05 離別

 ユーリと瓜子の気持ちをさんざんかき乱してくれたすえに、千駄ヶ谷女史の運転するボルボは夜闇の向こうへと走り去っていった。

 マンションの門前でたたずみながら、ユーリは呆然と虚空の何かを見つめている。


「うり坊ちゃん……ユーリのほっぺたをつねってくれない?」


「はあ。別にいいっすけど……鳥肌はいいんすか?」


「あ、そっか。今のなしね。……うーん、何をどう考えたらいいのやら、ユーリちゃんにはさっぱりわからんちん」


「何も考えなくていいんじゃないんすか? 別にベリーニャ選手のアトミック参戦が正式に決まったわけでもないですし」


「だけど、決定したらすごくない?」


 ものすごい勢いで振り返り、ユーリがわなわなと両肩を震わせ始める。

 これは、スイッチが入ってしまったかもしれない。


「ベル様が、《アトミック・ガールズ》に! いかに妄想狂のユーリでも、そこまで夢みたいな妄想は抱いてなかったよ! いつか自分が《スラッシュ》に出場できるぐらいの選手になれればいいなぁ、それまでベル様は現役でいてくれるかなぁって、ユーリの妄想力ではそこまでが限界だったねっ!」


「十分に妄想狂っすよ。あと、声がでかいっす」


「ふおお! 燃えてきた! こうしてはおれん! うり坊ちゃん、稽古だ、トレーニングだ、猛特訓だっ!」


 そんな風にわめきながら、ユーリは猛然とマンションの入り口に突進していってしまった。

 足もとに放りだされたボストンバッグを拾い上げ、瓜子はひとつ息をつく。


(まあ、いいか……)


 ユーリの頭がベリーニャ選手のほうに向いてしまったのは幸いだ。これからも一緒に暮らせて良かったね、などと微笑みを交わすような間柄ではない瓜子とユーリなのである。

 胸の奥にほのかな熱だけを感じながら、瓜子はいつも通りの不機嫌そうな表情で、わざとゆっくりユーリの後を追った。


「遅いよ、うり坊ちゃん! 早く早く! ベル様が逃げちゃうよ!」


 オートロックのガラス扉の前で、ユーリがせわしなく足踏みをしている。そこはナンバー認証で突破することができても、カードキーは瓜子が預かっているものだから、ユーリがひとりで突進しても部屋に帰りつくことはできないのだ。


「本気でトレーニングする気っすか? もうすぐ夜の十一時っすよ? おまけにユーリさんは試合をこなした直後で、ついでに言うなら明日は早朝六時半起きです」


「うぐ。よいこはねんねの時間だにゃあ」


「そうっすよ。ベル様に勝つためのイメージトレーニングでもしながら、今日はおとなしく寝てください」


「ベル様に勝つなんて! なんと大それたこと言うの? 神をも恐れぬ暴言だね、それは!」


「え? ユーリさんは勝ちたくないんすか?」


 エントランスを通過して、エレベーターに乗り込みながら瓜子が問い返すと、ユーリは頬を赤らめつつ身体をよじらせた。


「そんなの、想像できないよぉ。対戦できるかもって妄想しただけで、頭がパンクしそうなのにぃ。……ああ! ベル様のあの神業なタックルをくらったら、いったいどんな気分になるんだろぉ!」


「立派な変態っすね。せめて自分が攻撃する側を妄想してください」


「えぇ? ユーリが? ベル様を? うーんとぉ……ベル様はきっと、ものすごい遠距離からタックルをかましてくるからぁ、左のローも届かないよねぇ。てことは、タックルだけ警戒して、それをうまく捕まえられれば、首相撲から、いつもの膝蹴り? ……うわぁ、すっごく胸がドキドキしてきたぁ!」


