04 夢見る老婦人

「ふおお! ここが横浜かあっ!」


 改札口を飛び出すや、ユーリは駅舎の巨大な窓ガラスに張りついて、子どものような大声をあげた。


 夜景が綺麗だ。時刻は午後の十一時前。まだまだ構内には大勢の人間が行き交っており、ユーリの姿をちらちらと眺めながら通りすぎていく。

 新宿から横浜まで、快速電車を使えばわずか三十分で到着することができた。

 しかしユーリは、何のためにこのような場所にまでやってきたのだろうか?


「うにゅ? そんなの、サキたんを探すために決まってるじゃん! さあ、いざ出陣だよ、うり坊ちゃん!」


 トレーニングウェアや化粧道具のつまったボストンを担ぎなおし、ユーリは悠然と歩きはじめる。慌ててその後を追いながら、瓜子は惑乱した声をあげずにはいられなかった。


「サ、サキさんを探すって、いったいどうやって? 手がかりも何もないじゃないっすか! ……それ以前に、サキさんが横浜にいるかどうかだって……」


 実家も、妹も、入院も、すべては嘘っぱちだったのだ。ならば、実家は横浜にある、という言葉も嘘である可能性のほうが高い……そもそも、実家自体が存在しないのだから。


「そしたらほんとに手がかりゼロになっちゃうから、敗残兵と化して泣きながら撤退するしかないねぇ。……だけど今はここを探すしか手段がないから、ここを探すの! 流した汗は嘘をつかないよ!」


「わけがわからないっすよ。だいたい、サキさんを探してどうしようってんですか?」


「知らないよ! ユーリはサキたんに会いたいだけ! ダムダム選手のお言葉を聞いて、ユーリは無性にサキたんと会いたくなっちゃったの! サキたんのお顔を見て、お声を聞いて、ぎゅーっと抱きしめたいだけなんだよっ! その他のことは、どうでもいいっ!」


 力強くそう宣言するユーリの様子は、ふだんとほとんど変わりがなかった。

 ただ――黒ぶち眼鏡の向こうの瞳に、ほんの少しだけ迷子の子どもみたいな光が浮かんでいるような気がする。

 瓜子は、ぎゅっと拳を握りこんだ。


「わかりました。自分もサキさんには会いたいっす。……だけど、どうやって探すんすか? まさか、横浜中を歩いて回るつもりじゃないっすよね?」


「それで見つかるなら、そうするけどね。たぶん無理だから、片っ端からそーゆー施設に連絡をとってみようと思うにょ」


「そういう施設……?」


「サキたんみたいな身の上の赤ちゃんを、養育してくれるような施設。電車の中で千さんにメールして、あらかたリストアップしてもらったんだぁ。インターネットってのはすごいねぇ。こんなのもパパッと検索できちゃうんだから!」


 電車に乗っていた三十分間、ユーリがぶつぶつと独り言を言いながら携帯をいじっていたのは、そういうことだったのか。

 ユーリにひきずられるようにして電車に乗りこみつつ、ずっと思考停止状態だった自分を、少なからず恥ずかしいと思う。自分などより、ユーリのほうがよほど地に足がついているではないか。

 あるいは、浮き足だったあまり、空を飛んでいるだけかもしれないが、何にせよ、ユーリは目的に向かって突進しようという意欲に満ちみちていた。


 千駄ヶ谷女史がリストアップしてくれた施設は、十件。

 この中に、サキの育った施設とやらは、本当に存在するのだろうか。


「あ、こんばんはぁ。夜分遅くに申し訳ないですぅ。ワタクシ、桃園という者なのですけれどぉ……」


 駅舎内を歩きながら、ユーリはさっそくそのうちの一件に電話をしはじめた。


「はいぃ。仕事を休んで行方をくらませてしまった同僚を探しているのですねぇ。それで別れ際に、実家へ戻ると聞いたものですからぁ、それはお世話になった施設のほうに戻るという意味かなぁと思って、ご連絡させていただいたんですぅ……はい? その人の名前ですかぁ?」


