02 決意の夏
言わずと知れた、《アトミック・ガールズ》最強の女である。
およそ十年ほど前に旗揚げされた《アトミック・ガールズ》の創立期からのメンバーで、名うてのベテラン選手でもある。
身長百七十センチ。体重六十六キロ。年齢は三十四歳。
所属は天覇館東京本部。
デビュー当時は五十六キロで、かつてのミドル級王者でもあり、その頃の来栖選手は敵なしだった。立ち技においては空手とボクシング、組み技においては柔道とレスリング。果てにはムエタイや柔術の技術をも取りこみ、天覇館ならではの自由なファイトスタイルで、他選手の追随を許さなかった。
やがて同階級には敵がいなくなり、無差別級に転身。自身もウェイトを上げて、重量級の外国人選手と闘える肉体をつくりあげ、そこでも無類の強さを見せつける。《アトミック・ガールズ》のみならず、女子格闘技界のパイオニアであり、代表格、時代の寵児とも言うべき最強の女子選手、それが来栖舞だった。
しかし、そんな来栖選手の強さとは無関係に、格闘技ブームはひっそりと終焉を迎えていく。
大手スポンサーの撤退、民放テレビ局の契約打ち切り、集客数の減退など、苦難の時代が幕を開けた。《アトミック・ガールズ》だけではない。すべての格闘技団体にとって、氷河期とまで言われる過酷な時代がやってきたのである。
そんな中でも、来栖選手は勝ち続けた。
ファイトマネーが滞ることもあった。試合会場は小規模化を余儀なくされた。三年前には主力選手が大量離脱するという分裂騒ぎも巻き起こった。経営不振の大波小波に、《アトミック・ガールズ》の運営会社パラス=アテナは、倒産の噂が何度あがったかもわからない。
そんな中でも、来栖選手は勝ち続け、《アトミック・ガールズ》をここまで牽引してきたのだ。
強豪選手との連戦により、膝の靭帯と、腰を痛めた。それでも来栖選手は、闘い続けた。そして、勝ち続けた。勝ち続けて、勝ち続けて───そして、敵がいなくなってしまった。
そもそも《アトミック・ガールズ》において無差別級の王座が制定されなかったのも、「そんなものは来栖舞に決まっているではないか」との声が高かったからであるらしい。
もっとも近年では、年に二、三度しか試合を行なっていない。闘うに相応しい相手が見つからず、それに加えて、腰のヘルニアが思わしくなかったからだ。
それでも、試合を行えば、勝つ。
ひとたび負けても、再戦では、必ず勝つ。
最大のライバルである名古屋の兵藤選手との戦績は、五勝二敗。無差別級の次期エース候補・小笠原選手とは、二勝一敗。この二名以外では、来栖選手に土をつけた日本人選手はいない。外国人選手にも、全員勝ち越している。
ただし、ベリーニャ・ジルベルト選手をのぞいては、だ。
ベリーニャ選手は専属契約に縛られて、米国の《スラッシュ》以外のプロ大会には出場できない。ゆえに、プロ大会ならぬ《S・L・コンバット》でのみ、対戦する機会を得たのだが、その決勝戦において、来栖選手は判定負けを喫してしまった。それ以来、ベリーニャ選手と再戦する機会は得られなかったので、来栖選手は今年度の《S・L・コンバット》にて雪辱を誓っていたのだ。
しかし、ベリーニャ選手は《S・L・コンバット》にはエントリーせず、その代わりに《スラッシュ》との契約を打ち切って、《アトミック・ガールズ》に参戦することになった。
無差別級王座決定トーナメントとは、そんな二人のために用意された、とっておきの檜舞台である、という見方が強かった。
◇
「……とはいえ、来栖ももう三十四歳やからな。ヘルニア持ちやし、左膝の靭帯も二回ヤッとるし、往年の強さは望めない。だからこそのトーナメント戦なんやろうと、ウチはふんどる」
海の家にて。トロピカルドリンクを優雅にストローですすりながら、沙羅選手はそう言った。
まずはいったん落ち着こう、とここまで拠点を移したのだが、実に大衆的な海の家の座敷席においても、やっぱりぞんぶんに人目を集めてしまっている。ユーリはピンク色のパーカーを、沙羅選手はライフセイバーのようなウインドブレーカーをそれぞれ羽織っているけれども、そんなていどでは焼石に水だ。
ビーチタオルにすっぽりとくるまりつつ、瓜子は胸中に生じた疑問をそのまま口にしてみせた。
