3rd Bout ~We Are Atomic Girls~

Act.1 SHOOT & CUTE・VOL 5

01 再会

 九月の第三日曜日。

 多目的イベントホール、ミュゼ有明。

 その日、その場所において、《アトミック・ガールズ》無差別級王座決定トーナメント予選大会が、ついに開催されることになった。

 観客動員数は、千六百五十七名。立見席まで完売の、堂々たる満員札止めである。


 アマチュア選手によるプレマッチが二試合、ライト級とバンタム級の試合が計五試合終了したのち、リングアナウンサーの宣誓により、いよいよ予選大会の開始が告げられた。


『青コーナーより、猪狩瓜子選手の入場です!』


 瓜子の大好きなインディーズバンドのテーマソングが、会場内に響き渡る。

 その荒々しいエイトビートにステップを合わせながら、瓜子は花道に出た。


 歓声が、快く瓜子を迎えてくれる。

 もっとも、瓜子の試合など前菜にすぎないだろう。何せこれが《アトミック・ガールズ》におけるデビュー二戦目なのだ。どうしてそんな無名の新人選手が、並み居る強豪選手にまじって無差別級のトーナメントにエントリーしたのか、首をひねっている者だって多いに違いない。


 ましてや、瓜子は軽量のライト級である。十キロも二十キロも重い重量級の選手たちを相手に、たいした活躍を望めるわけでもない。

 だからきっと、これはサキを本選に進ませるためのマッチメイクなのだろう、と瓜子は考えている。


 同じライト級であっても、サキは《アトミック・ガールズ》でも屈指のKO率を誇るファイターだ。サキであれば、無差別級の選手やベリーニャ選手が相手でもそうそうぶざまな姿をさらすことにはならないと、《アトミック・ガールズ》の首脳陣たちもそのように考えたのではないだろうか? そういう思惑でもない限り、同門であるサキと瓜子が予選で潰し合うような事態にはなかなか至らないはずだ。