 そういえば、サキの苗字は何と言うのだろう。半年来のつきあいだというのに、瓜子はそんなことすら知らない。


「サキたん……あ、いいえ、サキさんですぅ」


 瓜子は、ずっこけそうになった。


「ちょ、ちょっと、ユーリさん……?」


「うり坊ちゃんお静かに! ……ああ、はい、そういう方が在籍した記録はないですかぁ。はい、そうですねぇ、年齢は二十一歳ですぅ。……はい、ありがとうございましたぁ」


 瓜子が止める間もなく、ユーリは、ピッ、と電話を切ってしまう。


「一件目は外れぇ。残りは九件かぁ。よぉし、バンバン行くぞぉ」


「ユーリさん! きちんと名前を伝えてくださいよっ! それじゃあ見つかるものも見つかりません!」


「うにゃ? 何をエキサイトしておるのだね、うり坊ちゃんは? サキたんはサキたんじゃないか。他にどう呼び様があるというのかにゃ?」


「いや、だから……」


 ユーリはかまわず、また電話をかけ始めてしまう。

 瓜子はほとんど絶望的な気分に陥ってしまったが、驚くべきことが起きた。


「……あ、そうですぅ。サキさんですぅ。昼間は建築現場のお仕事をしてて、《アトミック・ガールズ》っていう格闘技イベントにも参加してる……はい。はい。ありがとうございますぅ。それじゃあ、これから、おうかがいしますねぇ」


 そんな風に結んだかと思うと、電話を切って、瓜子にピースサインを送ってきたのだ。


「二件目で大当たり! あけぼの愛児園さんだってぇ。なかなかかわゆいお名前だねぇ」


「え? ほ、本当に見つかったんすか?」


「うん。鳶でプロファイターで二十一歳でサキっていうお名前の人間なんて、他には聞いたことがないからねぇ。どう考えたって、本人でしょ! プライバシーに関わることだからお電話では何もお話できないけど、サキたんが横浜に帰ってきてる心当たりもあるって言ってたよぉ」


                 ◇


 あけぼの愛児園なる児童擁護施設は、横浜駅からタクシーで二十分ほどの、何のへんてつもない住宅街の真ん中にあった。

 白くて清潔で簡素な作りをした、どことなく学校の校舎を思わせる二階建ての建物で、中庭には芝生がひろがり、駐車場には施設名の記されたワゴン車が停まっている。すでに深夜ということもあり、あたりはずいぶんと静まりかえってしまっていた。


「こんばんは。桃園さんですね? 私は当園の副園長で、加賀見と申します」


 二人を出迎えてくれたのは、白髪頭で品のいい面立ちをした老婦人で、どう考えても無害な一般市民には見えぬであろうユーリを前にしても、おだやかな微笑を絶やさなかった。

 入り口のロビーにて、キャップと眼鏡を外したユーリは、子どものようにぺこりとおじぎをする。


「こんな夜遅くにごめんなさい。そして、ありがとうございますぅ。……あの、お電話でもお話しした通り、ワタクシたちは、サキたん……いや、サキさんを探しにやってきたんですぅ」


「はい。彼女は……おそらく、市内の総合病院にいるはずです」


「病院?」


 ユーリと声がそろってしまった。

 加賀見なる老婦人は、同じ表情のまま小さくうなずく。


「そうです。彼女が妹のように可愛がっていた牧瀬理央という当園の園生が、そこに入院しているもので……きっとその看護をしてくださっているのでしょう」


 瓜子は、腰からくだけそうになった。

 自分と同じ施設で育った、妹のように可愛がっていた少女が入院してしまい、その面倒をみている――だったら別に、サキは嘘らしい嘘などついていないではないか。ほんの少し、言葉にヴェールをかけているだけだ。そんなものを、瓜子は「嘘」などと呼びたくはなかった。


「本当は、私たちが面倒をみるべきなのですけれど、彼女が帰ってきてくださったのをいいことに、すっかり甘えてしまっておりました。……この一週間は、朝から夜まで病室につきっきりで、お仕事のほうは大丈夫なのかと何度も尋ねたのですが、大丈夫だの一点張りで……やはり、大丈夫ではなかったのですね」


 朝から夜まで、病室につきっきり。

 ならばこの一週間は、出稽古でトレーニングを積むどころか、日中の仕事すら休んでしまっているのだろうか。

 しかし───それがサキの判断ならば、瓜子たちにとやかく言う権限などないのだろう。


「私も、心配していたのです。このままでは彼女のほうが先に参ってしまうのではないかと……食事もあまり満足には口にしていないようですし、なんというか、目の光が……幼い頃に逆戻りしてしまっているような感じがして……」


「……幼い頃?」


「はい。幼い頃、彼女は手のつけられない乱暴者だったのです。町でも学校でも誰彼かまわず牙をむき、警察に補導されることもしょっちゅうでした。それで、十六歳になると同時に、ほとんど家出同然でこの施設を飛び出して、ひとりで生活するようになってしまったのです」


 そんなことを、うかうかと初対面の瓜子たちに話してしまってもいいものだろうか?

