02 悪夢のごとき現実

「えー? 今日もシリアルー? うり坊ちゃんが当番だと、シリアルばっかり! ちょっと手抜きなんじゃないのぉ?」


「そんなことないっすよ。一昨日はトーストだったじゃないっすか」


 朝から一日分のエネルギーを消費しつくしてしまった気分の瓜子は、しかめっ面でユーリの皿に乾燥食品をぶちまけてやった。

 ダイニングのテーブルにだらしなく着席したユーリは、「ちぇっ」と唇をとがらせながら、ぽちぽちと携帯端末を操作している。


「朝から携帯なんて珍しいっすね。サキさんにメールでも送ってるんすか?」


「んーん。千さんのサプライズニュースの裏をとってるの。……でも英語のサイトばっかりでよくわかんないにゃあ。ベル様、ほんとに《スラッシュ》を辞めちゃったのかしらん」


「知らないっすよ。だけど千駄ヶ谷さんだったら、未確認情報をうかうかと口外したりはしないんじゃないっすかね」


「そうだよねぇ。ううん。だけど、一晩たったら実感がなくなっちゃったなぁ」


 携帯端末を放りだし、シリアルにどぼどぼとミルクを注ぐ。

 何だかんだと言いながら、最低三杯はおかわりを要求してくるのだ、この大食らいは。


「《アトミック・ガールズ》で、ベル様と試合……うん、やっぱり現実感が皆無だわん。うり坊ちゃん、今日こそほっぺたをつねってくれんかね?」


「お断りします。……とにかくユーリさんは、自分にできることをやるしかないんじゃないっすか?」


「ユーリにできること?」


「そうっすよ。だって、ベリーニャ選手が本当に参戦してきたところで、試合を組まれなかったら何にもならないじゃないっすか?」


 カシャンと、スプーンの落ちる音がした。

 ユーリの目が、信じがたいものでも見るかのように瓜子を見る。


「うり坊ちゃん……アナタはどうしてそんな意地悪を言うの? ベル様が参戦するのにユーリが闘えないなんて、そんなのアリ?」


「アリっすよ。現時点での戦績で考えたって、ユーリさんが選ばれる可能性なんて、せいぜい六番手か七番手ぐらいじゃないっすか? ミドル級未満は切り捨てるとしても、無差別級にはアトミックの誇るトップスリーが控えてるわけですし、ミドル級にだって、人気と実力を兼ね備えた日本人選手が、まああと二、三人はいるわけですから」


「…………」


「ユーリさんがその全員をブチ倒すっていうんなら話は別っすけど、それでも大会は隔月ペースなんすから、軽く一年はかかっちゃいますよね。《スラッシュ》の契約切れを待ってるっていうベリーニャ選手が一年以上も日本に居残る理由はないわけですし、そうすると、ユーリさんが対戦する可能性なんてほとんど皆無に等しくないっすか?」


「うわぁん、意地悪! うり坊ちゃんは意地悪だっ! ユーリへの愛がまったく感じられない! ユーリはこんなにうり坊ちゃんが大好きなのにぃ!」


「な、何すか。おかしな方向に話をねじ曲げないでくださいよ。今はベリーニャ選手の話をしてるんでしょう?」


「だってぇ。ようやく封印が解けたんだもぉん。これがユーリにとってどれほど重大な出来事か、うり坊ちゃんには想像もつくまい」


 と、白い指先がにょろにょろのびてきて、瓜子の二の腕をつついてくる。

 瓜子は、たっぷりとミルクの注がれたシリアルの皿をひっくり返してしまいそうになった。


「あ、あのですねぇ、ユーリさん……」


「大丈夫! ユーリは節度ある娘さんだから! 封印が解けたからって、そんなむやみにべたべたさわったりしないよぉ。……そんなの、もったいないからねぇ」


 と、むやみに色っぽい流し目で瓜子を見つめながら、「くふふ」と笑う。

 何というか、瓜子としては悪代官に差しだされた村娘のような心境だった。


「そしてユーリには聡明な一面もあるから、うり坊ちゃんの言葉も正しく理解することができた! まだ《アトミック・ガールズ》への参戦が決定したわけでもないベル様の挙動など気にかけず、今まで通り稽古にはげめってことだね! 今のユーリにできるのは、ベル様の対戦相手に相応しい強い女を目指すことだけなのだ! ……そしたら、今までと何も変わらないねぇ」


