04 結末

「ユーリさん!」


 赤コーナー側の控え室の手前で、瓜子はようやくユーリに追いついた。

 小笠原選手に勝利したために、また控え室を戻されてしまったのだ。

 最後のワンマッチに出場するライト級の選手たちはもう入場口でスタンバイしているために、薄暗い通路に人影はない。


「待ってください! ユーリさん、その……」


「うるさいなぁ。追ってこないでよ」


 振り返りもせずにユーリは答え、壁づたいにふらふらと歩を進めていく。

 満身創痍だ。

 ワンマッチの一試合分しか休息時間はないというのに、ユーリはあまりに傷つきすぎていた。


「すみません! 自分が悪かったです! せめてセコンドだけは、最後までやらせてください!」


 その後は、きっとサキが何とかしてくれる。

 それまでの間───サキが帰って来るまでの数時間か、数日か、その間だけでも、瓜子はユーリを支えてやらなくてはならないのだ。

 この十ヶ月間という時間に、落とし前をつけるために。


「……いらないよ。セコンドだったらジョン先生たちがいるんだから。うり坊ちゃんは、もう帰りなよ」


「ユーリさん……あれ? どこに行くんすか?」


 ユーリは控え室のドアを通りすぎて、そのまま通路の奥へと歩き続けた。

 そちらに行っても関係者用の出入り口があるだけで、客席に逆戻りするだけのはずだった。


「いちいちうるさいなぁ。ベル様との対戦前のひとときを、ひとりで静かにすごしたいんだってば。邪魔だから、ついてこないでよ」


 予想以上の、強い拒絶だ。

 暴言を吐いて行方をくらませてしまった瓜子には、相応のあつかいか。

 それでも瓜子は、サキの真摯な眼差しを思い浮かべることによって、くじけそうになる気持ちを引き締めることができた。


「お邪魔でしょうけど、放ってはおけません。ジョンコーチからも申しつけられてるんです。右手を冷やせ、って……」


「……右手?」


 わずらわしそうに言いながら、壁にもたれてユーリが立ち止まる。

 そのスキに、瓜子は節度ある距離までユーリに近づいた。


 汗に濡れた、白い背中。

 フリルの塊みたいな、試合衣装。

 頭に大きなタオルをかぶり、壁に力なく肩をつけている。

 その腕も、足も、凄惨な試合を物語るかのように、あちこち内出血してしまっている。

 こんなに傷ついたユーリを見るのは、初めてのことだった。


「ああ……このことかぁ」


 バリバリッとマジックテープを剥がす音が聞こえたかと思うと、ユーリの足もとにオープンフィンガーグローブが落ちた。


 不審に思って、瓜子はユーリの正面に回りこみ───そして、息を呑む。

 白いバンテージの巻かれたユーリの右手。その五本の指先が一回りも大きく膨れ上がり、青紫色に変色してしまっていたのである。


 こんな指先を、瓜子はこれまでに何度か見たことがある。

 拳が、割れてしまったのだ。

 骨が折れてぱんぱんに腫れてしまっているのに、バンテージで拘束されているものだから、指がうっ血してしまっているのだろう。

 これではもはや、闘えるはずもなかった。


「ユーリさん……」


「指が閉じないや。どうせもう殴れそうにないから、外しちゃおっと」


 さして心を動かした風でもなく、ユーリはバンテージをほどきにかかる。

 そのバンテージには、割印のごとくレフェリーのサインが記されているため、一度ほどいてしまえばもう巻きなおすことはできない。

 瓜子は、膝から崩れ落ちそうになってしまった。


(そんな……)


 これで、終わってしまうのか。

 せっかく九死に一生を得たというのに。ユーリは決勝戦のリングに上がることが……あれほど待ち望んでいたベリーニャ・ジルベルト選手と対戦することが、もうかなわないのか。

 瓜子は、津波のように押し寄せてきた絶望感に、目の前が真っ暗になってしまった。


「さすがジョン先生だね。ユーリ自身が気づいてなかったってのに、よく気づいたなぁ。よくわかんないけど、最後のパウンドでやっちゃったのかな。……それ、ちょうだいよ」


 指先が、軽くなる。

 きっとユーリが、氷のうを取り上げたのだろう。

 しかし、瓜子の視界は黒く閉ざされたままだった。


「うぅ、ちべたい。……セコンドのお役目、ご苦労さま。もう十分だから、うり坊ちゃんはとっとと帰って……」


 そんな風に言いかけたユーリの言葉が、途中で途切れる。


「うり坊ちゃん……なに泣いてんのさ?」


「え?」


 瓜子は驚き、顔を上げた。

 ゆっくりと、世界が焦点を結びはじめる。

 薄暗がりの中で、ユーリが困惑気味に瓜子を見つめ返していた。


「ユーリが棄権するとでも思ったの? おあいにくさま。ユーリは骨が折れようと腕がちぎれようと、ベル様と闘うよ。……何にしたって、うり坊ちゃんが泣くような話じゃないでしょ」


