04 帰り道

「……しっかしねぇ、うり坊ちゃんまでトーナメントにエントリーするなんて、ユーリは夢にも思ってなかったよぉ」


 道場からの帰り道。夜の繁華街を駅に向かって歩きながら、今さらのようにユーリが言った。


「しかも予選でサキたんと当たるなんて! ずっこいなぁ。うらやましいなぁ。ユーリもサキたんと試合したかったなぁ」


「……自分が負ければ、本戦で闘える可能性もあるっすよ」


「え! うり坊ちゃん、負けるつもりで闘うの?」


 びっくりまなこで振り返るショートヘアのユーリに、瓜子はうっすらと笑いかける。


「負けるつもりはないっすよ。ただ、勝てるつもりもないっすけど」


「お、いいねぇ。泰然自若として刻を待つ! 明鏡止水の境地だにゃあ。……もしかしたら、これは本当にうり坊ちゃんが勝っちゃうかもね?」


 サキと決別した日以来、ここまではっきりとサキについて語り合ったのは、実はこれが初めてのことだった。

 口に出すのを避けていたわけではない。ただ、語るべき言葉がなかっただけだ。


 サキのいない場所でサキのことを語っても、何も生まれない。サキが帰ってくるわけでもない。ならば語る必要もない――そんな暗黙の了解さえ、できてしまっている気がする。

 瓜子たちとサキとの時間は、あの七月の夜からまったく進んでいないようだった。


「おーい、待ってくれよお。黙って帰っちまうなんて、ちっとばっかり冷たいんじゃねえ?」


 と、五分ばかりも歩いたところで、レオポン選手が小走りで追いついてきた。

 ユーリはすかさず瓜子を背中にかばい、黒ぶち眼鏡の下で瞳を光らせる。


「本日はありがとうございました! 大変参考になりました! どうか明日からもよろしくお願いいたします! ……では、さようなら」


「冷てえなあ。理不尽だし。この数時間でユーリちゃんの本性がだいぶ見えてきたぜ」


 おかしそうに笑いながら、レオポン選手はユーリと並んで歩きはじめる。


(うり坊ちゃん、走って逃げよっか?)

(な、何もそこまでしなくていいんじゃないっすか?)

(だって! うり坊ちゃんの貞操が心配なんだもん!)

(そ、そんなもん心配しなくていいっすよ!)


「あのなあ。全部聞こえてるっつーの。そんな警戒しないでくれよ。俺ってそんなに軽薄そうに見えっかな?」


 むしろ不思議そうに言うレオポン選手の顔を、ユーリはじとっと横目でにらむ。


「別に、そういうわけじゃないですけどぉ……うり坊ちゃんはこんなにかわゆいから、どんなに誠実な人でもクラクラしちゃいそうじゃないですかぁ。ユーリは、それが心配なんですぅ」


「な、なんで自分を引き合いにするんすか! ユーリさんみたいな女性にそんなこと言われても、嫌味か皮肉にしか聞こえないっすよ!」


「いや、瓜子ちゃんも可愛いよな。それでバキバキに強かったら、俺も確かにクラクラしちまうかもしんねえや」


「ぐがーっ!」


「わめくなよ。往来だぜ?」


 まったくだ。何せ新宿は歌舞伎町のど真ん中である。午後の十時過ぎではまだ宵の口で、往来はむしろ日中よりも賑わっているぐらいだった。


 ピンクがかったショートヘアに、カラフルなキャップと黒ぶち眼鏡。ノースリーブのカットソー。ダメージデニムのショートパンツ、というユーリに、全身赤ずくめで、金褐色の髪をライオンのようになびかせたレオポン選手は、ともにド派手で、目立っており、びっくりするぐらい夜の新宿に似合っていた。


 それに、レオポン選手もなかなか二枚目で、雰囲気を持った若者であるので、ユーリの隣に並んでも見劣りすることはない。身長が三センチしか変わらないというのも、まあご愛嬌だ。ユーリに例の因果な体質さえなければ、本当に、お似合いのカップルになれたのではないかとさえ思えてしまう。


