05 決別の夜

「サキたん、待ってってばっ!」


 サキに追いついたのは、あけぼの愛児園から数百メートルも離れた、薄暗くて人気のない資材置き場のような場所にたどりついてからだった。


 青白い常夜灯の下、少しだけ肩を上下させつつ、サキがゆっくりと振り返る。

 真っ赤に染めた、短い髪。切れ長の目。細い鼻。シャープな顔立ち。

 細身の身体に着ているのは和柄のアロハとだぶだぶのアーミーパンツで、そんな夏の装いが目に新しい。瓜子たちは、季節の切り替わる六月の終わりにたもとを分かつたまま、ここでようやく再会することがかなったのだ。


「……帰れ」


 しかし、サキは感情のない声で低くそう言った。

 巨大なボストンを足もとに下ろしつつ、ユーリも荒い息をついている。


「帰るよ。帰るけど、その前にあやまらせて! ……こんなとこまで追いかけてきちゃってごめんね、サキたん?」


「…………」


「ちょっとあのおばあちゃん先生にはびっくりさせられちゃったけど、別にサキたんの邪魔をする気はないんだぁ。ただ、サキたんのお顔を見て、お声を聞きたくなっただけなの。……怒らないで、許してくれる?」


「……許すも許さないもねー。帰れ」


「イヤだよっ! さっき二度と顔を見せるなとか言ってたじゃん! そのお言葉を撤回してくれるまでは、帰らないっ!」


 ふだん通りのユーリの様子が、瓜子には何よりも頼もしかった。

 瓜子は、どのような気持ちでサキに接すればいいのかがわからなくなってしまっている。


「……だったら、一生そこにいろ。アタシのほうが帰らせてもらう」


「待ってよ! 帰るって病院に? そしたら今度は、横浜中の総合病院を探して追いかけちゃうよ! ユーリは、執念深いんだからっ!」


「……救いがたい牛だな。おめーはさっき、アタシの邪魔をする気はねえって言ったよな?」


 背中を向けかけていたサキがまた振り返り、何やらアロハの胸ポケットをまさぐり始める。

 そこから取り出されたのは――くしゃくしゃに潰れたタバコの箱と、ちっぽけな百円ライターだった。

 言葉を失う瓜子とユーリの目の前で、サキはタバコを一本くわえ、手なれた様子で火をつける。


「だったら、邪魔をするんじゃねーよ。二度とアタシの人生に関わるな」


「な……なに言ってんの? そんなことより! それ! タバコ! タバコは十六で禁煙したんでしょ?」


「関係ねーだろ。アタシはもう、汗くせー世界とはおサラバすることに決めたんだ」


 紫煙をうまくもなさそうにくゆらせながら、サキは変わらぬ無感動な声でそう続けた。


「格闘家なんつーもんは廃業する。道場の連中にも言っておけや。あいつはケツまくって逃げだした、とでもな」


「……どーゆーことなのさ?」


 ユーリの声からも、感情が消えた。

 瓜子は、どんどんと鼓動が速くなってきてしまう。


「どーゆーこともへったくれもねえ。何だかアホらしくなっちまったんだよ。リングの上でチャンピオンだ何だって威張りくさっても、それで食っていけるわけでもねーし。しんどい思いで稽古して、試合に勝って、また稽古して……おんなじことの繰り返しじゃねーか? こんなことを続けて、いったい何の得があるってんだよ?」


「得とか損とか、ユーリにはわかんないよっ! サキたんは、だけど、一生懸命頑張って、それでアトミックのライト級チャンピオンになれたんじゃん!」


「はん。実はたいして頑張ってもねーけどな。頑張ったって言えるのは、コイツをやめたときの苦労だけだ。言っただろ、立ち技なんてのはほとんどセンスで決まるんだよ。アタシにはおめーと違ってセンスが満ちあふれてたから、ちょいとサンドバッグを蹴ってるだけで、簡単にベルトなんざ獲れちまったんだ」


「簡単って……」


「この前の試合が、決定打だったな。めんどくせーからほとんど稽古なんざしていかなかったのに、やっぱりアタシは余裕で勝てちまった。おめーみたいにセンスのカケラもなかったら、頑張り甲斐もあるんだろうけどよ。アタシには、必死こく理由が見つからねーんだ。こんなオママゴトみてーな勝負はどうでもいいって、アタシはようやく気づくことができたってわけさ」


