06 亀裂

 会場を揺るがす大歓声は、いつまでたってもその勢いを減じようとしなかった。

 しかし、それも当然の話であろう。いったい誰がここまでの圧倒的勝利を予想できただろうか。


 両腕を掲げて観客に応えているユーリはほぼノーダメージで、膝関節を破壊されたリュドミラ選手は、いまだに起き上がることもできない。リングドクターは、スタッフに担架の準備を要請していた。


「呆れたな。まさか足関で一本を取るとは思いもしなかったよ」


 ユーリがコーナーに凱旋してくると、立松は呆れ返った様子でそのように述べたてた。

 ユーリは「えへへ」と照れくさそうに笑う。


「なんか、リュドミラ選手は左足をかなり痛そうにしてたから、もしかしたら極まるかもなあと思ってチャレンジしちゃったんですぅ」


「大した決断力だよ。相手もまさか、いきなり足関を狙われるとは思ってなかったんだろう」


 現代MMAにおいて、足関節への攻撃はあまりポピュラーでなくなってきている。攻撃に失敗すると、相手に上を取られるリスクが高いためだ。

 柔術の習得に熱心なユーリでも、試合でそれを使ったのはこれが初めてであるはずだった。


(やっぱりリュドミラ選手は、左膝に古傷でも抱えてたんだろう。……だけど、それにしたって、ノーダメージの一本勝ちか……)


 安堵の気持ちと同じぐらいの大きさで、瓜子は驚愕と困惑の気持ちをも抱くことになった。

 そんな瓜子に、ユーリはリング上からにこにこと笑いかけてくる。


「ね、宣言通りに勝ったよ、うり坊ちゃん! やっぱりユーリは、無差別級のほうが合ってるのかもしれないね!」


「ずいぶん簡単に言ってくれるな。相手はワールドクラスの実力者だぞ?」


 言葉の出ない瓜子の代わりに、立松がそのように答えていた。


「さ、とっとと引きあげよう。次の試合の準備をしなくっちゃな」


「はあい」と笑顔で答えてから、ユーリはふっと後方を振り返った。

 セコンド陣やリングドクターに取り囲まれ、リュドミラ選手はまだマットに伏している。そうとう深刻に靭帯を痛めてしまったのだろう。自分の左ももを両腕でわしづかみにしながら、苦悶の形相でうめき声を噛み殺している様子だ。


