05 怪物退治

「くっそお! 何やねん! ドラゴンスクリューからのチョークスリーパーやと? どこまで人を食った女なんやっ! 何で柔術女がドラゴンスクリューなんてプロレス技をかましてくんねん!」


 扉のこちら側に帰還してくるなり、沙羅選手は防音マットの貼られた壁にミドルキックを叩きこんだ。


「プロレスラーとしても、MMAファイターとしても、ウチのプライドはズタボロや……あの女、いつか絶対にブチのめしたるっ!」


 ダメージらしいダメージもないままに、沙羅選手はわずか一分足らずで敗北を喫してしまった。まるでブラジリアン柔術が初めて世界に披露されたあの時代のように、沙羅選手はなすすべもなく打ち負かされてしまったのだった。


 そんな怒れる沙羅選手のかたわらで、ユーリは、ほうっと息をついている。


「すごいなぁ……まるで水が流れるみたいな、しなやかな動き……ベル様は、やっぱり別格だね!」


 何て幸福そうな笑顔だろう、と思いながら、瓜子のほうは溜息を禁じ得ない。二回戦ではそのベリーニャ選手とサキが対戦するのだから、とうてい笑っていられるような心境ではなかった。

 沙羅選手は爛々と両目を燃やしながら、ユーリの笑顔をねめつける。


「おい、惚けとる場合やないやろ、白ブタ! 自分は自分であの化け物じみたロシア女を料理せなあかんのやからな! ブラジル女よりは格下いうても、油断しとるとランチョンミートにされてまうぞ!」


「はぁい。頑張りまぁす」


 そうこうしているうちに、もうそのリュドミラ選手はリングに上がってしまったらしく、スタッフの若者が緊張した面持ちで扉に手をかけていた。


「ユーリ選手、よろしくお願いします!」


 シャッフルビートの電子音が、扉の隙間から響いてくる。

 ユーリは目を閉じ、手を合わせ、口の中でいつもの念仏をむにゃむにゃ唱えてから、光あふれる花道に飛び出した。


 ついに、ユーリの試合が始まってしまうのだ。

 ジョンと立松に続いて扉の外に踏み出しながら、瓜子は武者震いが止まらなかった。


 ユーリは颯爽とリングに立ち、万雷の歓声がそれをたたえる。

 リングアナウンサーは、常と変わらぬ美声でリュドミラ選手の名前をコールした。


『青コーナー。百八十四センチ。九十五キログラム。チーム・マルス所属。《スラッシュ》無差別級トーナメント準優勝……リュドミラ・アシモフ!』


 無冠の王者。ロシアの女巨人。リュドミラ・アシモフ。

 やはりその巨大な肉体は、圧巻だった。


 腕も太い。足も太い。首も太いし、腰も太い。肩にはぶあつく筋肉の山が盛り上がっており、身体の厚みも尋常ではない。男子選手においてもライトヘビー級に相応する体格なのだ。いくら無差別級とはいえ限度があるだろう、と瓜子などは頭を抱えこみたくなってしまう。


 もしゃもしゃの金髪に、エメラルドグリーンの瞳。そばかすだらけの白い顔に、大きな鼻と大きな口。笑えば愛嬌のありそうな顔立ちだが、今は厳しく引き締まっており、小さな子どもだったら泣きながら逃げていってしまいそうだ。


 黒地のタンクトップに、競技用のハーフパンツ。膝と足首に黒いサポーターを巻いており、オープンフィンガーグローブは、きっと男子用のものなのだろう。あんなに大きな拳で殴られたら、それだけで生命にかかわりそうである。


 胴体が太く、下半身のどっしりとした、いかにもグラップラーらしい体格をしている。二十九歳という年齢のわりに、それほど多くの試合をこなしているわけではないので戦績はふるわないが、柔道とサンボの世界選手権第二位という経歴は、決してあなどれるものではない。プロアマ問わず参加したすべての大会において準優勝を飾ってきた、という、いささか不可思議な経歴をもつ選手でもあった。


『赤コーナー。百六十七センチ。五十七・二キログラム。フリー……ユーリ=ピーチ・ストーム!』


 そんなリュドミラ選手と相対しながら、ユーリはいつも通りの笑顔で両手を振り上げて、大歓声に応えている。


 今日のユーリは、フリルの塊みたいな胸あてと、同じくフリルの腰あてにショートのスパッツ。瓜子の記憶に間違いがなければ、それは沙羅選手と対戦したときと同じ試合衣装であるはずだった。


