こんな無礼者、ベル様のお手をわずらわすまでもない!」


「ターコ。北米のストロー級っつったら、アトミックで言うライト級、五十二キロ以下ってこったろ。相手をするとしたら、まずは同階級のアタシや瓜の出番だよ」


 そう言って、サキは真っ赤な髪をかきあげた。


「まったくよー、次から次へと、化け物みてーなやつが現れやがる。ほんとに、退屈しねえよなあ」


 何がなしハッとして、瓜子はサキを振り返った。

 ユーリはなぜか、眉を吊りあげたまま女英雄のように笑い始める。


「うわっはっは! その通りだよ、サキたん! 来栖選手を倒したって、おそれ多くもベル様を倒すことができたって、ユーリたちの闘いに終わりなど来ないのだ! こんな幸福な無間地獄はそうそうあるまい! 引退なんて、足腰立たなくなってから考えればそれでいいのさあっ!」


                 ◇


 ジルベルト柔術最強の男、ジョアン・ジルベルト選手の勝利によって《JUF》の大会がしめくくられ、あと数十分で本年も終了――というあたりで、理央の体力が底をつきた。


 また瓜子が運搬係を買って出て、リビングからサキの寝室まで、その小さな身体を運んでやる。

 ユーリは夜食の後片付けを始めて、サキだけが後についてきた。


「……牧瀬理央さん、思ったより元気そうで安心しました。口がきけないのは可哀想っすけど、その……一生このままってわけじゃないっすよね?」


「ああ。リハビリ次第でどうにでもなるって医者は言ってたよ。虚弱体質の大馬鹿だけど、何つったって、まだ若いんだからな」


 サキの四歳下ということは、瓜子よりも一歳年少ということだろう。

 ということは、十七歳か十八歳。彼女の人生は、まだまだこれからなのだ。

 ちなみに瓜子はこの冬で十九歳になり、ユーリは二十歳になっていた。


「あの……サキさんは、アトミックを辞めたりしないっすよね?」


 畳の上に座りこみ、理央の寝顔を見つめやっていたサキは、白けた目つきで瓜子をにらみつけてくる。


「あのなー……辞めるつもりだったら、こんな足をひきずって、わざわざ道場に顔を出すかよ?」


「は、はい。それはわかってるんすけど……やっぱり、心配なんすよ。サキさんって、自分の考えを表に出してくれないから」


「ふん。不言実行がアタシのモットーだ」


 不機嫌そうに言い捨ててから、また理央の寝顔に目を落とす。


「ま……この馬鹿が目を覚まさないままだったら、何がどうなってたかわかんねーけどな。まさか、あんなタイミングで目を覚ますなんてよ……まったく、ふざけた大馬鹿だぜ」


「……本当に、良かったっすね」


 心から、瓜子はそう言った。

 やけくそのように、サキは頭をひっかき回す。


「……こいつがアトミックの試合を生で観てーとか言ってるから、一月の試合に連れていくことにした。アタシや牛はこのザマなんだから、おめーはせいぜい踏ん張れよ」


「責任重大っすね。頑張ります。……サキさん、戻らないんすか?」


「ああ。年が変わったら、そっちに戻るよ」


 瓜子はうなずき、ひとりサキの寝室を後にした。

 そうしてキッチンに戻ってみると、ユーリの姿が見当たらない。


「あれ、ユーリさん?」


 どのみち洗い物などはできない身体なので、汚れ物をシンクに放り込んだのち、リビングに戻ってしまったのだろうか。

 そのように思ってリビングにまで引き返してみたが、そこにもユーリの姿はなかった。


 ただ、ベランダへと続くガラス戸が大きく開かれて、冷たい夜風が室内にまで吹きこんでいる。

 そちらを覗きこんでみると、ユーリはひとりで十二月の星空を眺めやっていた。


「何をしてるんすか? 風邪ひきますよ」


「うふふん? ユーリがそんなヤワな女じゃないってことは、うり坊ちゃんが一番よくわかっているであろうに!」


 とても明るく元気な声だったので、瓜子はこっそり安堵の息をつきながら、自分もベランダに足を踏みだした。