 ユーリはちょっと憂いげな表情になり、そちらにぺこりと頭を下げてから、ようやくリングの下に下りてきた。

「ユーリ!」のコールを聞きながら、スポットに照らされた花道を引き返す。


「あーあ、また相手にケガをさせちゃったぁ……ユーリはまだまだ未熟者だね」


「何を言ってるんすか。一歩まちがえたら、ユーリさんのほうが病院送りになってたんすよ?」


「うーん、だけど、自分も相手も傷つかずに争いをおさめるのが柔術の真髄らしいからねえ。ベル様にはとんでもない乱暴者だと思われちゃっただろうにゃあ」


 こんな際でも、まだベリーニャ選手のことを考えているのか。

 さすがの瓜子も、だんだんと苛立ってきてしまう。


「そう思うんなら、もっと稽古を積むことだな。桃園さんは、まだまだ強くなれるよ、きっと」


 いっぽうの立松は、いつになくご満悦の表情であるように思えた。

 この数ヶ月は、ジョンと同じぐらい立松もユーリの世話を焼いてきたのだ。その成果が最高の形で示されることになり、さぞかし嬉しいのだろう。

 もちろんジョンだって普段通りの笑顔であるので、ぶすっとしているのは瓜子ひとりであるようだった。


「ユーリ選手! お疲れ様でした!」


 と、入場口の扉をくぐるなり、若いスタッフが駆けつけてくる。


「準決勝は同じ赤コーナーの小笠原選手との対戦となるため、控え室の移動をお願いします!」


「あ、そうでしたねぇ。了解ですぅ」


 気軽に答えて、進行方向を修正する。

 それからユーリは、ものすごい勢いで瓜子を振り返ってきた。


「……てことは、サキたんかベル様もどっちかが控え室を移動したってことだよねぇ? うわぁ、どっちが待ち受けてるんだろ!」


 ユーリの言葉に、瓜子も心臓をどきつかせた。

 可能であるなら、サキに会いたい。

 そっけなくあしらわれて、言葉を交わすことさえできないのかもしれないが、それでも瓜子はサキの存在を身近に感じていたかったのだ。


 しかし、通路を大きく迂回して青コーナー側の控え室にたどりつくと、そこで待ち受けていたのは黒い柔術衣を着込んだ褐色の肌の外国人選手であった。


「ハイ、ピーチ=ストーム」


 大勢の選手が詰めこまれた控え室の中で、彼女の周囲だけぽっかりと空間が空いてしまっている。

 ユーリは頬を紅潮させ、夢遊病者のような足取りでそちらに近づいていった。


「イッポンガち、オメデとう。アナタはツヨい、イってるねー」


 ジョンの訳するベリーニャ選手の言葉に、ユーリは「いえいえ!」と頭を振り回す。


「ユーリなんて、まだまだです! リュドミラ選手はもともと左膝の調子が悪かったみたいですし、相性が良かったっていうか何ていうか……とにかく、まだまだなんですっ!」


「ソれでも、リュドミラセンシュをアイテにたったニフンでシアイをオわらせるコトなんてジブンにはデキないし、サイゴのヒザジュウジもパーフェクトだった。アナタはツヨい、イってるよー」


 そしてベリーニャ選手は、草原を吹きすぎる風のように、ふわりと微笑した。


「ニッポンにキてヨかった。ピーチ=ストーム、アナタとタタカいたい、イってるネー」


「はい! ユーリもベル様と闘いたいですっ!」


 これ以上ないぐらいの熱意をこめて、ユーリは答える。

 その瞬間、瓜子の中で何かが切れた。

 それでもなけなしの理性を発揮して、タオルごしにユーリの腕をつかむ。


「ユーリさん、それはサキさんに負けてほしいって意味っすか? 対戦相手となれあうのもいいかげんにしてくださいよ」


「ふにゅ? 別にユーリは、そういう意味で言ったわけでは……」


「やめろよ、猪狩。お前さんが切れる場面でもないだろ」


 立松コーチが肩をつかんでくる。

 それでも瓜子は、おさまらなかった。


「だって、おかしいじゃないすか! 長年の憧れだか何だか知らないっすけど、サキさんは……大事な仲間でしょう? これからそのサキさんと対戦する相手とへらへら会話できる神経が理解できません! いったい何を考えてるんすか、ユーリさんは!」


「やめろってのに。お前さんこそ、どういうつもりだよ。セコンドが選手の気持ちをかき乱してどうしようってんだ、馬鹿野郎」


 強い声でたしなめられ、ぐいっと肩を引かれてしまう。

 ユーリの腕から手が離れ、ピンク色のタオルが床に落ちた。


「むこうの控え室に残ってる荷物を取ってこい。その間に頭を冷やせないようだったら、今日のセコンドからは外れてもらうぞ、猪狩」


「……押忍」


 ユーリのきょとんとした顔から目をそらし、瓜子は早足で控え室を飛びだした。

 しかし、数メートルと進まぬうちに、背後から追ってきたユーリの声に呼び止められてしまう。


「待ってよ、うり坊ちゃん! いったい何を怒ってるのさぁ?」


「……怒ってなんかないっすよ。ただ、ユーリさんの気持ちがわからないだけです」


「ユーリの気持ちって? ……そりゃあサキたんには勝ってほしいけど、それとベル様への思いは別物でしょ? ユーリはどっちとも闘いたいし、どっちにも負けてほしくないって思ってるだけなんだよぉ」


