04 陥落

「呆れたな……来栖選手を相手に、互角の闘いっぷりじゃねえか」


 レオポン選手はそう言ったが、瓜子はむしろこのインターバルでこそ危機感をあおられてしまった。


 ユーリの息が荒い。

 白くて丸っこい肩が、いつになく激しく上下している。

 スタミナの化け物で、どんな猛特訓にも音をあげないユーリが、わずか五分で疲弊しきっていた。


 まぶたを閉ざし、がぶがぶと水を飲んでいる。

 全身が汗だくだ。短くなった前髪にも、汗のしずくが光っている。

 そして、たった一発のミドルキックをガードしただけで、ユーリの右の上腕が青黒く内出血してしまっていた。


 相手のスピードやテクニックを、問答無用のパワーでねじ伏せる。そんな闘い方で勝ち星をかせいできたユーリが、今、逆の立場に立たされてしまっている。


「あのアイドルちゃんはスタミナに自信があるみてえだけどな、稽古と試合のスタミナってのは別物だろ」


 と、ひさかたぶりにサイトーが口を開いた。


「オレの記憶に間違いがなけりゃあ、あのアイドルちゃんはもう一年以上も、第二ラウンドまで試合がもつれたことがなかったんじゃなかったっけか? 今年の春までは一ラウンドであっさり負け続けて、それ以降は、あっさり勝ち続けた。どんなに稽古を積んだって、試合でのスタミナ配分なんてのは、試合でしか培われねえもんだ」


「それは……もちろん、そうっすよね……」


「で、お相手の来栖は言うまでもなく、超がつくほどのベテラン選手だろ。スタミナ配分なんてお手のものだし、そもそもあいつは、典型的なスロースターターだぜ?」


 サイトーの言葉通り、赤コーナーに陣取った来栖選手は軽いスパーでもこなしたぐらいの雰囲気で、静かにセコンドへとうなずきを返していた。

 そのセコンドのひとりが、顔面を包帯でぐるぐる巻きにされたスキンヘッドの女子選手───前大会でユーリに敗れた魅々香選手であるということに気づき、瓜子は何がなし、ぞっとした。


 対戦相手を研究するのは、当たり前のことだ。レオポン選手がユーリに協力してくれたのと同様に、魅々香選手だって、来栖選手には協力を惜しまなかっただろう。ましてや、彼女たちは同門なのだから。


 だが、ユーリの猛攻を誰よりも巧みにしのぎきった魅々香選手が、爬虫類のような目つきで来栖選手にアドヴァイスを送っている姿は、否応なく瓜子を不安な心地にさせてくれた。


 そんな中、メイド服を水着にあつらえなおしたようなコスチュームに身を包んだラウンドガールが画面上を横切っていき、第二ラウンドのゴングが鳴った。


「ファイト!」


 レフェリーの掛け声とともに、来栖選手が接近する。

 ユーリの左ローをカットして、サイドにステップを踏んでから、ジャブとフックのコンビネーションだ。


 その攻撃をガードをしつつ、ユーリも自分の右手側にステップを踏む。

 それを追うように、来栖選手の右ストレート。


 ユーリもジャブを放ち、その腕でそのまま来栖選手につかみかかろうとする。

 その腕をかいくぐり、来栖選手のボディフック。

 さらに来栖選手はワンツーを放ち、ユーリも懸命にジャブを返す。


 おたがいに、有効打はない。

 しかし、同じペースで殴り合うなら、パワーで勝る来栖選手のほうが、断然に有利だった。

 ガードをしても、ダメージが蓄積されてしまう。この構図もまた、ふだんとはまったく逆の有り様だった。


 それにやっぱり、ユーリは蹴り合いよりもパンチの応酬のほうが、より不得手である。蹴り技と同様にフォームは綺麗だし十分な破壊力をも有してはいるが、これだけの接近戦だと初動の遅さが生命取りとなる。