 試合はもちろん稽古もロクにできないものだから、最近のユーリは少し情緒が不安定だったのだ。よく笑う代わりに、よく怒り、よく泣くようになった。

 そうしてすべての感情を、ユーリは隠さずに、まるごと瓜子にぶつけてくれている。


「……理央ちゃんって、すっごく可愛いコだったね? サキたんがメロメロになっちゃうのもわかるなあ」


「ああ、はい。……だけどやっぱり、すごく繊細そうなタイプっすね。ほうっておけないってのも、よくわかります」


「うん。そうだねぃ。……ね、うり坊ちゃん、どこか別のマンションに引っ越そうかぁ?」


「……はい?」


「もっと大きなマンションに引っ越して、サキたんや理央ちゃんと四人で暮らすの! それならサキたんも安心でしょ?」


 星空を見上げたまま、ユーリは楽しそうに笑っている。

 その横顔を見つめながら、瓜子は胸を詰まらせてしまった。


「……このセキュリティのランクで四人の住めるマンションって言ったら、家賃も相当のもんすよ? そんなお金が、どこにあるんすか?」


「何とかなるっしょ! ユーリはCDでずいぶん儲けたみたいだし、何やらセカンドシングルの発売にむけて、千さんが暗躍してるみたいだしね!」


 このままユーリの存在を埋没させまいとして、千駄ヶ谷女史はさまざまな計略を練り倒しているらしいのだ。

 試合もスパーもグラビアの仕事もできないユーリでも、歌を歌うことならできる。復活が予定されている三月か五月あたりに照準を定めて、これからレコーディングに取りかかろうではないかと、つい先日に打診があったばかりだった。


「ただ……問題は、ユーリが復活を勝利で飾れるか、だよねぇ」


「え?」


「あと一ヶ月は、まともにスパーリングもできないからさぁ。やれるトレーニングは全部やってるけど……さすがにこんなに間が空いちゃうと、何だか不安でたまらなくなってくるんだよねぇ。今年の春から勝ちまくってた記憶なんて、ぜぇんぶ夢だったんじゃないかなぁとか思えてきちゃって」


「……夢なんかじゃ、ないっすよ」


 沙羅選手。秋代選手。オリビア・トンプソン選手。

 魅々香選手。来栖選手。リュドミラ・アシモフ選手。小笠原選手。

 いずれも強豪ぞろいの選手たちを、ユーリは驚異の七連勝で打ち倒してきた。

 そして最後に、ベリーニャ・ジルベルト選手によって打ち負かされてしまった。


 対戦成績は、二十戦で、八勝十一敗一引き分け。

 これは、夢でも幻でも何でもない。

 ユーリ・ピーチ=ストームこと桃園由宇莉が懸命に生きてきたという、何よりの証ではないか。


 こちらを向こうとしないユーリの横顔に、瓜子は静かに語りかけた。


「あのですね、ケガをして三ヶ月の欠場なんて、別に珍しい話じゃないっすよ。そもそも二年のキャリアで二十戦もしてるユーリさんが異常なんです。自分なんて、今年はキックとMMAで合計四試合しかしてないんすからね。これぐらいが、普通なんすよ」


「いやぁ、そーゆー意味じゃなくってさ……」


「二年間───いや、デビュー前の練習期間までふくめたら、もう三年ぐらいはまともに休んでなかったんすから、ちょうどいい休養と思えばいいんすよ。その間に、きっと沙羅選手はミドル級戦線を荒らしまくるんでしょうし、無差別級では、ベリーニャ選手や兵藤選手が待ち受けてます。来栖選手だって、小笠原選手だって、リベンジに燃えてるかもしれないっすよ。復活したら泣き言なんて言ってるヒマはなくなるんすから、今のうちに英気を養ってくださいよ」


 強い声で言いながら、瓜子はユーリの左手首をひっつかんだ。


「う」と反射的に腕を引きそうになりながら、ユーリは唇を噛んで耐える。

 鳥肌と悪寒に耐えているのだ。

 瓜子の手の中で、ユーリの体温が下がっていくのが、わかる。

 だけど瓜子は手を離さないし、ユーリもその手を振りはらおうとはしなかった。


「試合カンを取り戻すには時間がかかるでしょうけど、大丈夫っすよ。自分も協力します。そのためのトレーニングルームじゃないっすか。右肘が治ったら、毎日スパーっすよ。ユーリさんは、大丈夫です」