「もういいっすよ。頭を冷やさなきゃいけないんだから、しばらく自分には話しかけないでください」


「どうしてさ! ユーリに悪いところがあるなら、はっきり言ってよっ!」


 悪いところなど、きっとどこにもないのだろう。

 ユーリにとって、ベリーニャ・ジルベルトという選手は特別な存在であり、瓜子にとっては、そうではない。たぶん、それだけの話なのだ。

 サキとベリーニャ選手のどちらが大事なのか、などという話は聞きたくもないし、聞くつもりもない。


「……うり坊ちゃんにそんな態度を取られたら、ユーリは悲しいよ。ユーリに悪いところがあるなら反省するから、ちゃんと言葉で説明してよぉ」


 子どものように、すねた声。

 瓜子は、目がくらむぐらい強く頭を横に振った。


「そんな必要はありません! いいから試合に備えてください! 次は小笠原選手との対戦なんすよ!」


「あ、うり坊ちゃ……」


 まったく納得のいっていなそうなユーリの声を振りはらい、瓜子は薄暗い通路を駆け出した。

 自分の気持ちがわからない。ユーリの気持ちもわからない。自分が何をしたいのかもわからないし、ユーリに何をしてほしいのかもわからない。

 こんな状態では、ユーリと何も話せるわけはなかった。


「お、うり坊やんか。そんな大急ぎでどないしたんや?」


 赤コーナーの控え室では、すっかり帰り支度を整えてしまった私服姿の沙羅選手が、ふてくされきった面持ちでモニターを眺めていた。

 すでに準決勝戦前のリザーブマッチ、マリア選手と高橋選手の一戦が開始されているのだ。この次が出番であるサキは、やはりすでに控え室を出てしまっている。


「……荷物を取りに来ただけです。失礼しました」


「ちょっと待ちいな。どうして自分がそないに泣きそうな顔しとんねん。あの白ブタと何かあったんかいな?」


「泣きそうな顔なんてしてないっすよ!」


「してるやんか。まるで駄々っ子や」


 レオポン選手もマリア選手のセコンドとして席を外していたのは、幸いだった。

 瓜子は無言で首を振り、ユーリのボストンをひっつかんで、控え室を出る。


「おいおい、穏やかやないなあ。大事な白ブタ様が見事ロシアの大女を撃退してみせたいうのに、どうしてそないな面になっとんねん? まったく筋が通らないやんか」


 わざわざ控え室を出てまで追いすがってきた沙羅選手の顔を、瓜子は無言でにらみ返す。

 すると、頭をぺしんと叩かれてしまった。


「アホ。何にせよウチは無関係やろが。そんなおっかない目でにらまれる筋合いはあらへんぞ。ちったあ冷静にならんかい」


「だったら、かまわないでくださいよ! 沙羅選手には関係ない話なんすから!」


「わかっとるわい。せやけど……ま、一緒に海で遊んだ仲やんか?」


 と、今度は髪の毛をぐしゃぐしゃにかき回されてしまう。


「それにやっぱ、柔術女や小笠原選手あたりに優勝をもってかれるのは、なあんも面白くないからなあ。白ブタの身に何かあったんなら、そりゃあ気になってまうやろ。……いったい何があったんや、うり坊?」


「……本当に何でもありません。ただ、自分がひとりで取り乱してるだけなんです。ユーリさんは、元気いっぱいっすよ」


「せやから、どうして自分が取り乱しとんねん? 自分がそんなザマやったら、あの白ブタにまで感染してまうやろが?」


「しないっすよ。ユーリさんは……強いんすから」


 うつむきながら瓜子は言い、沙羅選手は嘆息した。


「ほんまやな。勝てぇ言うたけど、まさかあそこまで完勝するとは思わなかったわ。まったく底の知れない白ブタや。……決勝戦は、あの白ブタと柔術女で決まりやな」


「……その前に、ベリーニャ選手はサキさんと対戦っすよ」


「あん? ああ、あの赤い髪のねーちゃんか。そらまあ確かにあのねーちゃんもただもんではないようやけど……さすがにライト級のストライカーじゃ、荷が重いやろ。いっぺんでもグラウンドに持ちこまれたら、もうジ・エンドや」


 瓜子は、無言できびすを返そうとした。

 その肩を、背後からつかまれてしまう。


「何や、あのねーちゃんもからんだ話なんか? ややこしいトコなんやな、プレスマンてのは。……いいから自分は、白ブタの面倒に専念しいや。小笠原選手だって、雑魚やないどころか立派な優勝候補なんや。油断しとると、血だるまにされてまうぞ?」


 沙羅選手がそう言ったとき、控え室から低いどよめきが伝わってきた。

 マリア選手と高橋選手によるリザーブマッチが終了したのだろう。

 サキとベリーニャ選手の準決勝戦が、始まるのだ。

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