02 見果てぬ思い

「ファイト!」


 サキがゆっくりと立ち上がり、レフェリーが再開の声をあげる。


 顔と頭が、熱かった。

 何発ものパウンドをくらってしまったせいか、それとも気持ちの問題なのか、たぶんその両方なのだろう。


「猪狩! 二分経過! 残り三分だ!」


 サイトーの声が、背後から聞こえてくる。

 きっと今までもアドヴァイスをくれていたのだろう。サキの下でもがいている間、セコンドの声も、大歓声も、瓜子には何ひとつ聞こえていなかった。


 呼吸が荒い。二分近くもグラウンドで下になっていたのか。ダメージなどはまったく感じていなかったが、昂ぶる気持ちとは裏腹に、腕も足も重かった。


 サキは、変わらぬ冷静さでファイティングポーズをとっている。

 ただでさえサウスポーで闘いにくいのに、顔と右足以外はほとんど真横を向いてしまっているために、身体の正中線が見えない。

 かといって、いきなり顔面を狙うような攻撃は、長い右足のサイドキックやローキックで阻まれてしまうだろう。

 困難だろう何だろうと、まずは自分の間合いまで踏みこむしかなかった。


(定石通り、まずはローからか)


 はやる気持ちをおさえながら、瓜子は再びサキの背中側に回りこもうとした。

 その瞬間、今度は左のミドルキックが襲いかかってきた。


(え?)


 反射的にボディをガードする。

 鞭のようにしなったサキの左足が、瓜子の右の上腕を打った。


 前に出した右足による、牽制の攻撃ではない。

 奥に引いた左足による、ダメージを与えるための攻撃だ。

 カウンタータイプであるサキのほうから、いきなりこのように重い攻撃を仕掛けてくることは、珍しい。


 さらに、出鼻をくじかれた瓜子の鼻先に、今度は右のジャブが飛んできた。

 一発。二発。軽いが、速い。瓜子はかろうじて、手の平でパーリングする。


 そして、空を裂くような左ストレート。

 普通の構えよりも左肩を後方に引いているというのに、どうしてこんなにスピードフルなのか。

 右の頬に、けっこう深く、くらってしまった。


「馬鹿野郎! 足をつかえ! 逃げろ、猪狩!」


 逃げる?

 サイトーの言葉を理解するより早く、今度は右ローで左モモを蹴られた。

 そして、右のジャブ。回転が速い。体勢を整えるヒマを与えてもらえない。


 とにかく距離を、と後方に下がろうとすると、また左ストレートが追ってきた。

 それをぎりぎりでかわすと、今度は右のショートフックだ。

 何とか左腕でブロックしたが、次の瞬間には右ローでまた足を蹴られている。

 そうかと思えば右ジャブで顔を叩かれ、瓜子の処理能力が完全にパンクしたとき、右の脇腹に重い衝撃が走り抜けた。


 奥足からのミドルキックだ。

 顔と足もとに意識をそらされて、レバーにまともにくらってしまった。

 こらえきれずに、瓜子は膝をついてしまう。


「ダウン!」


 一方的だった。

 瓜子の記憶に間違いがなければ、自分はまだ試合開始から一発のパンチも出していない。出す前に、先手を取られてしまっているのだ。


 これほどの、差があるのか。

 カウンターのスタイルを放棄して、サキが自分から仕掛けてくるだけで、瓜子には手も足も出ないというのか。


 しかし、どうしてカウンターのスタイルを放棄する必要があるのだろう。

 サキにとっては瓜子など、得意のスタイルで挑むほどの相手でもない、ということなのだろうか。

 それとも、完膚なきまでに瓜子を叩き潰してやろう、ということなのだろうか。

 お前と語り合うことなど何もない。三下はリングに這いつくばっていろ───と、サキは言外のうちに瓜子を拒絶しているのだろうか。


 瓜子は唇をかみ、カウントシックスで立ち上がった。


「……やれるか?」


 レフェリーが、瓜子の顔をのぞきこんでくる。

 瓜子はうなずき、ファイティングポーズをとりながら、レフェリーごしにサキの姿をにらみつけた。


「……ファイト!」


 掛け声と同時に、頭を沈めてダッシュする。

 その腹を、サイドキックで蹴りぬかれた。


 自分の突進力がそのまま腹筋をぶちぬいて、瓜子の内臓をシェイクする。

 呼吸が止まり、嘔吐しそうになった。


 そこに、サキの右フックが飛んでくる。

 頭部を守る。足がふらつく。ガードはできたのに、ロープにもたれかかってしまう。


 右のロー。左のフック。手をのばせば届くところにサキがいるのに、身体が動かない。左のロー。右のフック。左ストレート。いいように殴られ、蹴られてしまっている。一発で意識を飛ばされるような重さはないが、骨身を削られるような鋭さに、瓜子はどんどんと消耗させられていく。


 そうして最後は首裏をつかまれて、鋭利な左の膝蹴りを叩きこまれることになった。

 再びレバーを直撃だ。

 最後に残った気力をこなごなに打ち砕くような、それは痛恨の一撃だった。


「ぐ……え……」


 うめきながら、瓜子はマットに崩れ落ち、「ダウン!」の声を遠くに聞いた。

 気力や、体力や、闘争心が、マットについた手足から流れ落ちていくのがわかる。


 疲労と痛みで、頭が朦朧としてしまっている。呼吸が苦しい。これ以上立てるわけがない。立つべき理由すらわからない。このまま大の字にひっくり返ってしまえば、楽になれるのだ。そんな誘惑にあらがえる人間が、この世に存在するだろうか。