「……そうっすよ」


 それだけのことを理解するのに、どれだけ回り道をすれば気が済むのか。まったく聡明が聞いて呆れる。


「……だけど、サキたんがいなくなっちゃったのは痛いにゃあ。ムエタイスタイルからのタックルのタイミングとか、首相撲から内掛けへの連携とか、色々課題がたまってきてるのにぃ」


「……そうっすね」


 組み技に関しては瓜子のほうが教わる立場だし、立ち技においても、長身のユーリと小柄な瓜子ではノウハウが違いすぎる。せっかく自宅でもあるていどのトレーニングは可能な環境であるというのに、力になれないのが口惜しい。


(それにしても……)


 ユーリは、どこまで強くなるのだろう。

 サキの考案したムエタイスタイルを引き金に、ユーリは貪欲に進化し続けている。


 半年前までは「地上最弱のプリティファイター」などと呼ばれていたユーリが、今では「世界最強の女」と名高いベリーニャ・ジルベルト選手との対戦を、まあギリギリとはいえ視野に入れることのできるほどのポジションにまで昇りつめたのだ。

 それは、快挙と言っても足りないぐらいのことだろう。


 次の大会では、いよいよミドル級における正統派の強豪選手とも対戦することが決まり、これに勝利さえすれば、名実ともにトップファイターの仲間入りである。

 仮に負けてしまったとしても、沙羅選手を始めとする実力者たちに圧勝したという実績は消えない。


 ユーリは、強いのだ。

 ここからまたまさかの十連敗でもしないかぎり、ユーリが地上最弱などと揶揄されることは二度とないに違いない。ユーリの勝利はフロックでもラッキーでもなく、たゆみない努力と研鑽の果てにつかみとったものなのだから。


「……むずかしい顔して、どしたの、うり坊ちゃん? いいんだよぉ、そんなにユーリのことばっか心配してくれなくても! 今度の大会は、うり坊ちゃんにとっても正念場なんだから!」


「別に、ユーリさんのことを考えてたわけじゃないっすよ」


 瓜子は嘘をつき、ユーリは「ぶー!」と頬をふくらませる。

 しかし、確かにユーリのことばかりを考えている場合ではなかった。

 再来週に開催される《アトミック・ガールズ》の七月大会において、瓜子はいよいよMMAファイターとしてデビューするのだ。


 まさか、寝技の稽古を始めてわずか半年でデビューすることができるとは思わなかった。

 どうやら《G・フォース》のフライ級一位という肩書きが、プロモーターの食指を動かしたらしい。嬉しい反面、話題性やネームバリューを重んじる《アトミック・ガールズ》の本質が垣間見えた気もしてしまう。


 しかし、運営側が許すというなら、瓜子の側にそれを拒絶する理由はない。

 夢にまで見た《アトミック・ガールズ》のリングに立てるのだ。

 表面上は平静を装いつつ、瓜子の胸には絶え間なく熱情の火が燃えさかっていた。


「……さて、そろそろ支度しないと遅刻しちゃうかにゃ。今日の撮影は、六本木のスタジオだったよねぇ?」


 三杯目のシリアルをかきこみながら、気を取り直したようにユーリが言った。

 感心なことに、せちがらい現実へと気持ちを切り替えることに成功できたようだ。瓜子も慌てて、テーブルに放りだしておいたスケジュール表のページを繰る。


「はい。八時から十一時半までが『P☆B』の撮影で、午後の一時から三時までが『格闘技マガジン』の取材。四時から六時までがネットラジオ『@ステーション』の収録っていう予定っすね」


「わふぅ。商売繁盛だにゃあ。勝てば勝つほど副業が忙しくなるとは、これ如何に!」


「いいじゃないっすか。アイドルとしてじゃなく格闘家として知名度が上がってきたっていう証明っすよ」


「わ、何だかスターゲイトっぽい! 千さんにシッタゲキレーされて、マネージメント業務に燃えてきた?」


 けらけらとおかしそうに笑ってから、ユーリは思いがけないほど穏やかな目つきで、じっと瓜子を見つめてきた。


「うり坊ちゃんと離れたくないってのは単に気持ちの問題だったんだけど、やっぱり千さんの提案には猛反対して正解だったんだろうなぁ。……あんまり面白くなさそうなお仕事も、うり坊ちゃんと一緒だとそんなに苦にならないの。今後も末永くよろしくね、うり坊ちゃん!」