「…………」


「だから、辞める。おめーらとのうざってー縁もここまでだ。あとはせいぜい二人で仲良くいちゃこいてろや」


「待ってよ! そんなの、サキたんらしくないっ!」


 感情を失っていたユーリの声に、ふつふつと怒りがにじみ始めている。

 ようやく感情のベクトルが定まったのだろう。

 瓜子は、いまだに定まらない。


「どーしてそんな風にジボージキになっちゃってるわけ? 看護生活に疲れちゃったの? そんなんでサキたんが選手を引退しちゃったら、牧瀬理央ちゃんってコもいやーな気持ちになっちゃうんじゃない?」


「……おめーがその名前を口にするんじゃねえよ、牛」


 サキの声にも、ゆらりと黒い感情がまとわりつく。


「それに、嫌な気持ちもへったくれもねえ。あいつはずっと、意識不明でベッドに寝たっきりなんだ。アタシが何をどうしようと、あいつは何も感じやしねえんだよ」


「……え?」


「あいつは一ヶ月前に、あのけったくそ悪い建物の屋上から飛び下りて、それ以来、ずーっと馬鹿みてーに眠ったまんまなんだ。頭を打って、ノーミソにチンケな傷がついただけだってのに、軟弱なこった。……で、手術も無事に済んだってのに、いまだに目を覚ましやがらねえ。原因がハッキリしねえから、いつ目覚めるかもわからねえ。このまま二度と目を覚まさないかもしんねえ。……そんな大馬鹿野郎が、どうやって嫌な気持ちになれるってんだよ?」


「だけど……いつかは目を覚ますんでしょ? そのときに、自分が原因でサキたんが大好きな格闘技を辞めたなんて知ったら、すっごく悲しくなっちゃうと思うよぉ?」


「脚色すんな。アタシは格闘技なんざ大好きじゃねー」


「大好きだよ! 大好きじゃん! だからユーリだって、サキたんのことを大好きになったんだもん!」


「そーかい。今までになんべんも言ってるけどな、アタシはおめーのことなんざ好きでも何でもねえ。……むしろ、嫌いだ」


 とても静かに、サキはそう言った。

 ぞっとするほど、静かな声で。


「……それにな、おめーだってアタシのことなんかは、何ひとつ知らないままじゃねーか。それで好きだの何だのと、いったいどの口がほざきやがるんだ? それじゃあおめーは、アタシがどうして格闘技の道場なんざに通い始めたと思ってんだよ?」


「それは……強くなりたいから、でしょぉ?」


 ユーリの言葉に、サキは「はん」と心底馬鹿にしきった様子で鼻を鳴らした。


「ああそうだよ。アタシはな、この世の中が憎くて憎くてしかたがなかった。だから、強くなりたかったんだ。力ずくで、このけったくそ悪い世の中をねじふせてやりたかったんだよ。……だけど、何にも変わらねえじゃねーか? アタシが試合に勝とうと、チャンピオンになろうと、この世の中はけったくそ悪いまんまで、あいつは屋上から飛び下りた。アホらしくて、やってらんねーよ。……あいつがこんな馬鹿な真似をしでかした理由も、おめーらはもう知ってんのか?」


「え? そんなの知るわけないじゃん」


「新聞ぐらい読めよ、このタコスケども。この一週間ぐらいは、昼のワイドショーでもさんざん騒がれてたんだぜ? ……ま、アタシもそれでようやく真相がわかったんだから、おんなじぐらいタコスケなんだけどなあ」


「ワイドショー……?」


「職員に、虐待を受けてたんだってよ。行き場をなくしたガキどもを育てる施設で、こともあろうに、職員がガキどもを虐待してたんだ。そりゃあニュースにもなるってもんだろ。……あいつの身体は、青アザやヤケドだらけでボロボロだった。そんなことにも、アタシは気づいてやれなかったんだ。アホらしすぎて、反吐が出そうだぜ」