 なおかつ、性格的にも相手の顔を殴るという行為を好まないのだろう。ユーリはあくまで、柔術をバックボーンとするグラップラーなのである。


 ユーリは何とか首相撲に持ちこもうと腕をのばし、その弱気を見透かしたかのような右フックに、ついにテンプルを捕らえられてしまった。


「ダウン!」


 ああ……と会場に溜息のようなざわめきが満ちる。

 ユーリはマットにぺたりとしゃがみこみ、ぜいぜいと苦しげにあえいでいた。

 ダメージよりも、スタミナが心配だ。


 瓜子は無意識のうちに手を合わせ、祈るような気持ちで、ユーリの姿を見守った。

 ここでユーリが負けてしまったら、サキと闘うこともできなくなってしまう。

 そうなったら、たぶんサキは本当に瓜子たちの前からいなくなってしまうだろう。


 それだけは、嫌だった。

 ユーリだって、嫌なはずだ。

 だから瓜子は、強く祈った。

 ユーリは、カウントエイトで立ち上がった。


「ファイト!」


 まったく疲労の陰すら見えない来栖選手が、また猛然と距離を詰める。

 ユーリは何とかアップライトの構えをとったが、その左ローよりも、来栖選手の左ミドルが早かった。


 ガードはできる。スピードでは負けていない。

 しかし、ユーリはまたガードごと吹き飛ばされて、今度は体勢を整えることもできないまま、来栖選手に頭をつかまれてしまった。


 膝蹴り。

 クリンチアッパー。

 得意技の、オンパレードだ。

 そして、半ば強引に押し倒すようにして、来栖選手がユーリをマットに組み伏せた。


「上を取られた。……万事休すだ」


 レオポン選手が、口惜しそうにうめく。

 立ち技でダメージをくらい、体勢不利のままグラウンドに引きずりこまれ、得意のグラウンドテクニックを披露する間もなく、敗北を喫する。かつてのユーリの負けパターンの再現だった。


 体勢は、来栖選手がユーリの右手側から直角に胸を合わせた、サイドポジションだ。

 ユーリはエビのように背筋でマットをずり始めたが、来栖選手もぴったりとその動きについていく。


 重心が、しっかりと乗っている。

 これでは、どう頑張ってもひっくり返すことはできないだろう。

 可能性があるとしたら、来栖選手が大きく体勢を動かしたときだけだ。


 しかし、来栖選手は右手の前腕でユーリの左上腕を押さえこみつつ、胸に胸を合わせると、少しだけ上体を起こして、左手でパウンドをふるい始めた。

 もちろんユーリも右腕でガードするが、垂直に鉄槌を落としたり、横合いから側頭部を狙ったり、と来栖選手も的確に打ちわけて、少しずつ、真綿で首を絞めるように、ユーリから気力と体力を奪っていく。

 時間は、まだ三分以上も残っていた。


「堅実だな。堅実すぎて、ぐうの音も出ねえよ」


 険悪な声で、レオポン選手が言い捨てる。

 絶体絶命の窮状に、会場では「ユーリ!」のコールが巻き起こっていた。


 そんな声援はどこ吹く風で、来栖選手は黙々とパウンドを落としていく。

 かつてのユーリに勝ってきた選手たちのように、短期決戦を狙ったがむしゃらなパウンドではない。コツコツと少しずつダメージを重ねていく、いやらしいパウンドだ。


 ユーリは腰をはねあげて、少しでも来栖選手の体勢を崩そうと苦心しながら、右手の平を、相手の顔にあてがった。

 まだ馬鹿力は健在か。来栖選手の身体が、じわじわとユーリから遠ざかっていく。


 これなら、パウンドもくらわない。しかし、そんなに右腕をめいっぱいにのばしてしまっては、関節技をかけてくれと言っているようなものだ。

 いや───もしかしたら、それが狙いなのかもしれない。腕ひしぎなり肩固めなり、とにかく来栖選手が関節技を仕掛けてきてくれれば、とりあえず抑え込みからは解放される。このまま殴り続けられるぐらいなら、そうして次の展開に移行させたほうが、まだユーリにも逆転の目はあった。