                  ◇


 ユーリとスポンサーおよびモデル契約を結んでいる『P☆B』こと『ピーチ☆ブロッサム』は、若い女性向けの衣料品を中心に制作と販売をしているファッションブランドである。


 日本でも有数の大手衣料品メーカーの子会社であり、ごく早い段階からカタログ販売やネット販売に着手して、若年層の市場を開拓してきた。特に水着や下着やインナーウェアの方面に強く、近年ではスポーツブランドと提携してスポーツウェアのデザインを手がけたり、アスリートや女性ミュージシャンとのコラボレーション企画を立ち上げるなどして話題を呼んでいる。


 そんな『ピーチ☆ブロッサム』が、アイドル格闘家ユーリ・ピーチ=ストームのスポンサーとなり、同時進行で《アトミック・ガールズ》や《G・ワールド》に出場するラウンドガールの衣装を請け負うようになったのは、スターゲイトの荒本なる人物の手腕なのである。


 瓜子はけっきょく一度としてその人物と顔をあわすこともなかったが、かえすがえすも荒本の存在なくして現在のユーリの立場はなかったのだろうなと察せられる。


 ユーリの付添人として『ピーチ☆ブロッサム』の撮影現場まで同行した瓜子は、スタジオの隅のパイプ椅子にちょこんと陣取り、為すべきこともないままにつらつらとそんなことを考えていた。


「あらぁ、ユーリちゃん、かわゆいお手々がアザだらけじゃない。……ダメでしょお? こぉんな綺麗なお肌に傷をつけるなんて、犯罪よ犯罪」


 カメラマンらしき人物が、ほっそりとした身体をくねらせながらそのよう悲嘆の声をあげると、ユーリは「えへへ」といたずらっぽく笑った。


「ごめんなさぁい。だけどユーリは何度も言ってる通り、闘うことがお仕事なのでぇ」


「ユーリちゃんがそんな野蛮なスポーツの選手だなんて、アタシにはいまだに信じられないわぁ。……やだ! かわゆいあんよにまでこんなにアザが!」


 と、優美な仕草で額に指をそえ、ひどくアンニュイに溜息をつく。

 ずいぶんと、なよやかな人物であるようだ。

 外見的には、坊主頭でメガネでヒゲの、やたらと細っこい体格をした中年男性なのだけれども。


「とにかく、これは消しておかないとねぇ。……ちょっと、こっちにファンデをお願い!」


 何やら大荷物を抱えてスタジオを横断しようとしていた女性スタッフが、「はーい」と答えながら来た道を引き返す。

 定刻通りに到着したというのに、スタジオ内部は鉄火場のような慌ただしさだった。


 到着と同時に別室へとさらわれたユーリは、数十分後にガウン姿で再登場し、今は手足にファンデーションを塗りたくられている。昨日あれだけレオポン選手に殴られたり蹴られたりしたのだから、それは青アザのひとつやふたつではきかないだろう。いつも思うのだが、試合の翌日に撮影の仕事などを入れているのが、そもそも無謀な話なのだ。


 本日のユーリは、スポンサー契約とは関係なくひとりのモデルとしてこの撮影スタジオにやってきている。何でも『ピーチ☆ブロッサム』のカタログや通販サイトに掲載する写真を撮影するらしい。


 ならば、男性誌やマンガ雑誌のためのグラビア撮影よりは、目の毒になることもないだろう───と、そんなことを考えていたところに、ユーリが瓜子のもとへとにじり寄ってきた。どうやら傷痕の隠蔽が完了したらしい。


「うふふぅ。うり坊ちゃん、おひまそうだねぇ。本日の衣装も、とびきりかわゆいよ! 見たい? 見たい?」


「いや、どうせすぐに撮影が始まるんすから……」


「見せてあげるね! ジャジャジャジャーン!」


 まるで変質者のごとく、がばっとガウンの前をはだける。

 瓜子は、パイプ椅子ごとひっくり返りそうになった。

 ユーリは、なんと、水着姿ならぬ下着姿であったのだ。


「ちょ、ちょ、ちょっと! 何すか、その格好は?」


「んー? 今年の夏の新作だって! かわゆいよねぇ。ユーリにぴったり!」


 それは否定しない。が、下着は下着だ。

 白地にピンクの小さなフリルをあしらった、それはそれは小洒落たデザインで、ユーリの白い肌にはぴったりと似合っている。大人っぽすぎず、子供っぽすぎず、高校生から大学生ぐらいのお年頃には、絶大なる人気を誇るに違いない。

