02 真情

「……猪狩? こんなとこで何やってんだよ、お前」


 赤コーナー側の入場口の扉の裏に、サキはいた。

 そのかたわらに控えていたのは、サイトーとリングドクターだ。


 この後のワンマッチに出場するライト級の選手とセコンド陣もいる。すでにユーリたちの試合は始まってしまっているのだろう。


「おい、何をやってんだって聞いてんだよ。お前はあのアイドルちゃんのセコンドだったはずだろうが」


 サイトーが、不審げに眉をひそめている。

 サキはぐったりと壁にもたれて座り込み、うなだれている。

 その無造作に投げだされた左足に、ドクターがアイシングの処置を施していた。


「これでいいでしょう。救急病院には連絡を入れておきますが、救急車までは必要ないと思います。車があるなら、それで運んであげてください」


「はい。ありがとうございます」


 サイトーが頭を下げ、ドクターは通路の向こうへと消えていく。花道ではなく、別の出入り口から試合場に戻るのだろう。


 瓜子はコンクリの床に膝をつき、サキの横顔をのぞきこんだ。

 まぶたを閉ざし、ぜいぜいと荒い息をつきながら、サキは動かない。

 大量の汗が、肉の薄い頬に浮かんでいる。疲労ではなく、痛みからくる脂汗かもしれない。

 まったくの無表情でありながら、サキは傷ついた獣のように痛々しかった。


「……で? いいかげんに返事をしねえと蹴り飛ばすぞ、猪狩。まさかコイツのことが心配で、セコンドの仕事をほっぽりだしてきたわけじゃねえだろうなあ?」


「その、まさかです……ユーリさんには、自分なんて必要ないんすよ」


「ああん?」


 サイトーが、怒気をにじませて近づいてくる。

 しかしそれよりも早く、サキのまぶたがぱちりと開いた。

 切れ長の目が、得体の知れない光を浮かべて瓜子を見る。


「おい……おめー、何をほざいてんだ?」


 ぶっきらぼうで、不機嫌そうな声。

 いったいこの声を聞くのも、何ヶ月ぶりのことだろう。

 これだけで、瓜子はもう涙ぐんでしまいそうだった。


「……サイトー。おめーは車の準備でもしてきてくれや。アタシはちっと、こいつと話がある」


「ああ。だけど、サキ……」


「こんな大馬鹿には、教育が必要だってんだろ。そいつはアタシが引き受けたって言ってんだよ。……おい、肩を貸しやがれ」


 と、サキのしなやかな左腕が、力強く瓜子の首に巻きついてくる。

 瓜子は無言のまま、サキを立ち上がらせてやった。


「おい、あんま無理すんなよ、馬鹿野郎。完全にぶち切れてないってだけで、靭帯はムチャクチャにイカレちまってるんだからな」


「了解したよ、馬鹿野郎。とっととアタシを送迎する車の準備をしてきやがれ」


 呆れたように息をつき、最後に瓜子の顔をひとにらみしてから、サイトーもまた通路の奥に消えていった。


「おい、きりきり歩けや。他の皆様のご迷惑にならねー場所までな」


 さっきから、所属選手の試合を控えたセコンド陣が、ひどく険悪な目つきで瓜子たちをにらみつけていたのだ。瓜子はそちらに頭を下げてから、とにかく誰にも声の届かない場所にまで、サキとともに移動をすることにした。


