04 晴天の霹靂

「あれぇ、千さん? おひさしぶりですぅ」


 その後、すべての試合を見届けて、無事に閉会式まで終えてから、私服に着替えてミュゼ有明を退場すると、関係者用の出口に千駄ヶ谷女史が待ち受けていた。


 時刻はすでに、午後の十時に差しかかろうかという頃合いである。

 夜闇をバックに、本日も女史はクールだった。


「おひさしぶりです。ユーリ選手、猪狩さん。……帰りは、車でお送りします」


「えぇ? いったいどうしたんですかぁ?」


「どうもしません。こちらも多忙でなかなか打ち合わせの時間を捻出できないため、お送りするついでに少しお話しできればと思ったまでです。……こちらもちょうど帰り道でしたので」


「はぁ。それはありがとうございますですぅ……」


 相変わらず生活指導の教師にしょっぴかれるような心境で、瓜子はユーリとともに駐車場まで追従することになった。

 女史の愛車ボルボに乗りこみ、夜の有明へと発進する。


「スタッフの方からお話はうかがっています。今日の試合も盛況だったようですね」


「はぁ、おかげさまで……」


「喜ばしいかぎりです。ユーリ選手が沙羅選手に勝利したあの日から、仕事の依頼も倍増しているのです。本日も、民放の深夜番組から出演依頼と、雑誌の取材が何件か、それにグラビア撮影の依頼が舞い込んできています。そちらはいつも通りにこちらで選別してからお話をさせていただこうかと思っていますが、大口の案件が二つほどありますので、少しご意見を聞かせていただいてもよろしいでしょうか?」


「はぁ、なんなりと」


「まず一件目は、写真集出版のご提案です」


 瓜子の隣で、ユーリはギクリと身体をこわばらせた。


「あ、あの、写真集とかイメージDVDに関しては、とにかくひたすらNGって……それは常々、ユーリもアピールしておりますよね?」


「はい。ですが、あまりに条件のいい案件でしたので、ご本人の許可も得ないままにお断りしてしまっていいものかどうか、私も判断に迷ってしまったのです。詳細の説明は、不要ですか?」


「ふ、不要です不要です。以前にお話しした通り、ユーリはそーゆー出版物に手ひどいトラウマちゃんを飼っておりますので、どうにも気が進まないのでありまする……」


「私どもが目を光らせているかぎり、ユーリ選手にとって望ましくない商品などは決して作らせません」


 たぶん千駄ヶ谷女史は、運転をしながら縁なし眼鏡を光らせている。

 味方なのに、おっかない人だ。


「……とはいえ、私も今が写真集の出版に相応しい時期だとは考えておりません。せっかく昇り調子で運気も巡ってきている現在、写真集などを出版するのは、ユーリ選手の存在を安売りする結果にもなりかねないでしょう。どんなに条件のいい案件でも、今は自重するのが最善の道と私も考えておりました」


「はいぃ。ありがとうございましゅ……」


「それでは二件目。こちらは、CDデビューの案件です」


 今度は後部座席で身体をのけぞらせることで、ユーリは驚きの意を表明した。


「CDデビューって、誰のですかぁ? まさか、ユーリがお歌を歌うとか、そんな愉快なお話じゃないですよねぇ?」


「そんな愉快なお話です。こちらは当社の企画部から持ち上がった案件で、業界でも屈指の大手レコード会社に打診したところ、二つ返事で快諾していただけました。後はユーリ選手の了承さえいただければ、明日からでもプロジェクトチームを発足できる状態にあります」


「ちょ、ちょっと待ってくださいよぉ! ユーリが歌手なんて、そんなバハナ! そんなCD、売れるわけないじゃないですかぁ!」


「どうしてでしょう? 現在のユーリ選手のネームバリューでしたら、むしろ失敗するほうが困難なぐらいです。原価回収に関しては我が社が責任を持ちますし、成功すれば、これまでにないぐらいの莫大な利益を生み出すことになるでしょう」