 だけど、下着は下着ではないか。


「ユ、ユーリさん、その下着姿を撮影されるんすか? そんでもって、それがカタログや通販サイトで全国に……いや、全世界の人々の目にさらされるんすか?」


「んにゃー? インターネットのことはよくわからにゃいけど、アメリカやエゲレスの清き少女たちは、日本の通販サイトなんか見ないんじゃないかなぁ。だって、送料とか馬鹿にならなそうだもの」


 それじゃあ世界は置いておこう。だけど、日本全国津々浦々にそんな姿をさらされてしまって、それでユーリは平気なのだろうか。


「だって、お仕事だものぉ。最近じゃあもっとメジャーなモデルさんやアイドルちゃんなんかも登場してるんだから、ファッション雑誌なんかの撮影と変わらないよぉ。……それに、水着も下着も試合衣装も、布地の面積はどれも一緒ぐらいじゃん?」


「ああ、まあ……確かに、例のアレに比べりゃあ、全然かわいいもんっすけどね……」


「ちょっと! うり坊ちゃん! 公衆の面前でおかしなことを口走ると、そのかわゆい唇を奪っちゃいますことよ?」


 と、ユーリがぐいっと顔を近づけてくる。これまた華やかなメイクに彩られて、可愛らしいやら色っぽいやら。これでは数日おきにプロポーズされてしまうのも無理はないかもしれない。


「わかりましたよ。もう言いません。……さんざんバタバタしてたのに、撮影はまだ始まらないんすか?」


「うん。もうひとりのモデルさんが遅れちゃってるみたい。今日はそのコとペアで撮影らしいのだよ」


 さして広くもないスタジオ内部をスタッフらしい女の子が携帯端末を片手に駆けずり回っているのは、そのためか。


「困ったわねぇ。スタジオは十一時半までしか押さえてないのよ? 三十分以上も遅刻だなんて、仕事をなめてるんじゃないの?」


 坊主頭でメガネでヒゲの中年男性カメラマンがそうわめくと、スタッフのひとりが青い顔をして走り寄ってきた。


「先生! 大変です! モデルさんが、交通事故にあったみたいです! 何でも、乗っていたタクシーが玉突き事故に巻き込まれたらしくて……」


「何ですって? スタジオにはいつ来れるの?」


 職業意識に満ちみちたカメラマンの発言に、若い女性スタッフは泣きだしそうな顔で首を横に振る。


「無理です。頭を打ったらしくて、病院に搬送されたそうですから……今、片っ端から代役のモデルさんに連絡を入れています!」


「代役? お話にならないわねぇ。アタシの鑑識眼にかなうモデルなんて、そうそう簡単に見つかるはずもないわ」


「先生……」


「言っておくけど、アタシは明日からサイパンだから。撮影が延期なら、どこかの三流カメラマンでもひっぱってきてちょうだい」


「先生っ!」


「うるさいわねぇ。たとえアタシが妥協できたって、生半可なモデルがユーリちゃんの隣に立てるはずがないでしょお?」


 傲然と言い放ち、ぷいっとそっぽを向く。

 ユーリみたいにワガママなカメラマンだ。坊主頭でメガネでヒゲの中年男性なのだけれども。


「あの……今日の撮影は中止っすか?」


「そうみたいねぇ。せっかくユーリちゃんは準備万端だってのに。交通事故に巻き込まれるなんて、根性が足りてない証拠だわ。……あら、あなたはどちら様でしたっけ?」


「あ、はい、じぶ……いえ、私は、ユーリさんのマネージメント業務を請け負っているスターゲイトの、猪狩と申します」


 名刺のひとつも差し出したいところだが、あいにくまだそのような物の持ち合わせはない。

 坊主頭でメガネでヒゲの中年男性カメラマンは、細い下顎に指先をそえながら、ひどく奇妙な目つきで瓜子を見下ろしてきた。


「ふぅん。……綺麗なお肌をしてるわねぇ」


「……は?」


「すっぴんなの? すっぴんよね。ちょおっと地味めなお顔だけど、メイクすれば何とかなるか。大事なのはお肌なのよ。ユーリちゃんは芸術的なまでに綺麗なお肌をしてるから、並のモデルじゃ太刀打ちできないわけ。あなただったら、まあ合格だわ」


