04 一夜が明けて

 翌日。

 道場に、千駄ヶ谷女史がやってきた。


「無差別級王座決定トーナメントの対戦予定表が、本日、パラス=アテナの駒形氏から通達されました。公式発表は明日の午後四時ですので、それまでは口外法度でお願いいたします」


「決まったんですかぁ! ユーリのお相手は? ベル様は? サキたんは?」


「……八名ぶん四試合ですから、口でご説明するよりご覧いただいたほうが早いでしょう。こちらにプリントアウトして参りました」


 新宿プレスマン道場の受付口にて、千駄ヶ谷女史は黒革のブリーフケースから一枚の紙片を取り出した。

 ユーリの肩にふれてしまわぬよう気をつけながら、瓜子もその内容に目を落とす。



~初代無差別級王座決定トーナメント・対戦予定表~


・Aブロック・第一試合。

 兵藤アカネ(柔術道場ジャグアル)対、サキ(新宿プレスマン道場)


・Aブロック・第二試合。

 沙羅(NJGP)対、ベリーニャ・ジルベルト(ジルベルト柔術アカデミー)


・Bブロック・第一試合。

 小笠原朱鷺子(武魂会小田原支部)対、ローザ・ブランコ(キング・ジム)


・Bブロック・第二試合。

 ユーリ・ピーチ=ストーム(フリー)対、リュドミラ・アシモフ(チーム・マルス)




「沙羅選手が、ベル様と、一回戦? ……ずるいっ! ずるすぎるっ! どうしてユーリじゃなく、沙羅選手なんですかぁ?」


「お静かに。……それはきっと、ユーリ選手のほうが沙羅選手よりも《アトミック・ガールズ》の首脳陣に評価されているから、ということなのでしょう」


 千駄ヶ谷の声は、あくまでも冷静だ。


「ベリーニャ・ジルベルト選手は、優勝候補の筆頭です。同時にまた、外国人選手としては異例なぐらいの話題性を持った選手でもあります。《アトミック・ガールズ》としても、日本人選手に優勝してもらいたい反面、ベリーニャ選手が決勝戦まで残れないという事態は避けたいはず……ゆえに、ベリーニャ選手と同じAブロックの選手よりも、決勝戦まで当たらないBブロックの選手のほうに期待がかけられていると見なすのが妥当だと思われます」


「期待なんていいから、ベル様と闘いたかったぁ……くっそぉ! こうなったら、ユーリも決勝戦まで勝ち進むしかないですね!」


「その意気です。……ただし、ユーリ選手、貴女には過大にすぎる期待がかけられてしまっています。第一試合で対戦予定のリュドミラ・アシモフ選手の名に聞き覚えは?」


「ふみゅ? 聞き覚えはあるんですけど、誰でしたっけぇ? アトミックの登録選手ではなかったような……」


「はい。彼女もベリーニャ選手とともに、これが《アトミック・ガールズ》には初の参戦となります。……リュドミラ・アシモフ。二十九歳。ロシア出身。チーム・マルス所属。身長百八十四センチ。体重九十五キログラム。サンボの世界選手権、および柔道の世界選手権において、ともに準優勝。女子選手としては破格の体格を有する、ベテランの強豪選手です」


「リュドミラ・アシモフ……ロシア出身……体重九十五キロ……」


「ユ、ユーリさん、それって、ベリーニャ選手が《スラッシュ》の初代無差別級王座を獲得したとき、決勝戦で闘った相手じゃないっすか?」


 瓜子が言うと、ユーリは「おおっ!」と手を打った。


「あの馬鹿でっかいロシアの選手ね! にゃるほどにゃるほど……ええ? あの選手がアトミックに来るんですかぁ? しかも、ユーリがお相手するのぉ?」


「そうです。彼女は今年の春先から選手活動の引退を表明しており、その前に、ベリーニャ選手に雪辱を晴らしたいと常々コメントをしていたようですね。……格闘技に関しては門前の小僧にすぎない私としましても、この体格と実績には目を見張らずにはいられません。過大に過ぎる期待、という言葉の意味がご理解いただけたでしょうか?」


「はぁ。期待というか、やっぱりユーリちゃんは無差別級に歓迎されていないだけなのでは……」


「そういう側面も否定はできません。やはり《アトミック・ガールズ》のナンバーワン選手たる来栖選手を打ち負かしたという事実は、良きにつけ悪しきにつけ《アトミック・ガールズ》の根幹を震撼せしめてしまったのです」