「……あのさあ、よけいな差し出口だったら答えてくれないでかまわねえけど、ユーリちゃんって、あのサキ選手と何かあったのか?」


 と、レオポン選手がいきなりそのようなことを尋ねてきたので、瓜子のほうが驚いてしまった。

 ユーリはすました顔で「えぇ? どうしてですかぁ?」などと応じている。


「どうしてって言われると困るけどさ。いくら次の大会で瓜子ちゃんと対戦するっつっても、先輩格のサキ選手が出稽古で道場を移るなんて、ちっと不自然じゃん? そもそも、ウチにだってその予選試合とやらにエントリーしてるマリアがいるわけだしさ」


 それはそうだ。ある意味、マリア選手を度外視しているような行為で、そこは少し心配になってしまう。


「まあ、そのあたりのことは、マリアも全然気にしてないからいいんだけどよ。ただ、サキ選手はウチの道場でも、すっげえピリピリしてるし……殺気立ってるっていうのかな。そうかと思えば、魂がぬけちまったみたいにぼんやりしてるときもあるし、何か、情緒不安定まるだしなんだよ。で、ウチの練習生がユーリちゃんの名前を話題に出したら、鬼みたいな目つきになって席を外しちまうし……ああ、そうそう、俺がプレスマンに出稽古に行くって言ったら、伝言してくれねーかとか言われてたんだった」


「伝言? なんですかぁ?」


「死ね。……以上だ」


 ユーリはきょとんと目を丸くして、それからにわかに大声で笑いはじめた。


「サキたんらしいなぁ! 電話番号もアドレスも知ってるんだから、それぐらい直接伝えてくれればいいのにぃ。……レオポン選手は、赤星道場にも顔を出すんですかぁ?」


「そりゃあな。いちおう俺も、若手を指導してる立場だし」


「自分だって若いのに、すごいですねぇ。……それじゃあ、サキたんに伝言をお頼みできますかぁ?」


「ああ、いいぜ。何だよ?」


「大好き! ……そう伝えておいてください」


 ユーリはにこりと屈託なく笑い、レオポン選手は渋い面持ちで自分の頭を叩きはじめる。


「いかん。クラクラしてきた。……どうせなら、画像つきでメールしたれよ。そしたらユーリちゃんの気持ちもバッチリ伝わるから」


「ダメですぅ。伝言には伝言ですぅ。きちんとサキたんに伝えてくださいねぇ?」


「うう。どんな顔して伝えりゃいいんだよ? 伝家の宝刀・燕返しをくらっちまいそうだ。……瓜子ちゃんは、まだ総合デビュー二戦目なのに、あのサキ選手と対戦するってんだろ?」


「え? ああ、はい。そうっすけど……」


「頑張ってな。サキ選手の蹴りは、やっぱハンパじゃねえや。本当に、抜き身の日本刀みたいなハイキックだよ」


「はい。……そうっすよね」


 サキとは、流すていどのスパーリングしか行ったことはない。同じライト級の選手なのだから、あまりなれあうなとコーチ陣に釘を刺されていたのだ。

 しかしそのていどのスパーでも、サキの強さを体感するには十分だった。

 サキが左足を振り上げるだけで、瓜子の背筋にはぞくりと悪寒が走りぬけたものだ。


「ふうむ。その日はマリアも出場することだし、俺もいっちょセコンドでもぐりこんでみっかな」


「ええ! 控え室でもユーリたちをつけ狙う気ですかぁ? やだなぁ。下着を隠しておかないと」


「俺をどんなキャラにするつもりだよ! ……ま、せっかくだったらユーリちゃんたちの勇姿を会場で観たいじゃん? 《アトミック・ガールズ》の歴史が動く日になるかもしれないからな」


 と、そこでレオポン選手が、にやりと笑う。


「ただし、その予選試合とやらでマリアが勝ち抜けたら、その後はもうユーリちゃんたちとも敵同士だ。コーチ連中が何て言おうとも、サキ選手だって道場からは出ていってもらう。それまでは仲良くやろうぜ、ユーリちゃん、瓜子ちゃん」


