02 開場前

「ユーリさん、ちょっとはシャキシャキしてくださいよ! ウォーミングアップしなくていいんすか?」


 いったん控え室に荷物を置き、試合衣装に着替えてその上からピンク色のパーカーを羽織ったユーリは、いつまでたっても呆けたままだった。


 他の選手は、とっくにリングに舞い戻ってしまっている。客入りが始まるまで、あと二時間弱。そのわずかな時間でリングのマットの状態を確認し、なおかつあるていどのウォーミングアップを済ませ、バンテージを巻き、レフェリーとドクターのチェックを受け、軽く栄養補給して、そして開会セレモニーに備えなくてはならないのだ。いくら試合の順番が後半とはいえ、呆けている時間など一秒もない。


「うむぅ……いかんな! すっかりベル様の魅力にうつつを抜かしてしまっていた! 心の準備はしておいたはずなのに、おそるべしベル様だよっ! ちっとばかり気合いを入れなおさないとね!」


「そうそう、そうっすよ」


「んだけど、ベル様、やっぱりかわゆいんだもん! 生身のベル様は映像より百倍も素敵! ユーリがメロメロってしまうのも、いたしかたがない話とも言えるであろう」


「はあ、まあ、何でもいいっすけど」


「おまけにさっき、何て言ってた? ユーリのことをキュートとか何とか言ってなかった? アレは反則だよ! まさかベル様ともあろう御方が、ユーリに盤外戦を仕掛けているわけではなかろうね?」


「…………」


「ああもう大好きっ! ベル様と試合したい! 沙羅選手のふりしてリングに上がったらマズいかなぁ? どこかに半分だけ金髪のウィッグでも売ってないかしらん」


「いいから! とっとと行くっすよ!」


 パーカーにフードがついていたのが幸いだ。瓜子はユーリの肌身にはふれぬまま、その重たい身体をパイプ椅子からひきずりおろすことができた。


「うにゃあ」とうなるユーリの背後から、苦笑顔のコーチ二名もついてくる。立ち技のコーチ・ジョンと、寝技のコーチ・立松だ。新宿プレスマン道場のセコンドとしては、最強無比の布陣と言えよう。が、気ままに過ぎるユーリの尻をひっぱたくのは、どうやら雑用係の瓜子に一任されてしまっているようだった。


「とりあえず、一回戦からしてもう正念場だからな。うちの男どもを相手に寝技では引けを取らない桃園さんは大したもんだが、外国人てのは骨格も筋肉の質も違う。ましてやロシア人ともなるとフィジカル面はケタ違いだから、くれぐれもグラウンドでは上を取られないようにな」


「ダイジョウブだよー。タチワザのギジュツは、ユーリのホウがウエだよー」


 少なくとも、セコンド陣も最初からユーリの勝利をあきらめたりはしていない。そう思わせるだけの底力を、ユーリは道場において見せつけているのだ。

 誇らしいような、妬ましいような、いくぶん錯綜した思いに瓜子はとらわれてしまう。


「はぁい、頑張りますっ! 溜息が止まらないほど強そうな相手ですけど、あの選手に勝てないようだったら、ベル様の前に立つ資格はないですからねぇ」


 ユーリもだいぶ、正気を取り戻してきたようだ。

 が、その正気は試合会場にたどりつくなり、またもや霧散し果てることになった。

 ベリーニャ・ジルベルト選手がリングの下で、兄の手を借りて黙々とストレッチに励んでいたのである。


 愕然と立ちすくむユーリに向かって、ベリーニャ選手は「ハイ、ピーチ=ストーム」と右手をあげてくる。

 もちろんユーリは、一瞬でのぼせあがってしまった。

 白い面が真っ赤に染まり、目などは熱病患者のように潤みはじめてしまう。


「こ、こ、こ、こんにちは!」


「……コンニチハ」


 はにかむように笑い、ベリーニャ選手はすっと立ち上がる。

 やはり、独特の空気を持つ選手だ。


「*****。*****?」


 そして放たれる、異国の言葉。

 しかしそれはブラジルの母国語ではなく、どうやら英語であるようだった。ユーリのななめ後ろに控えていたジョンが、いつも通りにこにこと笑いながら通訳してくれる。


「ヒサシブリにニホンにコられて、ウレしい。ニホンでシアイがデキるのが、ウレしい。アナタにアえるのをタノしみにしていたって、イってるよー」


「あ、あ、あ、あなたって、ユーリに?」


 これには、瓜子も驚いた。

 ベリーニャ選手が、なぜユーリの存在などを知っているのだろう。


「ホントウは、クルスセンシュとシアイをするのをタノしみにしていた。クルスセンシュがシュツジョウしないのは、とてもザンネン。だけど、クルスセンシュにカったピーチ=ストームにアえたから、とてもウレしい、イってるねー」