 うっすらとピンクがかったショートヘアだけが、あの頃と異なる。あれからおよそ八ヶ月、季節は春から秋の終わりへと移行し、地上最弱のプリティファイターは、地上最凶のプリティモンスターへと変貌を果たした。


 しかし、今日の相手は本物のモンスターだ。

 身長差は、十七センチ。

 体重差は、三十八キロ。

 大人と子どもぐらいの体格差である。

 むやみやたらと肉感的なユーリの身体も、リュドミラ選手の前では可憐な少女のようにほっそりと見えてしまう。


「よし、とにかく相手の正面に立つんじゃないぞ? 一発でもまともにくらったら致命傷だからな」


「スピードは、ユーリのほうがウエだからねー。アシをツカって、アイテをカクランするんだよー」


 頼もしきコーチ陣が、リングを下りながら声を送る。

 それに「はいっ!」と応じながら、ユーリはアメ玉をねだるような視線を瓜子に向けてきた。


 こんな場面で気のきいた台詞など思いつけるわけもなく、瓜子は「頑張ってください」とだけ述べる。

 ユーリはにっこり微笑んで、「うん!」と子どものようにうなずいた。


 そんな中、試合開始のゴングが高らかと打ち鳴らされる。

 両者はゆっくりとリングの中央に進み出た。


 どちらも左の手足を前に出した、オースドックスの構え方だ。

 ユーリはムエタイ流のアップライトではなく、通常のスタイルである。

 いっぽうのリュドミラ選手はタックルを警戒しているのか、さらに前傾気味の姿勢であった。

 観客席には、早くも「ユーリ!」のコールが巻き起こっている。


(いきなりハイキックとかはやめてくださいよ……?)


 祈るような気持ちで、瓜子はリング上のユーリを見守った。

 立ち技においても寝技においても、まともにぶつかったら勝ち目はない。今回は来栖選手と対戦したとき以上に、ユーリがスピードで相手のパワーを封じこめなくてはならないはずだった。


 大歓声の中、相手のアウトサイドに踏み込んだユーリが、右の蹴りを繰り出す。

 ハイではなく、ローだ。

 バシンッ、と相変わらず痛そうな音が響きわたる。


 リュドミラ選手は、無表情に前進した。

 ユーリはサイドにステップを踏みつつ、再びローを繰り出す。

 左膝関節の少し上、同じ場所に同じ角度で、ユーリの足が叩きつけられる。


「いいぞ! そのまま足を削れ!」


 立松の声に応じるように、三度目の右ロー。

 リュドミラ選手もかろうじて足を上げて衝撃を逃がしているが、かなりまともにくらっている。


 これだけの巨体で、しかも二十九歳のベテラン選手ならば、足もとに多少の故障を抱えていてもおかしくはない。膝にも足首にもサポーターを巻いているのは、どこに弱みがあるのかを隠すためなのではないかと思われた。


