ACT.2 狭間の日
01 夢
ひさしぶりに、夢を見た。
瓜子は眠りが深い。中学二年の終わりでキックを始めてから、なおさら眠りは深くなり、それ以降はほとんど夢などは見なくなっていたのだった。
夢を見ても、すぐに忘れてしまう。
だからこの夢も、きっとすぐに忘れてしまうのだろう。
見たのは、家族の夢だった。
北海道に転居した両親。五年前に他界してしまった祖母。二年前に大阪へと嫁いでいった、四歳年長の姉。
みんなが笑顔で、瓜子を取り囲んでいる。
笑顔なのに、何だか怖い夢だった。
よかったね……と、誰かがつぶやいている。
何がよかったのだ?
生まれ育った実家は他人の手に渡り、両親は遠い海の果てにいなくなってしまった。
姉はもう少し近い場所に住んでいるが、子供も生まれてしまったことだし、今後はそうそう会う機会もないだろう。
祖母にいたっては、絶対にもう会えない。
みんな、いなくなってしまったではないか。
こんな人生の、何がうらやましいと言うのだ?
よかったね……
まだ言っている。
それはもちろん、家族には恵まれているほうだと思う。両親とはあまり反りが合わなかったが、姉とはずいぶん仲が良かったし、祖母のことは大好きだった。それに、自分自身とは相性がよくなかったものの、父と母はたいそう仲が良く、事業に失敗して絶望的な状況に陥っても、二人の関係性は壊れなかった。それは瓜子にとって、何よりの救いであったのだ。
よかった、ね……
泣いているのか。
いいトシをして、何を泣いているのだ。
それとも、まだ子供なのか? そうかもしれない。その娘は、とても小さくて、弱々しくて、道端に放り出された捨て犬よりもあわれげに泣きじゃくっていた。
だけどその顔は、幼い頃の瓜子のものだった。
いや、瓜子ではなく、サキだったかもしれない。
ユーリだったかもしれない。
何でもいい。とにかくその娘は、ものすごく可愛らしいのに、ものすごく可哀想だった。
そっと頭をなでてやるが、娘は泣きやまない。
いつのまにか、家族の姿は消えている。
光の差さない闇の中で、瓜子はその娘とふたりぼっちになっていた。
これは、自分じゃない。
これが自分なら、自分はさびしくてやりきれなかっただろう。こんな真っ暗な闇の中で、自分の他に自分しかいなかったら、自分は生きていくことができない。
だから瓜子は、その娘を抱きしめてやった。
同じ力で、その娘も瓜子を抱きすくめてくる。
やわらかい。
あたたかい。
甘い、花のような匂いがする。
それに、ちっとも小さくない。りっぱな腕だ。身体も大きい。瓜子よりも、ずっと大きい。
だけど、その娘は、泣いていた。
(泣かないで、×××さん)
瓜子は、ぎゅっと腕に力をこめた。
「うにゃあ」と心地好さげな声が響き、それで急速に瓜子の意識は現実へと浮上しはじめた。
「うわ……またか」
半覚醒の頭で、瓜子は思わずつぶやいてしまう。
ユーリの赤ん坊みたいな寝顔が、目と鼻の先に転がっていたのだ。
顔がこの位置にあるということは、やはり瓜子にべったりと密着しているこのやわらかな物体がユーリの胴体であり手足であるのだろう。寝相が悪い上に抱きつきグセのあるユーリは、こうしてたびたび寝ている間に瓜子にひっついて、そして最終的には悲鳴をあげながら飛び起きる、というのがパターン化していたのだった。
できることなら、ユーリが目覚める前にこの拘束から脱出したいところであるが、いかんせんユーリは馬鹿力なのである。そんな怪力で、手足の両方を使っておもいきり瓜子の身体を抱きすくめているものだから、こちらが先に目を覚ましても回避のしようすらない。
(ハレモノあつかいされるこっちだって、たまったもんじゃないのになあ)
左腕だけは何とか自由がきくようだったので、瓜子はそれを毛布の中からひっぱりだした。
そうして、手の平をぱふっとユーリの頭に乗せてやる。
べつだん、意味はない。夢の中で、こうして誰かの頭をなでてやっていたような気がしただけだ。
その瓜子からのささやかな攻撃で、ユーリは「むにゅにゅ」と唇をうごめかせた。
いちおう一歳年長であるはずだが、寝顔だけ見ていると本当に子供みたいだ。
自分の胸もとにおしつけられている凶悪な物体については、あえて考えないことにする。
「ユーリさん、朝っすよ?」
いきなり騒がれたらこちらも心臓に悪いので、地雷源に小石を放りこんでみる。
するとユーリは「にゅーっ」ときつく目を閉じた。
にゅーじゃないよ、にゅーじゃ、と瓜子は苦笑しそうになる。
「朝ですってば。そろそろ起きる時間です。朝ごはんにしましょうよ」
「むにゅう……ごはん?」
いかにも渋々と、まぶたが持ち上がっていく。
できれば耳でもふさいでおきたいところだが、どうせ左耳しか守れないので、瓜子はあきらめた。
「そうです。朝ごはんです。サキさんがいないから、今日の当番は自分でしたっけね」
ふいにユーリの目が見開かれ、ピンク色の唇が「ふ」の形にすぼまった。
ふぎゃああああぁぁぁっ……という、トラックに轢き殺された猫のような絶叫が、ユーリの口から放たれ───ない。
「……おや?」
「……あれ?」
「…………」
「…………」
「……おはよぉ、うり坊ちゃん」
「あ、おはようございます」
「…………」
「…………」
「…………」
「……ユーリさん、あの、自分、おもいっきり抱きしめられてるんすけど……」
「うん。とってもあったかいねぇ」
「はあ……」
「…………」
「…………」
「……克服、できたみたい」
じわじわと、花が開花していくかのように、ユーリの白い面に微笑がひろがっていく。
まるで、試合に勝てたときのような笑顔だ。
「気色悪くないっ! 鳥肌も立ってないっ! むしろ猛烈に気持ちがよい! おめでとぉ! うり坊ちゃんは、合格したのだよっ!」
「ご、合格って何なんすか? いいから、この手を放してください!」
「イヤだね! 絶対に放さないっ!」
放すどころかそれまで以上の怪力で締め上げられ、瓜子は臓物を口からしぼりだされそうになってしまった。
そして、すべすべのほっぺたが顔におしつけられてくる。
「ちょっと! いいかげんにしてくださいよ!」
「イヤだってば! 逃げたら、しめ落とすっ! そしてカラダのスミズミまでまさぐりたおす!」
けっきょくその朝は、普段以上に騒々しい幕開けと成り果ててしまった。
そうして完全にサキのいない、二人だけの生活がスタートしたのである。
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