「ううう。だけどでしゅね……」


「猪狩さん。貴女はどう思われますか?」


 と、いきなり矛先を向けられて、瓜子は「はあ、まあ、いいんじゃないっすか?」と答えてしまう。


「何がいいんだよぉ! 他人事だと思って、うり坊ちゃん、ひどい!」


「別にひどくはないっすよ。水着姿で色気を売るより、よっぽど健全じゃないっすか。おまけに原価回収まで責任を持つって言ってくれてるんすから、こんな割のいい話はないっすよ。……ユーリさん、けっこう歌も上手だし」


「上手じゃないよ! 普通だよ!」


「普通の歌唱力があれば十分です。ボイストレーニングの手間がはぶけましたね。我が社も社運を懸けてこのプロジェクトにのぞみたいと思います」


「そ、そんなもんを懸けられても困りましゅ!」


「はい、言葉が過ぎました。……しかし、現在のユーリ選手は転換期の渦中にあるのです。ここでさらにステップアップすることができれば、ユーリ選手は総合格闘技というマニアックな競技の選手でありながら、メジャー競技の人気選手と肩を並べられるような栄光ある未来を手中にできるかもしれません」


「…………」


「そしてそれは、格闘技界の起爆剤にも成り得ます。以前、ユーリ選手のスキャンダルは業界全体のスキャンダルにもなりかねないと忠言させていただいことがありますが、その逆もまた然り───ユーリ選手のつかんだ栄光は、それがそのまま格闘技界の栄光へと反映されるのです。ユーリ選手には、それぐらいの影響力があるのです」


「ないですよぉ。ユーリなんて、デビュー二年目の下っ端でしゅ。戦績だって、いまだに四勝十敗でしゅ」


「いいえ。これだけは譲れません。沙羅選手に勝利した試合で、私は確信いたしました。ユーリ選手、貴女が女子格闘技界の頂点に立てば、世界が動くでしょう。貴女にはそれだけの力が、カリスマ性があります」


 これだけほめちぎられているというのに、どうして説教されているような空気になってしまうのだろう。

 ユーリは丸っこく身体をちぢめて「あうう」と力なくうめいていた。


「少し、考えさせてくだしゃい……CDデビューなんて、夢にも思っていなかったもので……」


「もちろんです。明日の正午にまたご連絡をさせていただきます」


 冷徹な声にどこか満足げな響きを漂わせながら、千駄ヶ谷女史はボルボのアクセルを踏み込んだ。

 窓の向こうの夜景が、ものすごい速度で過ぎ去っていく。


「……ところで、猪狩さん。貴女にユーリ選手の担当をしてもらってから、これでもう五ヶ月以上の期間が経過してしまいましたね」


「はい? ああ、ええ、そうっすね」


 今度はこちらにお鉢が回ってきた。

 瓜子が背筋をのばして攻撃に備えていると、予想よりもはるかに衝撃的な言葉が千駄ヶ谷女史の口から放たれた。


「どうでしょうね。貴女にもそろそろ別の業務を担当していただきましょうか。ユーリ選手の生活もずいぶん安定してきたようですし、いつまでも同居生活ではおたがいに肩がこってしまうでしょう?」


「ええ? 嫌です!」


 反射的に、瓜子はそのように叫んでしまった。

 数秒の沈黙ののち、二度ほど温度の下がった千駄ヶ谷女史の声音が、じわりと前方からおしよせてくる。


「嫌とは、どういうことでしょう? 貴女はれっきとしたスターゲイトの契約社員であり、そして私は貴女の直属の上司です。貴女は遊びでユーリ選手のマンションに寝泊まりしているわけではないのですよ?」


「そ、それはもちろん、わかってますけど……」


 だけど、嫌だ。

 絶対に、嫌だ。


 自分がおかしいし、筋が通っていないのもわかっている。瓜子は仕事としてユーリのそばに付き従っているだけなのだから、その任を解かれれば、今まで通りの生活が続けられるわけもない。そんなことは、当然に過ぎるだろう。