「あの、沙羅選手。だからこそってどういう意味っすか? ベテラン選手で故障も抱えてるなら、ワンデイトーナメントはよけいにキツいっすよね? 一日で三試合を勝たなきゃ優勝はできないんすから」
「甘いわ、Bカップ。アトミックのせせこましさと計算高さは知っとるやろ? 柔術女のブロックに強豪選手を集めるやら何やら、トーナメント戦ならではのメリットっちゅうもんがあるやないか。……それに、保険もかけられるしなあ」
「保険って何すか? ……あと、その呼び方はやめてほしいっす」
「BカップはBカップやろ。ほんでもって、保険は保険や。……はっきり言うて、アトミックのおエラいさんがたも、ほんまに来栖が柔術女に勝てるかどうか、ちっとばっかり心もとないんやろ。せやから、ワンマッチで二人を闘わせる気になれないんや。来栖が柔術女にコロッと負けてもうたら、《アトミック・ガールズ》の面目まるつぶれやからなあ。……せやけど、トーナメントやったら、前の試合でヘルニアが悪化したとか何とか言いつくろえば、まあギリギリんとこでカッコはつくやないか」
「はあ……」
「さらに言うなら、途中で来栖を打ち負かすような新人選手が現れんともかぎらん……ぐらいのことは考えとるんやないかな。そんな有望な選手がおれば、ロートルの来栖にはご退場いただいて、アトミックの新たなエース選手としてプッシュしたろう、てな」
と、切れ長の目が、ユーリの横顔を盗み見た。
「まずは自分がその第一候補に選ばれたってことなんやで? わかっとるんかいな、この白ブタは?」
「うにゃ? ……何かおっしゃいましたかぁ、沙羅選手?」
ちゃぶ台のようなテーブルに肘をつき、ぼんやり窓の外を眺めていたユーリは、寝起きの子猫みたいにとろんとした目つきで沙羅選手を振り返る。
「どうしたんすか、ユーリさん? 完全に心ここにあらずじゃないっすか」
「うむぅ。……そりゃあねぇ、ついにベル様と同じ土俵に立てるのかぁって思ったら……何だか、頭がぽわぽわしてきちゃうんだよぉ」
「余裕やな。まずは予選で来栖を打ち負かさんと、トーナメントには出場でけへんのやで?」
「はいぃ、そりゃあおっしゃる通りでございましゅ……だけど、来栖選手ってどんな選手でしたっけぇ?」
瓜子はタオルにくるまったままひっくり返りそうになり、沙羅選手はトロピカルドリンクでむせた。
「ア……アホかぁ! アトミックを主戦場にしとるくせに、どうして来栖を知らんねん! 来栖は、アトミックの代名詞やろが! 生ける伝説そのものやろが!」
「ちょ、ちょっと、あまり大声を出さないでください。みんな見てるっすよ、沙羅選手」
「知らんわ。見られて減るもんやなし。……まあ、自分は減ったら真っ平らになってまうもんな」
「……どつきますよ?」
「冗談やがな。それより、こっちの白ブタをきっちり調教したらんかい!」
「えぇ? そりゃあもちろん、お顔とお名前ぐらいはばっちり記憶してますけどぉ、来栖選手ってあんまり試合にも出てないじゃないですかぁ? 階級も違うし、今まであんまり気にしてなかったんですよねぇ」
「これや……ほとんど来日経験もない柔術女なんぞより、来栖のほうが日本では百倍メジャーやで? いちおうウチの国内における最終目標の一人でもあったわけやしなぁ」
いまだ焦点の定まっていないユーリの目の前に、沙羅選手がずいっと顔を近づける。
「ま、今回は自分に譲ったる。どうせ自分にはそのうちリベンジするんやし、来栖を攻略する手間がはぶけるわ。ポンコツのロートル選手に引導を渡したれ」
「ちょ、ちょっと、沙羅選手?」
「何や、貧乳」
「うう、本気でどつきますよっ! ……沙羅選手は、来栖選手のことを高く評価してるんじゃないんすか?」
「当たり前や。アトミック最強のオバハンやろ。現時点でのナンバーワン選手や」
「ですよね。自分だってそう思います。……なのに沙羅選手は、ユーリさんが勝つっておっしゃるんすか?」
「勝つやろ。世代交代や。……あんなあ、ウチは来栖に勝てる自信がついたからこそ、こうしてアトミックに乗りこんできたんやで? そんなウチに勝ったんやから、この白ブタかて勝てるはずやろ」
なんて乱暴な論法だ、と瓜子は呆れ返ってしまう。
(まあ、確かに……今のユーリさんには、誰に勝ってもおかしくない底の知れなさがあるけど……)
それでも相手は生ける伝説、《アトミック・ガールズ》最強の女だ。
ユーリは、本当に勝てるのだろうか?
