03 ももいろの覚悟

 数日後、《アトミック・ガールズ》の公式サイトにおいて、ようやく九月大会のマッチメイクが発表される段となった。

 九月大会のメインはもちろん、十一月に開催される無差別級王座決定トーナメントの予選試合である。


 エントリーされた選手は、十名。

 この予選を勝ち抜いた五名の選手だけが、本戦のトーナメントに出場する資格を得る。


 対戦カードは、以下の通り。


 第一試合。サキ(新宿プレスマン道場)対、猪狩瓜子(新宿プレスマン道場)

 第二試合。高橋道子(天覇館東京本部)対、沙羅(NJGP)

 第三試合。小笠原朱鷺子(武魂会小田原支部)対、沖一美(フィスト・ジム小金井)

 第四試合。兵藤アケミ(柔術道場ジャグアル)対、マリア(赤星道場)

 第五試合。来栖舞(天覇館東京本部)対、ユーリ・ピーチ=ストーム(フリー)


 第一試合はライト級同士の対戦、残りの四試合は無差別級とミドル級の対戦、という形になった。


 注目株は、無差別級のホープ・小笠原選手と、ミドル級の日本人筆頭・沖選手の一戦。

 そしてもちろん、《アトミック・ガールズ》最強の女・来栖選手と、開花せしプリティモンスター・ユーリ選手の一戦だった。


 鉄の女と、アイドルファイター。生ける伝説と、新世代の象徴。新旧のカリスマ対決実現にファンや関係者は熱狂し、常打ち会場の恵比寿AHEDよりも規模の大きいミュゼ有明における開催であったにも拘わらず、観戦チケットは数年ぶりに立見席まで完売するはこびとなった。


 来栖選手と、ユーリ選手、どちらが勝って、世界最強の女子選手・ベリーニャ・ジルベルトへの挑戦権を得るのか。

 否応なく、期待は高まっていった。


               ◇


「うわぁ! どうしたんすか、ユーリさんっ!」


 道場で先に稽古をつけていた瓜子は、遅れてやってきたユーリの姿を見て、心の底から驚くことになった。


「うふふぅ。かわゆいでしょお? 似合う? 似合う?」


 ご満悦の表情で、くるくると回る。ほんのつい数時間前までは通常仕様だったユーリの姿が、別人のように変わり果ててしまっていた。

 あの、プロファイターらしからぬ長い髪の毛が、瓜子と変わらないぐらいのショートヘアに、バッサリと断ち切られてしまっていたのだ。


 しかも、色まで変わってしまっている。今までもかなり明るい栗色だったが、今度は金髪に近いぐらいブリーチをして、おまけに、ほんのりとピンク色に染められてしまっていた。


「人生最大の正念場を迎えるにあたって、ちょっと大胆にイメージチェンジしてみましたぁ。ユーリのかわゆさも倍増でしょぉ?」


 可愛い。

 不覚にも、瓜子は激しく、そう思ってしまった。

 幼くなったような、大人っぽくなったような、ファイターっぽくなったような、妖精っぽくなったような――色んな要素がごちゃまぜになって、結果、瓜子は大いに混乱した。


「うわ、何だよその頭は? 宇宙人か、お前は」


 瓜子のコンビネーションをミットで受けてくれていたサイトーも、ぎょっとしたように目を丸くしている。

 その他の選手たちは、おおむね瓜子と同じような感慨を抱いているようだった。節度あるレギュラークラスの男子選手たちも、みな一様に稽古の手を止めてユーリの姿に見とれてしまっている。


「ユーリさん……もしかして、あのときのこと、気にしてるんすか?」


「うにゅう? あのときってぇ?」


 その長い髪も、大きな目も、気に食わない。

 サキは確かに、そのようなことを言っていた。

 そしてまた、瓜子だけが聞いてしまった言葉もある。


(……そういえばあの娘さん、よく見たら牧瀬理央さんに似てるわねぇ。長い髪とか、大きなお目々とか、そっくりだわぁ。……だからちゆみさんも、お友達になれたのねぇ)


 瓜子は、ぶるぶると頭を振った。

 サキが妹のように可愛がっていた娘と、ユーリが似ている。それがいったい、何だと言うのだ?

