02 夢魔のごとく
「ほんじゃあ、そろそろ寝よっかぁ」
さんざん大騒ぎした後、白菜とつくねの京風鍋で夕食を済まし、さらにひとしきり大騒ぎをしてから、夜の十一時には床につくことになった。
場所は変わらず、ユーリのベッドである。
そういえば、こうして枕をともにするようになって、もう八ヶ月も経過しているのだ。
後ろめたいことなどひとつもないが、あまり他人に吹聴できる話でもない。自分など、ユーリにとっては抱き枕のようなものだ――などと言ったら、よけいに誤解を招いてしまうのだろう。
瓜子は夜着用のTシャツとハーフパンツ。ユーリはシルクのナイトウェアで、薄い毛布にもぐりこむ。まだまだ残暑の厳しい季節だが、夜間はだいぶん過ごしやすくなってきたようだ。
「明日は七時起きだよね? おやすみぃ」
リモコンで照明を落とし、ユーリはもぞもぞと背を向ける。瓜子もそちらに背を向ける。これでどうして朝方にはしっかりと密着することになってしまうのか、謎だ。
ユーリは、寝つきがいい。ものの数十秒で、いつも通りの安らかな寝息が聞こえてきた。
きっと、人並み以上に摂取しているカロリーを、きちんと消費しつくしているからなのだろう。今日も日中は取材と撮影で、道場こそ週に一度の休館日ではあったが、食後にはけっきょくエアロバイクを漕いでいた。ひとりでシャドーにも取り組んでいた。体幹トレーニングにも怠りはなかった。そうして稽古を積みながら、ずっとぎゃあぎゃあと騒いでいたのだ。道場が休みで元気がありあまっているぶん、本日のユーリはひときわ騒がしかった。
で、一方の瓜子はといえば、トレーニングを禁じられての運動不足である。欲求不満である。不完全燃焼である。膝を痛めているためにエアロバイクすら漕げない。身体を酷使していないために食欲も二割減で、そんな生活が一週間も続くと、寝つきまで悪くなってきてしまった。
使えなかったエネルギーが、体中のあちこちでくすぶっているような感覚にとらわれる。日中の仕事などはユーリについて歩き回っているだけだし、これといって苦労のある内容でもない。
(思えば、優雅な身分だよな……)
と、今さらのように思ってしまう。
ユーリが自分の希望以上に副業をこなしているのは、もちろん食べていくためである。サキだって、本職は鳶だった。サイトーは、プレスマン道場のサブトレーナーをつとめているものの、収入のメインは工場のアルバイトだという。瓜子の近辺には、ファイトマネーのみで生活できている女子選手などは、皆無なのだ。キックや総合の女子選手でそんな人間は国内に存在しないのではないか、とさえ思える。
たとえば来栖選手などは、天覇館の指導員である。ファイターとしてではなく、トレーナーとして道場から収入を得ているのだ。ベテラン選手には、何人かそういう人物がいる。……そして、格闘家としては、それが「成功者」の部類に入るのだろう。
ユーリはタレントで、サキは鳶職人。サイトーは工場員で、来栖選手はトレーナー。彼女たちの、社会に通用する肩書きとは、それなのだ。
で、瓜子などは、スターゲイトの契約社員である。
警察官に職務質問などされれば、その肩書きを答えるしかないのだろう。せいぜい備考欄に「キックボクシングのプロライセンスを保有」という一文が添えられるぐらいのことだ。運営側に認定されれば誰でも出場することのできる《アトミック・ガールズ》ではライセンスすら存在しない。
しかし、スターゲイトの職員としても、やっていることといえば、ユーリの後をついて回るだけで、実際のマネージメント管理などは千駄ヶ谷の領分である。
もちろんユーリと暮らすようになってからは、給料から住居費を折半で差し引かれる段取りになったわけだが。それにしても、すっかり気のおけない仲と成り果てたユーリとともにいるだけで、寝る場所にも困らず、食べるものにも困らず、こうして快適な暮らしを営めてしまっているのだから、恵まれていると認める他ない。建設現場や薄暗い工場で額に汗しているのであろうサキやサイトーなどには、申し訳ないぐらいだ。
男子選手の中には、ファイトマネーや契約金のみで暮らしを立てている選手も存在するらしい。
しかし、キックと総合の両方で数々の大会に出場し、MMAの本場アメリカで試合をすることさえあるレオポン選手ですら、時には日雇いのバイトで稼がなくては食べていけない、とこぼしていた。
どっちみち、狭き門であるということに、変わりはないのだ。
自分はいつまで、このように恵まれた生活を続けていけるのか……何となく、我が身を削ってアイドルおよびモデル業にいそしんでいるユーリの寄生虫にでもなってしまったかのような罪悪感を覚えてしまうこともある。
特にこうして眠れぬ夜などには、そんなロクでもない想念ばかりが頭に浮かびあがってきて、瓜子を何とも言えない心地にさせてくれるのだった。
(ん……?)
そんな想念にとらわれつつ、何度目かの寝返りを打ったとき、瓜子の感覚に何かが引っかかった。
カチリと、どこかで金属的な音色が響いたような───
(いや、気のせいか)
ここは、オートロックのマンションの一室だ。侵入者などはありえない。ストーカーやレポーターに狙われがちだったユーリのために、スターゲイトはセキュリティのしっかりとしたマンションを探してくれたのだ、とも聞いている。
しかし───
侵入者が、スペアキーを持っていたとしたら?