「ユ、ユ、ユ、ユーリもベル様に会えて、気絶するほど光栄だと言っておりますっ!」


 錯乱するユーリの言葉をジョンが伝えると、ベリーニャ選手はまたにこりと笑い、なめらかな褐色の指先をユーリのほうに差しだしてきた。


「ケッショウセンでタタカえるように、オタガいガンバりましょう、イってるよー」


「……はいっ!」


 ユーリは、一瞬の躊躇も見せずに、ベリーニャ選手の手を取った。

 瓜子の胸が、じくりと痛む。


 そうしてベリーニャ選手は、黒い影のように静かな兄とともに、リングの上へとあがっていった。

 ラフなパーカー姿のまま、空いたスペースで兄と組み合う。そのゆったりとしたスパーリングの風景を、ユーリはいつまでも恋する乙女のような目つきで見守っていた。


「……ユーリさん、鳥肌は大丈夫なんすか?」


「ん? 知らにゃい。どうかな?」


 その目はリング上に向けたまま、ユーリが無造作に右手を出してくる。

 ピンク色のパーカーからのぞく白い手首と手の甲には、羽根をむしられたニワトリのような症状がしっかりと発現していた。


 やはりベリーニャ・ジルベルトといえども、ユーリの対人センサーを無効化することは不可能だったようだ。

 これはこれで、胸が痛い。


「お、ユーリちゃんに瓜子ちゃん……それに、ジョン先生と立松先生。お疲れ様です」


 と、あまり聞きたくなかった声が近づいてくる。

 ルールミーティングの際に、彼が来場していたことには気づいていた。

 瓜子の気分は、ますます重苦しくなってしまう。


「あ、これはこれはおひさしぶりですぅ……えぇと、お名前は何でしたっけぇ?」


 ロクにそちらを見ようともしないまま、実にどうでもよさそうな口調でユーリはそう答えた。


「ひでえなあ。会うなり、その仕打ちかよ」


 ライオンみたいな頭をかき回しながら、小麦色の顔に苦笑を浮かべている。

 もちろんそれは、二ヶ月ぶりに見るレオポン選手であった。

 そちらを振り返った立松が、「よお」と気安く手をあげる。


「赤星のレオポンくんか。キミも今日はセコンド役かい?」


「はい。予選で敗退したマリアが、リザーブマッチで高橋選手とやりあうんスよ。……ま、本選に出場するメンバーを見るかぎり、途中で負傷欠場するような選手はいなそうですけどね」


「それはどうかな。俺は逆に負傷者が続出するんじゃないかって心配がぬぐえないよ。体重無制限で、おまけにワンデイトーナメントなんて、いくら何でも前時代的すぎるだろ」


 立松は、わりとこのレオポン選手がお気に入りであるらしい。

 いかにも当世風のルックスをしたレオポン選手だが、人並み以上にトレーニングには熱心だし、それに、軽薄そうに見えて、きちんと礼儀もわきまえているからだろう。


 ひとしきり立松やジョンと会話を交わしてから、レオポン選手は「よう」と瓜子に向きなおった。


「ざっと二ヶ月ぶりだな。先月の《G・フォース》はテレビで観戦させてもらったよ。KOできなかったのは惜しかったけど、なかなか白熱した試合展開だったな」


「……判定までもつれこんだのは、自分の力不足です」


 十月の《G・フォース》において、瓜子はひさびさにキックの試合を行ったのである。が、サキとの試合で負った負傷から、満足のいく稽古時間が取れずに、けっきょく判定までもつれこんでしまったのだった。