 しかし、そのようなことは関係ない。

 立松コーチと、サイトーと、雑用係の若手選手を引き連れて、瓜子はことさらゆっくりと、リングに向かって歩を進めた。


 暗い場内。乱舞する光。五体に響く入場曲。

 若手選手が開いてくれたロープの間をくぐり、リングに立つ。

 歓声。拍手。

 瓜子は、ガウン代わりのパーカーを脱ぎ捨てて、リングの上でもステップを踏んだ。


 足が軽い。

 拳も軽い。

 ほどよい緊張感が、全身を包みこんでいる。

 おそらくは選手生活で最強の対戦相手を迎えるにあたって、瓜子は気後れのひとつもしていなかった。


 むしろ、激しい昂揚感が、胸の奥に渦巻いているのを感じる。

 瓜子は、この日を二ヶ月間も待ち焦がれていたのだ。

 二ヶ月前───サキと決別した、あの蒸し暑い七月の夜から。


 暗い天井に目を向けると、そこに夏の星空がひろがっているような錯覚に陥ってしまう。

 止まってしまった時間を再び動かすため、瓜子はここまでやってきたのだった。


 入場曲がフェイドアウトしていき、暗がりの中で、リングアナウンサーがマイクをかまえなおす。


『赤コーナーより、サキ選手の入場です!』


 かき鳴らされる、三味線の音。

 激しいヘヴィメタルの曲を和楽器でアレンジした、前衛インストゥルメンタル楽団の楽曲。


 サキの入場曲だ。

 瓜子は虚空にワンツーを放ちながら、赤コーナー側の入場口を見守った。

 やがて扉が音もなく開かれて、二ヶ月ぶりに、サキが姿を現した。


                ◇


『これより《アトミック・ガールズ》初代無差別級王座決定トーナメント予選大会、第一試合、五分三ラウンドをとり行います!』


 リングの上には光が満ち、リングアナウンサーの声が響いた。


『青コーナー。百五十二センチ。五十三・二キログラム。新宿プレスマン道場所属。《G・フォース》フライ級第一位……猪狩、瓜子!』


 ほどよい歓声に身をひたしながら、瓜子は小さく右腕を上げる。


 大丈夫だ。

 身体は、軽い。


『赤コーナー。百六十二センチ。五十・八キログラム。新宿プレスマン道場所属。ライト級チャンピオン……サキ!』


 瓜子のときよりも大きな歓声があがったが、サキは棒立ちでそれを黙殺していた。

 純白の着流しを脱ぎ捨てると、渋い和柄の刺繍がほどこされた白地のタンクトップとハーフパンツに包まれた、細身の身体が現れる。


 細いが、しなやかな身体つきだ。

 ウェイトも二ヶ月前から変わっていないし、赤星道場で稽古も積んでいたはずだから、コンディションも悪くはないのだろう。

 ただ、もともとシャープな面の頬だけが、以前よりも少し痩せているように見えてしまった。


「両者、前へ」


 レフェリーに呼ばれて、リングの中央に進み出る。

 サキとともに歩を進めてきたのは、プレスマンではなく赤星道場の人間だ。

 ただし、コーチやトレーナーの類いではないのだろう。まだ高校生ぐらいにしか見えない、ジャージ姿の女の子である。


 プレスマンの人間がセコンドにつくことを、サキの側が拒否したのだ、という。

 立松コーチなどはそれで怒り狂っていたらしいが、他のコーチ陣はノーコメントだった。

 ただ、サイトーだけは無言のまま、立松コーチ以上に物騒な目つきをしていたように記憶している。


「……肘打ちは禁止。頭突きは禁止。髪や着衣をつかむのは禁止。後頭部、首裏、脊髄への攻撃は禁止。グラウンド状態における頭部・顔面へのキックや膝蹴りは禁止……」


 レフェリーの声を、サキは無表情に聞いていた。

 顔は正面を向いているのに、その瞳は瓜子を見ていない。


 火のように真っ赤な、ショートヘア。

 切れ長の目。高い鼻。薄い唇。

 引き締まった腕。ほっそりとした腰。すらりと長い足。

 左のすねからふくらはぎにまで刻まれた、飛翔する燕のタトゥー。


 サキだ。

 二ヶ月ぶりに見る、サキの姿である。


 サキは、なんにも変わっていなかった。

 ほんの少し、髪がのびたぐらいだろう。

 ただ、瓜子を見ようとはしてくれない。


(……いいんだ)


 だからこそ、瓜子は今この場に立っているのである。

 ふつふつと、熱い感情が胸の奥からせりあがってきた。

 喜びとも、怒りとも、悲しみともつかない、激情の塊───これをぶつけるためにこそ、瓜子はこの日を待ち望んでいたのだろう。

 サキと闘える、サキとふれあえる、この日を。


「注意2回で減点、悪質な反則は即時で失格負けとなるので、両者、クリーンなファイトを心がけるように。……握手を」


 レフェリーの合図とともに、瓜子はグローブに包まれた手をさしのべる。

 当たり前のようにそれを無視して、サキは赤コーナー側に引き下がった。


「ファイト!」


 ゴングが鳴る。

 瓜子は拳をかまえながらステップを踏み、サキもいつものスタイルでそれに応じてきた。

 身体の右側を対戦相手に向けた、テコンドーともカンフーともつかない、一種独特のサウスポースタイルである。


 まずはこの鉄壁のディフェンスを、どのように切り崩していったものか。

 身長差は十センチもあり、なおかつサキは腕も足も長い。その長いリーチとコンパスを活かした右ジャブと右のサイドキック、および右のローキックで相手との距離を取り、無理に踏み込む相手には、カウンターの膝蹴りか左のストレート。凡百の選手であれば、サキに近づくこともできないまま、マットに沈むことになる。


 ユーリに誘い受けの戦法を伝授したのも、やはり自身が卓越したカウンタータイプであったゆえなのだろう。

 だが、パワー型のユーリに対して、サキはスピード型だ。


 瓜子と同じくパンチ主体の突進タイプであるサイトーも、スパーではサキに手こずらされている。パワーもスピードもテクニックも瓜子以上であるサイトーでさえそれなのだから、瓜子のパンチなど一発だって届く気はしなかった。


(だけど、自分にはこれしかない)


 瓜子は何とかサキの背中側に回りこもうとステップを踏みながら、まずは左ジャブを当ててみようと前に出た。

 その瞬間、サキの姿が視界から消え、瓜子は腹に衝撃をくらっていた。


 何が起きたのか、わからない。

 ただ、気づいたときには左足をすくいあげられて、瓜子は背中からマットに倒れこんでしまっていた。


 片足タックルで、テイクダウンをとられたのだ。

 そのように知覚したときには、もう足をまたがれてマウントポジションを取られてしまっていた。


 瓜子の腹にまたがったサキが、無表情に拳を振り上げる。

 あわてて頭部をガードした瓜子の両腕の隙間から、鋭いパウンドが叩きつけられた。


 その一撃で、目の奥に火花が散る。

 瓜子はさらにガードを固めたが、そうすると今度はフック気味のパウンドでこめかみを叩かれた。


 一度ではない。二度、三度、と、左右から拳をふるわれる。

 それを嫌がってこめかみを守ろうとすると、狙いすましたように顔面を殴られた。


 サキの手首を捕らえようと腕をのばしても、小憎たらしい拳はひらひらと宙をさまよい、一瞬のスキを突いて、急降下してくる。まるで猛禽類に狙われた野ウサギのような心境だ。


(……まずい)


