Act.3  The open‐weight Tournament ~First round~

01 邂逅

 その後の二ヶ月間は、瞬く間に過ぎ去っていった。


 ユーリのデビューシングル『ピーチ☆ストーム~桃色の嵐~』が無事に発売され、その販促キャンペーンに忙殺された、という側面もある。東京、名古屋、大阪、仙台――それに千葉や埼玉といった関東の都市もふくめて合計八箇所、サイン&撮影会およびCDショップの店頭におけるミニライブの企画が敢行されたのである。


「ううう。イヤだよぉ。悪い予感しかしないよぉ。黒歴史第二章の開幕だよぉ」


 当初はそんな風に嘆くことしかできなかったユーリだが、評判のほうはおおむね上々だった。

 野次られることもなく、馬鹿にされるわけでもなく、CDの売り上げなどは、アスリートの余技としては破格なぐらいのセールスをも記録したのである。


 それにともない、音楽関係の雑誌取材や番組出演などの依頼も殺到し、千駄ヶ谷女史などはまたまた嬉しい悲鳴をあげる羽目になった。千駄ヶ谷女史のように徹底した職業倫理を持つ人間が担当者でなかったら、きっとユーリは稽古をする時間もないほどの仕事をつめこまれて、ファイターからアイドル歌手にでも転身するしか道がなくなっていたに違いない。


 それでも仕事量は格段に激増し、ユーリの生活はいっそうハードなものへと成り果てた。

 それにともない、ユーリの人気と知名度も、うなぎのぼりに上昇しはじめた。

 何せ、音楽番組である。深夜のバラエティ番組やスポーツ専門チャンネルのリスナーとはまた異なる層にもユーリの存在は浸透していき、十一月を迎える頃には、もはやユーリ・ピーチ=ストームの名を知らぬ者など日本に存在しないのではないかというほどの勢いになっていた。


 アパレルショップ『ピーチ☆ブロッサム』は、ついにユーリとのコラボ商品を手がける決断を下し、それもまた好評に継ぐ好評だったという。女性用下着に、男女兼用のTシャツ。この冬には、スポーツブランドと提携してラッシュガードやスパッツまで作製するらしい。夏になれば、当然、水着か。名もない弱小アイドルファイターとスポンサー契約を結んでいた恩恵が、一気に大爆発したようなものだった。


「うにゅう。ついに町中でサインを求められるようになってしまった……握手用に手袋を準備せねばならぬかもなぁ」


 そういった面倒事も、もちろん激増してしまった。無軌道なファンによる盗撮やストーカー行為などが一年以上ぶりに勃発し、たびたび警察のお世話になるようになってしまったのだ。

 とたんに、瓜子の責任もはねあがった。いまや瓜子の立場は付添人ではなく、文字通りのボディガードである。いつぞやなどは雑踏を歩いていたところをいきなり抱きつかれそうになってしまったので、瓜子がそれを撃退し、警察から事情聴取を受ける羽目になってしまった。


 もはや電車移動も難しくなり、タクシーやハイヤーを使う機会も増えた。

 ユーリは今まで以上に、入念に人相を隠す必要にせまられた。

 ちょうど試合のなかった九月から十一月の間に、ユーリは全国区の有名人と成り果ててしまったのだった。

 そしてもちろん、ユーリはアイドルとしてではなく、ファイターとしてもいっそう高く評価されることになった。


「……大晦日に、エイトテレビとの提携で、《JUFリターンズ》の興行が開催されることになりました。そのスペシャルマッチへの出場依頼が来たのですが、いかがいたしましょう? 対戦相手は、まだ未定なのですが」


「大晦日? エイトテレビってことは、もしかして民放で生放送されるんですかぁ? へーえ、そりゃあ格闘技ブーム以来の大イベントですねぃ」


「そうですね。……ユーリ選手のご活躍で、ついに格闘技ブームが再燃し始めたのかもしれません」


「あははぁ。まっさかぁ! ……もちろん試合には出たいですけどぉ、今はトーナメントのことで頭がいっぱいですっ! さすがのユーリちゃんも五体満足で帰ってこられるか不明だから、そーゆー前提でよかったらオッケーですよん」