「あの、サキさん……」


「腑抜けた声を出してんじゃねーよ。あの大馬鹿のセコンドを下りたってのはどーゆー冗談なんだよ、瓜」


 瓜。

 その名で、また呼んでくれるのか。

 静まりかえった通路の中ほどに汗まみれの身体をそっとおろしながら、瓜子はくいいるようにサキの顔を見つめ返した。

 サキは激痛をこらえるように一度まぶたを閉ざしてから、また黒い火のような目で瓜子をにらみすえてくる。


「……とにかくおめーは、とっとと戻れ」


「サキさん……」


「サキさん、じゃねーよ。アタシに続いておめーまでいなくなっちまったら、誰があの馬鹿の面倒を見るんだよ。ちっとは後先考えて行動しやがれ」


「……え?」


 サキの指が、瓜子の胸ぐらをひっつかんできた。

 無表情のまま、ただ爛々と両目をだけを燃やしながら、サキが顔を近づけてくる。


「おめーを信じてあの大馬鹿の世話をまかしたってのに、おめーはアタシの信頼を裏切る気か? これであの大馬鹿が取り返しのつかねえようなザマになっちまったら、誓って、アタシがおめーを蹴り殺してやるからな、瓜」


「な……何を言ってるんすか、サキさん……?」


 困惑の極みとは、このことだった。

 思いも寄らなかった言葉の数々に、瓜子は思考が停止してしまいそうになる。


「何を言ってるもへったくれもあるかよ。おめーがいたから、アタシは安心して身を引けたんだ。そのおめーがどうしてこんなとこにいるんだよ。おめーは、馬鹿か? あの大馬鹿がどうなっちまってもかまわねーっていうつもりなのか?」


「安心って……ど、どういうことなんすか? 自分にはさっぱりわけがわかりません! サキさんは、何もかもが嫌になって、今までの生活すべてを捨てることにしたんじゃないんすか?」


「そんなもん、方便に決まってんだろうが、大馬鹿野郎。アタシが嫌になったのは、自分自身の馬鹿さ加減だけだ」


 ふてくされたような、低い声。


「本当はおめーらと一緒にいたいけど、意識不明の寝たきりになっちまった大馬鹿を放ってはおけねえ。本当は引退なんざしたくねーけど、自分ばっかり楽しく愉快に生きていく気になんてなれねえ。……そんな風に本音をぶちまけちまったら、絶対おめーらはアタシの邪魔をしたろうがよ?」


「サ……」


 胸が詰まって、声が出なかった。


 サキは、瓜子やユーリのことなどどうでもよくなったから、姿を消したわけではなかったのか?

《アトミック・ガールズ》で闘うことに意味を見いだせなくなって、引退するなどと言いだしたわけではなかったのか?

 ユーリのことが……化け物のような強さで運命をねじふせようとするユーリのことが、恐ろしくなってしまったわけではなかったのか?


「……アタシのかぼそい腕じゃあ、二人の人間は背負いきれねえ。だからおめーにあの大馬鹿の世話を託したんだろうが。それなのに、セコンドの役をほっぽって、こんなところにノコノコ姿を現すなんてな……くそっ、ハラワタが煮えくりかえって、反吐が出そうだぜ。瓜、おめー、このオトシマエはどうつけるつもりなんだ?」


「オトシマエって……ひどいっすよ……サ、サキさんがいなくなっちゃって、自分がどれだけ心細い気持ちでいたか……」


「ふざけんな。おめーにはあの大馬鹿がいただろうが。アタシなんて……」


 そう言いかけて、サキは口をつぐんだ。

 赤い髪をぐしゃぐしゃにかき回し、もう一度「くそっ」と吐き捨てる。


「いいから、もう戻れ。今ならまだ間に合う。あの大馬鹿が負けちまったら、どうするつもりだよ? あいつがあれだけ闘いたがってた柔術女が決勝戦で待ってるってのに、そいつを台無しにしちまう気か?」


「だ、だけど、自分がいようといなかろうと、そんなのユーリさんには関係ないっすよ! あの人は強いんです! 自分なんかがそばにいなくたって、あの人は……」


 ぺちん、と間のぬけた音がした。

 サキがいきなり、胸ぐらをつかんでいた手を放して、瓜子の頬に平手打ちをかましてきたのだ。


「お次はグーでいくぞ。……ふざけたことばっかぬかしてんじゃねえ。あんなヘロヘロの大馬鹿が、たったひとりで何ができるってんだよ? おめーかアタシか、どっちかがそばについててやんねーと、あんな大馬鹿、三日ともつもんか」