 しかし、来栖選手も同じことを思ったのか、ユーリの右手首を捕らえて顔面から引きはがすと、今度は右腕で喉咽もとを圧迫しはじめる。

 これは苦しい。スタミナ切れを起こしているユーリには、地獄の苦しみだろう。


 ユーリは何とかその圧迫をはね返し、来栖選手はまた小刻みにパウンドを落とし始める。

 と───突然、ドンッと来栖選手の身体が揺れた。

 ユーリが左膝を振り上げて、来栖選手の背中に膝蹴りをくらわしたのだ。

 腰が切れていないので、苦しまぎれの一発である。


 それでも、ユーリの馬鹿力だ。腰の悪い来栖選手は同じ攻撃をくらうのを嫌ってか、またユーリの上にべったりと身を伏せた。

 そうしてまた、ぐいぐいとユーリの咽喉を圧迫し始める。


 それを嫌って、ユーリがはね返す。

 それでもしつこく、腕をもぐりこませる。

 これではただの消耗戦だ。レフェリーも、ブレイクするかどうかを迷うように、ふたりの頭上で両腕をかまえる。


 すると、来栖選手はすかさず上体を起こし、またユーリの顔面にパウンドを落とし始めた。

 ユーリは、手をつっぱる。

 それをはねのけて、またパウンド。

 ユーリの口の端が切れて、マットに小さく、赤いしずくが飛び散った。

 悲鳴のような、「ユーリ!」のコール。


 けっきょく来栖選手は執拗にユーリを殴り続けるばかりで、まったくフィニッシュに持ちこもうとはせず、大きな動きも見せないまま、第二ラウンド終了のゴングを聞くことになった。


(ユーリさん……)


 青コーナーにて、ユーリは膝の上に両腕を乗せ、がっくりとうなだれてしまっていた。


 丸めた背中が、上下している。まるで完走直後のマラソンランナーみたいだ。

 そのうなだれた頭に耳を寄せるようにしてコーチのジョンが何かアドヴァイスを送っているが、聞こえているのかいないのか、面を上げようともしない。

 右上腕の内出血は、さっきのインターバルより倍ほどもひどくなってしまっている。


「来栖選手を相手に、よく頑張ってるよ。……くそっ! 削りたいだけ削りやがって! ユーリちゃんの体力を根こそぎ奪ってから、完璧な形で仕留めるつもりかよ」


「ま、そういう女だからこそ、十年間もトップに君臨できたんだろうよ。オレだったら途中で焦れったくなって、勝負を決めたくなっちまうからなあ」


 レオポン選手とサイトーが、小声で話している。

 それに相槌を打つ気力もなく、瓜子はただ、モニター上のユーリを見守った。

 そんな中、『セコンドアウト』のアナウンスが響く。


 ユーリはゆらりと立ち上がり、力なくうつむいたまま、ジョンからマウスピースを受け取った。

 その頭が、何かを振り払うように大きく振られてから、ようやく正面に向けられる。

 いや、正面ではない。ユーリはそのまま白い喉咽をのけぞらして、大きく天井を仰ぎ始めた。


 そうして閉ざされていたまぶたを開き、大きく息を吸い込んでから───

 ユーリは、ふっと、子どものように微笑んだ。


(ユーリ……さん?)