「……ま、何にせよ、白ブタ嫌いで有名やった来栖との対戦を希望するなんて、なかなかエグい作戦やで。そいつを断ってまで白ブタの無差別級への参戦を拒否し続けたら、単に逃げてるだけ思われるもんなあ。……たいした策士やで、アンタは」
「策、というほどのものでもありません。私はただ情理を尽くしてお話をさせていただいただけです」
と、今まで石像のように押し黙っていた千駄ヶ谷女史が、正座姿でそう答えた。
女史は、帰っていなかったのである。帰らずに、スーツ姿でアイスコーヒーなどをすすっている。海の家の、座敷の上でだ。
ユーリと沙羅選手だけで異様に人目を集めてしまっているのに、これでは悪目立ちの度合いも倍増であろう。瓜子は溜息をこらえながら、ビーチタオルの中でいっそう身を縮めるしかなかった。
「ユーリ選手はトーナメントへのエントリーを熱望している。それを力不足だと思うのならば、いっそのこと《アトミック・ガールズ》最強の選手と名高い来栖選手みずからの手で引導を渡してはくれまいか……私は駒形氏にそうご提案しただけです。これで負ければ、ユーリ選手もあきらめがつくだろうから、と」
「ふふん。そいつをあのオッサンは、おもろい提案やと思うたんやろなぁ。もともと横紙破りなことを言うてたのは来栖のほうやし、どっちが勝ってもアトミックに損はない、てな」
にやりとふてぶてしく笑いながら、沙羅選手はまたドリンクをすする。
「それにしても、けっきょく予選大会には何人ぐらいの選手がエントリーしたんやろ。そのあたりのことは聞いてはりますか、千駄ヶ谷はん?」
「はい。現時点では、九名のようですね。無差別級からは四名。来栖選手、兵藤選手、小笠原選手、高橋選手。ミドル級からも四名。ユーリ選手、沙羅選手、沖選手、マリア選手。そして、ライト級からは一名……」
千駄ヶ谷女史の目が、ちらりとユーリを見る。
「……サキ選手。以上の九名です。バンタム級からのエントリーはありません」
「何や、ライト級の選手までエントリーしとるんかいな。無謀やな。……ん、何やねん、白ブタ?」
「……サキたん、エントリーしたんですね」
ユーリは、にこりと子どものように笑っていた。
「良かったぁ。本戦に出場できるかなぁ。できればベル様の前に、ユーリが闘いたいなぁ」
「ユ、ユーリさんはサキさんと闘いたいんすか?」
「うん。そのほうがユーリの気持ちが伝わるような気がするから」
瓜子には、よくわからなかった。
わからなかったが、しかし……何か、胸の奥にうずくものがあった。
「何や、ええ顔して笑う白ブタやな。そんな表情まで隠し持ってたんかいな。ほんまに憎たらしいやっちゃ」
不機嫌そうに言い、沙羅選手がドリンクのグラスを荒っぽくテーブルに置く。
「よぉくわかった。やっぱ自分は、不倶戴天の宿敵や。ファイターとしても、モデルとしても、ウチがまずブチ倒さないかんのは、この白ブタっちゅうわけやな。……白ブタ、おかしなところでコケたら承知せえへんで? 今回のトーナメント、決勝戦はウチと自分で争うんや」
「ふにゅ? それはトーナメントの組み合わせによりますけども……同じブロックだったら、一回戦か準決勝で当たっちゃうかもですよぉ?」
「そういう話をしてるんやない! 気持ちの問題や! ロートルどもは叩き潰して、ウチらが新しい時代をつくったろう言うてるんやないかっ!」