 品のいい顔にほのかな苦渋の色をにじませた老婦人に、瓜子は小さからぬ疑問と不審の念を抱くことになった。


「……そんな彼女と唯一仲良くしていられたのが、四歳年少の理央さんだったのですね。彼女はとても明るくて、だけどとっても泣き虫で、当園でも学校でもいつも誰かに泣かされていました。それを彼女は、本当のお姉さんみたいに庇ってあげていたのです。彼女たちは、小さな頃から本当に仲良しさんでした……」


「…………」


「彼女が施設を飛び出した後も、理央さんとだけは連絡を取り合っていたようですね。理央さんは、今年でもう十八歳になられるのですけども、いつまでたっても子どもの面が抜けなくて……将来は、ちゆみちゃんのお嫁さんになるんだって、いまだにそんなことを言っておりましたのよ。それが私には、いじらしく思えてならなくて……」


「……ちゆみちゃん?」


 瓜子が口をはさむと、老婦人は「はい、ちゆみさんです」とまた微笑した。


「貴女がたが探しておられる、佐木ちゆみさんですよ……あら、もしかしたら、人違いだったのでしょうか?」


「いえいえ、そのサキさんで間違いないですぅ。……そっか、うり坊ちゃんはサキたんの下の名前を知らなかったのかぁ。ごめんね? その名前で呼ぶと、サキたんは無言で燕返しをぶっぱなしてくるんだよぉ」


「あらあら。相変わらず自分の名前が好きになれないのですね……そんなところは、ちゆみさんも昔のままなんだわ」


 あくまでも穏やかに、老婦人は微笑んでいる。


「だけど……理央さんがあんなことになってしまって、ちゆみさんもさぞかし気を落としていることでしょう。私も副園長として、責任を感じています……どっちみち、このあけぼの愛児園も閉鎖するしかないのでしょうけどね……」


「……はい?」


 今度はユーリも不審げな顔をした。

 態度はとても穏やかなのに、やはりこの老婦人はどこかが少しだけ破綻してしまっている。何だか話もとっちらかっているし、聞いてもいないことを喋りすぎだ。

 それに……穏やかな顔つきではあるけども、何となく、表情がぼやけてしまっている。


「あんなことが明るみに出てしまった以上、私たちは世間様に顔向けができません。だけどそれは私たちの責任なのですから、私たちはかまわないのです。でも……何の罪もない園児たちが、不憫で不憫で……新しい受け入れ先が無事に見つかるかもわかりませんし、かといって、これ以上この場所に留まっていたら、世間様にどのような目で見られるかもわかりませんし……」


「ちょ、ちょっと、話が全然見えないんすけど! あの、あんなことっていうのは、いったい……?」


 たまらず瓜子は、老婦人の言葉をさえぎった。

 その瞬間、ガシャンッというガラスの砕け散る音色によって、夜の静寂が叩き壊された。


 瓜子たちは驚いて振り返り、そこに、ロビーのガラス戸をおそらくはミドルキックで蹴り砕いたらしいサキの姿を発見することになったのだった。


「ババア……おめー、何の話をしてやがるんだよ?」


「ちゆみさん、なんてことを……足は大丈夫ですか?」


 おろおおろと両手をもみしぼる老婦人から、呆然とたたずむ瓜子たちのほうに、感情の欠落した眼光が突きつけられる。


「おめーらも、何をトチ狂ってこんなところまで出張ってきやがったんだ? ……とっとと帰れ。二度とそのツラを見せんな」


「サキたん!」


 サキはくるりときびすを返し、ユーリは猛然とその背中を追いかけはじめる。

 もちろん、瓜子もすぐに追おうとした。

 しかし最後に、老婦人の穏やかなつぶやき声が耳に忍びこんできてしまった。


「あらあら……そういえばあの娘さん、よく見たら理央さんに似てるわねぇ。長い髪とか、大きなお目々とか、そっくりだわぁ。……だからちゆみさんも、お友達になれたのねぇ」


 その品のいい優しげな面は、サキの凶行など忘れてしまったかのように、静かな微笑みをたたえている。

 瓜子は背筋にうそ寒いものを感じながら、二人の後を追ってロビーを飛び出した。

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