「……泣いてないっす」


「泣いてるじゃん! 迷惑だから、そーゆーのはやめてよねっ!」


 ユーリの声に、強い反発の響きが混じり始める。

 どうしてだろう。決別するまで、ユーリは普通だった。その平静さにこそ、瓜子は我慢がならなかったというのに――今のユーリには、はっきりと拒絶の意志が満ちみちていた。

 瓜子は、そんなにもユーリを怒らせてしまったのだろうか。


「ユーリさん……すみませんでした。自分が悪かったです」


「悪かったって、何がさぁ?」


「え? ……そりゃあ、セコンドの役目を投げだしちゃったんすから……」


 瓜子の声は、バシンッという激しい音色に断ち切られた。

 ユーリが左手で、コンクリの壁をおもいきりひっぱたいたのだ。


「そんな話なら、コーチたちにしてよ! ユーリには関係ない! うり坊ちゃんなんて大っきらい! ユーリの前から、とっとと消え失せてっ!」


「ユーリさん……」


 瓜子は傷つくよりも先に、驚き、困惑してしまった。

 いったいどうして、ユーリはここまで感情を昂ぶらせているのだろうか?


「ユーリはこれからベル様と闘うの! 乱れに乱れた気持ちを落ち着けたいの! だから、今すぐ消え失せてってば! 消えないなら、ユーリがいなくなる!」


「ま……待ってくださいよ、ユーリさん! 自分が全面的に悪かったです。だからそんなに、カンシャクを起こさないでください。試合が終わったら……お望み通り、自分は消えますから」


 瓜子の言葉に、ユーリの白い面が真っ青になってしまった。

 大きな瞳がこれ以上ないぐらい大きく見開かれ、ふっくらとした唇が、寒いみたいにこまかく震えだす。


 そうしてユーリは青アザだらけの両腕を抱えこみ、化け物でも見るような目で瓜子を見て、弱々しく後ずさった。

 右手から落ちた氷のうが、ガシャッと場違いに小気味のいい音をたてる。


「何なの……? もうやだ。もうこんなの耐えられない。早く消えて……早くユーリの前からいなくなって!」


「ユ、ユーリさん……?」


「耐えられないよっ! ユーリのことがイヤになって、それでうり坊ちゃんは逃げたんでしょ? それなのに、自分はセコンドだからって……そんなくだらない理由で戻ってきたっていうの? どうしてそんなひどいことができるんだよっ! 馬鹿にするのも、いいかげんにしろおっ!」


 ユーリの瞳から、ものすごい勢いで涙がふきこぼれた。

 痛々しく傷ついた顔が、くしゃくしゃの泣き顔へと変わり果てていく。


「もう限界って言ったじゃん! ユーリのそばにはいられないって言ったじゃん! なのにどうして帰ってくるんだよっ! セコンドだから? 仕事が終わったら消える? ふざけんなっ! ユーリを何だと思ってるんだよっ! あんたなんか、大っきらいっ! この世で一番、大っきらい! あんたなんかに、出会わなければよかった……!」


「ユーリさん……」


「大好きだったのにっ! すっごく幸せだったのにっ! 一生大事にしたいって思ったのにっ! こんな思いをするなら、出会わなければよかったっ! 絶対に失いたくないから、お、男と仲良くすることも許してあげたのに……あんたにさわれなくなっちゃって、ユーリは死にたいぐらい、つらかったのに……それでも、一緒にいたいから……あんたの重荷になりたくないから、死んでも弱音は吐かないようにって……それでも、ダメなんでしょ? ユーリのことがイヤになったんでしょ? ユーリがバカで、ビョーキの女だから、一緒にいるのがツラくなったんでしょ? だったら、消えてよっ! ユーリをこれ以上、苦しめないでよっ!」


「ユーリさん」


「試合なんて、手につかなかったよっ! あんたがいなくなっちゃったのに、どうして頑張らなきゃいけないんだって……小笠原選手に殴られて、蹴られて、ものすごく痛くってさ、このまま死んじゃえばいいってずっと思ってたよっ! やっぱりユーリには価値なんてない! どんなにみんなが応援してくれたって、こんなに大好きで……大好きで大好きで気が狂いそうなぐらいの相手と一緒にいられないなら、意味なんて何にもないじゃないかっ! ユーリなんて……ユーリなんて、生まれてこなければよかったんだっ!」