「そんなことは、ないっすよ……サキさんはともかく、自分の存在なんて、ユーリさんには……」


「ほう。どうしてもグーで殴られてーか」


「殴ればいいじゃないっすか! だって、それが本当のことなんですっ!」


 瓜子は、わめいた。

 おさえようもない涙が、頬まであふれだしてしまう。

 そんな瓜子の情けない顔を見て、ますますサキは凶悪な目つきになった。


「……わかった。おめーは悪くねえ。たった十八歳のガキんちょに、あんな大馬鹿の面倒が見きれるわけはなかったってことだな。アタシの見込み違いだったわ。……今回も、やっぱりアタシが馬鹿だった」


「サキさん……」


「だけど、頼む。今日だけでいい。あの大馬鹿のそばにいてやってくれ。後の始末は、アタシがつける。今日だけ、あいつを見捨てないでやってくれ」


 頼む?

 サキがそのような言葉を使うのは、もちろん初めてのことだった。


「どうしてっすか……どうしてサキさんが、そんなことを言うんすか……?」


「そんなん、あいつのことが大事だからに決まってんだろ」


 サキは、はっきりとそう言った。


「アタシはもうひとりの大馬鹿を守ってやれなかった。屋上から飛び下りるぐれえ苦しんでるってことにも気づいてやれなかった。これであいつまで、おんなじような目にあわせることになっちまったら……アタシは本当に、自分が許せなくなっちまう。だから、瓜、あいつをひとりにしないでやってくれ」


「……サキさんは、本当に自分を買いかぶってるっすよ」


 瓜子はジャージの袖で涙をぬぐい、ゆっくりと立ち上がった。


「だけど、わかりました。やっぱりユーリさんには、サキさんが必要なんです。サキさんにも、きっとユーリさんが必要なんです。自分じゃ何の力にもなれないっすけど、今日一日だけ、サキさんの代わりとして、ユーリさんのそばにいます」


「……言いてえことは山ほどある。だけど今は、時間がねえ。あいつのところに、戻ってくれ」


「はい」


 最後にサキの姿を目にやきつけてから、瓜子は再び走り始めた。


(もういい……)


 自分のことは、もういい。

 サキのために、瓜子は走った。


 サキならたぶん、ユーリのそばに居続けることができる。

 自分には無理でも、サキにならできる。

 サキは、ユーリの強さに気持ちをくじかれていたわけではないのだ。

 そんなことを考えていたのは、瓜子ひとりだったのだ。

 だったら、サキがユーリのそばにいればいい。


 瓜子が彼女たちと出会ったのは、十ヶ月前。あの夜の前日まで、時間を戻すのだ。それがきっと、誰にとっても一番幸福な道なのだろう。

 だったら、せめて今だけは、サキの代わりにユーリを支えてやろう。それぐらいの気持ちは、絞りだすことができた。

 たとえ、ユーリにとっては自分の存在など取るに足らないものだったとしても、瓜子にとって、ユーリはそうではなかったのだから。


(ユーリさん……)


 無人の通路をひた走り、瓜子は関係者用の出入り口までたどりついた。

 ドアを開けると、スタッフの若者が呆然とした顔つきで立ちつくしていた。


 バックステージパスを提示しようとして、瓜子もハッと息を呑む。

 試合は、終わってはいなかった。

 ただし、終わる寸前ではあった。

 コーナー際に追いこまれたユーリが、サンドバッグのように、無抵抗で、小笠原選手に殴りつけられていたのである。


(ユーリさん……?)


 瓜子は、観客席の間にもうけられた通路をよろめき走り、明るい光に照らしだされたリングへと近づいていった。


 小笠原選手の豪快な右フックが、ユーリのテンプルをまともに撃ち抜き――

 ユーリはマットに崩れ落ちた。

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