「いや、ですから、その……」


 何を言っているのかはわからないが、とりあえずロクでもないことには間違いない。今朝がただって、何かわけのわからない審査に合格した代償に、ユーリに絞め殺されそうになったばかりなのだ。


「みんなぁ、モデルさんを確保できたわよぉ。急いで準備してあげてちょうだぁい」


「はあ?」


 瓜子がその言葉の意味を理解する前に、スタジオ中のスタッフどもが血相を変えて飛びかかってきた。


「ありがとうございます! 恩にきます!」

「こちらにどうぞ! 時間がないんです!」

「ブラのサイズは、いくつですか?」


 何だ、これは。

 瓜子は突如としてホラー映画の主人公にでもなってしまったような悪寒を感じつつ、せまりくる腕から逃げまどった。


「待ってください! モデル? ブラ? いったいどういうお話っすか?」


「どうもこうも。モデルがいないとお話にならないのよ。助かるわぁ。あなたみたいに綺麗なお肌の持ち主がここにいて」


「じょじょじょ冗談じゃないっすよ! そんな理由だけでモデルなんてつとまるわけないじゃないっすか!」


「あらぁ、ご謙遜。ユーリちゃんがお隣にいるから地味めに見えちゃうけど、けっこうかわゆいお顔をしてるじゃない? マネージャーなんて廃業して、あなたも本気でモデルをやってみたらぁ?」


 そんな馬鹿げたやりとりをしている間にも、何本もの腕が瓜子を捕らえようと四方八方から襲いかかってくる。

 まさか素人の女性スタッフたちを殴り飛ばしてしまうわけにもいかず、瓜子は心の底から戦慄することになった。


「ちょっと! ユーリさん! 黙ってないで、助けてくださいよ!」


 ユーリは、おそらく他者の身体がおのれに触れぬようにだろう、瓜子の座っていたパイプ椅子を盾にしながら、この惨憺たる光景をぽかんと眺めているばかりだった。

 その顔にじわじわと楽しげな微笑がひろがっていくのを見て、瓜子はいっそうの恐慌にとらわれる。


「うり坊ちゃんが、代役やるの? 面白い! さすが先生、ナイスアイディア! うり坊ちゃんって、なにげに美少女ちゃんだよねぇ?」


「そうねぇ、原石まるだしだけど。本気でモデル業を志すつもりなら、アタシが面倒見てあげてもいいわよ?」


「志しません! じ、自分も試合を終えたばかりだから、全身青アザだらけっすよ! お肌だって、実はそんなにたいしたもんじゃないっす!」


「アザは消せるから別にいいの。時間がないんだから、とっとと脱がしちゃいなさいよ」


「はい!」とスタッフたちが飛びかかってくる。

 まさしく悪夢のごとき展開であった。


「すみません! 失礼します!」

「うわぁ! 正気ですか、あんたたち!」

「大丈夫だよぉ。女の子ばっかなんだから、恥ずかしがらなくてもいいって」

「そ、そこにおもいっきり男性がいるじゃないっすか!」

「んにゃ? 先生はおもっきしゲイちゃんだから、関係ないぞよ」

「そうそう。アタシのことは気にしないで」

「そういう問題じゃありません! ちょっと! マジでカンベンしてくださいってば!」

「すみません! 時間がないんです!」

「そうなんです! 先生にキャンセルされちゃったら、私たちのクビがヤバいんです!」

「知らないっすよ! うわ、ちょっと、ほんとに……ほんとにやめて……」

「すみません! ブラのサイズはいくつですか?」

「うり坊ちゃんは、七十五センチのBだよぉ」

「ユーリさん! 殺しますよ!」


 というわけで。

 瓜子はMMAファイターとしてプロデビューする前に、『P☆B』の下着モデルとして全国的にデビューすることに相成ったのであった。

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