「了解しました。先方にはそのようにお伝えしておきます」


 本当に、呆気に取られるほどの大騒ぎであった。

 その引き金はCDの発売だったのだろうが。けっきょくは、ユーリの持つアイドルとしてのスター性と、ファイターとしての実績が実を結んだ、ということなのだろう。


 ユーリが弱いままだったら、さすがにここまでは騒がれなかったはずだ。これほど魅力的で、可愛らしく、そして色気とフェロモンに満ちみちた娘が、国内最強と呼ばれていた来栖選手ほどの相手を打ち破った───そのすさまじいまでのギャップこそが、人々の関心と注目を集めたのだろう。


 何はともあれ、地獄のように多忙で騒々しい二ヶ月間だった。

 だけど、それで良かったのだと思う。ユーリは相変わらず瓜子に指一本ふれられぬままだったし。サキからはいっさい音沙汰もなかったし。思い悩む時間すらない、という環境の激変は、瓜子にとっては歓迎すべき事態だったのである。


 ユーリのほうに、変わりはない。瓜子に楽しそうな笑顔をふりまき、その献身に感謝しつつ、時には理不尽な怒りや泣き言をぶつけ――泣いたり笑ったりの毎日だった。


 何も、変わりはない。

 だけどやっぱり、瓜子は胸中に不安と懸念をくすぶらせたままなのだった。

 何かが、間違っている。何かが、ほんの少しだけズレてしまっている。サキが目の前からいなくなり、ユーリは瓜子に対しての接触嫌悪症が再発してしまったというのに、笑ってばかりはいられない。そんな気持ちが、どうしてもぬぐえないままなのだ。


(だけど……)


 そんなモヤモヤにも、もうすぐ決着がつく。

 少なくとも、サキとの間に生じた亀裂には、何らかの変化が訪れるはずだ。

 本当に決別してしまうのか、それとも和解の道もありうるのか――引退か、継続か、この苛烈なトーナメント戦の闘いを経て、サキの心は、どちらに転ぶのか。

 自分のことなど、後回しでいい。まずはサキとの関係を修復してほしい。それは軟弱で逃避的な考えかもしれなかったが、瓜子の本心でもあった。


 そうして、その日がやってきたのである。


                    ◇


「……ユーリさん、早く早く! 急がないと、ルールミーティングが始まっちゃいますよ!」


 タクシーの運転手から釣り銭をもらうのももどかしく、瓜子は車を飛び出すなり、ユーリの重いボストンを手に走りはじめた。

 三歩遅れて、手ぶらのユーリが追いかけてくる。持久力は人並み以上でも、ユーリはあまり走るのが早くない。


「ちょっと待ってよぉ! そんなに慌てなくても大丈夫だってば! ルールミーティングなんて、ユーリはもうあくびが止まらないぐらい聞き飽きてるんだからぁ」


「そういう問題じゃありません! 完全に遅刻なんすから!」


 十一月の第三日曜日。会場は前回と同じく、ミュゼ有明。

 こんな重要きわまりない日でも、やはりドタバタの大騒ぎからはまぬがれられぬ宿命なのか。集合時間は午後の三時ジャストだというのに、分針はすでに十五分を回っている。


 電車ではなくタクシーを使ったために、時間を読み違えてしまったのだ。これもユーリが過大な人気を背負ってしまった弊害と言えよう。出向く先は都内ばかりなのだから、電車のほうがよほど便利ではないかと、瓜子などはつくづく思う。


「ま、いいかぁ。ウォーミングアップの一環だと思えばちょうどいいよね! ユーリもジャージで来れば良かったかにゃ」


 ユーリは、あくまでのん気である。

 瓜子はプレスマンのオレンジ色をしたウェアにベンチコートという格好で、ユーリは撮影現場にのぞむときと大差のない私服───ニットのふんわりとしたカーディガンに、マフラー代わりの大きなストール、黒のショートパンツと幾何学模様のレギンス。それにお決まりのキャップに黒ぶち眼鏡といういでたちだった。


 ようやく関係者用の入場口にたどりつき、青服の守衛に身分証を提示する。あまりテレビに関心のない者だったら、この華やかな娘が出場選手だなどとは夢にも思わないだろう。しかしこの入場口からはラウンドガール役のモデルたちも出入りしているはずなので、とりたてて不審がられることもなく、二人は会場内に通されることになった。


