03 舞台裏

 控え室に戻り、バンテージを巻き、レフェリーにOKのサインをもらう頃には、客席も八割がたが埋まりかけていた。

 そんな中、本日の試合に出場する選手全員と、付き添いのセコンド一名のみが入場扉の裏側に集められ、開会セレモニーの始まりを待っている。


「まもなく開会です。青コーナーの選手からの入場となりますので、お間違えなく!」


 トーナメントに出場する選手が、八名。

 その合間に行われるワンマッチに出場する選手が、四名。

 トーナメントのリザーブマッチに出場する選手が、二名。

 そして前座のプレマッチに出場するアマチュア選手が、四名。

 合計で十八名の大人数だ。


 なおかつ、それと同数のセコンド陣がつめかけているのだから、ラストに入場するユーリたちなどはもう入場扉が見えないぐらいの位置まで押し出されることになってしまった。


「よ、桃園。相変わらずコンディションはバッチリみたいだね」


 と、ひときわ長身の人影が近づいてきて、ユーリに声をかけてくる。

 ユーリと同じBブロックの一回戦、全試合の中では五試合目に出場する、小笠原朱鷺子選手だ。

 百八十センチ近い長身と、絶大なる射程距離を誇る長い手足。セミロングの黒髪をゆるくたばねて、右肩に垂らしている。背は高いが意外に幼げな顔をした、無差別級の若手ナンバーワン選手である。


「まともに口をきくのは、これが初めてだよね。……アンタがあのロシアの大女をやっつけてくれたら、二回戦が楽になる。せいぜいアタシのためにも頑張っておくれよ」


「あ、はぁい。頑張りまぁす。小笠原選手も頑張ってくださいねっ!」


 ユーリは笑顔で答えたが、無差別級のエース三名は残らずユーリのトーナメント参戦に猛反対していたはずなので、瓜子としてはちょっと不気味だった。

 小笠原選手はおどけた感じに片方の眉を吊りあげて、ユーリに顔を寄せてくる。


「あとね、一回戦目までは同じ赤コーナーで同じ控え室だけど、そこでは舞さん――あ、来栖選手のことね。来栖選手のくの字も口にしないでもらえるかな? アタシはともかく、アカネさんはアンタが舞さんをぶっ倒しちゃったことに怒り心頭の爆発寸前なんだから、むやみに刺激してほしくないんだよね」


「はぁい。ご忠告ありがとうございますぅ」


 と、ユーリも小声でぼしょぼしょと答える。

 当の兵藤アカネ選手は、大柄な身体を青の柔術衣に包み、少し離れた場所で虚空をにらみすえていた。


 来栖選手が出場しないならば、優勝するのは自分しかいない。格闘技雑誌のインタビューにおいて、兵藤選手はそのようなコメントを残していた。それは余裕や慢心ではなく、己を鼓舞するための言葉だったのだろう。その土佐犬のように厳つい顔には、何やら思いつめたような表情が浮かんでいる。

 その姿を横目で確認しつつ、小笠原選手はさらに声を低めて言う。


「アタシはね、試合なんて強いモンが勝つだけなんだから、誰が勝とうが誰が負けようが知ったこっちゃない。それで舞さんの価値が変わるわけじゃないし、他人がとやかく口を出すことでもないはずだしね。……ただ、舞さんとアカネさんがアトミックを出るっていうんなら、今までの恩義を忘れてアトミックに居残ることもできない。だけど、新団体の旗揚げなんてのは、アタシは最初っから大反対だったんだよ」


「はぁ……そうなんですかぁ」


「そりゃあそうでしょ。そんなことしたって、客の取り合いになって共倒れすることは目に見えてるんだからさ。そんなの、馬鹿らしいじゃん。……で、アンタに負けちゃったことで、舞さんは憑き物が落ちたみたいに静かになっちゃった。そろそろ引退かとか言い始めてるしね。……アカネさんは、それが無念でしかたがないんだ。だから、アトミックのお偉方がアンタに肩入れしてることに、死ぬほど苛立ってる。舞さんにはもうそんな気はさらさらないのに、いまだに新団体新団体って騒いでるのは、今じゃあアカネさんだけなんだよ」


「はぁ……」


「だからね、このトーナメントの組み合わせは、なかなかベストだと思ってるよ。一回戦はロシアの大女、準決勝はアタシ、決勝戦はアカネさんかベリーニャ選手……この顔ぶれだったら、アンタがどこで負けても、舞さんの株は落ちない。それで、アンタが優勝することになっても───」


 と、幼い顔で、ふてぶてしく笑う。


「アカネさんだろうと誰だろうと、もはやぐうの音も出ないだろうさ。だからアンタはややこしいことは考えずに、舞さんに土をつけた人間として、せいぜい立派に闘って、散りな」