(サキさんに、勝てるはずがなかったんだ……)


 そんなことは、最初からわかりきっていた。

 ライト級王者にして、サムライキック。瓜子が魅了され、心酔した、どんなキックボクサーよりも華麗なハイキックを持つMMAファイター。そんなサキに、数ヶ月ばかり総合の稽古を積んだ瓜子が、勝てるはずもない───いや、たとえキックのルールだったところで、今の瓜子には勝つすべなどなかっただろう。


 そんなことは、わかりきっていたのだ。

 瓜子は膝立ちになり、かすむ視界の端に見えたロープに手をかけた。

 カウントは、すでにファイブまで進んでいる。


(勝てるはずなんて、ないけれど……)


 それでも瓜子は、サキに会いたかった。

 ようやく会えたのに、これで終わってしまうなんて、そんなことには耐えられない。

 がくがくと震え出す右膝に力をこめ、瓜子はカウントナインで立ち上がった。


「……やれるか?」


 もう一度、レフェリーの肩ごしにサキを見る。

 サキは無表情に、ニュートラルコーナーで立ちつくしている。


 まだだ。

 まだ、終われない。

 迷うように数秒黙りこんでから、レフェリーはすっと瓜子から遠ざかった。


「……ファイト!」


 瓜子は、猛然と突進した。

 足がもつれたが、関係ない。


 さきほどと同じ軌道で、サイドキックが出迎えてくれる。

 それを払いのけ、サキの背中側に足を踏みこむ。


 まだ遠い。

 まだ遠いが、かまわず瓜子は、右フックを振り回した。

 もちろんそんな攻撃が当たるはずもなく、代わりに右ジャブをもらってしまう。


 サキが、遠ざかろうとしている。

 嫌だ。

 もっとサキのそばにいたい。

 鉛のたばでもくくりつけられたように重い両腕を、瓜子はぶんぶんと横殴りに振り回した。


 サイトーが何か叫んでいるようだが、うまく聞こえない。

 右のジャブが、突き放すように、瓜子の顔を打ってくる。


 それでもかまわずに足を踏みこむと、左の腿にローがめりこむ。

 足が痺れる。さっきからローはほとんどカットできていない。今にも膝をついてしまいそうだ。しかし、あと一回のダウンで試合は終わってしまう。それだけは嫌だった。


 遠い顔には見切りをつけ、ボディフックを叩きつける。

 しかし、サキはするりとそれをかわしてしまう。


 まだ間合いが遠いのだ。

 瓜子は、べた足で前進した。


 右のストレート。

 当たらない。

 左のフック。

 当たらない。


 カウンターで、ジャブをもらう。

 意識が、たまに、白濁する。


 肺が痛い。酸素が足りない。喉咽が灼けつくように熱い。

 セコンドの声も、歓声も聞こえない。

 それでも瓜子は、逃げるサキの姿を追った。

 サキは、どんな顔をしているのだろう。その表情すら、かすんでしまってよく見えない。


(サキさん……)


 渾身の、右ストレート。

 当たらない。

 左膝がガクリと砕けて、パンチを放った体勢のまま、宙を泳いでしまう。


 サキの姿が、視界から消える。

 今度はサキが瓜子の背中方向に逃げてしまったのだ。


(行かないで……)


 笑う左膝に力をこめ、のばした右腕を、そのまま背中の方向に───サキがいるはずの場所へと、真横に振り回す。

 バックハンドブローなどと呼ぶのもためらわれるような、無茶苦茶な攻撃だ。


 しかし、重い感触が、瓜子の右拳に走りぬけた。

 こちらの手の甲が割れてしまったのではないか、というぐらいの重い衝撃が。


(……サキさん!)


 その拳の先に、サキがいた。

 顔を左側にのけぞらせて、左の拳を振り上げながら、サキが後方に吹っ飛んでいた。

 瓜子の無茶苦茶なバックハンドブローが、サキの右頬を撃ち抜いたのだ。


(サキさん!)


 遠心力に身体を振り回されつつ、瓜子は取りすがるようにサキを追う。

 追いながら、無意識のうちに右拳を振りかぶる。

 棒のように倒れかかっていたサキは、すんでのところで足を踏みしめ、火のように燃える切れ長の目で、瓜子をにらみ返してきた。


 サキの左足が、瓜子の視界から消える。


(うわ……)


 ハイキックだ。

 ほとんど無意識のうちに、瓜子は振りかぶっていた右腕で頭を抱えこみながら、上体を折り曲げる。

 瓜子の髪の毛を数本ひきちぎって、サキの爪先が頭上を走りぬけていく。

 飛翔する燕の姿が、一瞬だけ視界をよぎっていった。


(……燕返し)


 そしてここから軌道を変えて、左かかとが振り下ろされてくる。

 これさえしのげば、瓜子に逆転の機会がめぐってくるだろう。瞬間的にそんなことを考えながら、瓜子は左腕のガードも上げた。


 しかし、前腕と上腕の間に空いた、わずか数センチの間隙を狙いすまして、サキの左かかとが瓜子の右のこめかみに直撃した。


 後のことは、一切記憶に残っていない。

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