そこまで考えて、瓜子はむくりと身体を起こした。
それから、あわててユーリに毛布をかけなおす。ユーリは、子どものようによく眠っていた。
(サキさん……?)
サキはまだ、このマンションのスペアキーを持っているはずなのだ。
もしかしたら、サキが帰ってきてくれたのかもしれない――そうでなくても、何か話があってやってきたか、あるいは忘れ物でもこっそり取りに来たのかもしれない。
瓜子は、そっとベッドから忍び出た。
もしもそうなら、サキに会いたい。会って、話をしたい。
それも、できれば、ユーリのいないところで。
サキはおそらく、ユーリに錯綜した思いを抱いている。だから、七月のあの夜もあれほどまでに取り乱してしまったのだろう。もしも瓜子のみが相手であったなら、サキも違う顔を見せてくれるかもしれない。
「あいつのことが、好きだからだよ」
かつてサキは、そう言っていた。
あいつには言うな。言ったら殺す、とも。
瓜子はまだ、そこまで深くサキと心を通い合わせてはいない。瓜子とて、そこまで自惚れているわけではない。
だが、瓜子が部外者であるからこそ、ユーリに言えないことも言える、という面があるのではないだろうか?
「おめーのことは、大嫌いだ」
七月の夜に、サキはそうも言っていた。
瓜子に言ったのとは、逆の言葉を。
それはどちらも、サキの本音なのだろう。きっとサキの気持ちは、そんな一筋縄でいくものではないのだ。強く、強く魅了されながらも、それを素直に受け入れることができない。そんな錯綜した思いを、抱えているに違いない───おそらくは、牧瀬理央という少女のために。
現実に絶望し、屋上から飛び下りた少女。
現実に絶望し、それでもあきらめなかった少女。
その二人が、サキの心を引き裂いてしまっているのだ。
瓜子は、そう思っている。
それを、確かめたい。
瓜子は最後にもう一度ユーリの安らかな寝顔に視線を落としてから、寝室を出た。
せまい廊下に、人間の気配はない。
玄関の扉も、閉まっている。
サキの部屋も、リビングも、同様だ。
瓜子は足音を忍ばせながら、ゆっくりとサキの部屋に近づいていった。
主を失って、もう二ヶ月以上もたつ、サキの部屋。
横開きの、木製の戸である。
高鳴る胸に手を置いて、少し呼吸を整えてから、瓜子はその戸に手をかけた。
まさか、いきなり殴りかかられることもないだろう。
それでも慎重に、戸を開ける。
部屋の中は、真っ暗だった。
ごくりと、生唾を呑みこんでしまう。
何だか、現実感がとぼしかった。
もしかしたら、瓜子はいつのまにか眠りに落ちて、悪い夢でも見始めてしまったところなのだろうか?
足の裏には、フローリングの冷たい感触がある。とても静かだ。自分の息づかいと心臓の鼓動しか聞こえない。
この部屋の照明スイッチがどこにあるのかを失念してしまった瓜子は、廊下側の照明を点けることにした。
オレンジ色の間接照明から、蛍光灯の白い光へと切り替わる。
少し目を細めて突然の明るさになれるのを待ってから、瓜子はあらためて室内をのぞきこむ。
そうして、瓜子は息を呑むことになった。
押し入れの戸が、開いている。
そしてそこから、雑誌のたばが引きずりだされている。
最後にこの部屋に入ったのはいつだったか、そんなことはもう忘れてしまったが、少なくとも、こんな乱雑な有り様ではなかったはずだ。
瓜子は驚きにとらわれたまま、ふらりと室内に足を踏み入れてしまった。
「サキさ……」
小声で、呼びかけようとする。
その口を、強い力で、ふさがれた。
「…………っ!」
ものすごい力だった。
問答無用で、煎餅布団に押し倒されてしまう。
腕をつかまれ、肩をおさえつけられる。
呼吸が苦しい。
熱く、大きく、かわいた手の平で、口もとを完全にふさがれてしまっている。
暴風雨のような力だ。
重い身体が、瓜子の上にのしかかってくる。
左のももに固い膝が押しあてられる。傷ついた膝関節がねじれて、痛い。
右足の上にも、相手の足が乗っている。どういう体勢なのかはよくわからないが、とにかく手足はしっかりとおさえこまれてしまい、瓜子は微動だにすることもできなかった。
いや───それ以前に、恐怖で身体がすくんでしまっている。
何かがおかしい。
サキの身体が、こんなに大きいはずはない。
サキの身体が、こんなに重いはずはない。
サキの身体が、こんなに逞しいはずはない。
サキの腕が、こんなにゴツゴツとしているはずがない。
固い胸板が、瓜子の胸にふれている。
しっかりとした指先が、瓜子の手首の皮膚にくいこんでいる。
心臓が、爆発しそうだ。
軽くふれあった胸からは、相手の激しい鼓動まで伝わってきていた。
あちらも、平常心ではないのだ。
瞳に、必死な光を浮かべている。
陽に灼けた頬に、冷や汗が光っている。
息が荒い。瓜子と同じぐらい、苦しそうだ。
「騒がないでくれ……」
低い男の声が、そう言った。
切迫しきった声。
切迫しきった表情。
廊下からの照明で逆光になってしまっているが、それはまぎれもなく、このような場所にいるはずもない人物――レオポン選手の、焦燥に満ちみちた顔に他ならなかった。
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