「……すみません。けっきょく気持ちが悪いっす」


 苦笑と溜息を同時に呑み下しつつ、瓜子は505号室のドアに手をかけた。

 あ、カードキーを通していなかった……と思うより早く、ノブがガチャリと音をたててドアが開いてしまう。


「あれ? サキさん、帰ってるんすか?」


 玄関にも照明が灯っている。見覚えのあるデッキシューズも転がっている。

 しかし、室内から返答はなかった。


「サキたん、いるのぉ? あのねぇ、すごいんだよぉ! ユーリ、ベル様と闘えるかもなんだよぉ!」


 はしゃいだ声をあげながら、ユーリはバタバタとサキの部屋に駆けていく。

 もう十一時なのだから、サキが帰っていてもおかしくはない。瓜子もいそいそとスニーカーを脱ぎ、ユーリの後を追うことにした。


 果たして、サキはそこにいた。

 自分の部屋で煎餅布団にあぐらをかきながら、サキは馬鹿でかいリュックに荷物をつめこんでいる真っ最中だった。


「ただいまぁ! サキたん、何やってんのぉ?」


 屈託のない、ユーリの声。

 サキはしばらく黙りこくってから、にわかに「よー」と、ぶっきらぼうな声をあげた。


「ひさしぶりだな。ずいぶん遅いお帰りじゃねーか」


 いつものサキだ。

 瓜子は少しほっとしつつも、サキの手もとが気になってしかたがなかった。

 ユーリのボストンと同じぐらいのサイズのリュックに、サキは着替えやらタオルやらを無造作につっこんでいたのである。


「やだなぁ。メールしたでしょお? 今日は《G・ワールド》でレオポン選手とエキシビジョンだったんだよ!」


 そんな用件すらメールで伝えなくてはならないほど、ここ最近はサキと語り合う機会がなかったのだ。

 瓜子たちが眠る頃に帰ってきて、瓜子たちが目を覚ます頃に家を出ていく。その間、道場にすら顔を出していなかったのだから、まともに顔をあわせるのも一週間ぶりであるはずだった。


「……で? サキたんはナニをやってるのかしらん?」


「見りゃあわかんだろ。荷造りだよ」


 サキはきわめてあっさりと答え、ユーリはけげんそうに首を傾げる。


「だから、どうして荷造りなぞをしているのかと問うておるのだよ。最初に言っておくけれど、家出を敢行しようとしておるのならば、ユーリは泣いちゃうぞよ?」


「勝手に泣いてろ。……アタシはな、しばらく実家に戻らなきゃいけなくなっちまったんだ」


 不機嫌そうに言い捨てて、リュックのジッパーを閉める。


「だから、飯の当番も個人レッスンもしばらく休業だ。家にいねーんだから家賃代わりの奉仕をしろ、なんて言わねーよな?」


「えぇ? そんなことは言わないけどぉ……サキたんがおうちにいないと、ユーリ、ものすごくさびしいなぁ」


「そーかい。アタシはせいせいするぜ」


 あくまでも普段通りの仏頂面で立ち上がり、サキはリュックを右肩にひっかけた。


「時間ができたら、道場には顔を出すからよ。せいぜい食い過ぎで巨大化しないように気をつけるこったな」


「待ってください。……サキさん、しばらくって、どれぐらいの期間なんすか?」


「んあ? しばらくっつったら、しばらくだよ。日取りがわかってりゃ最初から言ってるっつーの」


「実家はどこなんすか? 道場に通えるような距離なんすか?」


「……横浜だよ。いちいちうるせーやつだなー」


 横浜。

 ピンとこないが、新宿の道場に通えない距離ではないのだろうと思う。


「ま、横浜にだって格闘技のジムは山ほどあるからな。こっちに戻る時間が作れなかったら、てきとーなとこで汗を流すしかねーだろ。たまには出稽古ってのもオツなもんだ」


「そっかぁ。さびしいなぁ。切ないなぁ。うり坊ちゃんひとりでサキたんの穴が埋まるかなぁ。埋まるわけないよなぁ」


 ユーリもまた、いつもの調子でぼやくだけだ。

 瓜子は心を決め、表情の読みにくいサキの瞳を真正面から見つめ返す。


「サキさん、実家のほうで何か問題があったんすよね? 自分たちじゃ何も力にはなれないっすけど、良かったら、何があったのかお話ししてくれませんか?」


 サキは切れ長の目をさらに細め、「どーしてそんなことをおめーに言わなくちゃならねーんだよ?」と、ひさかたぶりの台詞を口にした。

 そして、いつぞやと同じように「ま、別にいいけどよ」と真っ赤な髪をかきあげる。


「妹の具合が悪くてな。もともと病弱なやつだったんだけど、しばらく入院することになっちまったんだよ。他には薄情な家族しかいねーから、アタシが面倒を見てやるしかねーんだ。……ったく、難儀な話だぜ」