 そんなこんなで、駅に着いた。


「それじゃあな。俺は荻窪だから、あっちなんだわ。明日と金曜日にも顔を出すつもりなんで、よろしくな」


 気安く手を振って、レオポン選手は丸ノ内線の乗り場へと消えていった。

 こちらはいつも通り中央線のホームを目指しながら、ユーリは「ふう」と息をつく。


「おもろいなぁ、レオポン選手は。男性でこんなに気軽に喋れる人は珍しいや」


「ええ? そ、そうだったんすか? そのわりには、ずいぶん冷たい態度に見えたっすけど……」


「だって! うり坊ちゃんの貞操があやういんだもん! もしも二人がこっそり劣情に身をまかせようとしたら、ユーリがバケツで水をかけてやるんだからっ!」


「馬鹿でかい声でおかしなことを言わないでください!」


 だいたい、レオポン選手と寝技の稽古にはげんでいたのはユーリのほうではないか。それで瓜子のことばかりが取り沙汰される意味がわからない。


 というか、ユーリがいちいち過剰反応するからおかしな方向に話が進むわけであって、レオポン選手の態度に下心や不誠実なものなどは一切感じない。彼は心からユーリのことを心配して、ユーリのためにのみ、わざわざ出稽古にまで来てくれているのである。そんなレオポン選手にあらぬ疑いをかけ、罵倒する、不誠実なのは、むしろユーリのほうではないか。


「不誠実でも理不尽でも何でもいいの! ユーリはうり坊ちゃんの貞操さえ守れればそれでいい!」


「貞操貞操うるさいっすよ!」


 来栖選手との対戦を一ヶ月後にひかえ、ユーリは呆れ返るほどふだん通りの様子に見えた。

《アトミック・ガールズ》最強の選手と対戦せねばならないのに、どうしてユーリには緊張も気後れもないのだろう。


「……だって、ユーリは下っ端だもぉん。来栖選手だろうと誰だろうと、みぃんな格上の大先輩なの! 情けない試合になっちゃわないように、全身全霊でぶつかるだけさぁ」


 運良く空いていた座席に形のいいおしりを落としこみながら、ユーリはやはりいつも通りの明るさで笑った。


「どんな試合でも、すべてはベル様につながってる。こんな素敵なトーナメントが企画される前から、ユーリはずーっとそう思ってたんだよぉ。強くなれれば、試合に勝てれば、いつかユーリでもベル様の前に立つことができる! そう思って、一戦一戦をかみしめるように闘ってきたのさぁ。……まあ、勝てるようになったのはつい最近だけどねぇ。だから、よく考えたら状況的には何にも変わってないの。うり坊ちゃんが、いつだったかに言ってた通りだね。ユーリはユーリにやれることを頑張るだけ!」


「……そうっすね」


 きっとそれが、ユーリの強さの原動力なのだ。

 人の何倍もの努力ができる精神力。誰に馬鹿にされてもめげない気持ち。迷いのなさ。折れない心。

 夢へと、真っ直ぐに向かうその心の強さが、ユーリの強さなのだろう。

 そんなユーリの強さに魅了され、瓜子もまたリングに立ちたい、と強く思うことができたのだから。


(サキさんも……)


 そのように思ってくれたのだろうか。

 それを、確かめたい。

 だから瓜子は、サキと闘いたいのかもしれなかった。


「……頑張ろうね、うり坊ちゃん」


 と、隣に座ったユーリが、瓜子の肩にこつんと頭を乗せてくる。

 甘い、ユーリの髪の匂いがした。


「夢のために、頑張ろう。サキたんのために、頑張ろう。こっちのお水は甘いんだよって、サキたんに思いださせてあげないと」


「……そうっすね」


 瓜子は、そんな風に答えることしかできなかった。

 どんな未来が待ち受けているのかはまったくわからないが、ひとりじゃなければ、怖くはない。

 そんな当たり前のことを、瓜子はサキに伝えてあげたかった。

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