 たとえサキが、その娘とユーリの面影をだぶらせていたとしても、そんなことは重要じゃない。ユーリは、ユーリなのだ。


「よっしゃあ! 今日もお稽古、頑張るぞぉ!」


 黒いボストンを抱えて更衣室に消えたユーリが、あっというまにトレーニングウェアへとフォームチェンジして、意気揚々とウォーミングアップをし始める。

 黒とピンクのラッシュガードに、同じカラーのロングスパッツ。いつも通りのいでたちなのだが、やはりどこか別人みたいだ。


「押忍! 失礼します! ……うわあ、ユーリちゃん、どうしたんだよ!」


 と、新たなる驚きの声があがり、瓜子のほうこそびっくりさせられた。


 たてがみのようになびく金褐色の髪。鼻が高く、すっきりとした面立ち。精悍だがどこか愛嬌のある表情。そんなに大柄ではなく、なおかつ引き締まった身体つき。赤いTシャツと、赤いハーフパンツ。使い古しのスポーツバッグ。二の腕に刻まれたトライバルのタトゥー。

 それは二ヶ月ほどぶりに見る、ちょっと懐かしいレオポン=ハルキ選手の姿に他ならなかった。


「あれぇ? レオポン選手こそ、どうしたんですかぁ? ここは新宿プレスマン道場ですよぉ?」


「そんなこたあ、わかってるよ。コーチの人らから聞いてなかったかい? 今日からちょこちょこ出稽古でお邪魔することになってるはずなんだけど」


 言いながら、まだじろじろとユーリの変わり果てた姿を検分しまくっている。


「出稽古ですかぁ。珍しいですねぇ。プレスマンと赤星道場って宿命のライバル関係じゃありませんでしたっけぇ?」


「いつの話してんだよ。そいつはおたがいの道場の設立者が現役時代にライバルだったってだけのこったろ。他の道場よりむしろつきあいは深いほうなんだから、男子選手はしょっちゅう行き来してるんだぜ? ……今はこっちで、女子選手をひとりあずかってるけどな」


「……女子選手?」


「サキ選手だよ。二週間ぐらい前から、ずっとウチに通いつめてる」


 レオポン選手の目が、いくぶん奇妙な光を浮かべて、ユーリを見た。

 ユーリは一瞬だけ動きを止め、それから背筋と上腕三頭筋のストレッチを再開する。


「……そうだったんですかぁ。どおりでこっちで姿を見ないと思った! サキたん、元気でやってますぅ?」


「元気と言えば、元気すぎるぐらい元気だな。毎日誰かしらをKOしてやがるよ」


 レオポン選手が気を取りなおしたようにそう答えると、キックミットを両手にぶら下げたサイトーが、容赦のないミドルキックをその尻に叩きこんだ。


「こおら、レオポン。手前はナンパ目的で出稽古に来やがったのか? 汗をかく気がねえなら帰れや」


「押忍、サイトー選手。痛えっス。……もちろん俺は、稽古をつけてもらいに来たんスよ。この、ユーリちゃんにね」


「ああん?」


「ふにゃあ?」


「ユーリちゃん、来栖選手とやるんだろ? それなら俺が、スパーリングパートナーになってやるよ」


 レオポン選手はスポーツバッグを抱えなおしながら、実にあっさりとそう言った。


「俺は来栖選手とおんなじ身長で、体重も三キロぐらいしか変わらないから、体格もほとんど一緒だろ? ……まあ、おんなじ身長でむこうのほうが重いってのは驚きだけどさ。何はともあれ、なかなか理想的なパートナーだと思わねえか?」


「えぇ? それはありがたいお話ですけどぉ……でも、ユーリと寝技で組み合ったら欲情しちゃうんじゃなかったでしたっけぇ?」


 ユーリはわざとらしくしなをつくり、サイトーはギロリとレオポン選手をにらみつける。

 レオポン選手はライオンのような頭をかき回しながら、困り果てたように笑った。


「欲情しないように気をつける。こう見えてガマン強いほうなんだよ、俺は。……それでも欲情しちまったら、クールダウンの時間をくれ」


「手前なあ……そんなサカリのついたオス猫はいらねえんだよっ! スパーリングパートナーなんざには不自由してねえんだ!」


「いや、そうでもないはずっスよ? 俺は天覇館にも出稽古でお世話になったことがあるから、来栖選手とスパーしたこともあるんです」


「……なに?」


「やっぱハンパじゃなく強えなあって、あの選手の強さは感触として身体に残ってますから。そこそこユーリちゃんのお役に立てると思うんスよ。……ダメっスか?」


「……ふん。オレは別に、そのネエチャンのお守役じゃねえ。ただし、ちっとでもこの道場でおかしな真似をしたら、自分の足では歩いて帰れねえようにしてやるからな?」


「押忍! ありがとうございます」


 サイトーのほうがずいぶん年長者ではあるのだろうが、かたや男子のバンタム級で、かたや女子のアトム級だ。身長などレオポン選手のほうが頭ひとつぶん以上も大きいぐらいだし、そんな彼が恐縮しまくっている姿が、少しおかしい。