 瓜子は思わず、パイプ椅子から身を乗り出す。

 ユーリは真面目くさった顔つきで正面に向きなおると、マウスピースをかぷりとくわえた。


「ファイト!」


 最終ラウンドが始まった。

 来栖選手は変わらぬ構えで前に進み、いっぽうのユーリは構えを変えて、それと相対した。


 ムエタイ流のアップライトではなく、普通の構えだ。

 軽く握った拳を顎の高さに構えて、左腕と左足が前。ほんの少しだけ前傾体勢で、腰を若干落としている。重心は、やや前側にかかっているだろう。


 打撃にもタックルにも入りやすく、そして、防ぎやすい。MMAにおいてはもっともポピュラーでスタンダードな、何のへんてつもないファイティングポーズだった。


 そうか、と瓜子は内心でひとりごちる。

 スピードで劣っていないなら、アップライトにこだわる必要もない。

 今年の春に沙羅選手と対戦するまで、ユーリはそのスタイルで闘い続けてきたのだから。


 意外に元気そうなユーリの姿に少し警戒心をそそられたのか、来栖選手は間合いの外で足を止めてしまう。

 その懐に、ユーリは実にあっさりと踏みこんだ。


 左右のワンツー。

 スイッチして、左のミドルキック。

 基本に忠実な、コンビネーションだ。

 すべてはガードされてしまったが、最後の左ミドルは、来栖選手の右腕の骨のきしむ音が聞こえそうなぐらい、力強かった。


 来栖選手は、さらに下がる。

 ユーリは、さらに前に出る。


 左のジャブを二発。

 右のローキック。

 まだまだ余力のうかがえる来栖選手は、その攻撃もしっかりとガードする。

 しかし、ユーリの動きは止まらない。


 左のショートフックから、右のアッパー。

 スイッチして、左のミドルキック。

 ショートフックはガードされ、アッパーは完全に空を切ってしまう。

 が、左ミドルは、また来栖選手の右上腕に深くめりこんだ。


 左ジャブ。右フック。左ジャブ。右のロー。

 なかなか当たらない。

 だが、さっきからユーリばかりが攻撃を仕掛けていた。

 来栖選手は、下がり続けているのだ。


 教本に載せたいぐらい堅実で、フォームのしっかりとしたユーリのコンビネーション。その威力に圧されて、来栖選手が下がっている。瓜子には、そんな風に見えてしまった。


 ユーリの、ワンツー。

 それに合わせて、ついに来栖選手が動こうとする。

 胴タックルだ。

 しかし、まるでそれを待ち受けていたかのように、ユーリは右膝を振り上げていた。


 どん、と重い音をたてて、ユーリの膝蹴りが来栖選手の胸もとにぶち当たる。

 結果、来栖選手はまた下がることになった。

 じわじわと、歓声が大きくなっていく。


 瓜子は胸のつまるような思いで、ユーリの一挙手一投足を見守っていた。

 ユーリの繰り出す攻撃のすべてに、瓜子ははっきりと見覚えがあった。

 それらはすべて、ユーリがふだんからサンドバッグやキックミットを相手に稽古を重ねている、基本のコンビネーションの数々だった。


 牽制のジャブ一発にも、しっかりと力がこもってしまっている。それゆえに、スピードは遅く、すべてがガードされてしまっている。流れに乗って、臨機応変に――などという器用なことのできない、ユーリの愚直さゆえだ。