「今日もチケットは完売だってよぉ。こんなものすごい大会なんだから、もっと大きな会場でやれば良かったのにねぇ?」


 薄暗い通路を早歩きで歩きながら、瓜子はユーリののほほんとした顔を横目で見る。


「会場の予約は何ヶ月も前にしなくちゃいけないんだから、無理っすよ。ユーリさんの知名度が爆発的に高まったのは、ここ二ヶ月の話なんですし」


「あははぁ。チケットの完売はユーリひとりの功績じゃないっしょ! 何たって今日は、ベル様が出場されるのだからねぇ!」


 いや、少なくともこの日本国内においては、来日経験のほとんどないベリーニャ・ジルベルトなどよりも、ユーリ・ピーチ=ストームのほうがはるかに知名度は上だろう。

 突き当たりの角を曲がって、一般客用のホールにまで足を踏み入れると、それを立証するかのような光景が広がっていた。


「うわぁ。なんだこりゃ?」


 壁という壁で、ユーリが微笑んでいた。

 壁が、ユーリのポスターだらけなのである。


 これはたしか、物販商品だ。先日、千駄ヶ谷女史がサンプルを届けてくれた。A2サイズの大きなポスターで、とりわけ華やかな試合衣装に身を包んだユーリがファイティングポーズをとって、にっこりと微笑んでいる。そんなシロモノが、あちらこちらにべたべたと張りまくられていたのだった。


 そこに記されているのは、「桃色天使・桃園ユーリ」……ではなく、「ユーリ・ピーチ=ストーム」の英語表記と、「2nd Aniversary」の文字。

 奇しくも本日は、ユーリにとってプロデビュー二周年記念大会となるのだ。


 しばらく歩くとアルバイトの若者たちが大急ぎで商品を並べている物販コーナーに行き当たり、そこでもまた、瓜子とユーリは呆れ果てることになった。さして広くもない物販コーナーのスペースもまた、ほとんどユーリ一色に染めあげられてしまっていたのである。


 新デザインのTシャツやタオル、直筆サインつきのピンナップ――二週間ほど前、ユーリが泣きそうになりながら一時間もかけてサインしたものだ――キーホルダー、携帯ストラップ、ドリンクボトル、壁に貼られているのと同じポスター――それに「ピーチ☆ストーム」のCDや、「P☆B」とのコラボTシャツまで置かれている。


 もちろん本来ならば、一選手のデビュー二周年などが大きく取り沙汰されるわけもないのだが。ここぞとばかりに盛り上げようという、パラス=アテナ物販開発部の意気込みがものすごかった。何というかもう、ピンク色が目にしみてしかたがない。


「アトミックのお偉方は、何を考えてるんすかねえ。これじゃあユーリさんが他の選手に反感をくらっても文句は言えないっすよ。……あれ、ユーリさん?」


 すぐかたわらにいたはずのユーリを見失い、瓜子は慌てて視線をめぐらせる。

 物販コーナーとは反対側の壁ぎわで、ユーリは何やらもぞもぞと背中をうごめかせていた。


「……何をしてるんすか。自分のポスターを盗んでどうしようっていうんです?」


 両面テープで張られているらしいポスターの隅に爪をたてようとしていたユーリが、ギクリと振り返る。


「ち、違うよぉ! いくらユーリでも、そこまで自分大好きっ子じゃないもん! ユーリが欲しいのは、こっち!」


 なるほど。それはユーリのポスターではなく、今大会の告知ポスターであるようだった。

 しかし、意味がわからないことに変わりはない。


「だって! これ! ベ、ベル様とユーリが並んで写ってるじゃん! 一生の記念に、もらっておくの!」


「あのですね……そんなもん、プレスマンの事務所にだって、どっさり届いてたじゃないっすか。ていうか、道場の壁にだって張ってあったでしょう?」


「えええっ! そんなの全然、気づかなかった! なんたる不覚!」


 それは、それだけユーリがトレーニングに集中していた証拠であろう。


「何でもいいっすから、今は試合に集中してくださいよ。それより、とっとと会場に行かないと」


「ううう。だってさあ、ついに生ベル様とご対面できるのかと思ったら、ユーリちゃんは居ても立っても……」


 その舌が、途中で凍りついた。

 とろんとした目が驚愕に見開かれ、歓喜とも恐怖ともつかない表情が、その白い面に充満し始める。

 いったい自分の後ろに何を発見したのだと不気味に思いつつ、瓜子は背後を振り返った。


「……コンニチハ」


 低くて落ち着いた、女性の声。

 イントネーションが、少し独特だった。

 つややかな黒髪を胸もとまで流し、黒い瞳をおだやかに瞬かせている、少し浅黒い肌をした女性───彫りが深く、端正な顔立ちをしており、口もとに浮かんだ微笑が、とてもやわらかい。