 吸いかけのタバコを地面に叩きつけ、草履の裏で荒っぽく踏みにじる。

 その代わりに、今度は薄闇の中で、サキの目が火のように燃えはじめていた。

 その凄まじいばかりの眼光に心を灼かれながら、瓜子は(そうか)と考える。


 一週間前に、そんな真相が明かされてしまったのか。

 一週間前に、サキは心を砕かれてしまったのか。

 だからこの一週間は、練習も仕事も放りだして病室にこもりきり、ユーリの電話やメールにも返事をしてくれなかったのか。


 一週間、ユーリと瓜子は行動を起こすのが遅かったのだ。

 ユーリと瓜子は、もっと早くにサキを探すべきだった。

 サキが、このような目つきになってしまう前に。


「強くなって、あいつを守ってやりたかった……そんな風に考えてたこともあった。ちゃんちゃらおかしいだろ? アタシが何をどうあがいたって、このけったくそ悪い世の中は一ミリも変わらねえ。だったら努力なんざ、するだけ無駄だ」


「……何だよ、けっきょくスネてるだけじゃん。そんなの、やっぱりサキたんらしくないよ」


 ユーリは、唇をとがらせていた。

 この期におよんで、ユーリはまだユーリなのか……半分麻痺しかかった頭の中で、瓜子は舌を巻いてしまう。


「……ふざけんな。ベル様ベル様ってノーテンキに騒いでるおめーなんざに、とやかく言われたくねーんだよ」


「何それ? 不幸な生い立ちがないと頑張っちゃいけないの? ユーリは確かにベル様に憧れてるだけだけど、別に後ろめたくなんてないよーっだ」


 と、たまらぬほど小生意気な顔つきで、ユーリはアカンベーをする。


「だいたいさあ、サキたんが頑張ったって、変わるのはサキたんの世界じゃん。そりゃあサキたんがいくら頑張ったって、牧瀬理央ちゃんの世界は変わんないよぉ。納得いかない世の中をねじふせたいんだったら、牧瀬理央ちゃん自身が頑張らないとっ!」


「おめー……脳天カチ割られてーのか?」


「ふーんだ。お稽古サボってるサキたんのハイキックなんて怖くありませぇん。サキたんがサボりっぱなしだったこの二週間、ユーリは真面目にお稽古を続けてたんですからねぇ」


 声も高らかにそう言い放ち、ユーリはビシリとサキに指先を突きつけた。


「ユーリは絶対、夢を捨てないよ! ユーリだって、おバカで無力で何も持ってない自分があまりに情けなくて可哀想だったから、ベル様みたいになるんだいって決めたんだもん! その夢がかなうまで、ユーリは絶対にあきらめないし、屋上から飛び下りたりもしない! 牧瀬理央ちゃんも、無事にお目々を覚ますことができたら、もう一度頑張ればいいんだよ! ユーリみたいに、楽しくてハッピーになれる夢を探せばいいのさあっ!」


「ちょっと、ユーリさん……」


 ほとんど恐怖心すら覚えて、瓜子はユーリに取りすがることになった。

 このままユーリに素っ頓狂なことを語らせていたら、本気でサキが殴りかかってくるかもしれない。


 しかし───ユーリのサキを見つめる瞳には、サキに負けないほどの激しい炎がくるめいていた。

 まるで怒れる闘いの女神のように、ユーリは仁王立ちのまま、強い声で言った。


「この世の中が納得いかないなんて、そんなの当たり前のことじゃん! ユーリだって、こんな世の中、イヤでイヤでしかたがなかったよ! 大好きだったパパは五歳のときに死んじゃったし、まあまあ好きだったママも十歳のときに死んじゃったし……そんで、ママが再婚した相手は、最低最悪のエロジジーだったしね! いくら血がつながってないからって、戸籍上は娘のユーリに手を出そうとするなんて、そんなのあり? ママが死んじゃった後は、毎日が地獄だったよ! 死にたい死にたいってずっと思ってた! だけど死にたくなかったから、家を飛び出してアイドルを目指して……それでもダメで、また死にたくなって……それでようやく、ベル様にめぐりあえたんだもん! だから、ユーリは絶対にあきらめない! どんなにツラくても、どんなにバカにされても、夢をかなえるまで頑張り続けるって決めたんだよっ! じゃないと……何のために生まれてきたか、わかんないじゃん!」


「…………」


「ユーリさん……」


「ユーリより不幸な人なんてたくさんいる! サキたんより、牧瀬理央ちゃんより、うり坊ちゃんより不幸な人だってたくさんいる! だからユーリは誰にも同情したりしないし、誰にも同情されたくない! ユーリはただ頑張るの! そう決めたの! だからサキたんもそんな風にいじけてないで、もっともっと強くなれるように頑張りなよっ!」