 しかし、その愚直さから生みだされる破壊力が、今、来栖選手を下がらせている。

 ユーリは本当に、自分の持てるものすべてを来栖選手にぶつける気なのだ。


 左のジャブを二発。

 右のローキック。

 左右のワンツー。

 奥足への、左ローキック。

 左のジャブを二発。

 右のローキック。


 来栖選手が、足を止めた。

 真っ向から、打ち合うつもりだ。


 そこに、ユーリの右ストレートが飛ぶ。

 それをガードし、来栖選手が足を踏みこもうとする。


 それに合わせて、ユーリはレバーブローを繰り出した。

 このラウンドで初めて見せる、ボディブローだ。

 身体をひねり、全体重を乗せて、来栖選手の右脇腹に左拳を叩きこむ。


 そして、ほんの一瞬、来栖選手の動きが止まったとき――

 ユーリの右足が、ふわりと舞い上がった。


 絵に描いたように美しい、右のハイキック。

 これもまた、基本のコンビネーションだ。


 ユーリの右足が、うっとりと目を奪われてしまいそうになるほど優美な軌跡を描きながら、来栖選手の左こめかみに襲いかかる。


 来栖選手は左腕で頭部をガードし、そのガードごと、左のこめかみを撃ちぬかれた。

 レオポン選手ら男子選手をもぐらつかせる、ユーリ渾身のハイキックだ。


 来栖選手の身体がぐらりと傾き、あわやダウンというところで、かろうじて踏みとどまる。


 もしかしたら――と、後日になって、瓜子はそう考えた。

 もしかしたら、そのとき来栖選手がダウンを喫して、一から仕切り直そうとしていたら、その後の展開はまったく変わっていたかもしれない、と。


 しかし、女帝としての矜持か、あるいはファイターとしての本能か、来栖選手は、踏みとどまってしまった。

 そのがっしりとした胴体に、ユーリがタックルをぶちかます。

 きっと意識も完全ではなかったのだろう。来栖選手はあっさりと背中から倒れこみ、あっさりと上を取られてしまった。


 それでもすかさず腰を切りながら、ユーリの身体を蹴りで突き放そうとする。

 そうはさせじと、ユーリは来栖選手の上半身にのしかかる。

 まずは、重心を安定させることだ。ユーリが完全に抑えこんでしまえば、いかに来栖選手といえども、そう簡単には返せない。


 しかし、女帝はやはり、女帝だった。

 左手でユーリの右手首をつかみ、右腕をユーリの右脇に差しこむと、ものすごいパワーで上体をのけぞらし、まだ重心の安定していなかったユーリの身体を、まるで寝転がったまま一本背負いでもかけるような格好で、ひっくり返してしまったのである。


 ユーリが上半身にのしかかってきた、その体重移動を利用したのだろうが、まるで手品のような鮮やかさだった。

 一瞬のうちに上下が入れ替わり。今度はガードポジションながらも、ユーリが下になってしまう。


 ここで来栖選手が立ち上がれば、ユーリに反撃の余力は残っていなかったかもしれない。

 だが、来栖選手にもまだハイキックのダメージが残っていたのだろう。来栖選手は胴体を両足にはさまれたまま、ユーリの上体にのしかかり、呼吸を整えたいかのように、動きを停止させた。


 その首を、ユーリが下から首相撲でも狙うかのごとく、両腕で抱えこむ。

 どちらも休みたいのだろう、と誰もが思っていた。瓜子でさえ、そう思っていた。おたがいにパウンドされないように、上体を密着させているのだろう、と。

 しかし、そうではなかったのだった。


 来栖選手の胴体をはさみこんでいたユーリの右足が、するすると上方にのぼってくる。

 その膝が、深く曲がって、背後から来栖選手の首にからみつく。その足首を、ユーリの左手がキャッチする。右足と左腕で、来栖選手の首を左腕ごとロックするような、実に奇妙な形だった。


 三角絞めではない。柔術の、ラバーガードという体勢だ。

 長い手足と柔軟性がなければ、なかなかこのポジションを完成させることはできない。


 さらにユーリは、奇妙な動きを見せた。


 鋭角に曲がった自分の右膝を右腕で抱えこみ、左手でつかんだ右足首を、来栖選手の喉咽の下にもぐりこませたのだ。

 そうして、右膝をぐいっとおしこむと、ユーリの身体がするりと来栖選手の下からすりぬけて、来栖選手の身体は顔面からマットに崩れ落ちた。


 しかし、来栖選手の左腕はユーリの股の間に残っている。

 腹ばいになった来栖選手の左腕を、ユーリが両足のロックだけでからめ取っている格好だ。

 やはりブラジリアン柔術の、オモプラッタという技だった。


 鈎状に曲がった来栖選手の左腕が、ユーリの右ももにひっかかってしまっている。あれでは力の入れようがないだろう。さらにユーリが上体を起こし、来栖選手の背中にのしかかるような体勢をとると、左肩の関節が、不自然な形に折れ曲がった。