「うん……」


 ようやく瓜子のほうを振り返りながら、ユーリがいきなり左腕を引いてきた。

 不意をつかれてよろめいた瓜子の身体を受け止めて、ユーリは左腕一本で抱きすくめてくる。


「ううう。気持ち悪いよぉ。お肉や白菜が出てきそう。……でも、あったかい」


 凶悪な肉塊が、下顎のあたりに押しつけられてくる。十五センチほどの身長差があるので、これはしかたがない。


「……ね、レオポン選手とは、その後なんにも進展はないにょ?」


「はあ? またそれっすか! ないったらないっすよ。いいかげんにしつこいっすね」


「だって、仲直りしたんでしょぉ? そのまま恋に落ちたって不思議はないじゃん」


「仲直りっていうか……」


 別にあなたのことは、嫌いではない。

 というか、好意に近い感情を抱いてしまっているのかもしれない。

 だけど自分はそれ以上にユーリの存在が大事で、絶対に失いたくない。

 レオポン選手には、そう告げただけだ。

 レオポン選手は、笑いながら「そうか」と、うなずいてくれた。


「何度も何度も言ってることだけど、うり坊ちゃんの重荷にはなりたくないの! ユーリのことはかまわずに、うり坊ちゃんも思うままに生きてね?」


「……はい。そんなことは、百も承知っすよ」


 ユーリのために、レオポン選手への気持ちを殺したわけではない。

 ユーリを失いたくないという自分自身の気持ちのために、瓜子は今、ここに立っているのだ。


 嘘も、後悔も、後ろめたさもない。

 瓜子はただ、ユーリとともに在りたかった。

 ただそれだけのことなのだ。


「……サキさんたちと四人で住むってのは魅惑的なお話っすけど、ここを引越しちゃうのは、少し……いや、かなりさびしい感じがしちゃいますね」


「うにゅ? ああ、まあ、そうだねぇ。ユーリとうり坊ちゃんとサキたんとの思い出が山ほどつまってるおうちだからねぇ。……うり坊ちゃんと出会って、あと二週間ぽっちで一年がたつのかぁ」


「早かったっすね」


「早かったねぇ」


「最初はユーリさんのこと、大っ嫌いでしたけど」


「ユーリもうり坊ちゃんのこと、うざってーとか思ってたよぉ」


「こんなに弱っちいんだから、とっととアイドルに専念すればいいのにって思ってたっす」


「ユーリなんて、とっとと挫折して北海道に帰っちゃえばいいのにって思ってたよぉ」


「……ひどいっすね」


「ひどいねぇ」


「自分は、いなくならないっすよ」


 瓜子がそう言ったとき、つけっぱなしのテレビから除夜の鐘の音色がうっすらと聞こえてきた。

 一年が、終わるのだ。

 これまでの人生でもっとも波乱に満ちみちた、一年が。


「……うむ。いい具合に気色悪さがマヒしてきた」


 言いながら、さらなる怪力で瓜子の身体をしめつけてくる。


「何だか、ものすごい一年だったなぁ! うり坊ちゃんと巡り合って、全然勝てなかった試合が勝てるようになって、アイドルとしてもなかなかにブレイクしちゃって……だけどその間に、サキたんがいなくなっちゃったりもして……」


「はい」


「だけどその後に、夢にまで見たベル様との対戦も実現して!」


「はい」


「人生初の大ケガまでして、試合も稽古もできなくなっちゃって」


「はい」


「うり坊ちゃんと大ゲンカして、死にたいような気持ちも味わわされちゃって!」


「……はい」


「だけどこうやって、仲直りすることもできて。……ここまで希望と絶望の入り乱れた一年は、ユーリの人生でも初めてかもしれぬよぉ」


 ユーリの身体が、いったん離れた。

 天使のような笑顔が、十二月の星空を背景に、瓜子を見つめ返してくる。


「今度はどんな一年になるかわかんないけど、うり坊ちゃんがいれば、ユーリは大丈夫! もしかしたら、またへっぽこファイターに逆戻りしちゃうかもだけど、ユーリを見捨てないでね、うり坊ちゃん!」


「そんなことにはならないっすよ。打倒ベリーニャ・ジルベルトの心意気で頑張ってください」


 ユーリは笑い、ふわりと顔を近づけてきた。

 額が、こつんと額にぶつかる。


「ユーリに出会ってくれてありがとう! 愛してるよ、うり坊ちゃん!」


 瓜子は答えず、ただ万感の思いをこめて、ユーリの笑顔を見つめやった。


 大丈夫だ。

 ユーリがユーリであるかぎり、何もおかしなことにはならない。

 三ヶ月やそこらのブランクなんて、ユーリの不屈の闘志の前には、何ほどのものでもないだろう。


 ユーリは、勝つ。誰が相手でも。どんな状況でも。

 右腕がロクに使えない状態で、ベリーニャ選手の肋骨を粉砕し、タップを奪われもしなかったユーリに、いったい誰が勝てるというのか。


 その強さから、瓜子はもう目をそらさない。

 その弱さからも、もう目をそらしたりはしない。

 今度こそ、瓜子はそう決心したのだ。


「一月の試合、頑張ってね! ユーリがチアガールの衣装でセコンドについてあげよっかぁ?」


「……そいつはカンベン願いたいっすね」


 終わりに近づく除夜の鐘を聞きながら、瓜子は小さく苦笑した。

 自分はなんて幸福なんだろう、という思いを、今さらのように胸の奥でかみしめながら。

 瓜子はようやく、かけがえのないものを手に入れることができたようだった。

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