「ユーリさん!」


 瓜子は、泣きじゃくるユーリの肩につかみかかった。

 ユーリは、それこそ殺されかけた動物のような目で、後ずさろうとした。


「さわらないでよっ! ……気持ち悪いっ!」


 瓜子の手の下で、ユーリの肩が、まるで生き物のようにさわさわと総毛立っていく。

 しかし、瓜子はかまわずに、ユーリのやわらかい身体を渾身の力で抱きすくめた。


「放してってば! 本当に吐くよっ!」


「勝手に吐けばいいじゃないっすかっ! 自分の知ったことじゃありません!」


「やめて……本当に、気持ち悪い……」


「嫌です。やめません」


 瓜子は目を閉じ、汗で冷たくなったショートの髪に指先をもぐりこませる。

 タオルが、ふわりと床に落ちた。


「自分も、大好きです」


「……え……?」


「ユーリさんが大好きです。離れたくありません。そばにいさせてください」


 けっきょく瓜子は、何ひとつわかっていなかったのだ。

 サキの気持ちも、ユーリの気持ちも。

 だけどそれは、おたがいさまなのだろうと思う。ユーリだって、サキだって、瓜子の気持ちなど何ひとつわかっていなかったのだ。


 みんな、馬鹿だ。瓜子もふくめて。

 どうしてこんな限界のぎりぎりまで、自分の真情を吐露することができないのだろう。


 相手を、信用していないから?

 いや、それは自分を信用していないから、なのかもしれない。

 こんな自分に、そこまでの価値があるはずはない。自分にとってはかけがえのない相手であっても、相手にとって、自分がかけがえのない存在であるなどとは――そんな都合のいい、そんな幸福な出来事が自分に起きるということが、信じられなかったのだろうか。


(あなたは、自分の気持ちを隠すのが上手すぎるんですよ……)


 それはユーリの強さなのだろうか。弱さなのだろうか。

 どちらでもいい。


 あなたのことが、大好きだったんです。

 だけどそれは、自分の一方的な感情で、自分の存在など、あなたにとっては大した価値もないのだろうと絶望していたんです。


 そんな思いをこめて、瓜子は、ユーリの身体を抱きすくめた。


 どれほどの時間が経過しただろうか。

 気づけば、瓜子の身体もやわらかい腕に抱きすくめられていた。


 甘い香が、鼻をつく。

 熱い体温が、全身に伝わってくる。

 ふたつの鼓動が、ひとつに重なる。


 その熱くてやわらかい身体の表面がどんな状態になっているかなんて、そんなことは、もうどうでもいい。

 無意識や深層心理など、くそくらえだ。

 ユーリの意識が、気持ちが、心が、瓜子を受け入れてくれるなら、瓜子はそれで、もう十分だった。


「……ったく、つくづく世話のやける馬鹿野郎どもだな」


 ぶっきらぼうな、低い声。

 瓜子は驚いて目を開き、そこにいるはずのない相手の姿を見た。


「サ……サキさん? 病院に行ったんじゃなかったんすか?」


「おめーらみたいな大馬鹿どもをほっぽって、のうのうと寝てられるかよ。ったく、ケガ人に面倒かけさせやがってよ」


 壁にもたれ、右足一本で立ちながら、サキが仏頂面で赤い髪をかき回していた。


「……サキたん?」


 子どものような、舌足らずの声。

 瓜子の身体をしっかりと抱きすくめ、その髪に頬をうずめながら、ユーリは頼りなげにつぶやく。


「どうしたの? ……ベル様にやられた足は大丈夫なの……?」


「死ぬほど痛えよ。あの柔術女の強さはハンパじゃねーなー。そんなズタボロのカラダで勝てる相手じゃねーぞ、ありゃ」


 サキは、変わらぬ仏頂面で言った。


「何だよ、その手は? 自分の馬鹿力でぶっ壊しちまったのか。これで勝てる可能性はゼロになっちまったな、牛」


「牛じゃないもん!」


「うるせーよ。……とっとと行って、とっとと負けてこい。そいつを見届けたら、アタシも病院に向かうからよ」


「……うん!」


 ユーリの腕が、名残惜しそうに瓜子の身体を引きはがす。

 想像していた通りの表情が、十五センチばかりも高いところから、瓜子を見つめ返してきた。


「行ってくるねっ! ちょびっと待ってて! うり坊ちゃん! サキたん!」

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