「あははぁ。かっちょいいですねぇ。まずは来栖選手に勝てるよう、頑張りまぁす」
「そうやな。そうと決まったら、グズグズしてられへん!」
沙羅選手は大声で言い、羽織っていた上着を畳に叩きつけた。
小麦色の肉体にエメラルドグリーンのビキニで、海の家中の視線を一身に集めながら立ち上がる。
「そうですねぇ。ユーリもお稽古したい気分ですぅ。どっかそのへんでスパーでもしちゃいますかぁ?」
「アホか! ウチと自分が水着でスパーなんて、民放のゴールデンでも準備してもらわな割にあわんわっ! とっとと遊んで、とっとと帰って、とっとと猛特訓するしかないやろ!」
「はぁい、了解でぇす。泳ごう泳ごう。せっかくの海ですもんねぇ」
ユーリもはらりとパーカーを脱ぎ捨てて、あちらこちらから、こらえかねたような吐息をあげさせた。
「お待たせしたね、うり坊ちゃん! 待望の海だよ海!」
「いや別に全然待望してないっす……うわあ!」
再びタオルをはぎ取られて、瓜子はすかさず虫のように丸くなる。
と――千駄ヶ谷女史の冷徹な瞳が、肉屋の肉でも見るように瓜子を見た。
「……なるほど」
「なるほどじゃないっすよ! 助けてください、千駄ヶ谷さんっ!」
「助けるの意味ははかりかねますが、今後もモデル業のお誘いがあるようでしたら、どうぞご随意に。もともとプロファイターである猪狩さんには、弊社も特別に副業を許可しておりますので」
「意味がわかんないっす! モデルなんて、もうカンベンっすよ!」
「そうなのですか? 貴女はユーリ選手と同様にアスリートなのですから、いつか弊社とマネージメント契約を結ぶ日がやってくるかもしれません。……そのときは、僭越ながら私が担当者に名乗りをあげることにしましょう」
「ないですってば! ユーリさんも! おかしなところをさわらないでください!」
「ごみんごみん。あまりにかわゆらしかったものでぇ」
「とっとと行くで、白ブタと貧乳!」
まるで本当に、サキと暮らしていたときのような騒ぎっぷりだった。
ユーリに羽交い絞めにされながら、瓜子はそんな想念にとらわれてしまう。
サキの不在が、胸に痛い。
沙羅選手が、そこまでサキに似ているわけではない。ただ、やっぱりシャープな面立ちと、傍若無人で男らしい言動、それにユーリたちを罵倒する口の悪さが、どうしてもサキを連想させてしまうのだ。
サキに、会いたい。
サキと、話したい。
サキと、暮らしたい。
サキと……闘いたい?
(うん。そのほうがユーリの気持ちが伝わるような気がするから)
瓜子の胸が、またうずいた。
もう三週間近くも、サキには会っていない。トーナメントにはエントリーしているというのに、道場にも姿を現さない。本当にこのイベントを最後に《アトミック・ガールズ》を引退してしまうのか。瓜子たちとは縁を切ってしまうつもりなのか。サキの真意はまったくわからないが――とにかくサキは、瓜子たちの前に姿を現そうとはしなかった。
サキとは、会えない。
サキとは、話せない。
サキとは、暮らせない。
サキとは……闘えない?
いや。
サキとふれあうただひとつの手段が、まだ残されていたのか。
大勢の人間が待ち受けるビーチにひきずり出されて、羞恥に顔を真っ赤にしながら、瓜子は人知れず心を固めることになった。
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