 まったくもって無感動に、千駄ヶ谷女史はそう言いつのる。


「貴女に敗戦を喫して以来、来栖選手もまた引退の言葉を口にされるようになられたそうなのです。それは御本人の自由意志なのですが、その周囲には、それを理由にユーリ選手へと敵愾心を向けてしまう選手が少なくなく……有り体に言って、納得のいかない選手たちが《アトミック・ガールズ》から大量離脱して、来栖選手を旗印に新団体を設立、という機運が高まってきているようなのですね」


「ふみゅう。ユーリが勝っても納得してもらえなかったわけですかぁ」


「はい。道理もへったくれもないお話です。……失礼。品のない言葉を使ってしまいました。とにかく、それで《アトミック・ガールズ》の首脳陣、つまりは株式会社パラス=アテナの経営陣は、ユーリ選手にさらなる実績を積み上げていただきたいと考えて、このような組み合わせを捻出したようなのですね」


「実績? もっと強い相手に勝て、と?」


「はい。リュドミラ・アシモフ選手を倒し、小笠原選手を倒し、さらにはベリーニャ・ジルベルト選手をも倒し、それで王座を獲得したならば、いったい誰に文句のつけようがあろうか? ……おそらくは、そのように考えたのでしょう。来栖選手に勝利したのはフロックではない。来栖選手でさえ、このように過酷な三連戦を勝ち抜くのは難しい。これだけの偉業を成し遂げることが可能であったらば、誰もがユーリ選手の実力を認めざるを得ない……つまりは、そういうことなのです」


「あははぁ。確かにぃ。こんな組み合わせで優勝できたら、そりゃあ文句なしにチャンピオンですよねぇ。ユーリだって、拍手を送っちゃうっ!」


 他人事のように言い、ユーリは笑う。


「でもでもぉ、トーナメント戦なんですから、何が起きるかは予測不能ですよねぇ? そもそもベル様が決勝進出するかさえ、わからないことなんだし」


「……ベリーニャ選手が、途中で敗退するとでも?」


「はい。Aブロックには、サキたんがいますから」


 ユーリは、あっさりとそう言った。

 瓜子は息を呑み、千駄ヶ谷女史は眼鏡の角度を修正する。


「この中で、ベル様を倒せる可能性があるのはサキたんぐらいだと思います。だからユーリも、ベル様と一回戦で闘いたかったっ! 沙羅選手がうらやましくてしかたがないですよぉ」


「……《アトミック・ガールズ》の首脳陣は、それとは逆のことを考えているでしょうね。さきほども申しました通り、ベリーニャ選手を決勝戦まで勝ち上がらせるために、Aブロックにはあまり期待のかけられない選手を集めた、と見て間違いはないでしょうから」


「そうですかぁ。見る目のないお人たちですねぇ」


 天使のように笑いながら、ユーリはまたあっさりとそう言い放つ。


「まあ、勝負は時の運ですからねぇ。ユーリは誰が相手でも情けない試合にならないように、これまで通り頑張りまぁす」


「そうですね。それが正しいご判断です。私どもも健闘をお祈りいたしますよ、ユーリ・ピーチ=ストーム選手」


 最後まで内心をのぞかせないまま、千駄ヶ谷は道場を出ていった。

 天井を仰ぎ見て、ユーリは「ふうっ」と切なげに吐息をもらす。


「どっちみち、サキたんとベル様のどっちかとしか対戦できないんだにゃあ。残念だにゃあ。……でもまあこんな過酷なトーナメント戦だったら、サキたんも燃えざるを得ないよねぇ?」


「そうっすね……本当に、過酷です」


 この八名のどれと当たっても、瓜子はまったく勝てる気さえしない。ベリーニャやリュドミラなどは論外だし、小笠原と兵藤もアトミックの最強選手。ローザ・ブランコだって、もともとアトミックにおいては最強の外国人選手と名高いトップファイターで、沙羅選手は───ユーリに負けたことで評価を落としてしまったが、もともとミドル級の救世主と目されていた選手だ。