「それじゃあ、更衣室をお借りします。ユーリちゃん、俺もすぐにアップするから、待っててくれよな?」


 レオポン選手が姿を消し、サイトーも自分の練習に戻ってしまうと、ユーリはピンク色のショートヘアをなでつけながら瓜子を振り返った。


「プロポーズはきっちり断ったはずなんだけどなぁ。うり坊ちゃん、ユーリが貞操を奪われそうになったら助けてね?」


「……いっそそのまま結婚しちゃえばいいじゃないっすか」


 いささかならず複雑な心境でそう応じると、ユーリはつぶれたマシュマロのような表情になってしまった。


「お待たせ、ユーリちゃん。……あれ? アンタはたしか……」


 と、タンクトップにヒョウ柄のスパッツ姿で戻ってきたレオポン選手が、いぶかしそうに瓜子を見る。

 まともに言葉も交わしたことはないはずだが、二ヶ月前にセコンドとしてユーリのかたわらにたたずんでいただけの瓜子を覚えていたのだろうか。瓜子はちょっとへどもどしながら、頭を下げる。


 が───


「ああ、やっぱり! ユーリちゃんと一緒に水着で雑誌に載ってたコかあ! 雰囲気が違うから気づかなかったぜ!」


 思いも寄らぬ方角から痛恨の一撃をくらい、瓜子は目の前が真っ暗になってしまった。


「ユーリちゃんの隣に並んで見劣りしないなんて、すげえなあって感心してたんだ。まさか同じジムの仲間だったとはね! 絶対にマジモンのモデルさんだと思ってたよ」


「う……あ……」


「……あれ? なんか悪いこと、言っちまったかな?」


 よく陽にやけた顔が瓜子をのぞきこみ、そして、人なつこそうな笑いを浮かべる。


「もしかしたら、エキシビジョンのときにユーリちゃんのセコンドについてたのも、アンタだったのかな。猪狩瓜子ちゃん、だったっけ? 雑誌のほうで名前を覚えちまった」


「とーうっ!」


 と、おかしな声が響き、それと同時にレオポン選手がマットの上にひっくり返った。

 ユーリの見事な水面蹴りが、レオポン選手の右足首をおもいきりなぎ払ったのだ。

 そしてユーリはばねじかけの人形みたいな勢いで飛び上がり、瓜子の身体を力まかせに抱きすくめてくる。


「レオポン選手! うり坊ちゃんはユーリの大事なパートナーなんだから! ナンパもセクハラもプロポーズも禁止! うり坊ちゃんを毒牙にかけるおつもりなら、ユーリがバーリトゥードでお相手になりますよっ!」


「何だよ……別にそういうつもりじゃねえけど、自分は俺をフッたくせに、俺の自由恋愛に干渉すんのはルール違反じゃね?」


「ふおおっ! ルールもマナーも関係ございません! うり坊ちゃんは、ユーリのなのっ! 絶対禁止! 絶対禁止!」


「あはは。わかったよ。俺だって、そこまで見境なしじゃねえって。またサイトー選手にドツかれちまうから大騒ぎしないでくれ。……ここには、真面目な気持ちで出向いてきたんだ」


 苦笑しながら立ち上がり、レオポン選手はユーリと瓜子を見比べてくる。


「来栖選手がユーリちゃんを死ぬほど嫌ってるって話は、俺も聞いてる。だから心配になっちまったんだよ。勝ち負けなんて時の運だけど、あの選手がラフファイトでも仕掛けてきたらって考えたら、居ても立ってもいられなくなっちまったんだ。力にならせてくれよ、ユーリちゃん」


「……うり坊ちゃんに手を出さないと誓うのならば、力にならせてあげませう」


「うわ、理不尽! ……わかったよ。とりあえず、来栖選手との試合が終わるまでは、誰にも何にもしねえって」


「終わったらナニをする気? くわあっ! 信用できない信用できないっ!」


「しかたねえじゃん。数ヶ月先や数年先のことまでは、保証できねえもん。……何にしたって、ユーリちゃんやユーリちゃんの大事な相手に、生半可な気持ちでちょっかいなんて出さねえから、それぐらいは信用してやってくれよ」


