03 逆襲

「ダウン!」


 レフェリーが、カウントを数えはじめる。

 マットに手をつき、うずくまりながら、ユーリは荒い息をついていた。


 マットに、汗がしたたり落ちている。

 赤いしずくも、したたり落ちている。

 どこをカットしたのだろう。前髪の下から流れ落ちる血の糸が、いったん左目を経由してから、頬にまで赤い筋を引いている。

 まるで、血の涙を流しているみたいだ。


 カウント5で、瓜子は青コーナーまでたどりついた。


「ユーリさん! 何してるんすか! ベリーニャ選手と闘いたかったんじゃないんすか!」


 ユーリの背中が、ぴくりと震える。

 その目が、怖いものでも見るように、おそるおそる瓜子を見た。


「立ってください! 負けちゃ駄目です!」


「おい、猪狩」


 怒気をはらんだ声とともに、荒っぽく肩をつかまれる。

 きっと立松だろう。

 しかし、瓜子はユーリの姿から目を離せないまま、叫んだ。


「ユーリさんは強いんです! 勝ってください! 勝って、ベリーニャ選手と闘ってください! ……ユーリさんはそのために、これまで頑張ってきたんでしょう?」


 カウントナインで、すうっとユーリは立ち上がった。

 立ち上がると同時に、ファイティングポーズをとっている。

 レフェリーはユーリの前髪をかきあげ、傷の深さを確認してから、「ファイト!」の声をあげた。


「猪狩。お前は、どういうつもりなんだ?」


 ぐいっと肩を引かれて、立松に詰め寄られる。


「すみません! 今日の大会が終わったら、好きに処分してください! 罰金でも破門でも何でも従います!」


 そのように怒鳴ってから、瓜子は立松コーチの手にしていたものを、強引に奪い取った。

 白いタオルだ。こんなものは、絶対に投げさせない。


「……もう無理だ。この第二ラウンドまでいいように殴られて、反撃する力も残ってないだろう。これ以上やらすのは、危険だよ」


「大丈夫です! ユーリさんは、勝ちます!」


「ノコりジカンは、あとイップンだよー」


 あと、一分。

 第一ラウンドで五分間、第二ラウンドで四分間、ユーリは殴られ続けたというのか。

 リュドミラ選手には圧勝できたというのに、小笠原選手とはそこまでの実力差があったのか。


 拳を握り、唇を噛む瓜子の目の前で、再び小笠原選手がラッシュを仕掛けてきた。

 パンチが主体の、鋭い攻撃だ。とうてい二ラウンド目の終了間際とも思えない。

 しかも、ポイント差で逃げきるつもりもないらしい。ユーリはまたもやニュートラルコーナーに押しこまれて、暴風雨のような打撃攻撃にさらされてしまった。


 緊張気味に、レフェリーも目を凝らしている。

 手を出さなければ、スタンディングダウンを取られるかもしれない。

 そうなったらもう、試合終了だ。


「駄目だ。危険だ。タオルをよこせ、猪狩!」


「嫌です!」


 瓜子が叫んだ、その瞬間――

 身軽にバックステップした小笠原選手が、長い右足を振り上げて、ユーリの土手っ腹にミドルキックをぶちこんだ。


 重い、渾身の一撃だった。

 頭部ばかりをガードしていたユーリは、身体をくの字にして、ぐらりと倒れかかる。


 残り時間は、三十秒。

 レフェリーが、ダウンを宣告しようとした。

 ジャッジテーブルでは、きっとゴングを鳴らす準備がされていたに違いない。


 しかし、ユーリは倒れなかった。

 倒れずに、腹部をつらぬいた小笠原選手の右足を、両手で抱えこんでいた。


「……うわぁっ!」


 その口から、子どもの泣き声のような絶叫が放たれる。

 ユーリは無茶苦茶に突進して、小笠原選手の長身をマットに押し倒した。


「ああっ! うわぁっ! わあっ!」


 叫びながら、両腕を振り回す。

 体勢としてはユーリが上だが、小笠原選手のガードポジションだ。胴体を長い足ではさみこまれてしまっているために、ほとんどパンチも届いていない。