 凡百の選手であったならば、これでタップアウトしていたに違いない。

 しかし、来栖選手は両足でマットを蹴り、強引に前転することで、ユーリのサブミッションから脱出した。


 だが、それもユーリの布石に過ぎなかった。

 いや、ユーリはユーリで肉体に刻みつけられた記憶に従って動いているだけなのかもしれない。それぐらい、ユーリの動きはなめらかで迷いがなかった。


 来栖選手の動きに合わせて身体を半回転させたユーリは、そのまま右足を相手の顔に乗せ、左足を胸の上に乗せ、股にはさんでいた左腕の手首を、両手でしっかりとつかみ取っていた。

 MMAにおいてはもっともシンプルで、スタンダードで、基本的な技───腕ひしぎ十字固めだ。


 来栖選手は両腕をロックして、力まかせに身を起こす。

 すかさずユーリは足を開き、今度は首ごと左腕をからめ取る。

 今度こそ三角絞めだ。


  来栖選手は左肘を突っ張り、ユーリのロックが完成される前に、右腕を強引にねじ込んだ。

 そのままユーリのほうに体重をあびせて、技から逃れようとする。


 その勢いに押される格好で、ユーリは再び足を開いた。

 そして───来栖選手の左腕をたぐりながら、しゅるんと後方に回り込んでしまった。


 そこが、終着点だった。

 来栖選手はマットに倒れ込み、ユーリは背後からその咽喉もとに右腕をねじ入れる。


 獣のように吠えながら、来栖選手は立ち上がった。

 ユーリを背中に乗せたまま、猛然と身を起こしてしまったのだ。

 しかしユーリは両足を来栖選手の胴体に巻きつけていたため、下に落ちることもなかった。

 その腕も、チョークの形でしっかりと来栖選手の首を捕らえている。


 来栖選手は、勢いをつけて後方に倒れ込んだ。

 ユーリの身体が、来栖選手の背中とマットでサンドイッチにされる。

 しかしユーリは、その腕を離そうとしなかった。


 来栖選手は、逆のくの字に身体をのけぞらせ───

 そして、殴るような勢いでユーリの腕をタップした。



 試合終了のゴングが鳴り響き、それと同時に、瓜子はものすごい力で何者かに抱きすくめられていた。


「すげえっ! 勝っちまった! 完勝だ! 文句なしの、一本勝ちだよ!」


 ごつごつとした、腕の感触。頬を圧迫する、固い胸板。瓜子の頭をひっかき回す、力強い指の動き。


「なあ? やったな、瓜子ちゃん! ユーリちゃんが、新しい女王だぜ!」


「……手前、ドサクサまぎれにセクハラかましてんじゃねえよっ!」


 サイトーの怒鳴り声。

 一瞬遅れて、サンドバッグでも叩くような鈍い音色が響き、瓜子の身体が解放された。


「いってえなあ。セクハラなんかじゃないッスよ。純粋に喜びをわかちあっただけじゃないッスか。……な、瓜子ちゃん?」


 ミドルキックでもくらったのか、痛そうに腰をさすりながら、レオポン選手が笑いかけてくる。

 その顔に、瓜子は無言で、平手打ちを叩きつけた。

 レオポン選手は「痛えっ」と大声でわめき、水を打ったように静まりかえっていた室内にも、それで笑いのさざ波がひろがり始めた。


 モニターの中では、ユーリも笑っている。

 うずくまったまま動かない来栖選手のかたわらで、大の字にひっくり返ったまま、ユーリは満腹になった子猫のような顔つきで笑っていた。

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