「うぬう……」


「……ユーリさん。レオポン選手のほうが、完全に筋が通ってるっすよ。もう大丈夫っすから、トレーニングに集中してください」


 瓜子だって、そんな横事にうつつをぬかしていられるような心境ではない。

 およそ一ヶ月後、瓜子はサキと対戦するのだから。


「さ、とっととアップを済ませちまおうぜ。伝えたいことが、山ほどあるんだ」


 そう言って、レオポン選手は下半身のストレッチに取りかかり始めた。

 まだ殺気立った目つきでその様子をうかがいつつ、ふっとユーリが小首を傾げる。


「レオポン選手、なんかちょっとカラダが大きくなってないですかぁ? ユーリと対戦したときよりも、肩とか、胸とか、ぶあつくなったみたい」


「お、やっぱわかるか。ちょうど今は試合と試合のど真ん中で、一番身体が大きい時期なんだよ。六十三キロはあるはずだから、それでようやく来栖選手とは三キロ差だ」


「六十三キロ……ユーリとやったときは、五十八キロでしたよね?」


「ああ、あんときはエキシビジョンだったから、適当な数字を申告したんだよ。何にせよ、俺の契約体重はMMAでもキックでも、ユーリちゃんと一緒の五十六キロだけどな」


「それじゃあレオポン選手は、減量で七キロも落としてるんすね」


 思わず、瓜子も口をはさんでしまった。

 男子選手ならば珍しい数字でもないのだろうが、ここからユーリと同じ数字にまで落とすのだと考えると、やはり感心してしまう。骨格の違いも相まって、レオポン選手はユーリよりもひと回りは大きく見えた。


「ま、アメリカなんかだと十キロ以上落とす選手も珍しくはないからな。本当におそろしいのは、そいつを計量のあとの一日でほとんどリカバリーしちまうことだよ」


 この際のリカバリーは、体重を元の数値に近づけることを指す。

 十キロ以上の体重を一日で戻すなど、常人にはなかなか想像のつかない世界であろう。


「すごいですねぇ。ユーリは五キロ以上の減量なんて絶対無理ですよぉ」


ユーリがそのように評すると、レオポン選手はにっと白い歯を見せて笑った。


「ありがとよ。ちっとは惚れなおしてくれたかい?」


「いいえ。もともと惚れてはいないので、ない袖は振れせませぬ。だけど、ファイターとしてはレオポン選手を心から尊敬しておりますよぉ」


「そいつは救われるね。……で、たぶん来栖選手ってのは、組み技に関しては今の俺とほとんど変わらないぐらいのパワーを持ってる。いくら俺より重いからって、女子選手としては規格外だよ」


 股割りをして、ぺたんと上半身をマットにつけながら、レオポン選手は奇妙な角度でユーリを見上げやる。


「ちなみに、減量は五キロまでってことは、ユーリちゃんの通常体重は六十キロ前後ってことだよな。無差別級の試合だから減量する必要はなしってことにしても、来栖選手との体重差は六キロだ。何だったら、今からでもウェイトを上げて、パワー増強を狙ってみてもいいんじゃねえのかな」


「ダメですぅ。ユーリは今のウェイトが、ファイターとしてもモデルとしてもベストだと自負しておりますので! これ以上ウェイトアップしたら、副業のお仕事がなくなっちゃいますよぉ」


「そうかい。俺もユーリちゃんのプロポーションが崩壊しちまうのは涙が出るほど惜しいけどな。……だけど、この階級で六キロ差ってのは、なかなか致命的だ。パワー勝負じゃあ勝ち目がないぜ?」


「それでもユーリのバックボーンは、柔術ですから! 柔よく剛を制しちゃいます! ベル様なんて、九十五キロもあるロシアの選手にも一本勝ちできるんですよぉ?」


「ベリーニャ・ジルベルトか。そっちのほうは、よくわからん。……ま、いいや。下手にウェイトアップしても動きが鈍る危険性があるからな。とっととアップを済ませて、スパーをしようぜ」


「はぁい」


 ユーリもぺたりとマットに座り、中断していたストレッチに取り組み始める。

 それをきっかけに、瓜子は二人のそばから離れた。

 瓜子も、瓜子のやるべきことをやらねばならない。


《アトミック・ガールズ》のライト級チャンピオン、サムライキックの異名を持つ、サキ───瓜子にとっては、来栖選手と同じぐらいの高みにいる、雲の上の存在なのだ。


 勝てる可能性など、ゼロに等しい。しかしそれでも、瓜子はおのれの持つありったけをサキにぶつけてやらねばならなかった。


 それで何が生まれるのか、実のところはよくわからない。

 ただ、サキが姿を消し、会話のひとつも交わしてくれないというのならば、拳を交わすぐらいしかないではないか。

 瓜子たちは、ファイターなのだから。

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