 ユーリが「はぁい」と答えたとき、「それでは入場です!」とスタッフが大声をあげた。

 小笠原選手は「じゃあね」と乱れた列に戻り、ユーリは「ふぅ」と息をつく。


「なかなか気さくなお方なんだねぇ、小笠原選手は。あんなに普通に話しかけてくれる選手は珍しいかもぉ」


「めちゃめちゃ自信にみなぎってますしね。次代のエース候補と目されるのも納得っす」


 そんな言葉を交わしているうちに、列は粛々と短くなっていった。

 プレマッチの選手、ワンマッチの選手、トーナメントの選手、の順で一名ずつ扉を出ていき、後にはセコンドのメンバーだけが取り残される。


「ではでは、行ってきまぁす」


 リュドミラ選手の巨体に続いてユーリが出ていくと、扉の向こうから最大級の観声が聞こえてきた。

 そうして全選手が顔見せを果たした後、選手代表の兵藤選手が挨拶をして、セレモニーは終了だ。

 薄暗がりの舞台裏で、瓜子は重い頭をコンクリの壁におしつけた。


「……大丈夫か? 何だかしんどそうだけど」


 そこに、レオポン選手が近づいてきた。

 瓜子の頭は、ますます重くなってしまう。


「瓜子ちゃん。こんなときに何なんだけど、ちょっと話があるんだよ」


「……自分には、話すことなんてありません」


「それはそうかもしれないけど、こうして自然に会える日を二ヶ月間も待ったんだ。一分でいいから、時間をくれないか?」


「……………」


「あのな……俺のことは、あんまり気にしないでくれ」


 何だそれは。

 だったら最初から話しかけてこなければいいではないか、と瓜子は顔をそむけてみせる。


「俺も、気にしないようにする。それが一番、平和な道だろ?」


「……言ってる意味がわかりません」


「そうかい。俺は瓜子ちゃんが気になって気になってしかたがなかったんだ。この二ヶ月間、道場やマンションに駆けつけたい気持ちをどれほどガマンしたか、まあ瓜子ちゃんには想像もつかないだろうな」


 瓜子はあらがいがたい衝動に耐えかねて、レオポン選手を見た。

 そして、後悔する。

 ぼんやりとした間接照明に照らされるレオポン選手の真面目くさった顔を見るなり、止めようもなく、鼓動が高まってきてしまったのだ。


 この暗がりが、いけないのだろうか。

 この暗がりは、あの夜の出来事を連想させてしまう。もう二ヶ月もたつというのに、瓜子の身体から消えてくれないさまざまな感覚が、よみがえってくる。


 固い腕の感触。

 荒い息づかい。

 身体にのしかかってくる、重み。

 薄い生地ごしに伝わってくる、相手の鼓動。

 必死な光を浮かべた、目。


「……吊り橋理論って知ってるか?」


 囁くような声で、レオポン選手がなおも語りかけてくる。


「揺れる吊り橋ですれ違った男女は、生理的な興奮や緊張感を共有し合うことで、一目惚れと同じような感覚を抱いちまうっていう、愉快な説らしいぜ? 後輩に雑学博士みたいなやつがいてよ。ずいぶん昔にだけど、そんな風に聞いたことがあるんだ」


「……いったい何の話をしてるんすか?」


「俺たちの話だよ。決まってんじゃねえか」


 レオポン選手は、不自然なほど接近してきているわけではない。

 それなのに、瓜子は顔が熱くなり、おまけに息まで切れてきてしまった。


「俺たちは、吊り橋ですれ違うよりもっと緊張感のある時間を共有しちまったろ? だから、何だかおかしな感覚が頭や身体にすりこまれちまったと思うんだ。……違うかい?」


「……………」


「ぶっちゃけさせてもらうとな、俺の気持ちは、完全にユーリちゃんから瓜子ちゃんにスライドさせられちまった」


「な……」


「可愛いな、とは思ってたよ。だけど、あのマンションに行くまでは、俺はユーリちゃんに未練タラタラだったんだ。……それが、帰る頃には瓜子ちゃんのことで頭がいっぱいになっちまってた。不可抗力で抱きあっただけなのに、俺は動物か、って心底うんざりしちまったよ」


 聞きたくない。

 瓜子は目をそらし、唇を噛んだ。


「だから、吊り橋理論なんて昔話をひっぱりだすことにしたんだ。俺は、動物じゃなく人間でいたいからな。……ユーリちゃんにとって、瓜子ちゃんがすっげー大事な相手だってことは、見てるだけで丸わかりだ。で、俺が瓜子ちゃんにちょっかいを出すことで、二人の関係が何だかおかしな具合に乱れちまうってことも、薄々わかる」


「……………」


「そんなカッコ悪いことはしたくねえんだよ。俺にだって、守りたい一線はあるからな。……だから、俺のこの気持ちは錯覚でカンチガイなんだってことでおさめさせてもらう。瓜子ちゃんにも、もちろんユーリちゃんにも、金輪際ちょっかいは出さねえ」


「だったら……こんな風に話しかけないで、そのまま消えてくれたらよかったじゃないっすか……?」


 弱々しく、それでも非難するように、瓜子は言葉をしぼりだした。

 レオポン選手は、溜息のような笑い声をもらす。


「ごめんな。こうやって意思表明しないと、気持ちに区切りがつけられそうになかったんだ。何せもう、瓜子ちゃんのことで頭がパンクしそうな二ヶ月間だったからなあ」


「そんなの……卑怯です」


「ああ。天下御免の卑怯者だ。だから、こんな情けない男はとっとと拒絶しちまってくれ。万が一、瓜子ちゃんの中にもおかしな気持ちがくすぶってたら、そいつは吊り橋理論で片付けちまおうぜ?」


 レオポン選手は、気づいていたのだ。

 瓜子の中に芽生えてしまった、この激情の萌芽に。


 そしてまた、ユーリも気づいてしまったのだろう。

 瓜子とレオポン選手が、こんな気持ちを抱えてしまっていることに。


「……あなたみたいな男は、大っ嫌いです」


 深くうつむいたまま、瓜子は短くそう言った。

 しばらくの沈黙ののち、レオポン選手がすっと遠ざかる気配がする。


「ありがとうよ。……迷惑ばっかりかけて、すまなかったな」


 瓜子は、固く目をつぶった。

 何も考えたくなかった。

 そうしてユーリが帰還してくるまで、瓜子は襲いくる激情の奔流を頑なに拒絶し続けた。

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