 しかし───

 昼間は新しい仕事に従事して、夜の数時間だけ道場でユーリとともにトレーニングに励み、そして、別々の家に帰っていく。そんな生活は、嫌だった。

 とにかく、嫌としか言い様がない。嫌で嫌で、吐き気がしそうなぐらいである。


 なんといって千駄ヶ谷女史を説得したものか、瓜子は必死に考えを巡らせることになった。

 しかし、瓜子が何かを思いつく前に、女史が「どうしたのですか、ユーリ選手?」と驚きの声をあげた。

 この冷徹なる上司がそのような声をあげるのを聞くのは、瓜子も初めてのことであった。


 瓜子は隣のユーリを振り返り、息を呑む。

 ユーリはバックミラーごしに、千駄ヶ谷女史を見つめていた。

 そのやや垂れ気味の目からは、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれてしまっていた。


「……ユーリも、イヤです」


 意外にしっかりとした声が、そのふくよかな唇からもれる。


「嫌とは、どういうことでしょう? とりあえず落ち着いてください、ユーリ選手」


「絶対にイヤです! うり坊ちゃんがいなくなるなんて、死んでもイヤ! 千さん! ユーリ、さびしくって死んじゃいますよぉ!」


 いきなり我を失って、ユーリは千駄ヶ谷女史の収まった運転シートをガタガタと揺さぶり始める。


「暴れないでください。本当に死にますよ? ……どうして猪狩さんを担当から外すのが嫌なのですか? 貴女たちは同じ新宿プレスマン道場に所属しているのですから、どのみち毎晩のように顔をあわせるではないですか。ただ、仕事の同伴と同居生活を取りやめる、というだけの話で……」


「そんなのイヤ! イヤだったら、イヤ!」


 ごん、と運転シートの背に強烈な頭突きを叩きつけるや、ユーリはそのままシクシクと泣き始めてしまった。


「困りましたね。貴女たちは、いつのまにそこまで心を通じ合わせるようになっていたのでしょう」


 冷静さを取り戻した女史の声が響く。


「ユーリ選手は、今が一番大事な時期です。よって、入社したての契約社員などは担当から外して、然るべき人事を考えるべきだという声があがったのです。……とはいえ、以前にも申しあげました通り、クライアントのひとりひとりに担当者がべったりとへばりつくなどというのは、当社の正式なスタイルではありません。荒本は正規の業務をきちんとこなしつつ、その時間を何とか捻出していただけでしょうし、猪狩さんをお目付け役に任じたのは、私の個人的な判断に過ぎなかったのですからね」


「…………」


「そして、ユーリ選手のマネージメント管理に関しては、私が荒本から十全に引き継ぎました。くどいようですが、ユーリ選手の正式な担当者はこの私なのです」


「…………」


「……ユーリ選手は、同じ競技に情熱を燃やす猪狩さんがそばにいることによって、プレイヤーとしてのモチベイションを上げることに成功している。今この人事は動かすべきではない、と私から報告を上げておきましょう」


「本当ですかっ!」


 涙に濡れた顔を上げ、ユーリは再び運転シートにしがみついた。


「私がそのように判断したから、私がそのように報告するのです。私はスターゲイトの人間なのですから、その立ち位置に則って会社とクライアントにとって最善の道を模索するだけです」


 バックミラーに映った千駄ヶ谷の目が、冷たく射るように瓜子を見る。


「猪狩さん。貴女もご自分の立ち位置を、もう一度確認してみてください。クライアントの要望に応えるのも、部下の尻拭いをするのも私の仕事の一環ですが、筋道の立たない部下の要望を耳に入れるのは、私の望むところではありません」