 パウンドは、危険な攻撃である。

 寝転がった相手を殴りつけるのだから、当然だ。


 十数年前、バーリトゥードというルールがブラジリアン柔術とともに輸入されるまで、こんな危険な攻撃を許されている競技は日本に存在しなかった。すでに総合格闘技のムーブメントは波に乗りかけていたが、それでもグラウンド状態における打撃攻撃などはそのほとんどが禁止されていたのである。それが許されるようになったのは、パウンドを防御する柔術のテクニックが日本に定着し、いちおうの安全性が確保できるようになったからだ。


 しかし、危険な攻撃であるということに変わりはない。

 現に、《アトミック・ガールズ》でも数年前までは顔面へのパウンドを許されていなかった。


 つまり、レフェリーの裁定も厳しい。

 あまり連続でパウンドをくらい続けていると、男子の試合よりもはるかに早い段階でレフェリーストップをかけられてしまう。


 きっと、ユーリが長い期間、勝ち星に恵まれることがなかったのも、この安全性を重視したレフェリングが一因なのだろう。男子選手のようにグロッキー状態に陥るまでストップされないシビアなルールであったら、参加選手の窓口もひどくせばまってしまうし、また、世間にも危険な競技であると認知され、《アトミック・ガールズ》の存続自体が難しかったのかもしれない。


 しかし、そんな常識論などはさておき、余力のあるうちにレフェリーストップなどをかけられてしまっては、たまらなかった。


 瓜子はまだ、何もしていない。

 サキに、何ひとつ伝えられていない。

 これで試合が終わってしまったら、何のためにこんなところまでやってきたのかわからなくなってしまう。


(くそ……!)


 重くはないが異様に鋭いパウンドをかいくぐり、瓜子はサキのほっそりとした胴に腕を巻きつけた。

 密着さえしていれば、殴られない。

 膠着状態が続けば、ブレイクを命じられもするだろう。


 しかし、そんな瓜子を嘲笑うかのように、サキの鋭利な肘先がぐりぐりと右頬にねじこまれてきた。

 瓜子の密着を、ひきはがそうとしているのだ。

 頬骨がきしむ。鼻も潰されてしまいそうだ。


 サキは、瓜子を拒絶していた。

 サキとの距離がじわじわと開いていき、適度なスペースが空いたところで、また左拳が横合いから飛んでくる。

 瓜子は手を放し、再びマットに背中をつけた。


(……本当にこれで終わらせる気なのか?)


 自分からは絶対にグラウンドには引きこまない、生粋のストライカーであるはずのサキが、序盤から不意打ちのタックルを仕掛けて、容赦なく殴りつけてくる。それはまるで、これが最後の希望とばかりに無差別級トーナメントにエントリーした瓜子を、全身全霊で拒絶するかのような仕打ちに感じられてしまった。


(ふざけんなよ……ちくしょうっ!)


 苦い怒りに衝き動かされ、瓜子は下から右拳を突き上げる。

 もちろん完全なマウントポジションで、リーチにも差があるために、サキの顔面には届かない。サキが軽く身をのけぞらせるだけで、瓜子の拳は空を切った。


 しかし、それでもかまわない。サキが身体を反らせるのと同時に、瓜子は腰をはね上げていた。

 腹の上で馬乗りになったサキは、瓜子の肩に右手を置いて、バランスを取る。

 その右腕をつかみ取り、両手でぐいぐいと引きながら、瓜子は何度か腰をバウンドさせた。バウンドさせながら、サキの身体を頭上の方向に押し上げる。


 サキはマットに右腕をつき、はね落とされまいと耐えた。

 すかさず瓜子は両膝を曲げて、マットを踏み、左に腰を切りながらブリッジをする。

 サキがこらえる。その抵抗を押し潰すようにして、瓜子はサキをマットにねじ伏せた。


(どうだ!)


 瞬間的な爆発力だったら、瓜子のほうが上だ。

 それに、赤星道場でどんな猛者どもと稽古を積んでいたのかは知らないが、瓜子は毎日のようにユーリと取っ組み合っているのである。

 半年以上も、道場でも、リビングでも───そう、サキがいなくなった、あのリビングでも、瓜子はユーリとトレーニングを積んでいた。


 牛のように重いユーリに比べれば、サキなどひょろひょろに痩せた犬のようなものだ。

 寝技の技術も、ユーリのほうが格段に高い。

 そんなユーリと稽古を積んでいる瓜子が、サキなどに、グラウンドの攻防で後れを取るわけにはいかなかった。


(……これが、あんたの捨てたもんなんだよっ!)


 腰に巻きついてくるサキの足を乱暴に振り払い、一発のパウンドを落とすこともなく、瓜子はリングに立ち上がった。

 熱量を増した大歓声が、そこには待ち受けていた。

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