 ゆったりとしたパーカーに、動きやすそうなスウェットのパンツ。それに足もとのデッキシューズまでふくめて、全身みごとに黒ずくめだ。身長はユーリと同じぐらいで、わりとほっそりとして見えるが、何やら野生の若鹿のような生命力と躍動感にあふれており、ただ立っているだけなのに、ものすごく存在感がある。


「*****?」


 今度は日本語でも英語でもない言葉で何かを言い、ユーリの背後のポスターを指し示す。

 そして、そのしなやかな指先をゆっくりとユーリのほうに移動させて、何かを問いかけるように、にこりと微笑む。

 これは貴女ですね? という意なのだろう。

 あどけない、ユーリとはまた違う意味で、子どもみたいな笑顔だった。


「ヘイ、ベリーニャ。*****」


 と、これまた端正な顔立ちをした若者がやってきて、娘のとなりに立ち並ぶ。

 絶対に、兄妹だ。肌の色や顔立ちはもちろん、漂う空気がとても似ている。

 ただし、娘が若鹿だとしたら、こちらは黒豹のように眼光が鋭かった。身長も、妹より頭ひとつぶんも大きい。


「*****。*****?」


「あ……試合会場だったら、あっちの通路です」


 どぎまぎしながら瓜子が指で示してみせると、若者のほうが「アリガトウ」と短く言った。


 娘のほうは、まだ大きな瞳でユーリの姿をじっと見つめており、最後に今度は英語で「ベリーキュート」とか何とか言い残して、兄とともにその場を立ち去った。


「あ……」


 ユーリが、へなへなと崩れ落ちる。

 瓜子は、小さく息をついた。


 こんなことをしている場合ではないのだが、きっとしばらくは足腰が立たないだろう。ユーリが彼女にどれほどの想いを抱いているか――彼女がいなかったら、どれほどユーリの運命は変転していたか、瓜子にだって、そんなことがわからないはずはなかった。


 ユーリは、ついに対面を果たしてしまったのだ。

 世界最強の女子ファイターにして、ユーリの魂をわしづかみにした存在、ベリーニャ・ジルベルト選手その人に。


                ◇


「……おせえよ、馬鹿野郎ども。こんな日に遅刻するやつがあるか」


 数分後、ようやく瓜子たちが試合会場までたどりつくと、怒れる仁王像のような顔をしたダムダム・サイトーに出迎えられてしまった。


 リングの上では、二人のレフェリーが模範実演とともに試合のルール説明を行っている。十名ばかりの選手がそれを取り囲んで車座になっており、残りの半数はリング下から目をこらしている。夢遊病者のように呆けてしまっているユーリを、素手でさわらぬよう気をつけながらそちらに追いやってから、瓜子は緊張気味の視線を走らせた。


 サキは、リングの上にいた。

 ニュートラルコーナーに寄りかかり、中段のロープにだらしなく肘をかけながら、マットの上であぐらをかいている。


「立場上、今日は敵同士だからな。オレのそばに寄るんじゃねえよ。ジョンたちはあっちで説明を聞いてるぜ?」


 険悪な声で、サイトーはそう言った。

 今回は、プレスマンの世話になりたくないというサキの要望を頑として受けつけず、このサイトーがたったひとりでセコンド役を買って出たのだという。

 個人主義、不干渉主義の徹底されたプレスマンにおいて、サイトーがそのようにサキへと干渉してくれるのは、瓜子にとってもたいそう心強いことだった。


「わかりました。……あの、サキさんの調子はどうっすか?」


「だから、そういうことを聞くんじゃねえって言ってんだよ。お前さんはアイドルちゃんの心配だけしてな」


 ユーリの心配など、するだけ無駄だ。瓜子は溜息をこらえつつ、どこでも目立つジョンの黒いスキンヘッドを探す。


 その過程で、ぎょっとするようなモノを見つけてしまった。

 ユーリの一回戦の対戦相手、リュドミラ・アシモフ選手である。


 身長百八十四センチという話なのだから、ジョンと同じぐらい大きい。おまけに体重九十五キロでは、屈強の男性セコンド陣の誰よりも大きな体格を有している、ということになってしまうのかもしれない。