「はい……どうもすみませんでした……」


 瓜子は力なく視線をそらし、そのはずみで隣のユーリと目が合ってしまった。

 ユーリは涙をぬぐいながら笑顔でピースサインを送ってきたが、瓜子はどういう表情を浮かべればいいかもわからなかったので、けっきょくうつむいてしまう。

 ただ、胸の奥が、じんわりと熱かった。


「……ところで、ユーリ選手。貴女はインターネットというものに関して、まったく興味をお持ちではなかったですね?」


「えぇ? 今度は何ですかぁ? ……そりゃまあインターネットなんて、オークション以外ではまったく活用しておりませんけどぉ……」


「でしたら、これが初耳でしょうね。ベリーニャ・ジルベルト選手が《スラッシュ》の王座を返上しました」


「……はい?」


 瓜子は驚いて顔を上げ、ユーリはきょとんと小首を傾げた。


「ベリーニャ・ジルベルト選手は無差別級の王座を返上し、それと同時に《スラッシュ》との契約を打ち切ったそうです。もうこのステージに闘うべき相手は存在しない、と言い残して」


「どどどどーゆーことですか? ベル様が? 王座を返上? 契約打ち切り? まさかプロファイターを引退して、打倒・お兄ちゃんだけに専念するつもりじゃあ……」


「そうではありません。このたび《アクセル・ファイト》が正式に女子選手の試合をプロモーションしていく旨を告知したため、そちらに移籍するべく《スラッシュ》との契約を打ち切った、というのが実情のようです」


《アクセル・ファイト》というのは、北米で最大のMMA団体である。

 いっぽうの《スラッシュ》というのも業界第二位の勢力ではあるものの、規模としては比較にもならない。現時点において、世界のMMAは《アクセル・ファイト》の一強であるのだ。


 ただし、《アクセル・ファイト》のプロモーターの代表は女子選手の試合を忌避していたために、これまでは男子選手の試合のみが取り扱われていた。よって、世界の女子選手たちは《スラッシュ》を始めとするさまざまな団体に散って活動する他なかったのである。


 その《アクセル・ファイト》の方針が、突如として変更されたのだという。


「何やら女子柔道のメダリストがMMA選手としてデビューを果たし、その実力に魅了された《アクセル・ファイト》のプロモーターが、長年に渡る信念を打ち捨ててまで女子部門の設立を決断したようです。世界の最高峰と謳われる《アクセル・ファイト》なのですから、今後はベリーニャ・ジルベルト選手のみならず、すべての女子選手がその舞台を目指すことになるのでしょうね」


「ああ、そういうお話なら納得ですぅ。ベル様だったら、絶対に《アクセル・ファイト》でも大活躍してくれますよぉ」


「しかし、《スラッシュ》には独自の専属契約というものが存在します。たとえ契約を打ち切っても、今後一年間は北米のプロ興行に参加することはできません。よって、ベリーニャ・ジルベルト選手が《アクセル・ファイト》に参戦するのも一年後ということになりますね」


「ベル様はまだ二十五歳ですから! 一年後にはもっともっと強くなっていますよぉ!」


「……それで、そこまでの一年間は北米以外の場所に闘いの場を移すと、ベリーニャ・ジルベルト選手はそのように表明しているようです」


「……ふみゅ?」


「加えて、ベリーニャ・ジルベルト選手は柔術の故郷である日本に強い思い入れを抱いています。彼女はまちがいなく、早い段階でまず日本の興行に参加しようとするでしょう。……そして、日本国内において女子選手のみで構成されている格闘技団体は《アトミック・ガールズ》しか存在しないのですから、彼女がその場を活動の拠点とするのも自然の摂理でありましょうね」


 ひどく無表情に、すさまじい勢いでアクセルをふかしながら、千駄ヶ谷女史は静かにそう言った。


「ベリーニャ・ジルベルト選手は近日中に、高い確率で《アトミック・ガールズ》に参戦することになるでしょう。彼女を倒した人間こそが、名実ともに世界最強の女子格闘家を名乗ることが許されるのですよ、ユーリ・ピーチ=ストーム選手」

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