 そんな話題にはふれてほしくないし、そもそもレオポン選手とは口もききたくない。瓜子はユーリのフードをひっぱりながら、リングに設置された階段に足をかけた。


「さ、ユーリさん。いいかげんにしないとタイムアップっすよ。少しは真面目に試合のことを考えてください」


「うにゅう。もうちょっと甘い想念にひたっていたかった……うり坊ちゃんの、いけずぅ」


 文句を言いながらもようやくリングに上がったユーリは、マットの感触を確かめるように、ダンダンと足を踏み鳴らす。

 その瞬間。リング上にいるほとんどの人間が、ユーリのほうに視線を向けてきた。


 やはりユーリは、ベリーニャ選手と同じぐらい、他の選手には注目されてしまっているのだ。小笠原選手や兵藤選手も、リングの対角線上から鋭い眼差しを突きつけてきている。ただ、一回戦で当たるリュドミラ選手とサキだけは姿が見当たらなかった。


「よし。それじゃあうり坊ちゃん、ちょっぴりウォーミングアップにつきあってくれるかい?」


 言いながら、ユーリはぺたりとマットに座り込む。

 まずは、ストレッチだ。ユーリのやわらかい背中に手を置いて、股割りの補助をする。


 いつも思うのだが、ユーリのスイッチはどこで切り替わるのだろう。ほんの今さっき、魂の奥底から憧憬しきっているベリーニャ選手の手にふれて鳥肌だらけになっていたユーリが、今は平気で瓜子の身体にふれている。これも瓜子には、いささかならず気の重くなる事象なのだった。


 そうしてストレッチを終えたら、今度はタックルの打ち込みだ。


「……うり坊ちゃん、レオポン選手と会うのは、あの夜以来なにょ?」


 と、両足タックルを仕掛けてきたユーリが、瓜子に尻もちをつかせながら、小声でそのようなことを問うてくる。


「そうっすよ。当たり前じゃないっすか。会う理由がないし、そもそもそんな時間なんてなかったってことも、ユーリさんが一番よく知ってるはずっすよね?」


「うーん? だけどユーリは美容院に行ったりエステに行ったり、たまには別行動を取ることもあるんだから、会おうと思えば時間ぐらいつくれるんじゃないのかにゃ?」


「……だから、会う理由がないじゃないっすか」


 立ち上がりながら瓜子が答えると、ユーリは「ふぅむ」と打ち込みの手を止めて、考えこむような表情を見せた。


「あのさぁ、うり坊ちゃん。あの夜にも言ったことだけど、うり坊ちゃんに彼氏ができようがどうなろうが、ユーリの愛に変わりはないからね?」


「……またそれっすか。どうしてユーリさんは、わざわざ火のないところに煙を立てようとするんすか?」


「それは、ユーリの目に熱い火のゆらめきが見えるからだよぉ。うり坊ちゃんにも、レオポン選手にもね」


 瓜子は心底、苛立ってしまった。

 いいかげんにしてください、と怒鳴りつけたくなるのをぐっとこらえて、ユーリに少し荒っぽく首相撲を仕掛けてやる。


「だったら、眼科に行ったほうがいいっすよ。それとも精神科っすかね。そんなもんは、幻覚です」


「うわぁ、とげとげしいお言葉! ユーリはうり坊ちゃんのために言ってあげてるだけなのにぃ」


 瓜子の力を絶妙なステップで逃がしながら、ユーリは唇をとがらせる。


「んにゃ、それともやっぱり自分のためなのかにゃ。ユーリはうり坊ちゃんの重荷になりたくないだけなの。レオポン選手が気になるんだったら、ユーリにはかまわず仲良くしてあげてね?」


 言っていることは、真っ当だ。

 その真っ当さに、瓜子はますます苛立ってしまう。


 瓜子とレオポン選手のあられもない姿を目撃してしまったために、ユーリは瓜子にふれることができなくなってしまった。なのにどうして、それを助長させるような発言をしてくるのか。

 あれほどワガママで、後先考えず、そして独占欲の強かったユーリが、なぜ?


 瓜子はもはや返事をする気も失ってしまい、ユーリに覚えたてのかにばさみを仕掛けてやった。


「おっとぉ」と、はしゃいだ声をあげて、ユーリは白い右足を引く。瓜子はひとりでマットに倒れこむことになった。


「あぶないあぶない! そうだねぇ、サンボの選手だったら、そうやって首相撲をかわしてくるかもね! 参考になったよ、ありがとねぇ」


 そう言ってユーリが笑うと同時に、リング上における練習時間の終了が、若いスタッフのがなり声によって告げられる。

 開場時間は、早くも一時間後にまで迫っていた。

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