 昨晩も試合前日の儀式としてベリーニャ選手のドキュメント番組を鑑賞する羽目になったが、こんな化け物に勝てるベリーニャ選手もやはり化け物なのだろうなと思う。

 そして本日は、ユーリも化け物にならなくてはならないのだ。

 それがかなわなければ、ベリーニャ選手とも、サキとも闘う資格は得られない。


 一方ではユーリをお祭り騒ぎの神輿にすえ、もう一方ではこのように過酷なマッチメイクを企画する。《アトミック・ガールズ》の首脳陣とは、いったいどれだけ利己的な考えをしているのだろうか。瓜子としては、若干の怒りを禁じ得なかった。


「よお、うり坊やんか。今日も白ブタの調教、ご苦労さん」


 と、ようやく発見したジョンのもとへと足を向けかけたところで、今度は沙羅選手に呼びかけられる。

 さしものファッショナブルな彼女も、試合前においてはさすがにトレーニングウェア姿だった。右半分だけが金色をした髪の毛も、すでにきゅうきゅうにひっつめられている。


「沙羅選手。ルール説明を聞かなくていいんすか?」


「ふん。アホらし。アトミックに参戦するて決めた時点で、ルールなんぞはがっちり研究させてもろたからな。今さら確認の必要なんてあるかい」


《アトミック・ガールズ》の試合においては、実にこまかいルールが存在する。

 頭突きや肘打ちは禁止、髪の毛や着衣をつかむのは禁止、などという基本ルールは言わずもがであるが、ロープの外に相手を押し出してはいけない、だとか、二本以下の指をつかんではいけない、だとか、熱心なファンでもあずかり知らぬような公式ルールが選手間ではしっかりと取り決められているのだ。


 現在の総合格闘技、MMAは、ブラジルのバーリトゥードが基本となっている。そのバーリトゥードがそもそも「何でもあり」の意なのだから、こまかいルールを制定しないかぎりは危険に過ぎて、「スポーツ」として昇華することが不可能なのである。


「あのお、質問よろしいでしょうか?」


 と、一通りの説明が終わったところで、リング下にいたスーツ姿の中年男が挙手をした。外国人選手の通訳係として控えていた、パラス=アテネの駒形氏だ。


「リュドミラ選手からの質問です。……頭をマットに叩きつけるバスターは禁止らしいが、背中や腰から落とすのなら有効なのか、と」


「はい。有効です」


「ヒールホールドは?」


「有効です」


「鎖骨を指でつかむ行為は?」


「有こ……いえ、引っ掻きに類する行為として、反則とさせていただきます」


「頚椎に損傷を負わせるようなサブミッションは?」


「……ルール上、有効です」


 リュドミラ選手は大きくうなずいて、レフェリーに感謝の意を表明した。

 こけおどし――ではないのだろう。あの丸太のような腕でスリーパーかフェイスロックでも極められれば、首の骨が危ういかもしれない。


「準決勝までは五分二ラウンド、決勝戦のみが五分三ラウンドです。インターバルは一分。ドローの場合は一ラウンドのみマストシテムの延長ラウンドが執り行われ……」


 ルールミーティングは粛然と進行され、その後は、開会セレモニーや入場の際の注意事項も説明される。

 しかし、ユーリは何ひとつ耳に入っていないようだった。

 リング上をぼんやり見上げながら、時おり視線を左手の方向にちらちらと差し向けている。赤コーナー側のリング下に、浅黒い肌をした特異な兄妹が陣取っているためだろう。ユーリだけでなく、ほとんどの選手がそちらに意識を取られているのが感じられる。


 無理もない。ベリーニャ・ジルベルト選手は生ける伝説そのものであり、しかも、そのかたわらに控えているのは、世界で最もメジャーなMMAの大会『アクセル・ファイト』のミドル級チャンピオンたる、ジョアン・ジルベルト選手なのだ。


 リングの周囲では客席の設置と音響チェックが執り行われており、否応なく試合開始の刻限が近づきつつあることを告げていた。


 まもなく開催されるのだ。

 無差別級王座決定トーナメントが。

 そして、サキとの決着の刻が。

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