「…………」


「だいたいさぁ、アトミックのライト級チャンピオンになったぐらいで王様きどり? それで世の中は何にも変わんねーっていじけちゃってんの? バッカみたい! だったらサキたんは、ベル様に勝てるの? 来栖選手に勝てる? 沙羅選手には? ジーナ選手には? うり坊ちゃんには? ユーリには?」


「ユ、ユーリさん、ちょっと……」


「サキたんはこの前とっとと帰っちゃったから、知らないでしょ? 十一月に、ベル様が来るんだよ! そんで、《アトミック・ガールズ》の初代無差別級王者を決めるの! このトーナメントで優勝できれば《アトミック・ガールズ》のナンバーワンだし、ベル様に勝てれば世界でナンバーワンを名乗ってもいいんだよ! チャンピオンになっても何にも変わんねーとか、そんなセリフはこのトーナメントで優勝できるぐらい強くなってから言ってよねっ!」


「……おめーも、出るのか?」


 と、サキがまた感情を失った声で言った。

 ユーリはサキに突きつけていた指をピースサインに変化させ、にっと笑う。


「出るよ! 出るに決まってんじゃん! 階級も戦績も関係なくて、アトミックの登録選手だったら誰でも出られるんだから、ユーリも絶対に出る! なんか来栖選手とかがユーリに出るなとか言ってるみたいだけど、それは千さんがきっと何とかしてくれる! だから出る!」


「……そいつは豪気なお話だな」


 サキはアロハの胸ポケットから再びタバコの箱を取り出して、それをぐしゃりと握り潰した。


「わかった。あんなチンケな相手で引退じゃあ、いくら何でもアホらしすぎると思ってたとこだ。アタシがおめーの尊敬するブラジル女や来栖のババアをぶっ潰して、見事に優勝してやんよ。……ほんで、そんな茶番には何の意味もねーって証明してやる」


「はっはーん。今のサキたんじゃユーリに勝てるかすら、あやしいもんだね! 言っておくけど、ユーリだってベル様に当たるまでは、誰が相手でも負ける気ないから!」


「ほざいてろ、牛。おめーなんざ、眼中にねーよ」


 そう言って、サキは今度こそ背を向けた。

 ユーリは手をおろし、ちょっと唇をかんでから、やがて決意を固めたかのように、叫ぶ。


「サキたん! ユーリはサキたんのこと、すっごくすっごく大好きだから!」


「ほうかい。アタシはおめーのことが、この世で一番大っ嫌いだよ」


 振り返りもせず、サキはそう言った。


「その長ったらしい髪の毛も、ムダにでっけー目も、ぶよぶよの白い肉も、牛みてーな馬鹿力も、なんもかんもがムカついてしかたがねーや。二度とアタシに話しかけんなよ。話しかけても、シカトすっけどな」


 そんな言葉を最後に、サキの姿は闇の向こうへと消えていく。

 たっぷり三十秒は黙りこくってから、やがてユーリは静かに「帰ろっか」とつぶやいた。


「そうっすね。……ユーリさん、大丈夫っすか?」


「んーん。全然ダメぇ。やっぱ大好きな相手に大嫌い呼ばわりされるのはツラいもんだねぇ」


 サキとは反対の方向に歩を進めつつ、ユーリはけらけらと笑いだす。


「勢いあまって、無意味なカミングアウトまでしちゃったしさぁ。ユーリのしょーもない過去をうっかりバラしちまったぜぃ。……うり坊ちゃんも、ユーリのこと、キライになっちゃったぁ?」


「そんなわけ、あるはずないじゃないっすか」


 歩きながら、瓜子は半ば衝動的に、ユーリの指先を握りしめてしまった。

 びっくりしたように、ユーリが振り返る。


「自分はユーリさんのこと、好きっすよ」


 また抱きつかれるかもしれないけれど、瓜子はそう告げずにはいられなかった。

 しかしユーリはおずおずと瓜子の手を握り返してくるばかりで、そんな蛮行にはおよぼうとしなかった。


「ありがとお。……またいつか、サキたんと三人で暮らせるようになったら、いいね?」


 暗い住宅街。七月の蒸し暑い夜。

 ユーリの手を握り、夏の星空を見上げながら、きっとこの夜のことは一生忘れられないんだろうな、と瓜子はぼんやりとそんなことを考えてしまった。

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