 だが───少しずつ、じわじわと、振り回している両腕の遠心力にひきずられるようにして、ユーリの身体は前のめりになっていった。

 届いていなかったパンチが、頭部をガードした小笠原選手の腕をかすめる。

 横殴りの、狂ったような、パウンドの嵐だ。


 残り時間は、十秒。

 ユーリの左拳が、小笠原選手の右腕を真横から打った。

 それで少しだけ開いたガードの隙間に、右の拳が真上から叩きこまれる。


 めしゃっ、と鈍い音色が響き、それに、ゴガンッ、という硬い音色が重なった。

 左の頬にパウンドをくらった小笠原選手の後頭部が、マットに叩きつけられる音色だった。


 小笠原選手の長い両腕がぱたりとマットに落ち、そのがら空きになった顔面にさらなるパウンドを落とそうとしたユーリの腕が、レフェリーによってつかみ取られる。


 乱打される、ゴング。

 津波のような、大歓声。


 ユーリの身体が、小笠原選手の上からひきずりおろされた。

 小笠原選手は、ぴくりとも動かない。

 たった一発のパウンドで、小笠原選手は完全に昏倒してしまっていた。


『二ラウンド、四分五十八秒、パウンドによるKOで、ユーリ・ピーチ=ストーム選手の勝利です!』


「ウィナー!」


 レフェリーが、ユーリの右腕を高くかかげる。

 その指先を振り払うようにして、ユーリは再びマットにうずくまった。


 白い背中が、ものすごい勢いで上下している。

 全身に汗がしたたっている。

 腕も、足も、腹も、顔も、赤や青や紫の内出血でボロボロだ。

 そうして額からは、今もなお血が流れている。


 瓜子は、激しく後悔した。

 こんな姿になってまで闘い続けていたユーリから、目をそらしてしまっていたことを。


「大丈夫か、桃園さん!」


 立松とジョンが、ユーリに駆け寄る。

 その指先が白い肩にふれかけた瞬間、ユーリは「さわらないでっ!」と絶叫した。


「ごめんなさい……大丈夫です。自分で立てます」


 マットに手をつき、傷ついた動物のようにのろのろと前進してから、ロープをつかみ、立ち上がる。

 その頭に、ジョンが大きなタオルをふわりと投げかけてやった。


 すさまじいばかりの、「ユーリ!」のコール。

 それすら耳にも届かぬ様子で、ユーリはロープづたいに青コーナーへと帰還してきた。


 膝が笑っており、呼吸もまだ荒い。

 ユーリは、がくりと膝をつき、そのままマットへ寝そべると、最下段のロープの下をくぐって、階段を使わずに、リングの下へと落下するように降り立った。


 瓜子の目の前に、ユーリが立ちはだかったのだ。


「勝ったよ。……これで文句ないでしょ?」


 大きなタオルで表情を隠したまま、ユーリは静かにそうつぶやいた。

 そうして瓜子に背を向けると、ユーリはすべてを拒絶するように、ひとりで花道に足を踏みだした。


「待って……待ってください、ユーリさん!」


 追おうとする、その肩を背後からつかまれる。

 むろん、立松だ。


「猪狩、お前は桃園さんに近づくな。……お前は、セコンド失格だ」


「わかってます! だけど、ユーリさんを放ってはおけません!」


 すると、立松に続いて、ジョンもリングから下りてくる。


「だったら、ユーリをナグサめてあげなよー。タブン、ユーリはケッショウセンにはシュツジョウできないからねー」


「……え?」


 さすがに笑ってこそいなかったが、それでもひどく穏やかな表情で、ジョンは瓜子に冷たい氷のうの袋を手渡してきた。


「ミギのコブシだよー。ヨくヒやしてあげてねー。ビョウインにはレンラクをイれておくからさー」


 まったくわけもわからぬまま、瓜子は無言で花道を走りだした。

 ユーリのもとに───たったひとりで闘い続け、たったひとりで勝利をもぎとった、化け物のように強くて孤独な、ユーリのもとに。

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