 ユーリにしてみれば、一点突破で相手の弱みを切り崩すしか勝機はない。

 その覚悟を示すかのように、ユーリは執拗にローキックを蹴り続けた。


 すると───四度目のローがヒットした直後、異変が起きた。

 リュドミラ選手の前進が止まったのだ。


 ユーリはかまわず、相手の正面に立たないよう気をつけながら、さらに強烈なローを叩きつけた。

 それと同時に、リュドミラ選手の巨大な右拳がぶうんっと振り回される。


 ユーリは緩急をつけるのが苦手であるため、リュドミラ選手がタイミングを読んで、カウンターの右フックを放ったのだ。

 しかし、アウトサイドに踏み込んでいたのが功を奏し、その拳はユーリの顔面すれすれの空間を走り抜けていった。


 悲鳴まじりの歓声が会場をゆるがす。

 直撃すればKO必至の、凄まじい右フックであった。


 だが、そのようなものに気圧される神経を、ユーリは有していない。

 ユーリは愚直にステップを踏み、同じタイミングで右ローを放った。

 リュドミラ選手もまた、同じタイミングで右フックを放つ。

 違うのは、リュドミラ選手が右ローをガードせず、おもいきり足を踏み込んだことだった。


 ユーリの右足が相手の左足を打ち、リュドミラ選手の右拳がユーリの左腕を打つ。

 完全にガードしていたのに、ユーリはその一撃で吹き飛ばされた。

 背後のロープでバウンドし、そのままべしゃりとマットに倒れこむ。


 歓声が、完全なる悲鳴と化す。

 瓜子もまた、ストップウォッチを握りしめながら悲鳴をあげそうになってしまった。


 しかしユーリは、左腕を痛そうに振りながら、すみやかに立ち上がった。

 それと同時に、「ダウン!」の声が響きわたる。


 瓜子はぎょっとして、レフェリーのほうを振り返った。

 レフェリーのかたわらで、リュドミラ選手が片膝をついていた。


 うおおっと新たな歓声が巻き起こる。

 相打ちの勝負で、リュドミラ選手のほうがダウンを喫したのだ。

 ユーリはきょとんと目を丸くしてから、あたふたとニュートラルコーナーに移動した。


 その間に、リュドミラ選手はのそりと立ち上がる。

 カウントは、エイトで停止した。


「ユーリさん、一分経過です!」


 瓜子の声に応じるように、ユーリが足を踏み出す。

 が、間合いの圏外でその足が止まった。


 リュドミラ選手が、左足をひっこめていたのだ。

 右足を前に出した、サウスポーのスタイルである。

 応用力の欠落しているユーリは、困惑気味に固まってしまった。


「ユーリ、ステップインして、ヒダリのローだよー」


 すかさずジョンがアドヴァイスを飛ばしたが、そこですみやかに対応できるほどユーリは器用ではない。仕切り直しを願うかのように、ユーリは後方へと引き退いた。


 その間隙をついて、リュドミラ選手が突進してくる。

 両腕を前方に突き出した、なりふりかまわぬ組みつきだ。

 ユーリは間一髪で、その突進をかいくぐった。


 かろうじて、ユーリのほうがスピードでまさっている。

 だが、リュドミラ選手の踏み込みも、そうそう鈍いものではない。

 あそこまでがむしゃらに突進され続けたら、いずれは捕まってしまうだろう。


 リングの中央に陣取ったユーリは、少し迷うようなそぶりを見せてから、すっと背筋をのばした。

 顎の前にあった拳が目の高さにまで上がり、重心が後ろ足に移されている。

 ムエタイ流の、アップライトスタイルだ。

 左のローを打つには、そのスタイルのほうが手馴れているのだろう。


 リュドミラ選手は、かまわずに突進をする。

 間合いが、一息でつぶされた。

 しかしユーリは、左ローを放とうとはしなかった。

 その代わりに、右の膝を振り上げた。

 カウンターの、膝蹴りだ。


 かつて秋代選手の鼻骨と魅々香選手の眼窩低骨を粉砕したユーリの右膝が、リュドミラ選手の土手っ腹にぶち当たる。

 しかしリュドミラ選手の突進は止まらず、そのままユーリにつかみかかってくる。


 ユーリはとっさに相手の首を抱えこみ、「ええい!」と身体を左側にねじった。

 首相撲の、崩しのテクニックである。

 身体をねじりながら、自分の右足を相手の右足に掛けている。


 自分の突進力に背中を押される格好で、リュドミラ選手の体勢が崩れた。

 両者は同体で、横ざまに倒れこむことになった。


「突き放して、立ち上がれ!」


 立松の声が響く。

 しかし、ユーリは立ち上がらなかった。

 立ち上がらずに、相手の巨体にのしかかった。


 リュドミラ選手は余裕の表情で、ユーリの右足を両足ではさみこむ。

 ハーフガードのポジションだ。


 それでもユーリのグラウンドテクニックならば、有利なポジションをキープできるかと思われたが───ユーリの動きは止まらなかった。

 マットについた右膝を支点にして、ぐりんと横回転してみせたのだ。


 リュドミラ選手はあわてて身を起こそうとしたが、それよりも、ユーリが相手の左足首をつかまえるほうが早かった。

 ユーリの両足がリュドミラ選手の左ももをはさみこみ、その両腕が左足首を抱えこむ。


 そのままユーリは、ぐいっと身体をのけぞらした。

 膝十字固めである。

 ユーリの両手と両足で拘束されたリュドミラ選手の左足は、弓のように反り返った。


 声にならぬ悲鳴があがり、レフェリーがすかさずユーリの腕を押さえつける。

 それと同時に、試合終了のゴングが乱打された。


『い、一ラウンド、一分五十八秒、膝十字固めにより、ユーリ・ピーチ=ストーム選手の勝利です!』


 リングアナウンサーの声も、また上ずってしまっている。

 ぴょこりと身を起こしたユーリは「いえーい」とピースサインを掲げ、数秒の時間差で歓声が爆発した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る