 妹の、看護───それは何とも、しっくりくる話だった。

 しかし、何だろう。瓜子はまだ何かが胸にひっかかってしまっている。


「へえ! サキたん、妹ちゃんがいたんだぁ? だからしっかり者なんだねぇ。……妹ちゃん、ユーリよりかわゆい?」


「いんや。たいしたことねーよ。せいぜいおめーの二千倍ぐらいかな」


「あらら。そしたら銀河一のかわゆい子ちゃんだねぇ。こいつはお見それいたしました!」


 ユーリは笑い、それからふっと心配げな顔になり、一度腰をかがめてからサキの顔を下から見上げた。


「だけどサキたん、あんまり無理しないでね? ちょっぴり痩せちゃったんじゃない? それ以上お肉が落ちたら、ライト級からバンタム級に転向だよ?」


「はん。そしたらもっと鋭い蹴りが打てるようになるかもなー。……じゃ、そろそろ行くぜ? 電車がなくなっちまうからな」


「サキさん、あの……」


 たまりかねて、瓜子は声をあげてしまった。

 しかし、言葉が続かない。

 他にも何か、隠していることがあるんじゃないですか? ……などとは、いくら何でも聞けるはずがなかった。


「……あの、お身体には気をつけてください。それから、できればなるべく早く帰ってきてほしいです。自分ひとりじゃ、ユーリさんの面倒を見きれないっすから……」


「何だよ、おめー。そんなこと言われたら、よけいに帰りたくなくなるだろーが? アタシは飼育係でも牧場主でもねーんだぞ?」


「自分だって違いますよ」


「そんでユーリは牛じゃないよっ!」


 いつもの会話。笑い声と、怒った声。

 サキは、この空間を「帰る場所」と言ってくれた。

 今は、それで満足すべきか。

 正体の知れない不安感を胸に、瓜子は無理やり自分を納得させることにした。


「……じゃーな。達者で暮らせよ、牛と瓜」


 最後に、ぽんぽんと二人の頭を叩いてから、サキはマンションを出ていった。

 なんとなく釈然としない空気の中、ふいにユーリが「うり坊ちゃん、ありがとね」とつぶやく。


「な、何すか、急に? ユーリさんにお礼を言われる覚えはないっすよ」


「それが、あるんだなぁ。ユーリが聞けないことを聞いてくれて、どうもありがとぉ。何だか少しだけ胸が軽くなったよ」


「……はあ」


「うーむ。ユーリが他人に踏み込まないのは、相手を気づかっているだけではなく、無意識のうちに、拒絶されたらどうしよう! という恐怖感を抱いているからなのかもしれないにゃあ。今の一幕で、ユーリはそんな風に思ってしまったよ!」


「……はあ」


「やっぱりうり坊ちゃんがいてくれて良かった! サキたんがいない分はうり坊ちゃんに甘えたおすから、どうぞめげずに頑張っておくんなまし!」


「めげますよ! そんなこと勝手に決めないでください!」


「うふふ。もう手遅れなのだな! サキたんをブン殴ってでも止めなかったことを、ぞんぶんに後悔するがいい! ……さぁて、試合場のシャワーだけじゃ足んないから、珠のお肌をぴっかぴかにみがいてこよーっと!」


 ユーリはひらひらと蝶のように舞い、サキの寝室から出ていった。

 そうして瓜子が溜息をつこうとすると、ドアからひょこりと出ていったばかりの顔が半分だけのぞいてくる。


「うり坊ちゃんもご一緒するぅ? 背中の流しっことかは不可能だけどぉ、同時に入ればガス代と水道代の節約になりますよん」


「ご一緒しないっす。とっとと溺れ死んできてください」


「うふふ。照れ屋さぁん。ちっちゃくて可愛らしいBカップの照れ屋さぁん」


 本気で右フックでも叩き込んでやろうかと思ったが、ユーリは今度こそすみやかに姿を消してしまった。

 主人を失った部屋の真ん中で、瓜子はあらためて溜息をつく。


(いったいこれから、どうなるんだろう……)


 さまざまなことが起こりすぎた夜だった。

 ユーリのこと。サキのこと。スターゲイトのこと。レオポン選手のこと。ベリーニャ選手のこと。《アトミック・ガールズ》のこと。

 そして、自分のこと。

 今夜は完全に、キャパオーバーだ。


 明日こそ平穏な一日であってくれと願いながら、瓜子もサキの部屋を出る。

 しかしもちろんユーリと暮らしているかぎり、そんな平穏な一日などはなかなか望めるものではない、ということを、瓜子は翌朝からさっそく体感することになったのだった。

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