 こんな中で、ユーリとサキは闘っていくのか。

 なんてすさまじいトーナメント戦だろう。

 もしも何かの間違いでサキに勝ってしまっていたら、瓜子がこの中に名前を連ねることになってしまっていたのだ。

 つくづく無謀な挑戦だったのだな、と、あらためて思う。


「……うり坊ちゃん、なんだかさびしそう」


 と、ユーリが瓜子の顔をのぞきこんでくる。


「大丈夫だよぉ。来年にはうり坊ちゃんも参加できるぐらい強くなってるから! まだデビュー二戦なんだし、これからこれから!」


「……別に、落ちこんでるわけじゃないっすよ」


 瓜子は嘘をつき、ユーリは笑った。


「うり坊ちゃんは、嘘がヘタだねぇ。……さぁて、それじゃあお稽古再開だぁ! リュドミラ選手ぐらいおっきくて寝技の得意な男子選手さんはいたかしら? 立松コーチに相談してみよっと」


 ぺたぺたと道場の奥に向かう。その元気いっぱいの後ろ姿を、瓜子は暗い目つきで見送った。

 昨晩、あのようなことがあったというのに、ユーリの態度に変化はなかった。


 いっぽうの瓜子は、完全に睡眠不足である。昨晩はけっきょくサキの布団で眠ることになったのだが、睡眠らしい睡眠はまったくとれなかったのだ。


 瓜子に対しては解除されたはずの接触嫌悪症が、再び発症してしまった───いや、むしろ症状は重くなってしまった。以前は鳥肌だけで済んでいたものが、嘔吐感まで引き起こしてしまったのだ。


 それは、笑って済ませられるような事態ではないはずだった。

 それなのに、ユーリは笑っている。


「しかたないよぉ。深層心理だとか無意識だとかのお話なんだもん。それでもうり坊ちゃんへの愛はゆるぎないから、あんまり気にしないでぇ」


 昨晩、ユーリはそんな風に言っていた。

 いつも通りの、笑顔と、態度で。


「うり坊ちゃんがどうこうって話じゃなく、やっぱり男の人への嫌悪感が強すぎるんだろうねぇ。ほら、ユーリってトラウマだらけの半生を送ってきたから! ……うり坊ちゃんは悪くないし、残念ながら、レオポン選手が悪いわけでもないにょ。これはユーリのお病気なんだから、ユーリが頑張って克服していくしかないさぁ」


 自分には、何もできないのか。

 こんなにそばにいるというのに……指一本ふれられず、ユーリの笑顔を見守っていることしかできないのか。


 死にたいぐらいに、口惜しかった。

 何でもない風に笑っていられるユーリの神経が、信じられなかった。


 もしかしたら、サキはユーリのこういうところが、許せなかったのかもしれない。

 いや、許せないというよりは、耐えられなかったのかもしれない。


 想像を絶する苦悩を抱えているはずなのに、それをまったく表に出そうとしない、ユーリの強さと、笑顔にこそ、サキは心を引き裂かれてしまったのかもしれない。そんな強さを持ちようもなく、屋上から飛び下りてしまった娘の姿と重ね合わせて、たまらない気持ちになってしまったのかもしれない。


 少なくとも、瓜子は今、そういう気分を味わわされてしまっていた。


(……でも)


 瓜子は、逃げない。そう決めた。

 ユーリの笑顔を見ているのはつらい。心を引き裂かされそうになる。どうして泣いてくれないのだ、どうしてつらい心情をぶちまけてくれないのだ……と理不尽な怒りにとらわれてしまうことすら、ある。


 だけど、ユーリのそばから離れるわけにはいかない。

 瓜子は悪くない。サキだって悪くない。理央という少女だって悪くない。レオポン選手だって、たぶん悪くない。

 しかし、当のユーリだって、まったく悪いはずがなかった。


 一番に不幸な運命を背負ってしまっているのは、ユーリなのだ。

 たとえユーリが強靭な精神力を有しており、それゆえに強烈な疎外感を周囲に与えてしまっているとしても――そんなことは、ユーリの罪ではない。

 その強さがなかったら、きっとユーリだって、理央という少女と同じように、どこかの屋上から飛び下りてしまっていたのだろう。


 そんな運命が、正しいはずはない。

 だから、これで、正しいのだ。

 ユーリは笑顔で、運命に立ち向かっているのだ。

 それを近くで見守りたい、と思う。

 どんなにつらくても。どんなに切なくても。どんなに無力感に押し潰されそうになろうとも――瓜子は、逃げない。そう決めたのだ。


 そんな瓜子の決意が木っ端微塵に砕け散るには、あと二ヶ月ほどの猶予が残されていたのだった。

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